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1 2019 年度 国際⽂化学部 研究旅⾏奨励制度 報告書 レオナルド・ダ・ヴィンチの「アルノ川流域図」を歩く ヴィンチ村からピサまでの⾃然景観と素描を⽐較しながら 21AR111 ⾕ 晃輝 《アルノ渓⾕の⾵景素描、1473 年 8 ⽉ 5 ⽇雪のマリアの⽇に》 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)、1473 年、ペン・インク、紙・ビスタ、190 ×285mm、イタリア・フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵

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    2019 年度 国際⽂化学部 研究旅⾏奨励制度 報告書

    レオナルド・ダ・ヴィンチの「アルノ川流域図」を歩く

    ̶ヴィンチ村からピサまでの⾃然景観と素描を⽐較しながら ̶

    21AR111 ⾕ 晃輝

    《アルノ渓⾕の⾵景素描、1473 年 8 ⽉ 5 ⽇雪のマリアの⽇に》 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)、1473 年、ペン・インク、紙・ビスタ、190×285mm、イタリア・フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵

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    構成 はじめに 研究動機・⽬的、期待される研究成果 第⼀章 レオナルド・ダ・ヴィンチの育った村 〜ヴィンチ村〜 第⼆章 ⾵景素描との⽐較 第三章 計画変更後の調査 第四章 ウフィツィ美術館について

    1)ヴェロッキオ+レオナルド 《キリストの洗礼》 2)レオナルド 《東⽅三博⼠の礼拝》 3)レオナルド 《受胎告知》 その他作品紹介

    まとめ レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)の年表 研究調査地 イタリア(ローマ→フィレンツェ→エンポリ→ヴィンチ村→ポンテデーラ→ピサ→ ピストイア→アルトパーショ→ミラノ) はじめに 研究動機・⽬的

    私は、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 1452-1519)の描いた⾵景画や解剖図などの素描に興味があり、卒業論⽂のテーマをレオナルドに絞って資料を読んだ。その中で分かったことはレオナルド・ダ・ヴィンチが、絵画・建築・解剖学・天⽂学・地理学など多岐にわたり偉⼤な功績を残しており、その原動⼒の1つには、類稀なる観察眼を持ち合わせていたことが要因になっているということだ。

    レオナルドは幼少期から⾃然の観察・習作を⾏なっており、幼少期に観察眼が養われたのではないかと考え、レオナルドは幼少期どのような⽣活を過ごしていたのか実際にイタリアのフィレンツェ郊外にあるレオナルドの⽣まれ故郷であるヴィンチ村を訪れ、周辺の⾃然環境の調査やレオナルドの⽣活していた住居に訪れたいと考えた。

    レオナルドは、⽗に美術・画家としての才能を⾒出され、⽗の友⼈であったアンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio 1435-1488)のもとで徒弟としておそらく14、15歳の時、画⼯になるための教えを請うている。

    ヴェロッキオは、当時遠近法や美術解剖学を絵画や彫刻に応⽤した進歩的な美術家であったため、レオナルドはそこで、最先端の画法を学んだと思われる。15世紀に当時 21歳

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    のレオナルドは初めて「1473 年の⾵景素描」と題されたアルノ川流域の⾵景を描いている。その絵画はエンポリからピサまでのルッカ、ピストイア、ヴィンチ村等を実際に歩きそこで観た⾃然⾵景を合わせて作られたと⾔われているので、その⾵景がどこの⾵景と⼀致するのか、レオナルドの記した『マドリッド⼿稿』(マドリッド国⽴図書館藏)のアルノ川流域の略地図を元に実際に歩き、照合していき確かめたい。

    また、レオナルドがいかにして画家としての⾃らの才能を⾒出したのか、古代や中世の哲学、科学思想に興味を持つようになったのかを探る第⼀歩になると考える。

    それと合わせて、レオナルドの残した⼿記・習作の⼀部や絵画作品《受胎告知》(1472〜75 年)、《東⽅三博⼠の礼拝》(1481〜82 年)がウフィツィ美術館に展⽰してあるので、是⾮実際に観てみたい。 期待される研究成果

    レオナルド・ダ・ヴィンチは、17世紀オランダで初めて⾵景画が誕⽣する以前の15世紀に《1473年の⾵景素描》を描いている。レオナルドにとって⾃然観察・素描は、彼の描く⼈物画にも⽤いられているように⼈物と⾃然が同⼀のものだと考える思想のもと描かれる。アリストテレスの「形⽽上学」を主とする古代や中世の哲学科学思想によってレオナルドの「絵画学」は⽀えられており、視覚や光学にも⾃然観察は関係しているので、幼少期の⾃然観察⼒の発育が、科学者=芸術家としてのレオナルドを⽣み出したのではないかという仮説をこの研究旅⾏で検証してみたい。

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    研究スケジュール 出発予定⽇ 2019 年 9 ⽉ 1 ⽇ 帰着予定⽇ 2019 年 9 ⽉ 12 ⽇

    旅⾏予定⽇数(発着⽇含む) 12 ⽇間

    滞 在 地 ⾏動・調査内容 第1⽇ 9/1(⽇)

    Fukuoka(Japan) Taipei(Taiwan) Roma(Italia)

    移動⼿段:航空機(チャイナエアライン) 福岡空港(出国)→ 台北桃園国際空港(台湾)→ Leonard da Vinci internazioale Aeroporto(ローマ)

    第 2 ⽇ 9/2(⽉)

    Roma Firenze

    移動⼿段:鉄道(Trenitalia) Fiumicino Aeroporto ( ロ ー マ ) → Roma ・ Tiburtina ( ロ ー マ ) → S.M.Novella Sta.(フィレンツェ)→ ホテル着(Hotel De Rose Palace ⦅Firenze Via Solferino 5 / TEL +81-3-6743-8548⦆) ※ウフィツィ美術館⽉曜休館⽇

