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第28話 伝教大師と弘法大師 122 第28話 伝教 でんきょう 大師 と弘法 こうぼう 大師 仏教 ぶっきょう は、奈良時代までは大陸から伝わって来たままのものでしたが、 平安時代に入ると、全く日本化して、日本人の仏教となった。 この新しい仏教を大いに弘 ひろ めたのは 伝 教 でんきょう 大師 だいし と弘法 こうぼう 大師 だいし です。 平安 へいあん 時代の新仏教 仏教は奈良時代に しょう 天皇が盛んにお弘 ひろ めになったために、 殆 ほとん ど全国に行き渡 わた って、国毎 ごと に国分 僧寺 そうじ や国分尼寺 が建 てられたりしたほどです。 しかし、其の頃 ころ の仏教は、大陸 たいりく から伝わって来たままの ものであって、昔 むかし から在 るわが国の神道 しんどう や、早くから輸入 ゆにゅう されて来ている中国の 儒 教 じゅきょう などとは調和 ちょうわ しな いところもあったために、広く一般の人々の間にはまだ深 ふか く信 しん じられていませんでした。 ところが、平安 へいあん 時代に入ると、 伝教 でんきょう 大師 だいし 弘法 こうぼう 大師 だいし という二人の偉 えら い僧侶 そうりょ が現 あらわ れて、よく日本の 国体 こくたい とも合 い、日本人の性質 せいしつ ともあうように仏教を日本化して、盛 さか んにそれを説 き出したために、朝 廷 ちょうてい ご信仰 しんこう も得 て、一般の人々の間にも広く行われるようになって行きました。 最澄 さいちょう の生立 おいた 伝教 でんきょう 大師は近江 おうみ 国滋賀 郡の人で、幼名 ようめい 広野 ひろの といいます。 十二歳のときに出家 しゅっけ して名を 最澄 さいちょう あらた め、奈良の大安 だいあん 寺の 行表 ぎょうひょう という和尚 おしょう の弟子 となって、熱心 ねっしん に仏教を 修 業 しゅぎょう した。 しかし、凡 およ そ学問 がくもん というものは、深く学べば学ぶほどむづかしくなって、疑問 ぎもん も出てくるものですか ら、最澄 さいちょう も、十九歳の頃には、仲間 なかま の僧侶らよりは図抜 けて出来るようになったものの、分 からぬことも 多く 生 しょう じて来ました。 それで、この上にも大いに勉強しようと思い、 それには人のいない静かな 処 ところ が良いと、故 郷 こきょう のう しろに聳 そび え立っている比叡山 ひえいざん の森の中に小さな小 屋を造 つく った。 そこで、更 さら にむづかしい 経 文 きょうもん 研究 けんきゅう し続けていたが、三年の後に、彼は山の上に 小さな寺を建てて、自分で刻 きざ んだ等身 とうしん の薬師仏 やくしぶつ そこに安置 あんち した。 これが有名な比叡山 ひえいざん 延暦 えんりゃく 寺の起 こりです。 じつ に延暦 えんりゃく 7年のことで、ちょうどかん 天皇が長岡 ながおか の京をお造りになっておられた時です。 この寺はいかにも小さかったが、 最澄 さいちょう がすぐれた僧侶 そうりょ であるということは既 すで に世に聞 こえはじめて いましたから、次第 しだい に四方 しほう から人々は集まって、彼に教 おし えを請 うた。 けれども、 最澄 さいちょう は少しも偉 えら そう

