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349
第七章
連署北条重時の政権運営
はじめに
宝治元年
一二四七
六月五日
三浦宝治合戦
が決着した
その公式報を入手した鎌倉幕府六波羅北方の
北条重時は
京洛を発ち帰鎌する
七月十七日に鎌倉に到着し
十日後の七月二十七日正式に所謂
連署
に就
任した
同日の
吾妻鏡
を見てみよう
廿七日戊寅
相州重時為将軍家別当連署
秋田城介義景伝仰於彼国司
即被申領状云
々
相模守北条重時に対し
秋田城介安達義景を使者として
将軍家別当連署
への就任を要請したところ即諒諾し
たというのである
かつて時頼をして
万事談合せしめんと欲す
註1
といわしめた重時の連署就任である
時頼政権
は成立していたのだが
この重時の連署就任によ
て
時頼・重時政権
として確立したと見てよ
いだろう
註
2
しかし
盤石の体制ができ上が
たとはいいがたい
宝治元年(
一二四七)
時点で時頼二十一歳
重時は五十歳で北条氏
長老格である
重時は
泰時の弟であり
時頼から見れば大叔父に当たり
六波羅北方
として十七年余の実績がある
時頼政権発足後
万事談合
せしめんとしたことは自然であ
たといえよう
し
かし
宝治合戦
を乗り切
た時頼に変化も生まれている
吾妻鏡
宝治元年六月十三日条
350
十三日甲午
左親衛
時頼
猶被候幕府
於此令聴断万事給
去三日所被始行之如意輪法結願之間
大納言
法印隆弁献巻数
仍左親衛仰信之余
染御自筆
被遣賀章云
今度合戦之間
関東平安
併御法験之所致也
云
々
略
時頼をして
万事聴断
せしむというのである
ブレインたる政僧隆弁の存在も大きい
註3
ことを自覚しつ
つも
この難局を乗り切
たのは自分達であるとの自信が芽ばえてきたといえよう
万事談合
から
万事聴断
への変化は
将軍家別当
両執権
の二人の関係にも影響を及ぼさないはずはない
また
万事聴断
と宣言
した時点で
重時はまだ鎌倉に帰任していなか
たことも確認しておく必要があろう
これまで
万事談合
から
万事聴断
への変化に着目した論考は管見にない
両者の関係を執権と連署とし
て
連署を補佐役と見る立場からは
執権が
万事聴断
することに何の不思議もないからであろう
近時
森幸夫氏
北条重時
註4
と高橋慎一朗氏
北条時頼
註5
という良質の評伝を得た
いずれも
近
の研究動向をふまえ平易に論述されている
森幸夫氏は
この時期
幕政の主導権は連署重時が握
ており
執
権時頼はナンバ
・ツ
の存在にすぎなか
た
若年の時頼が
何の憚りもなく思いのままに幕政を主導できた
とは考えにくい
時頼が一門の長老重時を連署に迎えたのは当然
であ
たとされた
註6
重時の評価について
は
論者のこれまでの重時
極楽寺
流に関する検討結果と大きく矛盾はしない
註7
しかし
時頼が
万事聴断
と宣言した直後から重時が政権運営を主導したとすれば
時頼と重時との間に微
妙な確執の萌芽の可能性があ
たのではないだろうか
それにしても
長老格の連署重時から見れば執権とはいえ時頼は育成の対象であ
た
この政権運営を主導
しているのは重時であ
た
重時が時頼を支え
補佐育成し
政権を安定へ導くこと
これが重時の当面目指す
ものであ
た
寛元・宝治合戦
を終えて
反北条勢力を一掃したかに見える
ところが
九条頼経は京洛に存命しており
351
その父九条道家も健在である
そして頼経の息男である頼嗣は
依然として鎌倉将軍家であ
た
現政権
重時・
時頼政権
から見れば
九条家とその勢力は排除されるべき存在であ
た
その方針は
寛元宝治の難局にスク
ラムを組んで乗り切
てきた北条政村や大仏朝直ら政権を支えてきた北条一門や北条氏外戚である安達氏等と一
致していたといえる
そして
これを主導するのは
京洛の政情に詳しい重時を置いて他になか
た
本章では
重時・時頼政権
としてのスタ
トから建長元年
一二四九
相模守連署北条重時が相模守を時頼
に譲り
陸奥守に遷任した事情を中心に
その政治的な意義について考えてみたい
第一節
北条重時の連署就任とその政権運営
一
将軍家御後見
就任と御意見
宝治合戦終結後
重時が鎌倉に戻
てくる前に新体制がスタ
トする
まずは
この間の動きを確認しておき
たい
万事聴断
の宣言が
六月十三日
その後残党
余党狩りも一段落すると論功行賞のために討死等の交名が
整理され
六月二十二日首脳会議で披露確認が行われた
廿二日癸夘
去五日合戦亡帥以下交名
為宗分日来注之
今日
於御寄合座及披露云
々
略
この翌日
合戦勲功賞が行われた
そして
六月二十六日に新体制が発足した
廿六日丁未
今日
内々有御寄合事
公家御事
殊可被奉尊敬之由
有其沙汰云
々
左親衛
時頼
前右馬
権頭(
政村)
陸奥掃部助(
実時)
秋田城介(
安達義景)
等参給
諏方兵衛入道(
蓮仏
盛重)
為奉行
352
二回にわたる秘密首脳会議
御寄合
によ
て政策が練り上げられていると考えられよう
寄合
は
得宗
専制政治を推進するのに重要な役割を果たしたと考えられている
註8
この寄合によ
て新体制の中核や方針が
決定された
評定着座の次第もその一環であろう
註9
着座次第
一方 左
親衛
時頼
武蔵守
大仏朝直
甲斐前司
長井大江泰秀
下野前司
宇都宮泰綱
信濃民部
大夫入道
行然
二階堂行盛
清左衛門尉
清原満定
一方 前
右馬権頭
政村
相模三郎入道
真昭
北条資時
出羽前司
行然
二階堂行義
秋田城介
安
達義景
大田民部大夫
泰連
評定衆十一名と寄合参加者とを見れば
重時帰任以前における時頼政権は
時頼と政村とが主導し
時房流の
武蔵守大仏朝直や北条資時等が支えているのである
註
10
評定着座の次第以外にも
新体制づくりが進められていく
六月二十七日同日
隆弁を鶴岡八幡宮別当に補任
する
七月一日には
御所の番帳を改編し
七月七日には時頼が評定衆や公事奉行人を招いて祝勝会的酒宴が催
された
そして七月十七日を迎える
十七日戊辰
相州
重時
自六波羅参着去三日
出京
以故入道武州経時小町上旧宅御所北面若
宮大路也
為居所
是前武州禅室
泰
時
跡也
武州経時被相伝之処
去寛元二年十二月焼亡
然而如元新造
於此第被取終之後
于今無其主云
云
北条重時は
帰鎌するや泰時・経時という歴代執権邸である小町上亭に入
たのである
註
11
これは
重時こ
そが泰時
経時の真の後継者であることを表明しているといえよう
両執権は
のちに両国司ともいわれるが
353
通常それは武蔵守と相模守のことである
泰時や経時は武蔵守であ
たし
該時点での相模守は他でもない重時
である
居所の決定は現政権の
重鎮
政治的実力の第一位は重時であることを示したといえよう
そして冒頭
確認したように
十日後の七月二十七日
将軍家別当
所謂
連署
に就任したのである
重時が帰鎌後
第一に行
たのが京洛治安の確保であ
た
そのために六波羅北方の後任に嫡子長時を据える
ことであ
た
七月十八日
十九日条を見てみよう
十八日己巳
六波羅成敗事
以相模左近大夫将監長時所被任也
於可祇候于彼第人々者
兼日被仰定訖云
々
十九日庚午
反逆輩縁者幷所従等事
為甲乙人
寄事於左右
成煩之条
甚不可然
早不可有其儀旨
可被
加下知
於不承引人者
可被注申之由
今日被仰六波羅云
々
七月十八日に
長時の就任が決定した
これは父重時にと
ては
自身の連署就任提案前後からの既定路線で
あ
た
また長時を支えるスタ
フの陣容についても重時自身の手によ
て進められていたのである
註
12
現存
する
古の武家家訓ともいわれる
重時家訓
のうち
六波羅殿御家訓
は長時を
重点の読者
育成対象者
として編まれたのであ
た
註
13
翌十九日
任地六波羅への路地途上にある長時へ訓令第一号が発せられたのである
註
14
承引せざる者につい
ては
交名を
注申
さるべしということは
新任六波羅の差配にすべてを任せるのではなく
鎌倉が六波羅を
し
かりサポ
トするという宣言でもあるといえよう
この後のサポ
トや指令については稿を改めて検討した
い
重時にと
ては
待ちに待
た出番である
政権運営に責任感を感じ
鎌倉政権の全てを自分自身で背負おう
とすることも自然なことであ
たろう
時に時頼等若手が決定していたことに対しても修正を迫ることがあ
た
重時の
連署
就任直前の七月二十四日条を見てみよう
廿四日乙亥
可被移御所於他地之由
有其沙汰
来十月十四日
可始土木営之趣
為被催仰諸御家人
今日
354
所被成彼奉書也
筑前々司
二階堂
行泰
大曽祢左衛門尉長泰等為奉行之
御所移転案である
この工事開始日の決定は
重時の
将軍家別当連署
就任の三日前のことであ
た
しか
し
土木工事開始予定日である十月十四日の
吾妻鏡
は次の通りである
十四日癸巳
可被移御所於他方否事
日来有其沙汰
遂不可改之由治定
即今日被仰出其趣
是嘉禎二年
一
二三六
武州前吏禅室
泰時
殊撰其地
被新造当幕府之後
移数年凉燠訖
今更可被用何勝地哉之由
有職之人傾申之故也云
々
結局
御所移転案は
有職之人
の意見によ
て撤回させられたのであ
た
この
有職之人
こそは
重時
と考えられよう
重時の執権連署就任前の
つまり彼自身が参加しない評定での決定を
連署就任後の評定で覆
したのである
しかも執権として後世範ともされた泰時の事蹟を高く評価しつつの中止案であ
た
それでもこ
の議案は
日来有其沙汰
とある通り
一回の評定で覆るほどの軽い案件ではなか
た
土木工事開始目前での
中止は影響も大きいに違いない
おそらくは
この中止とも関係するのであろう
二つの大工事が着工されている
時頼邸と重時邸の工事であ
る
ともに寛元二年
一二四四
十二月二十六日の火災で焼失
新造されていたもので寛元三年
一二四五
六
月二十七日にそれぞれ移徙の儀が行われていた
まだわずかに二年を経過したのみであ
た