    第 3 ⽇ 9/3(⽕)

    Firenze 移動⼿段:ホテル貸出の⾃転⾞もしくは徒歩 <活動内容> フィレンツェのウフィツィ美術館を訪問《受胎告知》(1472〜75 年)と《東⽅三博⼠の礼拝》(1481〜82 年)や《アルノ川渓⾕の⾵景素描》(1473 年 8 ⽉ 5 ⽇)、ヴェロッキオの《キリストの洗礼》(1472 年頃)を調査

    第 4 ⽇ 9/4(⽔)

    Firenze Empoli Vinci

    移動⼿段:鉄道&バス S.M.Novella Sta.(フィレンツェ)→ Empoli(エンポリ) → 49 P.Don Minzoni,15(バス)Emp000 → Giovanni ⅩXIII,21(バス)Vnc128 → 49 G.Rossa-Bv.M.Albano Vnc136(バス)→ P.Don Minzoni,15(バス) <活動内容> レオナルドの⽣まれ故郷ヴィンチ村や⽣家とされる郊外アンキアーノにある住居の調査。周辺地域の⾃然観察。

    第 5 ⽇ 9/5(⽊)

    Firenze Empoli San Miniato

    移動⼿段:鉄道&バス S.M.Novella Sta.(フィレンツェ)→Empoli(エンポリ)→ San Miniato fuccecchio(サンミニアート) <活動内容> レオナルドの「アルノ川流域図」に沿って順に訪れる。 1473 年の《アルノ川渓⾕の⾵景素描》の⾵景に合致する⾵景の捜索。

    第 6 ⽇ 9/6

    (⾦)

    Firenze Castelfranco

    di sotto

    移動⼿段:鉄道&バス S.M.Novella Sta.(フィレンツェ)→ S.Romano-S.Croce(カステルフランコ・ディ・ソット)

    <活動内容>

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    レオナルドの「アルノ川流域図」に沿って順に訪れる。 1473 年の《アルノ川渓⾕の⾵景素描》の⾵景に合致する⾵景の捜索。

    第 7 ⽇ 9/7

    (⼟)

    Firenze Pontedera

    Cascina

    移動⼿段:鉄道&バス S.M.Novella Sta.(フィレンツェ)→ Pontedera(ポンテデーラ)→ Cascina T.(カーシナ)

    <活動内容> レオナルドの「アルノ川流域図」に沿って順に訪れる。 1473 年の《アルノ川渓⾕の⾵景素描》の⾵景に合致する⾵景の捜索。

    第 8 ⽇ 9/8

    (⽇)

    Firenze Pisa

    移動⼿段:鉄道(Trenitalia) S.M.Novella Sta.(フィレンツェ)→ Pisa Central Station(ピサ)

    <活動内容> レオナルドの「アルノ川流域図」に沿って順に訪れる。 1473 年の《アルノ川渓⾕の⾵景素描》の⾵景に合致する⾵景の捜索。

    第 9 ⽇ 9/9

    (⽉)

    Firenze

    ※予備⽇ (ウフィツィ美術館⽉曜休館⽇)

    第 10 ⽇ 9/10

    (⽕)

    Firenze

    ※予備⽇

    第 11 ⽇ 9/11

    (⽔)

    Firenze Roma Taipei

    移動⼿段:鉄道(Trenitalia)& 航空機(チャイナエアライン) S.M.Novella Sta.(フィレンツェ)→ Roma・Tiburtina(ローマ)→ Leonard da Vinci internazionale Aeroporto(ローマ)→ 台北桃園国際空港(台湾)

    第 12 ⽇ 9/12

    (⽊)

    Taipei Fukuoka

    移動⼿段:航空機(チャイナエアライン) 台北桃園国際空港(台湾)→ 福岡空港(帰国)

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    第⼀章 レオナルド・ダ・ヴィンチの育った村 〜ヴィンチ村〜

    ヴィンチ村は、イタリア・フィレンツェの⻄⽅にある⻑閑で⼩さな村である。最寄駅のエンポリからバスに乗って約 30 分で⾏くことができる。今回敢えて約 11 キロの道のりを徒歩で 2時間ほどかけ向かってみることにした。道中、広⼤な葡萄畑やオリーブ畑が広がっていた。フィレンツェの中⼼部から少し離れていることもあり、⼈気があまりなく村にたどり着くまでほとんど現地の⼈に遭遇することはなかったが、舗装された道路には⽐較的多くの⾞が⾛っていた。ヴィンチ村に到着すると、想像していたよりも⼩さい村だった。真新しい壁の塗装、屋根⽡の住宅が軒を連ねていた。

    村にはレオナルド・ダ・ヴィンチの⽣まれ故郷を売りにした観光客⽤の喫茶店や⼟産屋兼スーパーが道沿いに並んでいた。村の中⼼部にはレオナルド・ダ・ヴィンチの博物館が2つ並んで建っており、1つは、彼の残した⼟⽊⼯事や機械類の素描をもとに作られた⾶⾏機や井⼾の⽔を汲む⽔⾞・⾃転⾞などの発明品を展⽰しており、解剖学の素描(コピー)なども展⽰がされている博物館であった。なんとその中に、《アルノ川渓⾕の⾵景素描、1473 年 8 ⽉ 5 ⽇雪のマリアの⽇》の制作までの経緯(1つの仮説)が記された展⽰コーナーがあるではないか。そこには⾵景素描制作にまつわる情報が事細かに記されてあった。全ての展⽰を観終えると今回計画したスケジュールの順路で《アルノ川渓⾕の⾵景素描、1473 年 8 ⽉ 5 ⽇雪のマリアの⽇》の制作を⾏なっていないことが判明する。