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  • 第28話 伝教大師と弘法大師

    122

    第28話 伝教でんきょう

    大師だ い し

    と弘法こ う ぼ う

    大師だ い し

    仏教ぶっきょう

    は、奈良時代までは大陸から伝わって来たままのものでしたが、

    平安時代に入ると、全く日本化して、日本人の仏教となった。

    この新しい仏教を大いに弘ひろ

    めたのは伝教でんきょう

    大師だ い し

    と弘法こうぼう

    大師だ い し

    です。

    平安へいあん

    時代の新仏教

    仏教は奈良時代に 聖しょう

    武む

    天皇が盛んにお弘ひろ

    めになったために、 殆ほとん

    ど全国に行き渡わた

    って、国毎ごと

    に国分

    僧寺そうじ

    や国分尼寺に じ

    が建た

    てられたりしたほどです。 しかし、其の頃ころ

    の仏教は、大陸たいりく

    から伝わって来たままの

    ものであって、昔むかし

    から在あ

    るわが国の神道しんどう

    や、早くから輸入ゆにゅう

    されて来ている中国の儒 教じゅきょう

    などとは調和ちょうわ

    しな

    いところもあったために、広く一般の人々の間にはまだ深ふか

    く信しん

    じられていませんでした。

    ところが、平安へいあん

    時代に入ると、伝 教でんきょう

    大師だいし

    と弘法こうぼう

    大師だいし

    という二人の偉えら

    い僧侶そうりょ

    が 現あらわ

    れて、よく日本の

    国体こくたい

    とも合あ

    い、日本人の性質せいしつ

    ともあうように仏教を日本化して、盛さか

    んにそれを説と

    き出したために、朝 廷ちょうてい

    ご信仰しんこう

    も得え

    て、一般の人々の間にも広く行われるようになって行きました。

    最 澄さいちょう

    の生立おいた

    伝 教でんきょう

    大師は近江おうみ

    国滋賀し が

    郡の人で、幼名ようめい

    を広野ひろの

    といいます。 十二歳のときに出家しゅっけ

    して名を最 澄さいちょう

    改あらた

    め、奈良の大安だいあん

    寺の 行 表ぎょうひょう

    という和尚おしょう

    の弟子で し

    となって、熱心ねっしん

    に仏教を修 業しゅぎょう

    した。

    しかし、凡およ

    そ学問がくもん

    というものは、深く学べば学ぶほどむづかしくなって、疑問ぎもん

    も出てくるものですか

    ら、最 澄さいちょう

    も、十九歳の頃には、仲間なかま

    の僧侶らよりは図抜づ ぬ

    けて出来るようになったものの、分わ

    からぬことも

    多く生しょう

    じて来ました。

    それで、この上にも大いに勉強しようと思い、

    それには人のいない静かな 処ところ

    が良いと、故郷こきょう

    のう

    しろに聳そび

    え立っている比叡山ひえいざん

    の森の中に小さな小

    屋を造つく

    った。 そこで、更さら

    にむづかしい経 文きょうもん

    研 究けんきゅう

    し続けていたが、三年の後に、彼は山の上に

    小さな寺を建てて、自分で刻きざ

    んだ等身とうしん

    の薬師仏やくしぶつ

    そこに安置あんち

    した。

    これが有名な比叡山ひえいざん

    延 暦えんりゃく

    寺の起お

    こりです。

    実じつ

    に延 暦えんりゃく

    7年のことで、ちょうど桓かん

    武む

    天皇が長岡ながおか

    の京をお造りになっておられた時です。

    伝 教 大 師

    この寺はいかにも小さかったが、最 澄さいちょう

    がすぐれた僧侶そうりょ

    であるということは既すで

    に世に聞き

    こえはじめて

    いましたから、次第しだい

    に四方しほう

    から人々は集まって、彼に教おし

    えを請こ

    うた。 けれども、最 澄さいちょう

    は少しも偉えら

    そう

  • 第28話 伝教大師と弘法大師

    123

    な顔かお

    をしないで、その研 究けんきゅう

    をつづけました。

    彼のこの篤学とくがく

    が、ついに延暦 16年に桓武天皇のお耳に達して、内供奉う ち ぐ ぶ

    に列せられた。 内供奉う ち ぐ ぶ

    という

    のは、朝廷で国内から広く選んだ十人の高僧のことで、内 道 場ないどうじょう

    (内裏だいり

    に設もう

    けられた道 場どうじょう

    、即すなわ

    ち仏の道みち

    修おさ

    める 所ところ

    )に供奉ぐ ぶ

    するので、この名があります。

    最 澄さいちょう

    、唐とう

    に渡る

    しかし、最 澄さいちょう

    は自分の修業しゅぎょう

    している仏教の中に、まだまだ不審ふしん

    のことが 少すくな

    くなかったので、更さら

    に一層いっそう

    熱心ねっしん

    に研究をつづけていると、延暦 22年に遣唐使けんとうし

    を出されるのに当あ

    たって、桓武天皇はかれを留 学りゅうがく

    僧と

    して唐とう

    に渡わた

    らせることとされました。 唐に渡れば、不審ふしん

    なところを明あき

    らかにすることも出来るのですか

    ら、最澄はどんなにか喜んだでしょう!