八月九日条では
時頼邸について居所の修理のため時頼は桧皮寝殿
註
15
へ移住と記されている
その次の時
頼邸の記事は
十月十八日条である
十八日丁酉
今日
左親衛
時頼
寝殿被曳移傍地
大略新造云
々
曳家することは
敷地内の建物配置変更であり
新増築等が行われたのであろう
いずれにしても
大略新造
とな
たのであ
た
さらに三日後十月二十一日には
左親衛御第上棟
とある
一方
重時邸については
途
中経過は不明であるものの移徙の記事が見える
十一月十四日条である
355
十四日癸亥
相州
重時
新造花亭有移徙之儀
評定所幷訴訟人等着座屋
東小侍等
今度始所造加也
両首脳の屋敷は
ほとんど新造といえるほどの大工事であり
桧皮葺に見るように他の一般御家人とは隔絶し
た存在であることを表明している
御所移転案との関係でいえば
御所移転用材・大工や役夫等の流用・有効活用の側面もあるだろう
御所移転
推進派への多少の配慮にはなるのかもしれない
経済的負担の大きさをも考慮すれば
何よりも時頼自身を巻き
込んでいることに効果があるかもしれない
両首脳邸の工事は
二人が別格であることの表明であるとともに
重時の政権運営主導への強い決意を見て取
ることができよう
何とい
ても重時邸郭内に
評定所
等々を取り込んで新造しているのである
迅速な評定
裁許が求められている
大きな政策課題については重時自身が前面に出て対応する覚悟表明ともいえる
御所は
重時邸の南に隣接している
北隣は鶴岡八幡宮である
幕府の公式行事や宗教行事
幕政機能として御家人達の
関心が高い評定・裁許等々幕府政治中核は
執権連署重時邸とその近辺で行われるということである
御所移転
案など到底認められるものではなか
たのである
東小侍
を重時邸敷地内に新造していることにも注目しておきたい
初代小侍別当は重時であ
た
小侍は
各種結番や供奉人編成等を担当しており
各氏族の内部事情や前例等々
御家人情報を総合的に幅広く掌握して
いると考えられる
またこの時の別当が若手ではあるものの経験実績が豊かで
参謀的役割も期待できる金沢実
時である
有事の際は
武者溜りとしても機能し
重時邸や御所の守備にも有効なのである
時頼と重時の二人は別格だと強調する試みは
その邸宅の工事だけではない
宝治元年
一二四七
八月一日
条
一日辛巳
恒例贈物事可停止之由
被触諸人
令進将軍家
頼嗣
之条
猶両御後見之外者
禁制云
々
恒例である八朔の進物を止めるよう
特に将軍家への贈物は
両御後見
時頼・重時
二人だけの特権だと
356
いうのである
重時の
御後見
就任から三日後に出された禁制であ
た
重時の帰鎌から半年
評定着座の次第の手直しが行われる
宝治二年
一二四八
正月七日条である
七日丙辰
於広御出居
始被定評定衆老若着座次第
老座 相
州
重時
相模三郎入道
資時
摂津前司
中原師員
伊賀式部入道
法名光西
光宗
信濃
民部大夫入道
法名行然
行盛
大田民部大夫
康連
清左衛門尉
清原満定
若座 左
親衛
時頼
前右馬権頭
政村
武蔵守
大仏朝直
尾張前司
名越時章
甲斐前司
大江長
井泰秀
秋田城介
安達義景
出羽前司
二階堂行義
下野前司
宇都宮泰綱
矢野外記大夫
三
善矢野倫重
以上依仰所定如斯
但城介与出羽前司者
一日者上
一日者下
各相替可着座者
評定の着座について
老若という年齢で分けることとしたのである
老座の筆頭に重時
五十一歳
を
若座
筆頭が時頼
二十二歳
である
五十歳を区切りとして老座としたようである
これは
重時が老座の筆頭とな
るように設定された基準といえよう
半年を経過し
新年を迎えての変更であるから
先の決定を頭ごなしに否
定したものではないとはいえ
変えるべきは変えるという重時の意志を読み取れよう
時頼政権発足以来
も近くで時頼を支えてきた北条政村はどうか
北条政村
註
16
は重時の弟であり
宝治
合戦にあ
ては重時と連携を取りつつ現場鎌倉で指揮にあた
たのである
時頼からも重時からも信頼を寄せら
れている
慎重で自らの分を弁えている政村だけに重時の方針に表立
て異を説えるとは思われない
しかし重
時帰鎌直前に帰鎌後を見据えて
自らも一方の首座とした評定着座次第を覆されたことに不満は芽生えなか
た
のだろうか
政村の意向や意思については
吾妻鏡
の所見が宝治元年に三回
翌二年は正月に三回のみであり
357
把握が難しい
これまでのように京・鎌倉という遠隔地なら
合意は目標や方針など大筋のみとなりやすく
その場その場で
の状況に応じた対応は現場に任せることになるだろう
しかし同じ鎌倉の閣内となれば
具体策や手順とい
た
細部にわたることも議題となり
意見の相違も目立つということになりはしないだろうか
いずれにしても帰鎌した重時は
政権
重鎮として京・鎌を見据え自ら強い責任感と自負をも
て政権に加わ
り
時に強引とも思われる形でも自己の意見を貫徹させようとしているのである
二
執権時頼の教育係
重時と時頼との関係をもう少し見てみよう
年齢だけでいえることではないが
宝治元年段階で五十歳の重時
から見れば
二十一歳の時頼はまだまだ未熟であり育成対象者である
自身の後任として六波羅北方に赴任させ
た長時が十八歳である
赴任後には直接の指導はできないので
書き留められることは教科書として書き与えた
ものが
六波羅殿御家訓
であ
た
また支えるべきスタ
フについても自ら人選を行い
体制を整えてきた
重時の指導育成者としての姿がそこにあるといえる
振り返
て時頼を見れば
嫡男長時とさほど年齢も違わな
い
これまでは重時が直接手ほどきをすることができなか
た
着任早々の気負いも感じさせる重時が
育成を
開始せずにいられようはずはない
重時の育成対象は執権時頼だけではなか
た
将軍頼嗣もわずか九歳であり
指導育成が必要だ
た
一方
時頼からすれば
万事聴断
と自身を評価しているのである
たしかに執権就任直後とは格段の成長を
遂げていることであろう
その時頼から見て帰鎌後の重時の行動はどのように映
たのだろうか
さすが実力者
と評価できたのか
それとも口うるさい年長者と思
たのだろうか
自分を一人前と考えていれば
その自分達
358
が決定してきたことを覆すことは容認しがたいのではあるまいか
しかも二人は
ほとんど初対面とい
てもよいほどの関係だ
たのである
重時の六波羅北方就任は
寛喜二
年
一二三〇
である
註
17
以後宝治元年
一二四七
まで足掛け十八年にわた
て探題の職にあ
た
その間
北条時房の死没した仁治元年
一二四〇
と北条泰時の死没した仁治三年
一二四二
の二回鎌倉に戻
たこと
が知られる
しかもいずれも短時日の滞在で六波羅に戻
ている
重時が六波羅北方に着任した時に時頼はわず
かに四歳
重時の人となりや政治的実力など直接には知ることもなか
た
時頼の執権就任後の
万事談合
せ
んということも今回の重時帰鎌案も
時頼ではなく
政村と兄重時とが緊密な連絡をとりながら
その政権構想
を描いたのであり
重時と時頼は今回ほぼ初対面と考えるべきなのである
お互い知らなければ不満や行き違いが起こ
ても不思議はない
年長の重時からすれば若手の心をほぐすこと
にも配慮が必要だ
たはずである
もちろん
吾妻鏡
等は
その逐一を語りはしない
宝治元年
一二四七
十二月一日条は
重時側の配慮の一端を垣間見せているのかもしれない
一日庚辰
相州
重時
左親衛
時頼
等会合
及万事遊興云
々
若干の反発があ
たとしても
重時にと
て時頼は
一人前に育て上げるべき将来有望な政治家であ
た
北
条氏一門にと
ては
玉
的存在ともいえる
重時はその後ろ盾となり
自らの掌中で育て上げようと企図した
のであろう
その一つが
重時女を時頼正室にしようというのである
時頼邸の新築工事もその脈絡の中で捉えられると考
えている
重時女の嫁入りについては
確かな史料がない
しかしその所生である時宗の誕生が建長三年
一二五一
五
月十五日なので
重時の帰鎌後日程に上
てくることは不思議でない
宝治二年
一二四八
五月二十八日には
時頼の第一子にして
庶子となる時輔が誕生しており
遅くてもこの前後までに嫁入りの準備が開始されると考
359
えることは可能であろう
さて
鎌倉政権を主導する上層部の武家政治家にと
て必要な能力として
武術の技量の高さはいうまでもな
いことである
幕初にあ
ては武家棟梁として武芸の実力を抜きに
弓馬の道
を説くことはできなか
た
宝
治合戦でも力量は必要であ
た
しかしこの時期になると
将軍にも京洛の公家の息男を迎えており
六波羅等
を通じて京洛外交とも呼び得るような関係も深ま
てきた
京洛の政治家達の素養の一つとされる
和歌
註
18
や
蹴鞠の道
について
鎌倉の武家政治家にと
ても必要な能力とな
ていた
吾妻鏡
の宝治年間の和歌関係記事から見てみよう
宝治元年九月九日条
九日己未
依仰諸人献菊
各所副一首和歌也
悉被植幕府北面小庭云
々
重陽の節句にちなみ菊に和歌一首を副えて献ぜよという仰せであ
た
次は
翌年の五月五日
端午の節句の
記事である
五日壬子
鶴岡神事如例
武蔵守朝直朝臣為奉幣御使参宮云
々
今日
於幕府有和歌御会
左親衛
時頼
参
給云
々
幕府での和歌会の開催記事である
わざわざ時頼の参加を記していることをどう考えればよいのだろうか
日
頃は不参加がちであ
た時頼が参加したということなのか
左親衛以下例の如く参じ給うとすべきところを編纂
や伝本の過程等によ
て欠落があ
たのか
いずれにしても和歌会は
複数の参加があ
て開催されるのであり
開催場所が幕府であるとすれば
後世歌人としても知られる重時
政村等が不参加とは思われない
とすれば
重時あるいは政村の催促によ
て時頼も参加したと想定することも許されるかもしれない
次は宝治二年九月二十九日である
廿九日癸酉
於御所有詩歌御会
註
19
被惜九月盡云
々
九月盡
による題詠であ
た