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    レオナルド・ダ・ヴィンチ ミュージアムの展望台からの⾵景 Piazza dei Conti Guidi, 50059 Vinci FI, イタリア

    レオナルド・ダ・ヴィンチの⽣家 Via di Anchiano, 50059 Vinci FI, イタリア

    そこから 15 分ほど傾斜のある砂利道を歩いたところにレオナルド・ダ・ヴィンチの⽣家がある。レオナルドの家は、⽐較的⼩さく、⽣活感のあまり漂わない建物であった。中には、台所や⾵呂などがなく簡素な部屋が三部屋あり、モニターが設置されレオナルドの

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    ⽣涯をイタリア語と英語で語っていた。レオナルドはこの家で誕⽣してから⼀年間はここで⽣活したとされる。⽗セル・ピエロは公証⼈で裕福だが、⺟は農家の娘で貧困であった。最初のは⺟に育てられ、その後は、貧富の差故に離婚している。そのため法律上は婚姻関係にない男⼥間で⽣まれた庶出⼦となったレオナルドは、⻑男として公証⼈の仕事を継ぐのではなく、画家としての道を歩むこととなる。 第⼆章 ⾵景素描との⽐較

    《アルノ川渓⾕の⾵景素描、1473 年 8 ⽉ 5 ⽇雪のマリアの⽇》は、レオナルドが当時21歳の時に描いた絵画としては初めて年記の⼊った作品である。ジグゾーパズルのように複数の⾵景を組み合わせて1つの⾵景にした作品と⾔われている。そこで、イタリアに来てフィレンツェからピサまでの⾵景を撮影してみたところ、レオナルドは標⾼が⾼く⾒晴らしの良いところから絵の構図を考えていることがわかった。なぜなら、⾵景素描の右に描かれたモンスンマーノ(Monsummano)⼭と⽬線の⾼さ(消失点の位置)が同じであるにもかかわらず、エンポリからヴィンチ村までの道中で⾒た実際の⾵景は⼭の⽅が⽬線よりもはるかに⾼かったからである。ヴィンチ村のレオナルド・ダ・ヴィンチ博物館では、事細かに素描に描かれた⼟地名などの記載があった。⾵景素描上部には、アルトパーショ(Altopascio)、モンテカルロ(Montecarlo)、そのすぐ下には、センチュリアジオーネ(Centuriazione)、カステルヴェッキオ(Castelvecchio)、その下、素描中央部にフチェッキオ(Padule di Fucecchio)、素描右側を占める⼭はモンスンマーノ⼭、左側に⾒える建物はレオナルド博物館つまりヴィンチ村、その下はモンテヴェットリニ(Montevettolini)である。この事実は今回計画した《アルノ川渓⾕の⾵景素描、1473 年 8 ⽉ 5 ⽇雪のマリアの⽇》の調査の順路に誤りがあることを教えてくれた。そこで急遽予定を変更することにした。 第三章 計画変更後の調査 当初の計画では、フィレンツェからピサまでの経路を観察しながら巡り《アルノ川渓⾕

    の⾵景素描、1473 年 8 ⽉ 5 ⽇雪のマリアの⽇》との⽐較を予定していたが、ヴィンチ村のレオナルド・ダ・ヴィンチ博物館で得た情報によると、ピストイアやアルトパーショなどもっと北部の⼭間経路を通って素描を⾏なっていたことがわかり、急遽計画を変更しヴィンチ村で得た最新の情報をもとに調査を⾏うことにした。ピストイアは⼩さな町であったが、歴史を感じさせる町並みで、アルトパーショは⽥舎町という印象の強い町であった。共に、《アルノ川渓⾕の⾵景素描、1473 年 8 ⽉ 5 ⽇雪のマリアの⽇》に出てくるような滝の流れる標⾼の⾼い⼭などは⾒ることができなかった。 実際に歩いて素描と合致する⾵景を⾒つけ出すことは⾮常に困難であった。当時の⾃然⾵景や景観がガラリと変わり今ではコンクリートで舗装された道ばかりである。

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    ピストイア、マッサ・エ・コッツィーレの⾵景

    ピサ、カッシーナの⼭と⺠家

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    ヴィンチ博物館にある資料から、レオナルドはアルノ川渓⾕北部に広がるピストイア地⽅を歩き素描を⾏ったことがわかった ※レオナルド博物館の展⽰物を撮影 第四章 ウフィツィ美術館について(Galleria degli Uffizi) 「レオナルド素描の原⾵景を探す旅を終えるにあたり、ルネサンス美術の概観と復習を兼ねてフィレンツェ のウフィツィ美術館を訪ねてみた。

    ウフィツィ美術館は、1560 年から 1580 年の間に建設された⾏政機関の事務所(Uffizi=オフィス)でジョルジョ・ヴァザーリによって設計によって建てられた 1階と 2階からなる⼤きな建物である。古代の彫刻や絵画の傑出したメディチ家のコレクションで世界的に有名(中世から現代まで)。中世およびルネサンス時代の絵画コレクションには、ジョット、シモーネ・マルティニ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、ベアト・アンジェリコ、フィリッポ・リッピ、ボッティチェッリ、マンテーニャ、コレッジョ、レオナルド、ラファエロ、ミケランジェロ、カラヴァッジョなど、数々のイタリアルネサンス美術の傑作が含まれている。 ヨーロッパの画家(主にドイツ系、オランダ系、フランドル系)による貴重な作品も収蔵されている。さらにギャラリーには、失われたギリシャ彫刻の古代ローマの複製で構成されるメディチ家の古代の彫像と胸像の貴重なコレクションも展⽰されている。」 ウフィツィ美術館公式サイト(https://www.uffizi.it/en/the-uffizi)より抜粋