    彼は遣唐大使たいし

    藤 原ふじわらの

    葛野かどの

    麻呂ま ろ

    、副司ふくし

    石 川いしかわの

    道益みちます

    らの一行いっこう

    に 随したが

    って、難波なにわ

    (大阪)から船に乗った。

    しかし、その時は途中とちゅう

    で暴風雨ぼうふうう

    に遭あ

    って難船なんせん

    したので引返ひきかえ

    して、次の年の 3 月に 再ふたた

    び出発しました。

    後のち

    に弘法こうぼう

    大師となった空海くうかい

    も一緒しょ

    でしたが船はちがっていた。 遣唐使けんとうし

    の船は例の四艘そう

    の 定さきま

    りであって、

    空海は大使たいし

    と共にその一船に乗り、最澄は別の船に判官はんがん

    の菅原清きよ

    公ひろ

    と一緒しょ

    に乗りました。

    今度も途中で暴風ぼうふう

    に遇あ

    って、他の船とは別々べつべつ

    になったが、それでも 9月の上旬に、漸ようや

    く 明 州みょうしゅう

    とい

    う港に着きました。 嘗かつ

    て安倍あべの

    仲麻呂な か ま ろ

    が唐人とうじん

    と別わか

    れを惜お

    しんだ際さい

    に、月を眺なが

    めて、「天あま

    の原はら

    ふりさけ見み

    ば春日かすが

    なる三笠みかさ

    の山やま

    に出い

    でし月つき

    かも」 という有名な歌を詠よ

    んだところです。

    天台てんだい

    の 教おしえ

    を学ぶ

    さて、最 澄さいちょう

    は明州に着くと、唐の都には向かわずに、そのまま天台山てんだいさん

    国清寺こくせいじ

    へ行って、座主ざ す

    の道遂どうすい

    和尚おしょう

    に逢あ

    いました。 この天台てんだい

    の教えを学ぼうとするのが彼の目的もくてき

    であったからです。 道遂和尚は宗祖しゅうそ

    天台大師だいし

    から七世せい

    の嫡 孫ちゃくそん

    で、そのころ最も世に聞こえていた高僧こうそう

    でありましたが、最澄の望のぞ

    みを聞くと、

    喜んでその宗 門しゅうもん

    の深い教えを伝つた

    えました。

    その後、最澄が仏ぶつ

    龍りょう

    寺の 行ぎょう

    満まん

    和尚のところに行くと、この和尚もまた非常に喜んで、「昔、天台大

    師は、自分の死んだ後のち

    二百余年になると、自分の教おし

    えは必ず東の国に伝わるであろうといわれたが、その

    お言葉がぴたりと中あた

    った。 あなたこそこの宗 門しゅうもん

    を日本に伝えるお方かた

    である」といって、 貴とうと

    い経 文きょうもん

    その注 釈 書ちゅうしゃくしょ

    などを 悉ことごと

    く最澄に授さづ

    けた。

    しかし最澄は、その上にもなお方々ほうぼう

    の名めい

    僧を訪たづ

    ねて、教えを受けたり、新しい書物しょもつ

    をみると、それを

    写したりして、天台てんだい

    、法華ほっけ

    の深遠しんえん

    な教えから、真言しんごん

    秘密ひみつ

    の法ほう

    や禅ぜん

    の事まで残りなく勉強して、翌 24年に、

    遣唐大使の一行と共に帰朝きちょう

    した。 この時、彼が持ち帰った書物しょもつ

    の中には、これまでわが国に伝わらなか

    った新しい経 文きょうもん

    や何なに

    かが非常に多かったということです。

  • 第28話 伝教大師と弘法大師

    124

    天 台 宗てんだいしゅう

    を開く

    中国から帰ると、最澄はまた

    比叡山ひえいざん

    に登って、その新しい天台の教

    えを説と

    き出したが、この時、彼の伝つた

    た天 台 宗てんだいしゅう

    は、中国にて 行おこな

    われてい

    た純 粋じゅんすい

    の天台宗のままではありま

    せんでした。

    滋賀 延 暦 寺 の 根 本こ ん ぽ ん

    中 堂

    彼は日本にこれを弘ひろ

    めるのには、日本の国風こくふう

    に合あ

    うようにしなければならないと考えて、大いにこれ

    を日本化に ほ ん か

    したのでした。 これがために、殊こと

    に世間せけん

    の評 判ひょうばん

    も高くなって、その教えを信ずる者が日増ひ ま

    しに

    多くなって来た。 従したが

    って寺もだんだん大きくなり、山の上にも、谷の間にも、盛んに堂どう

    や塔とう

    が建た

    てられ

    たりして、人の往来おうらい

    も繁しげ

    く、曾かつ

    ては鳥とり

    や 獣けもの

    の棲家すみか

    であった山の中が、叡山えいざん

    三千坊ぼう

    などと言いはやされる

    ほどに開ひら

    けて来ました。

    最 澄さいちょう

    の学識がくしき

    初めは気にも留と

    めなかった奈良の諸しょ

    大寺だいじ

    の僧侶そうりょ

    らも、この新しい天台宗が斯こ

    うしてますます盛さか

    んにな

    るのを見ると、自分らの勢 力せいりょく

    がそれだけ縮ちぢ

    められることになるのですから、大いに 驚おどろ

    いて、俄にわ

    かにあわ

    てふためいていました。 しかし、殆ほとん

    ど底そこ

    のしれないほどにも深ふか

    く研 究けんきゅう

    して来た最澄の学問がくもん

    に対しては、

    迚とて

    も敵てき

    しようがなかったので、これをどうすることも出来なかった。 彼らは黙だま

    って見ているより外ほか

    はな

    かったのです。

    実際じっさい

    、最澄が唐にいたのは僅わず

    かに一年にも足た

    りなかったのですが、その学問の博ひろ

    く且か

    つ深かったこと

    は、実に驚くばかりで、凡およ

    そ仏教のむづかしい経 典きょうてん

    という経典は、大抵たいてい

    、此こ

    の 間あいだ

    に彼が集あつ

    めて来ていま

    した。 それでその後、苟いやし

    くも仏教を研究しようとするほどのものは、一度は必ず比叡山に登って、これ

    らの経典に就つ

    いて学ばなければならないとまでいわれたのであります。

    比叡山延暦寺えんりゃくじ

    桓かん

    武む

    天皇は先に王 城おうじょう

    の鎮護ちんご

    として、羅生門らしょうもん

    の東と西に東とう

    寺じ

    と西さい

    寺じ

    をお建た

    てになったが、今や最澄の

    学問を大いに重おも

    んぜられて、ちょうど比叡山ひえいざん

    が王 城おうじょう

    の鬼門きもん

    (東北の隅すみ

    のことで、昔は、この方ほう

    位い

    を犯おか

    と災害さいがい

    があると信しん

    じられていた)に当あ

    たっているので、彼の寺を鬼門の鎮護ちんご

    として朝廷のために御祈祷きとう

    命ぜられ、又、比叡山を天台宗の本山として寺号じごう

    を延暦寺えんりゃくじ

    と 賜たまわ

    りました。

    嘗かつ

    て二十二歳の青年僧が独ひと

    りで勉強するために建てた山寺やまでら

    が、まだ 20 年と経た

    たないうちに、王城おうじょう

    鎮護ち ん ご

    となったのです。 何なん

    という名誉め い よ

    な事でありましたでしょう!