註
20
360
続いて蹴鞠について見てみたい
いずれも宝治二年
一二四八
の記事である
まずは九月九日
九日癸丑
鶴岡八幡宮寺神事如例
尾張前司
名越
時章朝臣束帯
勤奉幣御使云
々
今日
難波少将宗教朝臣
献大鞠二一燻
一白
幷韈一足各付松枝
納
長
櫃
於
左親衛
時頼
是当時依令賞翫鞠給也
時頼へ難波宗教から蹴鞠用の鞠二つと韈
蹴鞠用ソ
クス
が献上されたのであ
た
時頼が蹴鞠に興味を持
ち
嗜み始めていたからであろう
難波流は鞠の家として知られており
難波宗教は
吾妻鏡
に初見である
蹴鞠とともに和歌の家としても知られる飛鳥井流の雅経は叔父にあたる
註
21
九月二十六日には
鶴岡別当とな
た隆弁の雪ノ下の本坊で
鞠会
が開かれた
隆弁は
時頼にと
ても重
時にと
ても重要なブレインである
十月六日も隆弁の雪ノ下本坊でのことである
六日己夘
将軍家
頼嗣
俄入御于鶴岡別当法印雪下坊
被用女房輿
武藤左衛門尉景頼持御剣
相模右近
大夫将監
北条時定
時房六男
武蔵守
大仏朝直
尾張前司
名越時章
少輔左近大夫
大江佐房
上野大蔵権少輔
結城朝広
以下十余輩候御共
又難波少将等追参上
有御鞠会云
々
秉燭之程還御
取松明
云
云
俄入御
ということは
本来の予定にはなく急拠の雪ノ下坊訪問ということになる
重時から見れば
将軍
頼嗣
宝治二年
十歳
も育成対象者である
いや
将軍御後見の重時・時頼にと
て頼嗣は育成対象者なので
ある
そして
鶴岡別当隆弁は講師陣の一人としても機能していると考えられよう
急拠の訪問により
鞠会
も急拠設定され難波少将宗教等も駆け付けたということになる
興が乗
たので
あろう
松明を使用しての還御であ
た
十一月十三日条
十三日丙辰
左親衛
時頼
招請難波少将
宗教
令対面給
蹴鞠事
可為門弟之由
及御約諾云
々
九月に鞠の師として着任した難波宗教が挨拶を兼ねて時頼へボ
ルとソ
クスを贈呈して二
月が経過した
361
この間に蹴鞠の道への興味をかき立てたのは
十歳の将軍頼嗣だけではなく
二十二歳の若人である執権時頼も
またその一人だ
たのだろう
正式に宗教の門弟になりたいと表明したのだ
た
そして
十一月十六日
十六日己未
難波少将香狩衣
持参一巻書鞠秘
書
於左親衛御方
依有御所望也
親衛浅黄
直垂
令相逢給
覧彼書
羽林読
申
未及半巻之時
親衛起座
自収金作剣
長伏輪
納錦袋
令授羽林給
羽林跪賜之
一拝退出
々于廊
与共青侍云
々
宗教は時頼の要請に応じて蹴鞠の秘伝書を持参し
それをもとに講義をしたのであ
た
未だ半巻に及ばざ
る時
を感激の余りと読むか
その反対と考えるか
どう評価するか難しいが
ともかく返礼として剣を時頼手
づから与えたのだ
た
鞠の師として難波宗教が京洛から鎌倉へ招かれるについて重時の関与が想定されてもよいだろうと思う
もち
ろん指導者招聘について時頼自身の発意の可能性は否定できないだろう
しかし
京洛からの指導者招聘である
ことを考慮すれば
六波羅北方として十七年にわたる在京経験を持ち
この時点での鎌倉政界の
重鎮ともいえ
る重時の諒諾なしに進めることはできまい
その意味においてどのような関与であるか不明ではあるが
重時の
関与は想定できるだろう
重時自身が
教授陣など教育環境を整えていくことも自らの使命に含むと考えていた
としても不思議はないであろう
育成は一
二年で完了することではない
建長二年
一二五〇
五月二十日及び同二十七日条を見ておきたい
廿日乙酉
将軍家有帝範御談義云
々
相州
時頼
令参給
清原
教隆真人候之云
々
廿七日壬辰
相州令浄真書写貞観政要一部
今日被進将軍家云
々
水精軸
羅表紙
所納蒔絵箱鶴丸
也
小野
沢次郎時仲為御使持参之
和泉前司行方為申次云
々
前段は
将軍頼嗣の帝王教育の一環である
帝範ゼミナ
ル
を時頼も陪聴したということであろう
実時の
師として知られている清原教隆が将軍教育にも携わ
ている
その席に同席することは
執権として将軍の育成
担当役を担
ているということでもあるが
時頼も育成されている面を忘れるわけにはいかない
362
貞観政要
も為政者が学ぶべきテキストである
時頼から頼嗣への豪華新写本の贈呈は頼嗣育成の次のテキ
ストの提示であり
時頼自身はそれを学び終えている証といえるかもしれない
現任の執権を直接に指導することは
重時にと
ても易しいことではない
それは嫡男長時の育成とはかなり
異なることであ
たはずである
優秀な指導者を鎌倉に招くことなどは教育条件の整備として指向されたと考え
られるし
現役の政治家として当該期の政治課題に立ち向かいながら
つまり実践の中で育成が目指されたと考
えられる
三
公正な訴訟処理とその迅速化
宝治合戦は鎌倉市中で激闘を展開した
乱は都市鎌倉を舞台にしたのである
執権連署に重時を迎えた新政権
は
三浦氏の与党残党狩り等を通じて治安回復を図り
都市鎌倉の機能回復
さらには充実発展を企図する
吾
妻鏡
宝治元年
一二四七
八月二十日条
廿日庚子
仰鎌倉中保々
註浪人
可追放之由
有其沙汰云
々
鎌倉の保々奉行人に対して
浪人を追放せよという指令である
治安回復と維持にと
て重要である
註
22
都市機能の回復・充実発展という観点からは商業取引を安心してできるようにすることなども大切になる
宝
治二年四月二十九日条である
廿九日丙午
鎌倉中商人等
可定其式数之由
有其沙汰
外記大夫倫長奉行之云
々
鎌倉中の商人の上限数を規定せよということである
これについては
すでに建保三年
一二一五
七月十九日
に
町人以下鎌倉中諸商人
可定員数
としていた
町人とは店持ちの商人のことで
商人
とは行商人のこと
であるといい
商人は町人より把握しにくく
その行動はとかく社会不安の種になるという
註
23
鎌倉市中の商
363
業活動を鑑札制度的な規制をかけて管理することで治安維持に役立てる側面もあろう
さて
都市鎌倉の秩序ある発展に心する重時等であ
たが
それ以上に急務だ
たのは訴訟の迅速処理ではな
か
たろうか
御家人にと
て所領等をめぐる相論による訴訟や地頭得分に関する訴訟等々紛争処理は
大の関
心事ともいえる
その裁決は公正迅速で納得のいくものでなければならなか
た
開幕以来年月が経過し
世代
交代も進んでいる
所領相続に関する訴訟件数も自然増加することになるはずである
また
時頼が執権に就任
してから宝治合戦終了までに処理が加速された様子は窺えない
伝領等が複雑になれば
それに伴
て審査すべ
き証拠書類の量も増え
慎重な審査を心がければ一件当りの処理日数も増加せざるを得ない
このままでは
訴
訟処理の迅速化は望むべくもない
しかし問題はもう先送りするわけにはいかなか
た
宝治元年
一二四七
十二月十二日大きな決断が行われた
同日条を見てみよう
十二日辛夘
有評定
以其次
就諸国地頭所務
有被定法事
所謂縦押領以後雖過廿箇年
不可依年紀
本
地頭者任先例
新地頭者守率法
可致沙汰之由云
々
今日
被定訴論人参候之所
其状云
一訴訟人座籍事
侍客人座奉行人召外不可参後座
郎等広庇召外不可参南広庇
但陸奥沙汰之時者
随召
可
参
郡
郷
沙
汰
人
者
依
時
儀
可
参
小
縁
雑人大庭不応召外
相模武蔵雑人等不可参入南坪
右差定奉行人
召問両方之後
一方致難渋送日数
自対決之日
過廿箇日者
不顧理非
任訴人申状
可
有御成敗者
宝治元年十二月十二日
便宜上
前後段を改行して掲出した
註
24
多くのことを含んでいるが
対決の日より二十箇日を過ぎれば
理非を顧みず訴人の申状に任せて御成敗
するということを第一に取り上げたい
対決の日から二十日を経過す
364
れば決裁するという宣言である
迅速処理のために期限を設定し
広報したということになろう
しかし日限を決めたところで
担当者が事務処理迅速化に努めなければ実現は難しい
宝治二年
一二四八
二月十八日条には次のような記事がある
十八日丙申
問注記事
相模三郎入道真昭
資時
勘者方条々遅怠
殊被咎仰
有陳申旨等云
々
訴人と論人という訴訟の両当事者
原告・被告
の主張を記録したものが問注記であるから
その作成が滞
ていたのでは判決確定にも影響が出てしまう
しかもその遅怠が
相模三郎入道真昭担当分だという
法名真昭とは
時房息男の資時である
註
25
この年の
評定着座次第では
老座の次席であり
五十歳である
政村とともに時頼単独執権期の支えとして期待されてき
たはずの人物であ
た
事務処理能力が低いのであれば
そもそもすでに出家していた資時を嘉禎三年
一二三
七
四月段階で評定衆という重職に任命するであろうか
しかも実質的に北条氏としてははじめての評定衆であ
る
註
26
はたまた
翌建長元年
一二四九
の引付制度を創設した折に三番引付頭人とするであろうか
資時で
さえも叱責されたという引き締め効果を企図したとみるのがよいのではないか
重時の狙いを諒解しているから
こそその役割を担わされたとみることが妥当なのかもしれない
註
27
宝治二年
一二四八
十一月二十三日条では
廿三日丙寅
問注奉行人等
閣雑務稽古
酒宴放遊為事
不面謁訴人
不見究證文理非之間
臨評定座之時
預下問事等
所答申頗令停滞
於如然輩者
不可召仕之由
普可相触之趣
今日被仰付大田民部大夫
康連
信濃民部大夫入道行然等云
々
と
問注奉行人達の職務怠慢ぶりのひどさが指摘されている
職務を閣いて
酒宴放遊
し
訴人に面謁もせず
証文の審査もしないというのである
職務怠慢というより放棄というべき状況である
評定所を自邸郭内に設定
し
評定の改革を自ら先頭に立
て押し進めようという重時が許すはずはないのであ
た
評定の座に案件が提
365
出された際
奉行人に下問しても適切な回答が得られない
そのような者は召仕うなというのである
重時自身
が下問し体感した折の強い憤懣が表出したのであろう
問注記作成など文書作成の遅延を厳しく指摘し
対決の日から二十日と期限を切り