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    1)ヴェロッキオ+レオナルド《キリストの洗礼》

    《キリストの洗礼》アンドレア・デル・ヴェロッキオとレオナルド 1470-1472 および 1475 年頃、ポプラ板材に油彩・テンペラ、180×151.3㎝、 フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵

    《キリストの洗礼》は、ヴェロッキオとレオナルドの共作である。構図全体(下描き)と絵の⼤部分はヴェロッキオによってテンペラで描かれている。その後レオナルドが当時フィレンツェではあまり普及していなかった油彩絵具を使って⼿直しを加えている。レオナルドは左の⼆⼈の天使、背景(⾵景)の⼤部分などを描き加えている。左側の天使の頭上の背景は、当初フィレンツェでは慣習的な森や林の⾵景であった。

    この作品はまずヴァロンブローサ修道院に収蔵され、その後 1564 年サンタ・ヴェルディアーナ修道院、1810 年フィレンツェのアカデミア美術館、1914 年にウフィツィ美術館に収蔵された。この作品は、左の 2⼈の天使が特別に際⽴っており、中央のキリストの描写にはヴェロッキオの特徴がでている。ヴェロッキオはレオナルドの才能に嫉妬し、この作品を機に絵筆を折り、彫刻作品に専念したと伝えられている。

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    2)レオナルド 《東⽅三博⼠の礼拝》

    《東⽅三博⼠の礼拝》レオナルド・ダ・ヴィンチ 1481〜82 年、板に油彩、243×246cm、フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵 《東⽅三博⼠の礼拝》は 1481 年 3 ⽉に 24ヶ⽉から 30ヶ⽉以内に主祭壇の板絵を完成させるようにサン・ドナート・ア・スコペートの修道⼠から依頼されて制作したことが 1481年 7 ⽉の契約書からわかっている。この作品は修道⼠からの依頼を⽗セル・ピエロが受け、レオナルドと修道⼠との仲介⼈になった。⽂献などに記載されている構造図と⾒物を⽐較すると、この作品の構図の着想源はサンドロ・ボッティチェッリのデル・ラーマ家のための描いた⼩さな《マギの礼拝》であるようだ。レオナルドはボッティチェッリから⼈物のまとめ⽅を学んだという。背景左側の建物もボッティチェッリの《マギの礼拝》から着想を得ている。この絵は未完成であったため契約書の⾦銭的義務を履⾏することが出来ず、その後フィリッピーノ・リッピに注⽂が譲渡された(1496年)。 この作品は、右上の⾺の描写は特に⽬を引く。素描で⾃⾝の⾺への興味関⼼を確かめて

    いるようだ。改めて彼の素描に対する重要性や観察対象に対する興味の深さがわかった。

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    3)レオナルド 《受胎告知》

    《受胎告知》レオナルド・ダ・ヴィンチ 1473〜1475 年頃、ポプラ板版に油彩・テンペラ、100×221.5cm、フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵 《受胎告知》は、1473 年から 1475 年にかけて制作された。この絵の特徴は空気遠近法を活⽤していること。空気遠近法とは、背景部分に⾒られるように霞みがかった輪郭のぼかし(フスマート)や⾊彩の濃淡によって遠近感を⽣み出す描き⽅である。この⾵景部分(特に左奥の描写)には《アルノ川渓⾕の⾵景素描、1473 年 8 ⽉ 5 ⽇雪のマリアの⽇》の影響があるとも⾔われている。その他の部分はヴェロッキオの⼯房で学んだ線遠近法を⽤いて描かれている。

    この作品には、いわゆる⽋点と⾔われる部分が存在すると⾔われていた。それは右側の建物の⽩⾊の⽯は⻑すぎるように感じる。透視画法の未熟さではないかと(しかし近年の研究ではこの作品が実際に置かれていた書斎の位置関係や視点を考慮すれば、決して不⾃然ではなかったという指摘もある)レオナルドはしばしば指で描く技法を⽤いたが、この作品にもそれが⾒られる。それは天使の頭部や背景の景⾊、聖書台などである。

    この作品は 1867 年 5 ⽉まで、バルトロメオ教会の聖具室に収蔵されていた。その後、ウフィツィ美術館に収蔵される。当時は、ドメニコ・ギルランダイオの作品と思われていたが、1907 年にオックスフォードの素描作品の存在が知られて以後、レオナルドの作品であることが確証された。受胎告知の背景画には、実際に訪れたイタリアには⾒ることのできないような切り⽴った⼭々を臨むことができるが、これは彼が中国の⽔彩画を意識して描かれたともいわれている。そのことは、今回の旅でこのような⼭々がイタリアには観ることができないことからも理解することができた。当時のレオナルドの描いた絵画の特徴として、⾐服のうねるような襞の様⼦を写実的に描いていることが実際にわかった。この

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    絵画を近くから観てみると特に事細かに描かれた草や花は彼の残した素描のデータを元に描かれたのではないかと思う。 ウフィツィ美術館の他作品

    《聖家族》ミケランジェロ・ブオナローティ、1504 年 - 1506年、 テンペラ、 油絵具、ウフィツィ美術館蔵 この作品は、ミケランジェロ(1475-1564)の独特な⾁体美の持つ隆起した筋⾁や、服のパキパキとした輪郭を特徴としたことがわかる。実際に実物を観てわかったことは、ミケランジェロは⼈物を描くことに重点を置き絵画に多くの⼈物が登場する絵画がかなり存在する。ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の《最後の審判》などに観ることができるが、ミケランジェロは独特な⼈物の⾝体的特徴を細部にわたって描くことのできる画家であることがわかる。

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    《ヒワの聖⺟》ラファエロ・サンティ、1506年、 油絵具、ウフィツィ美術館蔵