    最澄はまた諸国しょこく

    をめぐって、広く人々の間に天台宗を弘ひろ

    めたが、行く先々さきざき

    で世間せけん

    の為ため

    になるようなこ

    とを多くしました。 美濃み の

    から信濃しなの

    へ 赴おもむ

    く山中には、険けわ

    しい道が長く続いて、一日歩ある

    いても泊と

    まるべき人家じんか

  • 第28話 伝教大師と弘法大師

    125

    のあるところまではまだその半なか

    ばにしかならないようなところがあったが、彼はその中 間ちゅうかん

    に一寺を開いて、

    一般いっぱん

    の宿 舎しゅくしゃ

    となし、旅人たびびと

    の便べん

    を計はか

    りました。 これなぞは其そ

    の一つです。

    かくして最澄は、その学識がくしき

    の高いのを以も

    って殊こと

    に上下しょうか

    の篤あつ

    い信仰しんこう

    と尊敬そんけい

    とを集めていましたが、嵯峨さ が

    天皇の光仁 13 年についに 56 歳で亡くなりました。 天皇は深く惜お

    しまれて、次の年に延暦寺えんりゃくじ

    の 勅ちょく

    額がく

    比叡ひえい

    山ざん

    に 賜たまわ

    ったが、後に第 56 代清和せいわ

    天皇は特とく

    に伝 教でんきょう

    大師だいし

    と 諡おくりな

    せられた。 これがわが国での大師号だいしごう

    始はじ

    めであります。

    この伝 教でんきょう

    大師だいし

    が天 台 宗てんだいしゅう

    を伝えたのに対たい

    して、初

    めてわが国に真 言 宗しんごんしゅう

    を伝つた

    えたのが弘法大師こうぼうだいし

    です。

    前にも少すこ

    し述の

    べたように、二人は同時どうじ

    に唐へ渡わた

    たのですが、その就つ

    いた師匠ししょう

    もちがえば学まな

    んだ教おし

    えも

    ちがい、帰朝きちょう

    したのも一緒いっしょ

    ではありませんでした。

    空海くうかい

    の生立おいた

    弘法大師こうぼうだいし

    は讃岐さぬき

    国(香川県)多度た ど

    郡ごおり

    屏風びょうぶ

    が浦うら

    人で、幼 名ようみょう

    を眞魚ま お

    といいました。 生う

    まれつき大たい

    う 賢かしこ

    く、どこか普通ふつう

    の子供こども

    とはちがった気高けだか

    いところ

    があった。 5、6歳のころには、常つね

    の遊あそ

    びごとにも

    粘土ねんど

    で仏像ぶつぞう

    を作つく

    り、これに花を上あ

    げて 喜よろこ

    んでいたと

    いうことです。

    弘 法 大 師

    18歳の時に 都みやこ

    にのぼり、大学だいがく

    に入って専もっぱ

    ら儒教じゅきょう

    を学んだが、もともと仏教を修おさ

    めて、大いに世の為ため

    に尽つ

    くそうというのが其そ

    の望のぞ

    みであったのですから、ついに 19 歳の時に、奈良の石いし

    淵寺ぶちでら

    の勤操ごんそう

    法師の弟子で し

    となって、無空むくう

    と名告な の

    り、更さら

    に 3年の後に、東大寺とうだいじ

    に入って名を空海くうかい

    と 改あらた

    めた。 時に延 暦えんりゃく

    14年、彼が

    22歳の時でありました。

    空海くうかい

    、唐とう

    に渡わた

    空海くうかい

    は、その後はいよいよ修業しゅぎょう

    を積つ

    んで、仏ほとけ

    の道みち

    を明あき

    らかにしようと力つと

    めましたが、彼が最もっと

    も重おも

    を置お

    いた経 文きょうもん

    の中にもいろいろと分わ

    かり兼か

    ねるところが出で

    て来き

    て、しかも、それらの疑問ぎもん

    に就つ

    いては、わ

    が国には教おし

    えを受う

    けるべき人がいなかったので、どうかして唐に渡わた

    って、深ふか

    く研 究けんきゅう

    したいと思おも

    っていま

    した。

    この学問がくもん

    に熱心ねっしん

    であるということが、桓かん

    武む

    天皇のご信任しんにん

    を得え

    る本もと

    となって、たまたま延暦 22 年に

    遣唐使けんとうし

    を出い

    だされることになった時に、彼もまた最澄と同じく、選えら

    ばれて 留りゅう

    学がく

    僧となったのです。

    この時の遣唐使の船が暴風雨ぼうふうう

    のために一度は引返ひきか

    して、その翌年よくねん

    に 再ふたた

    び出 発しゅっぱつ