訴訟処理の迅速化を目指
す重時と
実際には綱紀粛正が思うように進まないことへの苛立ちを見せる重時の姿が見えてこよう
評定衆を筆頭に
幕府役人に対して職務怠慢を叱責し
サボタ
ジ
を防止しようとするだけではなく
迅速
化のために裁許ル
ルを訴論人も守るよう要求する
すでに史料引用をした宝治元年
一二四七
十二月十二日条である
奉行人が訴人・論人両者を召問しても
一方論人が難渋を申して裁決が延びるようなことがあれば理非を顧みず
訴人の勝訴とするというのである
こ
れまで
理非
に沿
て裁決することを宗としてきたはずであ
たが
何としても処理の完了を優先するという
決意の表明であ
た
宝治二年五月二十日条でも
以下の通りである
廿日丁夘
就雑務等事
有被定下之篇目
雑人訴訟事
雖下度々奉書
論人不叙用
自今以後
召文三
度
之後者
今度令違背者
可有後悔之由
差日数
以国雑色
可被下遣召文也
此上或捧自由陳情
令違期者
任訴状
可有成敗者
略
論人が出頭命令に従わないことが多いのであろう
召文を三度発信し
しかも
後の召文には日限をも記させ
るようにする
それでも違期するようなら
訴人の勝訴にするという
これは
御成敗式目
三十五条の再確認
ともいえる内容である
註
28
裁許システムを知らしめて
遅延行為を許さないことを貫くことで訴訟の迅速化を
狙うのであ
た
統計資料が残
ているわけではないが
諸国守護地頭所務
に関わる件は
大きな比重を占めているように
思われる
宝治元年
一二四七
十一月二十七日条
六波羅の長時宛の関東御教書である
その本文に
諸国守
護地頭等
遂内検
責取過分所当之間
難令安堵土民百姓事
就国司領家目録
可致沙汰之由
可相触守護地頭
366
之条
依仰執達如件
とある
守護や地頭
つまりは鎌倉御家人達が実力行使で内検を実施し
先例以上の収奪
をしているというのである
国司領家の目録通りの沙汰とせよという
このような状況を容認させてきたのは
年紀法である
由緒の有無や正当性を問わず
実力による実効支配を二十年にわた
て継続すれば
幕府権力が
追認してお墨付きを発給するのである
註
29
多くの御家人がこのことを楯に実力行使に及んでいるのであ
た
そこで宝治元年十二月十二日条なのである
たとえ押領以後
廿箇年を過ぐといえども
年紀に依るべからず
である
そして
本地頭は先例に任せて
新地頭は率法を守
て沙汰せよ
という
年紀法を失効とし
新儀の非法を禁止する
先例を守り
新補地頭についても率法を守り
法外な事をするな
という
もちろん
これらも
御成敗式目
の条文や制定方針の中に含まれている
知らないはずはないが
現
代とは事情が異なる
年紀法の失効と新儀非法の禁止は
再三にわた
て告知されていく
これにより訴訟件数
が減少することを期待しているはずである
宝治二年
一二四八
十一月二十九日では
宝治合戦の勲功賞について
言及がある
拝領の所々の新地頭は
本所領家への納貢を早々に済ませるとともに
臨時役
など宛課さず
先例を守り
新儀非法
を停止せよとい
う
同年十二月十二日では
国司領家検注帳
に任せて
濫行
に及ぶべからずという
このスタンスは寺社
領についても同様で
同十二月二十日条に
地頭の新儀を停止し
厳密の沙汰を致すべし
とある
事情は西国にあ
ても基本的には同様であ
た
したが
て
これら基本方針や具体例については六波羅へも
伝えられていたと考えられる
もちろん六波羅への指示が主体の事例もある
宝治二年閏十二月十八日条を確認
しておく
十八日辛酉
西国地頭等
寄事於左右
追放譜代書生田所職人之由
所々訴出来間
有其沙汰
相尋子細
慥可停止件濫吹
若不叙用者
可注進其交名之旨
今日被仰六波羅
明石左近将監
兼綱
奉行之
西国では地頭等がいろいろと難くせをつけて譜代の人々を追い出し
その訴えが六波羅に舞い込んでくる例が
367
一件や二件ではないのである
それであるから何より
濫吹
を止めさせたいのである
罰則の強化も犯罪の抑
止に期待されているようである
註
30
相論の対象は主従関係の中にも発生する
主従関係が崩れることは
鎌倉政権の根幹たる御家人制の崩壊につ
ながることであり
それを支える惣庶関係にも影響が大きい
理非を論ぜず
沙汰に及ぶべからず
と門前払い
を宣言する
註
31
これも徹底すれば
訴訟件数減少を実現できると考えられたのであろう
これら一連の対応は
御成敗式目
制定に始まる基本ル
ルの再確認と武力を背景とする新儀非法の禁止で
ある
これらの実現性は結局のところ御家人の倫理観に俟たなければならないだろう
しかし重時をはじめとす
る幕府首脳の強い意志を示したといえる
意志の表明という意味ではその効果があ
たのかもしれない
宝治二年
一二四八
閏十二月十六日条
十六日己未
諸人訴論事
於申沙汰条数多々之奉行人者
可有御恩之由
今日被触仰之云
々
問注奉行人の内で処理件数の多い者には特別賞与を出すのである
成績率の導入で効率を上げようというので
あ
た
御家人制や惣領制を維持するために
訴訟当事者双方が納得づくで進むことができるよう裁許されなければな
らない
親族・一族内の相論では一層の注意が払われるべきである
宝治二年五月十六日条では
兄弟相論に父母が証人たり得るかどうかが問題とな
ている
十六日癸亥
兄弟相論之時
以父母立申証人事
天野和泉前司
政景
子息兄弟等相論之時
以母堂雖立申
証人
自今以後
不可被許容之由
今日及評定云
々
今後は認められないということにな
た
また
同年六月五日には
人拘引
について言及がある
五日辛巳
人勾引事
有其沙汰
兄弟者不可為人勾引之儀
以他人可為人勾引也
其科准盗犯云
々
人拘引とは
誘拐のことである
兄弟については人拘引として扱わず
他人の場合に人拘引とする
兄弟間にあ
368
ては
嫡子の監督支配権を強調しようというのであろうか
あるいは
親族間トラブルには深入りしない配慮
なのだろうか
いずれにしても
親族間でのトラブルは
他人間とはやや異なるル
ルを立て
現状により合致
するような指向が働いているといえるのだろう
一族間の具体的な事例を見てみよう
宝治二年六月二十一日条である
廿一日丁酉
佐々木次郎兵衛尉実秀法師法名
寂然
捧欵状
申可浴恩沢之由
是祖父三郎兵衛尉盛綱入道
兄弟四
人相共自右大将家
頼朝
義兵
初
為御方軍士
専一依励数度勲功
雖有連々恩賞
亡父太郎信実之時
或就相論
或自然被召放之
於今者其計略訖云
々
数枚続之
戴累家子細云
々
幕初からの有力御家人である佐々木氏の問題である
佐々木実秀が生活困窮を理由として恩賞を求める訴えを
提出してきたのである
祖父佐々木盛綱及びその兄弟の勲功に関して恩賞もまた連々であ
た
父信実の代の勲
功について
かつて信実自身本領の返給を願い出たが当給人との関係があ
て実現していなか
た
註
32
実秀と
しては
その実現を願
たのだろう
だが
当給人との関係もあろうし
幕府としても軽々な判断はできない
無足の御家人が増加したのでは
御家人役を負担させることができない
上記の件との関係はは
きりしないが
佐々木氏では半年後の宝治二年閏十二月二十六日条に次のような記事
が見える
廿六日己巳
佐々木法橋孫子等
有相論事
与鴆毒於兄
欲令殺其身之由云
々
可糾明之由
所被仰六波羅也
兄を毒殺しようとしたという
これもまた軽々な判断は危険である
そこで六波羅に捜査を命じたのであ
た
当事者の納得づくでなければ
結局再審申請が提起されてしまい訴訟件数は減らない
ジレンマをかかえなが
ら日々の訴えに向い合
ているのである
次に御家人間のトラブル事例を見てみよう
宝治元年十一月十六日条
略
今日
三浦五郎左衛門尉盛時捧状有訴申事
其旨趣雖多之
詮句如昨日随兵風記者
以盛時被書戴于
369
出雲前司
波多野
義重之下訖
当家代々未含超越遺恨之処
匪啻被書番于一眼之仁
剰又被註其名下
旁
失面目之間
可止供奉儀之由云
々
略
三浦佐原盛時による供奉人交名記載順に関するクレ
ムである
この盛時こそは
宝治合戦にあ
て三浦一族
の内で
も早く時頼方として行動し
佐原の兄弟が皆
三浦の本宗と袂を分か
たことが勝利を決定づけたので
あ
た
註
33
その盛時の訴えである
当然
出雲前司波多野義重からの反論があ
た
同日条の続きを見てみよ
う
出雲前司義重聞此事
殊憤申云
於累家規模者
誰比肩哉
至一眼事者
承久兵乱之時
抽抜群軍忠被疵
施名誉於都鄙之上
還面目之疵也
今更叵覃盛時横難云
々
為陸奥掃部助実時奉行
相州
重時
幷左親衛等
凝評定
被宥両方
但為五位之間
猶以義重所被注上也
略
義重の主張は二点あ
た
まずは家柄である
三浦氏は三浦半島を中心に勢力を持
ている
波多野氏は西相
模を本貫に勢力を持
ており
どの家にひけを取るものではない
次に
目の疵については
承久の乱での抜群
の軍忠であり
名誉
であるというのであ
た
供奉人交名のことなので小侍別当の実時が奉行となり
両執権が直々に評議したのであ
た
どちらも重要な
御家人であるから
吾妻鏡
は
被宥両方
と記載し
五位である義重を上位に記したままでよいとした
交名では
先例や家格等も重々吟味して作成されており
クレ
ムのたびに変更があ
たのでは
小侍所の機
能そのものの権威が失墜してしまう
また
位階は御家人間の秩序維持に大きな役割を果たしている
中でも五
位と六位の差は歴然としている
出雲前司である五位が
衛門尉である六位の下位に位置することを認めてしま
ては
御家人制ヒエラルキ
を崩すことにな
てしまう
それは許されないことであ
た
それにしても義重
註
34
の怒りは収まらなか
た
吾妻鏡
の翌十七日条は次のように記録している
十七日丙寅
出雲前司義重猶有申旨
是昨日者
為不成御出障碍
強不竭所存
盛時申状太以傍若無人
為
370
後日尤欲被糺明云
々
殊宥御沙汰畢
重不可有鬱憤之旨
被仰出云
々