    ラファエロ(1483-1520)の描く絵画はミケランジェロとレオナルドの絵画を研究観察し⾃分なりに解釈し直して描いているようだ。ラファエロの持つ柔らかさを含んだ絵のタッチはまさに多くの⼈々が求める宗教画を描くに値する才覚を持ち合わせた⼈物であったといえる。今回実際にその作品を観ることができたが、聖⺟の暖かな⽬線はミケランジェロの持つ特徴を取り⼊れ、背景の遠近法などはレオナルドの持つ特徴を取り⼊れていることがわかった。 まとめ 今回イタリアのフィレンツェを実際に訪れ、レオナルド・ダ・ヴィンチの⽣まれ故郷ヴ

    ィンチ村に赴くことが叶い、彼が幼少期過ごした⾃然環境を直に体験し間近でみることができた。研究テーマである《アルノ川渓⾕の⾵景素描、1473 年 8 ⽉ 5 ⽇雪のマリアの⽇》の実物をウフィツィ美術館で観ることが叶わなかったことや、研究スケジュール通り

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    にことが進まず、⼀部変更せざるを得なかったことが残念であった。しかし、旅⾏の研究課題であった⾵景素描の各場所や、実際の⾃然と描写の違いについては理解を深めることができた。当初の計画変更を余儀なくされたが、実際にイタリアの地で調査をしなければわからなかったことが多々あったし、常に計画通りにはいかないのだということを教えてもらえた貴重な研究旅⾏になったと思う。

    また、レオナルドの数少ない名画のうち、《東⽅三博⼠の礼拝》、《受胎告知》、《キリストの洗礼》を直に鑑賞することができ、レオナルド独特な⾵景のタッチを間近で鑑賞し、さらに⼈物や動物、特に⾺の躍動する場⾯を観ながら多くの素描と⽐較することができた。レオナルドが⾃然の研究において、⾃⾝の眼で対象を観察し、⾃分の⼿で素描することによって⾃らの思考を深めていくことをいかに⼤切にしていたかを理解できたような気がする。出発前の机上の計画はそれなりに⾏ったつもりだが、百聞は⼀⾒にしかず、実際に歩き集めた情報はとても有意義なものであった。現代のイタリアの⾵景は当時の⾵景とは全く異なるものであったものの、過去と現在を⽐較することができるいい機会になったとも思う。例えば、⾃然あふれるレオナルドの過ごした⾃然環境に⽐べて現代ではコンクリートやアスファルトに囲まれた⾵景に変容しており、実体験でしか得ることのできない体験になったと思う。レオナルドの幼少期は⾃然豊かな環境に恵まれ、⼈の⼿があまり加わらない観察対象に恵まれていたと感じる。イタリアは⼭脈が連なる⾵景が多く、レオナルドは東洋の⼭⽔画を思わせる鋭く尖った⾵景画を好んで描いたことから、⾵景に現れた⾃然そのものが持つ驚異のようなものに強く関⼼を寄せていたことが伺える。

    読み解いた資料においては、レオナルドは⾃然観察に独特の興味を抱いていていたことが分かったが、今回訪れたイタリアでは、⽇本に⽐べてまだまだ⾃然そのものが残っており、葡萄畑やオリーブ畑の広がる⾵景が特に印象的であった。⽇本同様、イタリア⼈の⽣活も⾃然環境とは切っても切り離せない関係であることが理解できた。

    レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)の年表⦅参考⽂献等に基づく⦆

    1452 年 0歳 公証⼈セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ(1427〜1504 年)とカテリーナとの間の庶⼦として、トスカナ地⽅アルバーノ連⼭の南⼭麓ヴィンチ村に⽣れる。当時 80歳の祖⽗アントニオ・ダ・ヴィンチの公証⼈証書により、レオナルドの誕⽣⽇が、4 ⽉ 15 ⽇であったことその他が判明。

    1457 年 5歳 祖⽗アントニオ・ダ・ヴィンチの不動産税申告書により、レオナルド 5歳と記⼊されている。この時期に、ヴィンチ村の家宅に共に住んでいたのは、祖⽗⺟、⽗とその後妻、叔⽗およびレオナルドであった。

    1466年 14歳 この頃、⽗の友⼈アンドレア・デル・ヴェロッキオの元に⼊⾨か。 ドナテルロ没

    1468 年 16歳 この年にフィレンツェにペストが流⾏。

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    1469 年 17歳 1469 年の⽗セル・ピエロおよび叔⽗フランチェスコによる不動産税申告書に、レオナルド 17歳と書かれている。おそらくレオナルドの⽗は前年にフィレンツェに移住し、2 度⽬の妻フランチェスカ・ディ・セル・ジゥリアーノ・ランフレディーニと、フィレンツェのピアッツァ・ディ・サンタ・フィレンツェの向かいの家に住む。

    1471 年 19歳 3 ⽉、ミラノ公ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ、フィレンツェを訪問。ヴェロッキオはその饗応の役を委嘱される。

    1472 年 20歳 フィレンツェのサン・ルカ画家組合に登録。が、その後もヴェロッキオの⼯房に助⼿としてとどまる。この年か翌年に「受胎告知」及び「キリストの洗礼」(ともにウフィツィ美術館蔵)を制作したと考えられる。

    1473 年 21歳 ⾵景素描「1473 年 8 ⽉ 5 ⽇、雪の聖マリアの⽇に」(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)を制作。タイトルはアルノ河流域の⾵景素描に付された記⼊。(ペドレッティ教授は、この⼀枚をピサ周辺の景観を扱う⾵景素描と考えている) この頃、ミラノ公ガレアッツォ・マリア・スフォルツァは、⽗フランチェスコの記念騎⾺像を企画して、美術家をイタリア全⼟に求める。

    1475 年 23歳 この頃ボッティチェリの「春」。3 ⽉ 6⽇、ミケランジェロ⽣れる。 1476年 24歳 4 ⽉ 8 ⽇、ヤコポ・サルタレルリをめぐる男⾊⾏為の容疑で、三名の⻘