    したことは前にも述の

    べまし

    た。 今度こんど

    もまた暴風ぼうふう

    に遇あ

    いましたが、空海らの乗った船は、34日の間を海に泛うか

    んで、漸ようや

    く 8月に福 州ふくしゅう

    という 港みなと

    に着つ

    きました。

  • 第28話 伝教大師と弘法大師

    126

    真言しんごん

    の 教おしえ

    を聴き

    彼は大使た い し

    藤原葛野かどの

    麻呂ま ろ

    らと一緒いっしょ

    にその年の 12月に唐の 都みやこ

    の長 安ちょうあん

    に 赴おもむ

    き、名高なだか

    い僧侶そうりょ

    や学者がくしゃ

    を訪たづ

    て、教おし

    えを聴き

    いていたが、其その

    うちに、其その

    ころ真言しんごん

    宗第一の高僧こうそう

    といわれた清せい

    龍寺りゅうじ

    の恵果けいか

    和尚に逢あ

    いました。

    其の時、恵果けいか

    は 62 歳で、空海は 32 歳でしたから、年とし

    からいうと、親子おやこ

    ほどもちがったのですが、二

    人は初はじ

    めて逢あ

    った時から、まるで長なが

    い 間あいだ

    の親した

    しい友とも

    達だち

    であったように、よく気き

    が合あ

    って、教おし

    えられる者もの

    もとよりですが、教おし

    える者もの

    も非常ひじょう

    に 力ちから

    を入い

    れて、一緒いっしょ

    に研 究けんきゅう

    したので、わずか数ヶ月すうかげつ

    の間に、空海は真言しんごん

    宗しゅう

    の教義きょうぎ

    や秘法ひほう

    を 悉ことごと

    く学んでしまうことが出来ました。

    恵果けいか

    が真 言しんんごん

    秘密ひみつ

    の法ほう

    を残のこ

    らず空海に伝つた

    えた時に、それを知った中国のある坊さんが、「中国の者で多

    くの弟子がいるのに、なぜ日本の僧などに秘法ひほう

    を伝えるのです?」と咎とが

    めるように言って訊き

    くと、恵果けいか

    は、

    「仏の道に国の内外ないがい

    はない。すぐれた者に伝えるのが当然とうぜん

    である」といって叱しか

    りつけたということです。

    これを見ても、いかに空海がすぐれて偉えら

    い人であったかが分わ

    かります。

    彼はまた、恵果けいか

    和尚が間ま

    もなく亡な

    くなったために、その後は印度インド

    から来た名僧めいそう

    を訪たづ

    ねて、その人から

    華厳けごん

    や真言しんごん

    秘密ひみつ

    の深い教えをうけたが、なおその外ほか

    にも、医薬いやく

    や工芸こうげい

    の事をも学び、殊こと

    に、書しょ

    は韓かん

    方ほう

    明めい

    いう先生せんせい

    に習なら

    って、非常ひじょう

    に上手じょうず

    に書か

    きました。

    真 言 宗しんごんしゅう

    を開く

    空海は、初めは十年以上も中国にいるつもりで出かけたのでしたが、意外いがい

    にも早はや

    く研 究けんきゅう

    が出来てしま

    ったのと、一つは、恵果けいか

    和尚が亡な

    くなる時に、早く日本に帰って真言しんごん

    宗しゅう

    を弘ひろ

    めてくれるようにと、くれ

    ぐれも頼たの

    んで行かれたのとで、最澄よりは一年おくれ、出発した時から三年目に、早くも日本に帰って来

    ました。

    しかしその時は、桓かん

    武む

    天皇は既すで

    にお崩かく

    れになって、平城へいぜい

    天皇の御代でした。 天皇は空海を 宮 中きゅうちゅう

    お召め

    しになって、その研 究けんきゅう

    して来たところを具つぶ

    さにお聴き

    きになり、今までの教おし

    えと 全まった

    くちがった深ふか

    趣おもむき

    のあるのを知られると、非常に興味きょうみ

    を持たれて、大いに天下に真言しんごん

    の教おし

    えを弘ひろ

    めるようにと仰おお

    せられ

    た。

    それで、空海が熱心ねっしん

    にその教えを説と

    き始はじ

    めると、ちょうど其の頃ころ

    は最澄がさかんに天台てんだい

    の教おし

    えを説と

    て、延 暦えんりゃく

    寺の勢 力せいりょく

    が大おお

    いに高まって来ていた時でありましたから、奈良の諸しょ

    大寺の僧侶そうりょ

    らは、この上に

    また新しい真言宗を弘ひろ

    められたのでは、いよいよ自分らの 勢 力せいりょく

    が狭せば

    められることになろうと思い、空海