御家人制の根幹に関わることは譲れない
なお
西国にあ
ては御家人化の経緯も多様であり
自称御家人の
類も存在したらしい
宝治二年八月十日条を見てみる
十日甲申
備前国住人服部左衛門六郎可致御所中奉公之由
就望申之
於小侍所先被尋先々奉公証拠之処
伊与大夫判官義顕
義経
為平氏追討使
下向西海之比
父祖等可為扶持之旨
廷尉送状
剰賜乗馬
又感
軍忠
重被出賀章云
々
仍進覧件両通状之間
有其沙汰
今日勘申評定之処
承久元年以来
如医陰両道之類
被召加御簡等事者
自京都令伺候御所之故也
雖无父祖之例
号御家人
今更於被聴奉公之条者
可為掲焉
之輩事歟
遠国住人等
只帯廷尉内々消息状許
存御家人募事者
不及御許容之由
所被仰出也
備前武士服部六郎の将軍御所での勤務希望に対し
小侍所で証拠確認が行われた
服部六郎は義経の書状を証
拠として提出した
しかし
西国において義経との関係を理由に御家人と認めることはないのである
義経の消息状の効力を認めることはできなくとも
これが源頼朝となれば話は全く別である
結城朝光をめぐ
る書札礼の事案が
宝治二年閏十二月二十八日に見える
今日
足利左馬頭入道正義与結城上野入道日阿相論書札礼事
被宥仰両方
被閣之
此事
去比就雑人事
自足利遣結城状云
結城上野入道殿
足利政所云
々
日阿得此状
投返事云
足利左馬頭入道殿御返事
結城
政所云々
僕卿禅門甚憤之
訴申子細云
吾是右大将家御氏族也
日阿仕彼時
于今現存者也
相互未及子
孫
忽忘往事
現奇怪
争無誡沙汰哉云
々
仍被下彼状於日阿之時
日阿称不能費紙筆而献覧一通文書
是即
右大将家御時
注為宗之家子侍交名
被載御判之御書也
彼禅門厳閤総州与日阿于
時
結
城
七
郎
可同等礼之由分明也
右京兆于
時
江
間
小
四
郎
為家子専一也
相州
重時
披覧之
召留件正文於箱底
染御自筆書案文
被授日阿
剰被副送
同御自筆消息状
其詞云
右大将家御書正文一通給置候訖
被載曩祖潤色之間
為家規模之故也
但御用之時者宜随命
且為後日
以
371
自筆所書進案文候也云
々
日阿還施面目云
々
足利義氏
入道正義
と結城朝光
入道日阿
のやり取りである
足利から
結城上野入道殿
足利政所
と
の書状に対し
足利左馬頭入道殿御返事
結城政所
と返信したのであ
た
これに対し義氏は
足利家は右大
将家
頼朝
の御一族であり
結城朝光は右大将家に仕えていたのであり
同格ではないと憤
ていたのである
結城朝光側は足利と同等の礼でよいとした頼朝御判の文書を証拠として提出したのであ
た
しかも重時は
この文書を自ら書写し
正文を預かり
案文を自筆書状に添えて朝光に返却したので
結城朝
光は面目を施したというのである
書札礼をないがしろにすることは
本来許されるべきことではない
まして源家御一族と有力とはいえ一般御
家人との間での濫用は認められるべきではない
頼朝の権威というだけでなくこの段階では
足利と結城との相
論であることも注目しておきたい
宝治合戦後の宝治元年六月二十九日
鎌倉に現れた朝光は
時頼に向
て
日
阿於令在鎌倉者
若狭前司
三浦泰村
輙不可遇誅伐耻
と言い放
ている
宝治合戦を真
向から否定する発
言とい
てよい
下総や北関東の軍勢が体勢を整え鎌倉入りする時間があれば
展開は違
ていた可能性が高い
のである
しかも
この年の暮れ
十二月二十九日には
六月の宝治合戦の勲功賞リストに交じ
て結城朝光に
鎮西小鳥荘が与えられたのである
八十歳とな
た幕府大長老結城朝光以下の協力が得られなければ
スム
ズ
な幕政運営は望めないとの判断がはたらいたのであ
た
都市鎌倉の秩序ある発展と増大する訴訟の迅速処理こそが
幕府の根幹を形成する御家人制の維持に
重要に
して喫緊の課題として取り組む重時たちであ
たが
それでも時に妥協を強いられてしまうのであ
た
四
時頼の長子時輔の誕生
372
宝治二年
一二四八
三月八日条
八日丙辰
左親衛
時頼
殊依御心願之旨
被奉御奉幣御願書於諏方社云
々
時頼が殊なる
御心願
によ
て諏訪社へ奉幣したというのである
この御心願とは一体何であろうか
同年
五月二日条で少し明らかにされる
二日己酉
鶴岡別当法印
隆弁
為左親衛御祈
去月八日参諏方社
今夕帰参
御心願により隆弁を派遣して諏訪社で二
月近く祈祷が行われたのであろう
註
35
そしてこれは
五月二十八日
に誕生する時頼の第一子たる息男
のちの時輔
註
36
の平産祈願であ
たといえよう
それゆえに
当時有験無
双
註
37
という隆弁が選任されたのであろう
加えて信濃国の諏訪社の神威への敬信ぶりに注目されよう
諏訪神威への期待と配慮の現れといえよう
信濃国の守護は
承久三年
一二二一
より北条義時が掌握し
義時から重時に譲られて当該時点でも重時が
信濃守護と推定されている
註
38
重時への配慮という側面も含まれていると見てよいのかもしれない
五月二十八日
誕生の
吾妻鏡
は次の通りである
廿八日乙亥
左親衛妾幕府
女房
男子平産云
々
今日被授字
宝寿云
々
あ
さりした記述である
編纂者の意図によるものであろう
しかし
第一子誕生に父親とな
た時頼の喜び
はいかばかりであ
たろう
幼名
宝寿
もそれを否定しない
さらに
六月一日条では健やかな成長を祈
て
産所に訶利帝十五童子像が安置される
乳母は六月十日に諏方入道蓮仏
盛重
が指名される
諏方蓮仏は
この時期に
吾妻鏡
にも活躍が見られ
る得宗被官として知られているが
諏方大祝の出身である
諏訪社壇の全面的な支援に期待していることでもあ
ろう
時頼の信頼を寄せている蓮仏であればごく当然といえる乳母指名であ
た
しかし一
月後の七月九日条
373
は次の通りである
九日甲寅
諏方兵衛入道蓮仏始行宝寿公御方雑事
日来依辞申閣之云
々
蓮仏は時輔の乳母となることを辞退し
一
月もの間
身の周りの世話等をせずに差し置いたのである
何か
重大な障壁があ
たのである
時輔の生母は
将軍家女房の讃岐である
註
39
時頼の側室である
時頼の
初の正室は
延応元年
一二三九
十一月二日条で
嫁娶之儀
が確認できる
毛利入道西阿
季光
の息女である
宝治合戦で西阿が三浦方につ
いたため離別したとされている
註
40
第二の正室は北条重時の息女で
時宗や宗政の生母である
婚姻の日付は
確認できない
時宗の誕生が建長三年
一二五一
五月十五日であるから
公表されているかどうかは別にして
婚姻について重時自身の心づもりには入
ていると思われる
先述した時頼邸の大改修造築工事の目的のひとつ
がこれであ
たと考えてよいだろう
重時の企図を感じていれば
妾腹の男子の乳母役に逡巡するのも無理からぬことといえよう
時輔の生誕とい
う慶事に関して今後の波風を予想した得宗被官諏方蓮仏による警戒的行動といえるのかもしれない
第二節
連署北条重時陸奥守遷任の意義
一
重時の陸奥守遷任
重時は自らの政権を盤石なものにしようとしていた
そのために時頼を育成の対象としつつ
執権として担い
でいた
主要な政策では
重時が自ら舵取りをしてきたのである
374
将軍執権次第
や
関東評定伝
等によれば
建長元年六月十四日
北条重時は陸奥守に遷任した
註
41
これは
政治家として成長してきた執権時頼に自らの相模守を譲るという側面もあるが
それ以上に重時が陸奥
守に就いたということが重要である
当時の武家にと
てどのような意味を持つといえるだろうか
そのためにまず
歴代執権である義時
泰時
時房および重時の官途を確認しておきたい
註
42
北条義時は
元久二年
一二〇五
閏七月
牧氏の陰謀事件
により父時政が出家して伊豆北条に下向すると
代わ
て執権に就任した
その前年元久元年三月六日に
従五位下相模守
とな
ている
四十二歳であ
た
その後
建保五年
一二一七
正月二十八日
右京権大夫
となり
同年十二月十二日には
陸奥守
を兼任し
た
五十五歳だ
た
義時は承久の乱後の貞応元年
一二二二
八月十六日まで陸奥守であ
た
陸奥守辞任の
二年後の元仁元年
一二二四
六月十三日
六十二歳で没している
義時嫡男である泰時は
元仁元年
一二二四
六月
四十二歳で執権となる
これより先
建保四年
一二一
六
三月
式部少丞
に任ぜられ
同年十二月に叙爵した
三十四歳だ
た
その後
承久元年
一二一九
正
月
三十七歳の時に従五位上
駿河守
とな
たが
その年の十一月には
武蔵守
に遷任している
その後
嘉禎二年
一二三六
三月
五十四歳で従四位下となり
同年十二月には
左京権大夫
を兼任した
暦仁元年
一二三八
上洛中の三月
従四位上
となり
四月に
武蔵守
九月には
左京権大夫
を辞任している
泰
時は武蔵守に在任十九年に及んでいた
五十六歳だ
た
翌延応元年
一二三九
九月には正四位下に昇叙して
いる
義時弟である時房は
元久二年
一二〇五
八月
三十一歳で叙爵
父時政の代えとして遠江守となり
同九
月には駿河守
その後
承元四年
一二一〇
正月武蔵守に転じている
註
43
建保五年
一二一七
十二月
時房は兄義時の陸奥守遷任に伴い
義時後任者として
相模守
に就任した
嘉禎二年
一二三〇
三月には
修理権大夫
を兼任した
相模守の在任十四年を経過した嘉禎三年
一二三一
十一月
重時に相模守を譲
375
ている
六十二歳であ
た
泰時と同じく
暦仁元年上洛に供奉し
在京中に正四位下に昇叙している
北条重時は
承久元年
一二一九
七月
二十二歳で小侍別当に就任すると翌年十二月には
修理権亮
に就
く
貞応二年
一二二三
四月に
駿河守に任ぜられ従五位下に叙せられた
二十六歳であ
た
六波羅北方で
あ
た嘉禎二年
一二三六
十一月
従五位上となり
翌嘉禎三年十一月
四十歳にして
相模守
とな
たの
であ
た
その後
寛元元年
一二四三
閏七月に従四位下
翌年六月には従四位上と四位に昇
ている
さて
陸奥守について振り返
てみれば
鎌倉政権下の武家としては
大江広元
北条義時