    年とともに公判に付される。6⽉ 7 ⽇、右の事件の再審で証拠不⼗分であったため全員無罪。これらの記録から、彼が当時なおヴェロッキオの⼯房にあったことが知られる。

    1478 年 26歳 1 ⽉ 10 ⽇、パラッツォ・ヴェロッキオ内サン・ベルナルド礼拝堂のための祭壇画の委嘱を受ける。 4 ⽉ 26⽇、パッツィ家陰謀事件。

    1479 年 27歳 12 ⽉ 28 ⽇、パッツィ家陰謀事件の逃亡犯⼈ベルナルド・ディ・バンディーノのスケッチ。ヴェロッキオ、ヴェネツィア政庁より「コルレオーニ騎⾺像」の委嘱を受ける。

    1480 年 28歳 ドメニコ・ギルランダイヨ、オニサンティ寺の⾷堂に「最後の晩餐」の壁画を制作。

    1481 年 29歳 3 ⽉、サン・ドナート・アスコペト修道院より祭壇画の委嘱を受ける。 8 ⽉、薪、穀物、葡萄酒などの荷をレオナルドの家へ持ち込んだとの修道院側の記録。 9 ⽉ 28 ⽇、⾚葡萄酒⼀樽を渡したこと及び制作が進捗していないことに関する修道院側の記録。「三博⼠礼拝」に着⼿。 10 ⽉ 27 ⽇、ボッティチェリ、ギルランダイヨ、ペルジーノ、ロッセルリ、それにルカ・シニョレルリら、教皇シクストゥス 4 世との間にヴ

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    ァティカーノ宮システィーナ礼拝堂側壁の装飾を契約。 1482 年 30歳 前年の暮れから翌年の初めまでの間にミラノ移住。ミラノでは、ガレア

    ッツォ・マリア・スフォルツァはすでに亡く、嗣⼦の幼弱に乗じてルドヴィコ・スフォルツァ(イル・モーロ)が⽀配。

    1483 年 31歳 4 ⽉ 25 ⽇、デ・プレディス兄弟(アンブロージォおよびエヴァンジェリスタ)とともに、無原罪懐胎信⼼会よりサン・フランチェスコ・デランデ聖堂の祭壇画の委嘱を受ける。この委嘱によって描かれた作品がルーヴル美術館収蔵の「岩窟の聖⺟」と考えられる。 4 ⽉ 6⽇、ラファエルロ・サンツィオ⽣まれる。

    1485 年 33歳 この頃「スフォルツァ騎⾺像」の構想が始まる。 1487 年 35歳 8 ⽉ 8 ⽇、ミラノ⼤聖堂円蓋のティブリオ(穹窿)のための⽊製モデルに

    対し、8 リラが⽀払われている。 9 ⽉ 30 ⽇、右に同じく、8 リラが⽀払われている。

    1488 年 36歳 1 ⽉ 11 ⽇、右に同じく、4 リラ⽀払われている。 10 ⽉ 7 ⽇、ヴェロッキオ、「コルレオーニ騎⾺像」鋳造前にヴェネツィアで客死。

    1489 年 37歳 7 ⽉ 22 ⽇、ロレンツォ公のミラノ駐在⼤使ピエトロ・アラマーニから、イル・モーロが「スフォルツァ騎⾺像」を完成するレオナルドの能⼒を危ぶみ、他の美術家の推薦⽅を要請してきた旨の、ロレンツォ・デ・メディチに宛てた書簡。

    1490 年 38歳 5 ⽉ 10 ⽇、ミラノ⼤聖堂のためのティブリオの新しいモデルを制作することを要求される。 この頃、フランチェスコ・ディ・ジォルジオ・マルティーニと共にパヴィアに赴き、その地の⼤聖堂の建造に関して協議。

    1491 年 39歳

    マルコ・ドッジォーノ、ジォヴァンニアントニオ・ポルトラッフィオら、すでにレオナルドの⼯房にてレオナルドの制作を助ける。

    1492 年 40歳 宮殿建築のためミラノに来訪中のジョリアーノ・ダ・サンガルロと交友。「スフォルツァ騎⾺像」の鋳造に関してその意⾒を徹す。 4 ⽉ 8 ⽇、ロレンツォ・デ・メディチ没。 この年コロンブスのアメリカ発⾒。

    1493 年 41歳 11 ⽉ 30 ⽇、「スフォルツァ騎⾺像」の粘⼟のモデルがビアンカ・マリア・スフォルツァとマクシミリアン皇帝との結婚祝典中に展⽰される。

    1494 年 42歳 11 ⽉ 17 ⽇、イル・モーロは、騎⾺像のためのブロンズを義兄弟のフェラーラ公エルコーレ・デステ⼀世の⼤砲鋳造⽤に譲渡。この頃、「最後の晩餐」の壁画を委嘱される。メディチ家、フィレンツェより追放される。数学者ルカ・パチョーリの『算術⼤全』(レオナルドによる挿絵⼊

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    り)出版される。 1495 年 43歳 「最後の晩餐」の制作。ラテン語の学習を始める。

    5 ⽉ 26⽇、イル・モーロ、フランス王より正式のミラノ公として容認される。

    1496年 44歳 ルカ・パチョーリがミラノに招聘され、親交を結ぶ。『宮廷⼈』の著書バルダッサーレ・カルティリオーネ、マントヴァの宮廷からミラノ宮廷へ移る。

    1497 年 45歳 6⽉ 29 ⽇、「最後の晩餐」の制作。 1498 年 46歳 2 ⽉、「最後の晩餐」ほぼ完成。

    2 ⽉ 9 ⽇、カルテルロ・スフォルツェスコにおけるにパチョーリらと共に出席。 5 ⽉ 23 ⽇、フィレンツェにてジローラモ・サヴォナローラの焚刑。

    1499 年 47歳 4 ⽉ 26⽇、イル・モーロからポルタ・ヴェルチェルリーナ外の葡萄園を贈られる。 10 ⽉ 6⽇、フランス軍はミラノを占拠し、イル・モーロ敗⾛する。