    の説と

    く真言しんごん

    秘密ひみつ

    の教おし

    えは 全まった

    く邪道じゃどう

    であるといって、しきりに彼を 罵ののし

    りました。

    空海くうかい

    、諸 宗しょしゅう

    の僧侶そうりょ

    を説破せっぱ

    する

    次の嵯峨さ が

    天皇は、この 罵ののし

    る声こえ

    の次第しだい

    に高くなるのを聞かれると、ある時、空海と共とも

    に諸 宗しょしゅう

    の僧侶そうりょ

    を 宮 中きゅうちゅう

    に召め

    されて、宗旨しゅうし

    の議論ぎろん

    をさせられた。 その時、空海は促そく

    身しん

    即仏そくぶつ

    (この現在げんざい

    の身み

    のままで直ただ

    に 仏ほとけ

    になること)の真理しんり

    を説と

    いたが、その議論ぎろん

    がいかに精くわ

    しく、筋すぢ

    もよく通とお

    り、弁舌べんぜつ

    も爽さわ

    やかで、そこ

    に一点の 疑うたが

    いを挟はさ

    む余地よ ち

    も無な

    かったので、誰だれ

    も皆みな

    ぢっと耳みみ

    を 傾かたむ

    けたまま、感服かんぷく

    させられて、一人として

  • 第28話 伝教大師と弘法大師

    127

    これに反対はんたい

    する者もの

    などもいなかった。 のみならず、中には今までの自分の無知む ち

    無学むがく

    を悟さと

    って、空海の弟子で し

    となった者も少なくなかったので、それからは天皇のご信任しんにん

    はいよいよ厚く、世間せけん

    の人の信仰しんこう

    はいよいよ

    深ふか

    くなりました。

    仏教の日本化

    空海の説と

    いた真言宗が、中国で行われていたままのものではなかったことは、ちょうど最澄の天台宗

    が中国の天台宗のままでなかったのと同じです。 彼もまた最澄と同じように、日本の固有こゆう

    の道 徳どうとく

    と仏教

    の真理しんり

    とを一つに結むす

    びつけて、全まった

    く日本の国風こくふう

    に合あ

    うような 宗 教しゅうきょう

    としたのです。 また、彼は儒 教じゅきょう

    その他の教えも巧たく

    みに取入とりい

    れ、仏寺ぶつじ

    に守護しゅご

    神しん

    として神社じんじゃ

    を祀まつ

    って、わが神道しんどう

    との調和ちょうわ

    をも計はか

    りました。

    本地ほんち

    垂すい

    跡じゃく

    の説せつ

    これは、神かみ

    と 仏ほとけ

    とは決けっ

    して別べつ

    のものではないという 考かんが

    えから起おこ

    ったことで、この考えは、多少たしょう

    は既すで

    に奈良時代から 行おこな

    われて来ていたのですが、空海や最澄が日本化に ほ ん か

    した新しい仏教を説と

    くに至いた

    って、更さら

    一層いっそう

    明あき

    らかにされたものでした。

    また、これが後のち

    に、神かみ

    の本地ほんち

    は 仏ほとけ

    で、神かみ

    は 仏ほとけ

    が権か

    りに人間界にんげんかい

    に 現あらわ

    れたものあるから、わが国の神々かみがみ

    も、其の 源みなもと

    を尋たづ

    ねれば、皆みな

    、菩薩ぼさつ

    であるという、所謂いわゆる

    本地ほんち

    垂すい

    跡 説じゃくせつ

    となって、大おお

    いに世人せじん

    の信仰しんこう

    を深ふか

    る本もと

    となりました。

    金剛こんごう

    峰寺ぶ じ

    を建てる

    さて空海は、初めは京都 高雄たかお

    の神じん

    護寺ご じ

    で教おし

    えを説と

    いていました。 弘仁七年、嵯峨さ が

    天皇から紀州きしゅう

    (和

    歌山)の高野山こうやさん

    を 賜たまわ

    って、そこに新あら

    たに金剛こんごう

    峰寺ぶ じ

    を建た

    てて、真言宗の本山ほんざん

    としました。

    高野山こうやさん

    は、遠とお

    く世間せけん

    を離はな

    れた静しづ

    な 所ところ

    で、心こころ

    を静しづ

    めて仏教を研究する

    のに 最もっと

    も適てき

    していたので、大いにこ

    れを究きわ

    めようする人々は、次第しだい

    に多く

    集まって、空海の教えを受けました。

    しかし、都からは二十里(1里は

    4 km)以上いじょう

    も離はな

    れたところですので、

    空海を 最もっと

    もご信任しんにん