足利義氏の三人
が確認できる
四人目が重時であり
北条氏としては義時に続く二人目である
義時は
重時の父である
大江広元の陸奥守就任は
建保四年
一二一六
正月で六十九歳であ
た
註
44
続く北条義時は
建保五年
一二一七
十二月
年齢は五十五歳であ
た
註
45
いずれも長老とな
てからの就任といえ
終官職であ
た
陸奥守は
鎌倉政界にと
て重鎮のポストなのである
文治五年
一一八九
の奥州合戦以降
北条氏は
十三湊を中心に外
浜を掌握し
所領を拡大させており
この後もその可能性の大きい場所であ
た
註
46
守
護未設置の国であるから
権限も大きく
それゆえに長老・重鎮でなければその職に就くことはできないのであ
た
足利義氏は
任免年時は不明だが
吾妻鏡
では
元仁元年
一二二四
六月十日条から嘉禄元年
一二二五
十二月二十九日条まで合計四回の所見がある
在任中の年齢は三十六
七歳である
足利氏は源家でもあり
重
要ポストの掌握という点で別格の実力を備えているのである
足利義氏はその後
寛喜三年
一二三一
二月十
一日条で
左馬頭
として
吾妻鏡
に見える
得宗とは
義時ゆかりの呼称であるという
義時は
執権として
相模守
から
陸奥守
へ遷任している
重時も又
執権の一人として
相模守
から
陸奥守
へ遷任したのであ
た
つまり
重時は
一族にと
て
特別な存在であり
実質的な初代執権ともいうべき父義時の権威を自らに二重写しにしつつ陸奥守に就任したの
376
である
重時は
この時四位であり
この時期における北条氏一門のト
プとして
いわば
家長
ともいうべ
き地位と実力とを占めているという表明でもあ
たのである
二
時頼との連帯
1
相模守の委譲
重時が陸奥守に遷任した建長元年
一二四九
六月十四日
それまで左近衛将監であ
た執権北条時頼が後任
の相模守に任ぜられた
いうまでもないことだが
相模国は鎌倉幕府にと
て文字通りのお膝元
武蔵国ととも
に金城湯池の地である
武蔵・相模を掌握することは幕政を司る者にと
て
政権の安定等の観点からも欠くこ
とのできない要素であ
た
後の時代に
両執権
執権・連署
を両国司と呼ぶことがあ
たのも
そのことを
反映している
歴代の執権・連署を見ても
北条義時は執権就任の元久元年
一二〇五
に相模守に就任している
北条泰時
と北条時房は
元仁二年
一二二四
に
軍営御後見
つまり
執権
に就任しているが
この時泰時は武蔵守
であり
時房は相模守であ
た
註
47
経時は
執権就任時の仁治三年
一二四二
には左近衛将監であ
たが
翌年寛元元年
一二四三
七月十八日には武蔵守とな
ている
北条氏本宗の家嫡たる時頼としても執権就任か
ら四年を経て
左近衛将監のままではならなか
た
相模守の掌握は必要なことであ
た
時頼の前任の相模守は
連署北条重時である
重時は六波羅北方在任中の嘉禎三年
一二三七
十一月十九日
に駿河守から相模守に遷任していた
この段階では在任十二年とな
ていた
そして
この日自らの相模守を時
頼に譲
たのである
377
この人事が重時の承諾なしに進められたとは考えられない
むしろ
重時の主導的な判断・意志による人事と
考えられる
重時による育成の成果として時頼の成長を評価したからこその人事ともいえる
重時が時頼を一人
前
もしくはそれに近いものと評価して
自らの相模守を時頼に委譲し
両者の連帯を強調する意味合いがあ
たと考えられる
寛元宝治の動揺が残るこの時期に両執権の連帯にほつれを見せるようなことになれば
他の勢力から楔を打ち
込まれることになりかねない
だからこそ重時自身は父義時の威光を受け継ぐ形で陸奥守に遷任したのであ
た
北条氏本宗
いわゆる得宗家の権威を保護・翼賛しつつ
政権の実権は重時自身が掌握し続けることの内外へ
の表明なのである
武蔵守について簡単に触れておこう
現任の武蔵守は
北条朝直である
初代の
連署
時房の嫡男で大仏流
の祖とされる
生母は
足立遠元息女であり
兄資時と同母である
暦仁元年
一二三八
四月に武蔵守となり
寛元元年
一二四三
七月から寛元四年
一二四六
四月までは執権経時
時頼の兄
に譲
ているが
その後
武蔵守に再任されて康元元年
一二五六
七月までその任に在
た
時房
大仏
流のト
プとして実力を蓄え
ており
これからも現体制を支持・翼賛してもらわなければならない人物なのである
2
時頼正室権の掌握
執権時頼との連帯・連携については
相模守委譲だけで十分ではない
時頼の正室は
初毛利季光の女であ
たが
宝治合戦で
妻の実家である三浦氏に同意したため
乱ののち
離別していた
註
48
重時は
時頼にその正室として重時の息女を迎えさせたのである
婚儀については確かな史料がない
時頼の
378
側室腹ではあるものの第一子たる時輔
幼名
宝寿
初名時利
は
宝治二年
一二四八
五月二十八日の誕生
である
また
重時息女の初産である時宗は
建長三年
一二五一
五月十五日の誕生である
前年の建長二年
五月二十二日条の
吾妻鏡
に
時頼室家の病悩の記事があり
懐孕かとの推測も洩れている
これは時宗の妊
娠ではなか
たのだが
建長二年段階では嫁入りしていることが判明する
宝治元年十月には
時頼邸を修理名
目でほとんど新造しているが
これが時頼への重時息女の輿入れ準備の可能性が高い
つまり重時は帰謙直後か
ら時頼正室に自らの息女を据えようと構想しており
その後側室讃岐局
三河局
註
49
が時輔を妊娠したことが
判明する前後までには
重時息女の嫁入りが具体化していくと考えてよいだろう
時輔と時宗との
終的な決着は
まだ先のこととなるが
建長二年十二月二十三日条では
廿三日甲寅
相州
時頼
妾三河局移他所
聊有口舌等
奥州
重時
依被申子細
俄有此儀
是二男若公
母也
とあ
て
重時の意志として時頼の側室三河局
時輔生母
を他所へ移している
時頼周辺からの追放であ
た
重時は
生まれ出ずる時宗こそが正嫡であることを断固示したのである
吾妻鏡
の建長三年
一二五一
五月十五日条の時宗出生記事の中には
次のようなエピソ
ドが記載され
ている
抑此誕生祈祷之事
対相州
時頼
若宮別当法印
隆弁
不等閑被付示之
仍於鶴岡八幡宮宝前
従去年正
朔
砕丹精肝膽
夢告有之
同八月令妊可賜之由
被申之上
今年二月
侍于伊豆国三島社壇而祈請之間
同十二日寅刻夢
白髪老翁告法印曰
祈念所之懐婦
来五月十五日酉刻
可男子平産也云
々
果如旨
奇特可
謂歟
宝治合戦の賞として鶴岡の別当に就任していた隆弁が
建長二年
一二五〇
正月から鶴岡の宝前で妊娠の祈祷
を開始したということである
379
では
時宗の誕生につながる懐妊関連の記事を概観しておきたい
建長二年正月から隆弁の祈祷が始ま
てい
るとするなら
建長二年
一二五〇
二月十二日条の
相州
時頼
於鶴岡八幡宮
被行祈祷云
々
に懐妊祈願が
含まれるとみてよいだろう
同八月二十七日には
相州室
重時女
懐孕
祈請等被行之
と
妊娠が確認され
た
時頼の隆弁への信頼の篤さが現れている記事がある
建長二年
一二五〇
十二月五日条である
五日丙申
今日
相州
時頼
被遣飛脚於京都
是室家懐孕着帯加持事
可被用若宮別当法印隆弁
之處
住
持之間
依被招請也
秋田城介
安達義景
遣使者云
々
此事去五月之比
其気分御之由
雖有女房之説
不
然
来八月可為必定之旨
法印被申之
果而如指掌云
々
五日丙申
相州
時頼
御分国并庄園
至于明年五月
可禁断殺生之由
令下知給
是依御産御祈也
奥州
重時
同被行此徳云々
前段は
上洛中の隆弁を鎌倉に呼び戻し
着帯とその祈祷について執り行うように要請するものである
隆弁
は
この要請に応じ十二月十三日に行われた
後段は
時頼と重時がその知行国と自らの荘園内での殺生禁断を
出産予定月の明年五月までの期間を限
て下知したものである
明けて建長三年
一二五一
正月八日には
高
さ八寸の
金銅薬師如来像
を鋳させ
隆弁に導師を依頼し供養している
十七日にも
放光仏像
供養を導師
隆弁で執り行
ている
時頼の出産に対する期待の大きさを反映しているといえよう
註
50
正月二十一日には
出産予定日に向けて
百日泰山府君祭
が始められた
その供料は
秋田城介安達義景の
沙汰であ
た
安達は
時頼の生母松下禅尼の実家であり
この産所を提供したのも安達氏であ
た
出産予定
日の近づいた五月一日条を見ておこう
一日庚申
天霽
相州室家産所松下禅尼
甘縄第
被始御祈祷等行云
云
宝治合戦における安達氏と北条氏
中でも重時との連携・連帯については
第六章で言及した通りである
註
51
380
安達氏は
北条氏外戚の地位を時頼
時宗へと確保し幕政上の地歩を一層強固なものにしたいと考えていたはず
である
そして建長三年
一二五一
五月十五日
前日の隆弁の予言通り
酉刻に若君が誕生したのである
前略
酉終刻
法印隆弁
参加而奉加持之
則若君誕生
奥州
重時
兼而被座
此外御一門之老若
総
而諸人参加不可勝計
以下略
時頼の後継者たりうる男児
時宗
幼名
正寿丸
の誕生であ
た
重時にと
ても
あるいは安達氏にと
ても守り育てるべき
玉
の誕生であ
た
それはまた
時頼にと
ても父親として
大級の慶事といえよう
3
引付頭人の指名
重時・時頼政権を強固なものとするためには
両執権の連帯・連携だけではいうまでもなく不十分である
北
条氏の一族挙げてスクラムを組まねばならない
引付頭人の指名もその一環として理解できるだろう
北条九代記
によれば
引付の設置は
建長元年十二月十三日である
引付頭人の指名は
十二月十三日
被始引付頭人
政村一
朝直二
真昭三
右一行
在
朱
書
入
と記されている
引付設置について
関東評定伝
には
十二月始引付
諸人訴訟不事行故也
とある
山積する訴訟の処理が
遅延しており
引付を設定することによ
て訴訟処理の公正・迅速化を目指そうとしたのである
引付頭人は
引付各番のチ