    1500 年 48歳 2 ⽉、マントヴァにて、公妃イサベルラ・デステの肖像を素描。 4 ⽉ 10 ⽇、スイス軍とドイツ⼈傭兵を率いてミラノ奪還をはかったイル・モーロは、ノヴァラの合戦で⼤敗し捕虜となる。 4 ⽉ 24 ⽇、フィレンツェにあって、ヌオーヴァ病院の預⾦から 50 テュカートを引き出す。

    1501 年 49歳 3 ⽉ 27 ⽇、イザベルラ・デステから、フラ・ピエトロ・ダ・スヴォラーリアに宛て、レオナルドの近況報告と絵の依頼を求めた書簡。 4 ⽉ 3 ⽇、スヴォラーリアからイサベルラ・デステ宛の返信。この返信により、当時のレオナルドの⽣活およびサンティッシマ・アヌルツィアータ聖堂の祭壇画のための⼤画稿「聖アンナ」の構図の概略を知ることができる。 4 ⽉ 13 ⽇、ヌヴォラーリアのレオナルド⼯房訪問。 4 ⽉ 14 ⽇、ヌヴォラーリアからイサベルラ・デステ宛の書簡。この書簡より、レオナルドがフロラモン・ロベルテのために「マドンナ・デル・フーゾ(紡⾞のマドンナ)」を描いていること、および弟⼦が描き彼が仕上げた若⼲の肖像画その他についての報告。 7 ⽉、イサベルラ・デステより、マンフレード・マンフレーディスを介してのレオナルドへの書簡。 7 ⽉ 31 ⽇、マンフレーディスからデステ宛の返信(依頼の絵の制作状況報告)。

    1502 年 50歳 5 ⽉ 3 ⽇、イサベルラ・デステからフランチェスコ・マラテスタに宛て

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    て、レオナルドに花瓶鑑定を依頼したい旨の書簡。 5 ⽉ 12 ⽇、マラテスタはその返信の中で、四つの花瓶に対するレオナルドの鑑定結果を記す。

    1503 年 51歳 3 ⽉ 5 ⽇、フィレンツェにあり、ヌオーヴォ病院の預⾦から 50 デュカートを引き出す。 10 ⽉、政庁より「アンギアーリの戦い」の委嘱。 10 ⽉ 16⽇、そのための画稿制作場として、サンタ・マリア・ノヴェルラ寺内サーラ・デル・バーバが準備される。 10 ⽉ 18 ⽇、フィレンツェ画家組合に再加⼊。 10 ⽉ 24 ⽇、サーラ・デル・バーバの鍵の交付。おそらくこの年「モナ・リザ」の制作を開始。

    1504 年 52歳 1 ⽉ 8 ⽇、前年 12 ⽉ 16⽇およびこの⽇、政庁は⼤聖堂のオペライにサーラ・デル・バーバに関する⽊材調達(画稿制作の⾜場をつくるため)を命じているが、特にこの⽇のものはレオナルドへの委嘱に関わるものの旨が記載されている。 1 ⽉ 25 ⽇、サンタ・マリア・デル・フィオーレ⼤聖堂のオペライにて、ミケランジェロの「ダヴィデ」像の設置委員会が開かれる。レオナルドは、ボッティチェリ、ペルジーノ、コシモ、ロッセルリ、フィリッピーノ・リッピ、ピエロ、ディ、ランツィに置くという提案に賛成する(結果は、制作者の希望を容れ、ピアッツァ・デルラ・シニョリーアの⼊り⼝に置かれた)。 5 ⽉ 14 ⽇、イサベルラ・デルテよりアンジェロ・デル・トヴァーリアを介して、レオナルドに「若きキリスト」を依頼する書簡。 5 ⽉ 27 ⽇、トヴァーリアからイサベルラへ、レオナルドが承諾した旨の返信。 8 ⽉、ミケランジェロに対しレオナルドの「アンギアーリの戦い」と並ぶ壁画に「カッシーナの戦い」の制作が委嘱される。

    1505 年 53歳 2 ⽉、ミケランジェロ、「カッシーナの戦い」の画稿を完成。 1506年 54歳 4 ⽉ 27 ⽇、ミラノで、三年前アンブロージォ・デ・プレディスによりルイ 12世に提訴されていた「岩窟の聖⺟」の報酬問題が再審議され、レオナルドは 2 年以内にこれを描いた上、200 リラの⽀払いの追加を受けるようにと判決。 5 ⽉ 3 ⽇、義理の叔⽗アレッサンドロ・アマドーリ(彼の最初の継⺟の弟)からイサベルラ・デルテに宛て、レオナルドに約束の絵を描くことを確約させたとの書簡。