    になっておられる

    天皇は、絶た

    えずお召め

    しになることの

    和歌山 高野山こ う や さ ん

    金剛こんごう

    峰寺ぶ じ

    出来ないのを淋さび

    しくおぼしめして、特に羅生門らしょうもん

    の東の東寺とうじ

    を空海に 賜たまわ

    り、都みやこ

    近くの真言宗の本寺ほんでら

    となさ

    れた。

    東寺とうじ

    を賜たま

    わる

    この東寺とうじ

    は、今も元もと

    のところ(京都駅の南西)に在あ

    って、毎年、宮内省くないしょう

    から天皇陛下のお召め

    しになる御衣ぎょい

  • 第28話 伝教大師と弘法大師

    128

    を送ってご祈祷きとう

    させるので有名です。 次の第 53代淳和じゅんな

    天皇も、第 54代仁 明にんみょう

    天皇も、等ひと

    しく空海を尊信そんしん

    せられたが、殊こと

    に仁 明にんみょう

    天皇は 宮 中きゅうちゅう

    に真言院しんごんいん

    を置お

    かれて、空海に天下てんか

    泰平たいへい

    の祈祷きとう

    をおさせになったほど

    でした。

    既すで

    に朝 廷ちょうてい

    の信任しんにん

    がこういう風ふう

    に篤あつ

    かったものですから、役人らはいうまでもなく、一般いっぱん

    の人々も進すす

    んで空海の教おし

    えを仰あお

    いで、真言宗は広く天下てんか

    に弘ひろ

    まるようになって行きました。

    空海の能書のうしょ

    空海は、初めて真言宗を弘ひろ

    めて世の人を教え 導みちび

    いたばかりでなく、又、中国の学問にもすぐれ、文 章ぶんしょう

    も上手じょうず

    な上に、絵え

    や彫 刻ちょうこく

    も巧たく

    みで、殊こと

    に書しょ

    は、前にも少し述べたように、非常に上手じょうず

    でありました。

    それで、その頃の書の名人めいじん

    であった嵯峨さ が

    天皇及び 橘 逸 勢たちばなのはやなり

    と共に、日本の三筆さんぴつ

    と 称しょう

    せられたのです

    が、とりわけ彼に就つ

    いては、「弘法筆ふで

    を選えら

    ばず」とか、「弘法にも筆ふで

    のあやまり」とかいうような 諺ことわざ

    も世よ

    にあるくらいで、さまざまな逸話いつわ

    が伝えられています。

    嘗かつ

    て中国にいた時に、唐の天子てんし

    の仰おお

    せを受う

    けて、或あ

    る宮 殿きゅうでん

    の壁かべ

    に文字を書くのに、五本の筆ふで

    を口と

    左右の手足とに執と

    って、飛と

    びついて一度に五行に書いたので、五筆ごひつ

    和尚おしょう

    という名を 賜たまわ

    ったという話もあり

    ます。

    又、帰朝きちょう

    してから、平城へいぜい

    天皇の御代み よ

    に、御所ごしょ

    の応おう

    天 門てんもん

    の額がく

    を書きましたが、その額がく

    を門に掲かか

    げてか

    ら見ると、応の字の点が一つ落ちていた。 折角せっかく

    高いところに上げたのを又おろさせるのも気の毒だし、

    といって登のぼ

    って行って書き足た

    すのも大変たいへん

    なので、何なに

    かよい工夫くふう

    はないかと、見ている人々も心配しんぱい

    している

    と、やがて空海は、筆ふで

    に墨すみ

    を含ふく

    ませて、額がく

    に向む

    かってそれを投な

    げつけると、ちょうど好よ

    いところへ飛と

    んで

    行って、うまく点がついたという話もあります。 これを弘法の投な

    げ筆ふで

    といいます。

    まだ此の外ほか

    にも、空そら

    に字を書くと、はっきりと 現あらわ

    れたとか、水の上に書くと、字は消き

    えないで流なが

    れて

    行い

    ったとかというような不思議ふ し ぎ

    な話もいろいろありますが、これらの中には、書しょ

    がいかにもうまかったの

    で、後のち

    の世よ

    の人がますます 尊とうと

    くしようと思って作った話もあるでしょう。

    学校がっこう

    を起おこ

    空海はまた、京都に綜しゅ

    芸げい

    種しゅ

    智院ちいん

    という学校がっこう

    を起お

    こして、広く一般の子弟してい

    に学問を教えました。

    其の頃、京都には貴族の子弟の学ぶ官立かんりつ

    の大学だいがく

    はあったが、身分みぶん

    の低ひく

    い者には入 学にゅうがく

    を許ゆる

    されませんでし

    たので、いかに学問が好す

    きでも進すす