フとして訴訟処理をリ
ドすることになる
しかし
頭人の指名のねらいはそれ
だけだ
たとは思われない
建長元年十二月に
初の引付頭人に指名されたのは
北条政村
北条朝直
北条真
昭
資時
の三人である
この三人は
いずれも北条氏一門である
また
評定衆であり
その上位者である
381
執権・連署の二人に次ぐ
評定衆の中の上位三人が引付頭人とな
たのである
宝治合戦
直後の宝治元年六月二十七日条の
吾妻鏡
に
評定着座の次第が記載されている
重時の連署
就任直前の記事であり
合戦時鎌倉に在
た時頼たちが決定した着座順である
一方のト
プが時頼であり
も
う一方のト
プを前右馬権頭政村が占め
時頼方次席が武蔵守大仏朝直
政村方の次席が相模三郎入道真昭
資
時
なのである
この三人が時頼を担いで
宝治合戦
を乗り切
たのであ
た
引付頭人とな
た三人は
合
戦の現場で戦闘を乗り切
たと互いに認めあう主要人物なのである
また
この着座の次第は
重時の連署就任
によ
て半年後に改定が行われる
吾妻鏡
宝治二年正月七日条である
おそらくは重時の意向によ
て老若と
年齢によ
て二分し
重時を老座
時頼を若座のト
プとしたのである
老座の次席が相模三郎入道
資時
で
あり
若座の次席・三席に政村・朝直となる
この政村・朝直・資時の三人こそは
時頼からも重時からも信頼
を寄せられている北条氏一門の主要メンバ
なのである
政村・朝直・資時を引付頭人とすることによ
て
政
権首脳部をし
かり結束させるバインド効果をねら
たものといえよう
この頭人指名について
渡邊晴美氏は近業で
政村らの側からの意義を強調され
頭人制度の提案についても
政村らの意志によると指摘されている
註
52
確かに政村からいえば
兄重時と連携もするが
ブレ
キ役や政
権の舵取り役
自らの発言権の留保
兄重時に単独では対抗できなくても三人寄ればやれることも広がるという
ことがいえよう
重時の後継者としての位置づけを確保するということもうなずけることである
政権の盤石の体制を目指す重時は
その権力構造をさらにし
かりした枠組みとするため
また山積する訴訟
処理への対応策として引付制度と頭人制度の創設を認めたといえる
政村らにと
ても執権連署に次ぐ位置を内
外に鮮明に明示し確保することが次期後継候補としての位置確保として有益であ
た
重時と政村らの利害は引
付頭人制度の創設について一致をみたのである
382
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N>4O
4
足利氏の処遇
北条一門の結束を固め
政権の安定を目指す重時にと
て気掛かりな
ことがあ
た
それは
足利氏をどう処遇するかである
足利氏は
源
家棟梁の資格を有する北関東の大族であり
義氏
法名正義
は陸奥守
も経験しており
鎌倉政界の重鎮として北条氏とも連携して幕政に貢献
してきた
それだけに反北条勢力に担がれるようなことがあれば北条執
権政治の危機となる
足利氏をどうコントロ
ルするか
重時と足利氏
とのせめぎ合いを読み取ることができる
当該時点での政治的な力学を比較的よく反映するという垸飯献儀につ
いてみてみよう
正月垸飯沙汰にも
足利氏との微妙なせめぎ合いが見えている
宝治
合戦後
初の正月垸飯である宝治二年
一二四八
正月元日は
沙汰人
が執権時頼である
連署に就任した重時は
三日の沙汰人であり
二日
は
吾妻鏡
に記事がなく不明である
翌宝治三年
建長元年
一二四
九
は
吾妻鏡
全条欠文であり不明である
建長二年は
元日が執権
時頼
二日が足利義氏
三日に重時が沙汰とな
ている
建長三年
同
四年については
時頼
重時
足利義氏の順に沙汰人とな
ている
建長三年の正月段階では
重時女である時
頼正室の妊娠が明らかであり
さらに建長四年
一二五二
では新誕若公正寿丸の外祖父である重時が二日の垸
飯を沙汰することにはばかる必要がなか
たと考えられようか
また
足利泰氏の自由出家事案が建長三年十二
383
月二日に発生している
しかし建長四年正月三日垸飯沙汰人から泰氏の父である足利義氏を外せないことも足利
氏への配慮の大きさを示すものといえよう
註
53
建長二年
一二〇五
十二月二十七日に将軍頼嗣の近習結番
六番編成
が編成される
これは
同月二十日
条の
廿日辛亥
御所中頗無人
自小侍所
頻雖被加催促
似無其詮仍伺申相州
時頼
間
可令披露之旨
就令
返答
今日有其沙汰
於不法輩者
被止出仕
加壮年勤厚人於其闕
始可令結番之由被定之
清左衛門尉読
申彼事書云
々
という将軍御所警備の脆弱さに対応する措置である
廿七日戊午
近習結番事治定
自今已後
至不事輩者
削名字
永可止出仕之由
厳密被触廻之云
々
彼番帳
中山城前司盛時所加清書也
定
結番事次第不同
一番
子午
備前々司
北条名越時長
遠江左近大夫将監
名越時兼
以下
十四名略
二番
丑未
遠江守
北条時直
時房息
相模式部大夫
北条時弘
時房孫
以下
十四名略
三番
寅申
相模右近大夫将監
北条時定
時房息
武蔵太郎
大仏朝房
時房孫
以下
十四名略
384
四番
卯酉
宮内少輔
足利泰氏
上野前司
畠山泰国
足利三郎
家氏
新田参河前司
頼氏
下野七郎
宇都宮経綱
佐渡大夫判官
後藤基政
梶原左衛門尉
景俊
同太郎
景綱
信濃四郎左衛門尉
二階堂行忠
出羽次郎左衛門尉
二階堂行有
小野寺新左衛門尉
行通
上野十郎
結城朝村
波多野小次郎
宣経
出羽四郎左衛門尉
中条光家
伊賀四郎
小田景家
鎌田次郎兵衛尉
行俊
五番
辰戌
北条六郎
北条時定
時頼弟
尾張次郎
名越公時
以下
十四名略
六番
巳亥
陸奥掃部助
金沢実時
陸奥四郎
北条時茂
重時息
以下
十四名略
右守結番次第
一日夜
無懈怠可令勤仕之状
依仰所定如件
建長二年十二月
日
相模守
時頼
陸奥守
重時
各番は十六人編成で
各番の筆頭には北条氏の名が見える
唯一の例外が四番であり
ここには足利氏の名が
ある
将軍御所の結番であるから
かつて頼嗣の父頼経が将軍であ
た時のように将軍の取り巻きとしてグル
385
プ化の可能性がある
それを避けるために
北条氏を全面的に配置していると思われるが
それでも四番は足利
を頭書し
北関東の勢力を代表させるような表現を配慮したものといえよう
引用には省略したが
結番の一番
には北条氏を四名
二番以降は三名ずつ配置している
だが
四番には北条氏を一名も配置できていない
しか
しながら
もう少し細かく見れば
下野七郎宇都宮経綱は
その室に重時女
註
54
を迎えているし
重時の被官
とされる波多野氏
註
55
も同番に配置しており
情報収集のアンテナ配置にも油断はないようである
この結番によ
て
六日に一度ずつ足利を筆頭とする将軍御所結番第四組が警護に就くことにな
た
連署重時にと
ては
足利氏の処遇に細心の配慮が必要だ
たのであり
政権運営上目障りな存在だ
たので
ある
また
この結番編成は彦由三枝子氏が指摘されているように
北条氏の恣意のままにならなくな
た将軍
頼嗣に対して
これを抑圧して北条体制の強化を促進するのが
その目的であ
たと思われ
足利氏がこれに参
画していることは
摂家将軍
・
足利殿
・
北条殿
の三位一体的な政治権威を存続せしめるもの
註
56
とい
う連帯者としての側面も持
ていたのであり
それが一層細心の対応を求めるのであ
た
おわりに
宝治合戦後の政治状況について
北条重時の帰鎌と連署就任とその政権運営について見てきた
宝治合戦により三浦氏を除いたことで
時頼をして
万事談合
せしめんといわしめた重時の帰鎌が実現した
重時にと
ても待望の帰任であ
た
執権連署への就任が
実質的な政権ト
プ就任に等しいことは衆目の認め
るところであ
たろうし
若き執権時頼を一人前の政治家に育成することも当然の任務と考えていただろう
ところが
乱を乗り切
た時頼自身は
乱直後
万事聴断
せんと表明したのであ
た
一人前宣言である
ここに両執権間に微妙な確執の生まれた可能性がある
これについては
従来ま
たく検討されてこなか
た
386
そこで
第二節において重時帰鎌から宝治二年
一二四八
末を視野に検討を加えたのである
重時帰鎌前に決定されていた御所移転案は
両執権邸の新造増改築にすり変えられ
評定所は重時邸の敷地内
へ取り込まれた
評定所の取り込みは
政権存続にと
て
も大きな課題と考えられていたはずの訴訟処理の迅
速化への重時の決意の反映だ
たのである
同じように時頼たちの決めた評定席次も改訂された
重時は政権を積極的に担当しており
重時の連署就任直
後であるこの時期の時頼・重時政権は
六波羅探題に関する対京洛外交あるいは西国統治をも含めて
政権運営
の主体は
所謂
連署
である重時にあ
たと考えられるのである
育成者としての重時と被育成者たる時頼との直接のやり取り等を見ることは難しい
政治家の素養としての和
歌や蹴鞠について考えてみた
また
政治の実践場面で具体的に学ぶことも重要であり
効果のあることだ
たといえよう
執権就任以来
武張
た面に力を注いできた感のある時頼にと
ては
訴訟処理など当面する課題解決の為に矢継ぎ早の対応策
を繰り出す重時の姿勢や考え方は
さらに高みを目指す政治家として有益だ
たろう
訴訟の迅速化については
綱紀粛正や基本ル
ルの確認など必ずしも目新しいものばかりではなか
た
従
て
これが建長年間の引付制度創設を導くのであろう
時頼一男時輔の誕生は
この時点では祝賀ム
ドに包まれてもよいはずだが
乳母の指名などに波風が見える
重時は息女を時頼に嫁がせるという案の実現を急がせたはずである
確執の萌芽が解消されていくためには
重時による指導の成果が現れて時頼を一人前と認めることが必要であ
る
そしてその前提には
時頼が初対面ともいえる重時の政治的実力を認める必要があ
た
その中で時頼が成
長していくことが必要であ
た
相模守の重時から時頼への交代