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    5 ⽉ 12 ⽇、イサベルラからアマドーリ宛の返書。この頃、フランスのミラノ総督シャルル・ダンボワーズ(ショーモン伯)からミラノへ招聘を受ける。 5 ⽉ 30 ⽇、政庁から、ミラノへの三ヶ⽉間の賜暇を許可される。ただし違反のときは 150 デュカートの罰⾦という条件付き。 6⽉ 1 ⽇、フィレンツェ発。ミラノに到着後、アンブロージォ・デ・プレディスを指揮して「岩窟の聖⺟」の第 2 作を着⼿(現在ロンドン・ナショナル画廊収蔵)。 8 ⽉ 18 ⽇、シャルル・ダンボワーズからフィレンツェ政府に対し、レオナルドの賜暇の延⻑を要請する書簡。8 ⽉ 19 ⽇、副総督シャルル・ジォフレから、フィレンツェ政府へ同内容の書簡。 8 ⽉ 28 ⽇、フィレンツェ政庁からショーモンとシャルルに対し、レオナルドの賜暇延⻑を 9 ⽉いっぱいとし、違約の時は壁画に関して前払いされた⾦額を返却すること、という返信。 9 ⽉、⽉末、シャルルによるレオナルドの賜暇再延期に対しフィレンツェ政府の交渉。 10 ⽉ 9 ⽇、ピエロ、ソデリーニからシャルル・ダンボワーズに対し、レオナルドの⾏為を⾮難し、延期を拒否する書簡。12 ⽉ 16⽇、シャルル・ダンボワーズからフィレンツェ政府に対し、レオナルドのことに関する賞賛すべき処置、という感謝の書簡(結局、フィレンツェ政府が折れて再延期を承認)。

    1507 年 55歳 1 ⽉ 12 ⽇、ブロワ滞在中のフィレンツェ⼤使フランチェスコ・パンドルフィーニから、フィレンツェ政府、フランス王の希望として、王がミラノに到着するまでレオナルドを同地にとどめ置くよう⾔明された旨の書簡。 1 ⽉ 14 ⽇、ルイ 12世の直接フィレンツェ政府宛の同じ意向の親書。 1 ⽉ 22 ⽇、フィレンツェ政府からレオナルドに対し、王を満⾜させるよう勧告する書簡。5 ⽉ 24 ⽇、ルイ 12世のミラノ⼊城。 7 ⽉ 26⽇以前に、ルイ 12世により≪宮廷画家兼技術家≫に任命される。この⽇、ルイ 12世からフィレンツェ政府に対し、叔⽗の死去に伴う異⺟弟との間の、遺産相続をめぐる訴訟事件を、⽀障なくするかつ速やかに決着することを要請する書簡。 8 ⽉ 15 ⽇、シャルル・ダンボワーズからフィレンツェ政府に対し、前記の事件のためレオナルドが⼀時フィレンツェに帰郷することを告げる書簡。チェーザレ・ボルジア没。

    1508 年 56歳 この頃「トリヴルツィオ騎⾺像」のための習作。ミケランジェロ、シス

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    ティーナ礼拝堂天井画に着⼿。 1509 年 57歳 この年、ルカ・パチョーリの『神聖⽐例論』出版。 1510 年 58歳 この頃、解剖学者マルカントニオ・デルラ・トッレと親交。 1511 年 59歳 1 ⽉ 5 ⽇、アルプス旅⾏。ラファエルロ・ヴァティカン宮殿のスタンツ

    ァ・デルラ・セニャトゥーラの壁画を完成。 1512 年 60歳 メディチ家、フィレンツェ復帰。ミケランジェロ、ヴァティカン宮のシ

    スティーナ礼拝堂天井画を完成。マルカントニオ・デルラ・トッレ没 1513 年 61歳 10 ⽉ 10 ⽇、ローマへの途上フィレンツェに⽴ち寄り、ヌオーヴォ病

    院に 300 デュカートを預⾦。 1514 年 62歳 3 ⽉ 11 ⽇、ブラマンテ没 1515 年 63歳 1 ⽉ 1 ⽇、フランス王ルイ 12世没し、フランソワ 1世即位。

    7 ⽉ 12 ⽇、フランソワ 1世凱旋⼊城のために、機械仕掛けのライオンをリヨンに送る。 12 ⽉ 14 ⽇、ボローニャにおける教皇とフランス王との会⾒の場に出席。

    1516年 64歳 1 ⽉ 6⽇、フランソワ 1世、フランスへ帰還。 3 ⽉ 17 ⽇、ジュリアーノ・デ・メディチ、フィレンツェにて没。この年の冬、フランソワ 1世の招きを受けてフランスに出発。

    1517 年 65歳 10 ⽉ 10 ⽇、ルイジ・ダラゴーナ枢機卿の⼀⾏が欧州巡回の途次、アンボワーズのクルーにレオナルドを訪問。⼀⾏は膨⼤な量の⼿稿および絵画 3 点、即ち故公ジュリアーノ・デ・メディチの委嘱した実写により描かれたフィレンツェ⼥性の肖像(「モナ・リザ」か)、若い洗礼者ヨハネ、聖アンナの膝の上のマリアとキリストを⾒せられる。

    1519 年 67歳

    5 ⽉ 2 ⽇、レオナルド死去。 6⽉ 1 ⽇、メルツィからレオナルド異⺟弟ジュリアーノ・ダ・ヴィンチに宛てて、その訃報と遺産分配を告げる書簡。 8 ⽉ 12 ⽇、アンボワーズの聖フロンティウス教会において葬儀。

    参考⽂献(刊⾏年代順) 杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの⼿記 上』岩波書店,1954 杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの⼿記 下』岩波書店,1958 レオナルド・ダ・ヴィンチ『マドリッド⼿稿』岩波書店,1975 裾分⼀弘『レオナルド・ダ・ヴィンチー⼿稿による⾃伝―』中央公論美術出版,1983 チャールズ・ニコル『レオナルド・ダ・ヴィンチの⽣涯 ⾶翔する精神の軌跡』越川倫明訳,⽩⽔社,2009/1/20,p.68

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    ジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝 3 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ』森雅彦訳,⽩⽔社,2011/8/5,p.12 H・アンナ・スー(森⽥義之/⼩森もり⼦訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の素描と⼿稿』⻄村書店,2012 池上英洋『ルネサンス 天才の素顔 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ 三巨匠の⽣涯』美術出版社、2013/9/10,p.48 斎藤泰弘『レオナルド・ダ・ヴィンチ 絵画の書』岩波書店,2014 https://www.uffizi.it/en/the-uffizi ※図版・写真は著者撮影