    んで勉強することが出来なくて困こま

    っていました。

    ところが、空海のこの学校は、身分の如何いかん

    に 拘かかわ

    らず、僧侶でも俗人ぞくじん

    でも、 志こころざし

    のある者はどしどし

    入学を許したので、時の人々は大いに喜んだということです。 ここで教えたものは、主として仏教です

    が、また漢かん

    文 学ぶんがく

    にも及およ

    んだのでありました。

    いろは歌うた

    斯こ

    ういうように空海は学問も深く、書も上手でありましたので、今も毎日用いているこの平仮名ひ ら が な

    も作

    ったのは彼だといわれていますが、それが本当ほんとう

    であるかどうかはともかく、これを「いろは歌うた

    」にしたの

  • 第28話 伝教大師と弘法大師

    129

    は空海であったのでしょう。

    伝えるところに依よ

    ると、彼が高野山に金剛峰寺を造つく

    る時に、一心いっしん

    に 働はたら

    いている大工だいく

    や杣そま

    (きこり)に

    も、仏教の尊とうと

    い教えを知らせてやろうと、涅槃ねはん

    教きょう

    というお 経きょう

    の中にある有名ゆうめい

    な文句もんく

    の意味い み

    を、

    「 色いろ

    は匂にほ

    へど散ち

    りぬるを、わが世よ

    たれぞ常つね

    ならむ、有う

    為ゐ

    の奥山おくやま

    けふ越こ

    えて、浅あさ

    き夢ゆめ

    見み

    し酔ゑ

    ひもせず 」

    と今様体いまようたい

    という四句の歌にして歌うた

    わせたものだということです。 ここで其の47文字も じ

    が、 悉ことごと

    く別の文

    字から出来ていて、仮名か な

    を習なら

    うのに都合つごう

    が好よ

    かったので、後のち

    には此の歌を其のまま手本てほん

    などにも用いてい

    るのです。

    空海の公益こうえき

    事業 じぎょう

    空海は斯か

    くもいろいろの方面ほうめん

    にすぐれていましたが、更にまた仏教を弘ひろ

    めるために諸国しょこく

    を巡めぐ

    った 間あいだ

    に、行く先々さきざき

    で道路どうろ

    を開ひら

    き、橋はし

    を架か

    け、渡わたし

    舟ぶね

    を備そな

    えて交通こうつう

    の便べん

    を計はか

    ったり、池いけ

    を堀ほ

    り溝みぞ

    を穿うが

    って、農 業のうぎょう

    をますます盛さか

    んにするようにしました。

    中でも殊こと

    に聞こえるのは、大和やまと

    の久く

    米寺めてら

    の附近ふきん

    に益 田やくでんの

    池という大きな池を掘ほ

    って、多くの水田すいでん

    を開ひら

    た事こと

    と、彼の生 国しょうこく

    の讃岐さぬき

    (香川県)で、土地と ち

    の者が萬農まんのう

    池いけ

    という大きな池の 堤つつみ

    を修 築しゅうちく

    しようとしたが、

    数年かかっても出来ないという話を聞いて、国に帰り、池の附近に小さな小屋こ や

    を作って、専もっぱ

    ら其そ

    の工事こうじ

    監かん

    督とく

    しながら、三年の 間あいだ

    そこに留とど

    まって、ついにその 堤つつみ

    を完全に出来上がらせて、一万町歩ちょうぶ

    の水田を開

    いたという事です。

    斯こ

    うして空海は、桓かん

    武む

    天皇から五代の間、上下しょうか

    の深い尊信そんしん

    を得ていたのですが、ついに仁に

    明みょう

    天皇の

    承和2年3月に、62歳を以も

    って高野山で亡な

    くなりました。

    後に、第 60 代醍醐だいご

    天皇の御代に弘法大師の 諡おくりな

    を 賜たまわ

    りましたが、その一生の間に、世の為、人の為

    に尽つ

    くした事がいかにも多かったので、その当時とうじ

    から今日こんにち

    に至いた

    るまでも非常に尊敬そんけい

    され、大師号だいしごう

    を 賜たまわ

    た高僧こうそう

    は外にも多くあるのに、大師といえば弘法大師に限かぎ

    るようにすら思われています。

    「 大師だいし

    は弘法こうぼう

    に奪うば

    われ、太閤たいこう

    は秀ひで

    吉よし

    に奪うば

    わる 」

    という 諺ことわざ

    があるのも、それが為ため

    であります。

    ( 第 28話 伝 教でんきょう

    大師 だいし

    と弘法大師こうぼう だいし

    終わり。 次は一旦前頁に戻り、

    第 29話 平安へいあん

    時代じだい

    初期の文化 へ)