重時女の嫁入りと時宗の誕生等々は
時頼の成長を重時が認めた証左といえ
387
るのかもしれない
この間
つまり今次の検討の範囲にあ
ては
ようやく連署就任を実現し
時にやや強引ともいえる手法で政
権を主導する重時に対し
宝治合戦という修羅場をくぐ
たのは自分達であると過剰ともいえる自信を持
た若
き執権時頼との間に微妙な確執の生まれた可能性を見て取ることができたであろう
しかし両者はライバルではない
重時は
時頼を指導育成し
次代を託そうとしているのである
そのような点を踏まえれば
建長元年
宝治三年
一二四九
の
吾妻鏡
欠文や頼嗣から宗尊親王への将軍
職の交代等々
今後の課題の読み解き方にも工夫が必要となろう
史料上の制約が大きいので推定に推定を重ねる仕儀とな
た
しかし
この二人の位相を意識することなくし
ては
時頼・重時政権の実相に近づけないように思われるのである
寛元・宝治の乱後の動揺が残る中
連署就任のために京洛から帰鎌してきた重時にと
て政治的な実力の面で
若すぎる執権時頼を一刻も早く一人前の政治家に育てる必要があ
た
もちろん
得宗であり執権である時頼の
権威については
有効に利用することが肝要である
しかし
政治権力の実権は重時自らが掌握するのである
連署として直接の政権運営者に就任してから二年を経て
長く掌握してきた
相模守
を執権時頼に譲り
自
らは
陸奥守
に遷任したのである
時頼の育成効果を認め
一人前であると評価したからといえなくはない
しかし
時頼がこれ以降政権の主導権を握
たと考えることは即断に過ぎる
時頼は
重時の掌中の
玉
的な
存在だ
たのであり
時頼の相模守就任によ
て執権の権威が左近衛将監時代より一層高められることは事実で
あるが
実権は引き続き重時にある
そのことを宣言しているのが
陸奥守
遷任である
北条氏嫡流たる得宗
の祖である父義時の権威を受け継ぐ形で陸奥守とな
たのである
重時が単に年齢および政治的経験として長老
重鎮であるにとどまらず
北条一門の家長的な権威を父の義時の威光とともに手にしたという宣言なのである
重時・時頼政権
の安定安泰のために
連携連帯を強化することが必要であ
た
重時の目指しているのは
388
重時・時頼政権
だけでなく時頼以降も見据えて北条政権の長い安定であ
た
時頼との関係からは
相模守
委譲
時頼外戚権の確保
そして建長三年
一二五一
五月十五日には正嫡となる時宗が生まれたのであ
た
一門との関係では
引付頭人制度の創設などをみてきた
また
懸念材料として
足利氏の処遇などに触れてみた
情勢の形成力の巧みさで足利氏への圧力は大きくな
ていく
やがてこれが
謀反の噂や天変地異の発生などをも利用して
情勢を形成する重時・時頼らによ
て足利氏へ
のゆさぶりとして機能するのである
それが
足利泰氏の自由出家事案であり
前将軍九条頼経など京洛をも巻
き込む
了行法師事件
へと連動する
了行事件と前後して
頼嗣将軍の更迭・京都送還方針が明確化され
連署執権北条重時の主導の下に
建長四
年
一二五二
四月宮家将軍宗尊親王を鎌倉に迎えることとなるのである
註
1
吾妻鏡
新訂増補国史大系本
寛元四年九月一日条
一日丙辰
左親衛
時頼
招請若狭前司
三浦
泰村
条々有被仰合事
皆悉為理世眼目云
々
其
中仰曰
短智一身扶軍営之政
頗不自専怖畏
招下六波羅相州
重時
欲令談合万事
是日来所
存也云
々
若州
泰村
依被申不可然之由
暫被閣此儀云
々
三浦泰村の拒否にあい実現はしなか
たが時頼による重時の連署就任案である
2
拙稿
北条重時と三浦宝治合戦
Ⅰ
Ⅱ
政治経済史学
二三五号
二九八号
一九八五年
一
九九一年
3
加藤功氏
建長四年における僧隆弁の政治的役割
政治経済史学
五七号
一九六七年十月
同氏
389
鎌倉の政僧
歴史教育
十六巻十二号
一九六八年
参照
4
森幸夫氏
北条重時
人物叢書
吉川弘文館
二〇〇九年
5
高橋慎一朗氏
北条時頼
人物叢書
吉川弘文館
二〇一三年
6
森幸夫氏
前註
4
一一一
一一三頁
7
拙稿
前註
2
論文および
拙稿
執権北条長時と六波羅探題北条時茂
政治経済史学
一一二
号
一九七五年
や拙稿
弘長元年三浦騒動と鎌倉政界
北条重時死没直前の政情
政治経済史
学
二九〇号
一九九〇年
等々
8
奥富敬之氏
鎌倉北条氏の基礎的研究
第二部第三章および第四章
吉川弘文館
一九八〇年
佐
藤進一氏
日本の中世国家
第二章第三節得宗専制
岩波書店
一九八三年
佐藤進一氏
鎌倉幕
府政治の専制化について
日本中世史論集
岩波書店
一九九〇年
渡邊晴美氏
得宗専制体制
の成立過程
Ⅰ
Ⅱ
政治経済史学
一二五号
一三九号
一九七六年
一九七七年
9
吾妻鏡
宝治元年六月二十七日条
10
渡邉晴美氏
寛元・宝治年間における北条政村
Ⅰ
Ⅱ
政治経済史学
二三二
二五五号
一
九八五年
一九八七年
11
秋山哲雄氏
都市鎌倉における北条氏の邸宅と寺院
北条氏権力と都市鎌倉
吉川弘文館
二〇〇
六年
12
拙稿
執権北条長時と六波羅探題北条時茂
鎌倉中期幕政史上における極楽寺殿重時入道一統の政治
責任
政治経済史学
一一二号
一九七五年
および
前註
2
拙稿
13
桃裕行氏
北条重時の家訓
養徳社
一九四七年
のち
桃裕行著作集
三
思文閣出版
一九八
八年
筧泰彦氏
中世武家家訓の研究
風間書房
一九六七年
河合正治氏
中世武家社会の研
390
究
吉川弘文館
一九七三年
拙稿
中世武家家訓にあらわれたる倫理思想
北条重時家訓の研究
政治経済史学
一〇八
一〇九
一一九号
一九七五年
一九七六年
市川浩史氏
吾妻鏡
の思想史
北条時頼を読む
吉川弘文館
二〇〇二年
など
14
前掲註
2
拙稿
15
太田静六氏
寝殿造の研究
吉川弘文館
一九八七年
によれば
鎌倉では
桧皮葺
は貴重な存
在であり
御家人以下一般の侍は桧皮葺ではなく
将軍家や執権・連署など
上位の人々だけが桧
皮葺屋に住んでいた
七三九
七四三頁
という
16
渡邉晴美氏
北条政村の研究
政治経済史学
三四四号
三七〇号
三八七号
一九九五年
一九
九七年
一九九八年
および前註
10
の論考
のち
渡邊晴美氏
鎌倉幕府北条氏一門の研究
汲
古書院
二〇一五年
に再録
17
拙稿
小侍別当北条重時の六波羅探題就任事情
政治経済史学
三三九号
一九九四年
18
小川剛生氏
武士はなぜ歌を詠むか
角川叢書四〇
角川学芸出版
二〇〇八年
西畑実氏
武家
歌人の系譜
鎌倉幕府関係者を中心に
大阪樟蔭女子大学論集
一〇号
一九七二年
19
詩歌御会
は
国史大系本による
同書の頭注によれば
吉川本
吾妻鏡
では
被講御歌会
と
ある
20
小川剛生氏は
武士はなぜ歌を詠むか
で次のように述べている
和歌を創作し鑑賞するという文
学行為は
個人のうちで完結しない
歌人は
文学観はもちろんであるが
政治的信条や立場を同じ
くするグル
プに所属し詠歌した
これが歌壇の
小単位である
そして題を得る
構想を練る
添削を受ける
料紙に記す
作品を読み上げる
とい
た一連の行為は
すべて一定の作法故実
そ
のグル
プで通用するル
ルに則
たものであ
た
しかも作品が公開・発表される場の営み
つま
391
り歌会・歌合は
程度の差はあるにしても
共同体の構成員である自覚の下になされる
厳格な儀礼
である
文字として遣
た和歌はおおかた題詠歌であることになる
そのために中世和歌と言えば
誰もが似たような表現でひたすら同じテ
マを詠むだけの退屈な文学
というのが決まり文句である
が
和歌とは
古今・後撰・拾遺の三代集によ
て選び取られた素材と詠法を基盤とし
その枠内で
見出した少量の美を
やはり王朝時代の雅語によ
て表現するものだから
すぐにそれとわかる個性
などむしろあ
てはならないのである
敢えて言えば
決ま
た筋書きのもとに演じられる神事や芸
能に近い
一五
一六頁
という
21
尊卑分脉
第一巻二二一
二二三頁
22
高柳光寿氏は
治安の維持よりも
生産の増加を企てたものであろう
鎌倉市史
総説編
吉川
弘文館
二〇六
二〇七頁
一九五九年初版
一九六七年再版
とされた
23
松山宏氏
武者の府
鎌倉
柳原書店
一九七六年
第二章
都市鎌倉の発展
九一
一一七頁
24
吾妻鏡
に史料の混濁が見られる
前段は
六波羅の長時にあてた両執権連署の十三日付関東御教
書の要約である
鎌倉遺文
六九一八号
後段は
鎌倉遺文
六九一七号として収載されている
が
竹内理三氏が指摘しているように
事書以下四行と
右
以下の本文とは別文書である
25
北条氏研究会編
北条氏系譜人名辞典
新人物往来社
二〇〇一年
資時は
承久二年
一二二〇
正月十四日
兄時村とともに突然出家
嘉禎三年
一二三七
四月十一日三十九歳で評定衆とな
て
いた
生母は安達遠元の息女である
26
北条
名越
朝時が
嘉禎二年
一二三六
九月十日に就任したが
初参の後即辞退しており
翌年
資時が就任している
泰時時房両執権期のことである
関東評定伝
群書類従
四十九
続群書
類従完成会
一九七九年
392
27
資時叱責の主体は
形式的にはともかく実質的には時頼ではなく重時だと考える方がより自然であろ
う
五味文彦氏他編
現代語訳
吾妻鏡十二
一二七頁
吉川弘文館
二〇一二年
28
佐藤進一他編
中世法制史料集
第一集
岩波書店
一九五五年
29
御成敗式目
第八条
30
吾妻鏡
宝治二年
一二四八
五月十五日条
31
吾妻鏡
宝治元年
一二四七
十一月二十七日条
同二年五月十五日条
鎌倉遺文
六九九三号
宝治二年七月二十九日
関東評定事書
追加法二六五
中世法制史料集
一
32
吾妻鏡
寛喜二年
一二三〇
閏正月二十九日条
33
吾妻鏡
宝治元年
一二四七
五月二十九日条
同年六月二日条
34
湯山学氏
相模国の中世史
上
私家版
一九八八年
によれば
波多野義重は
重時の被官であ
たという
五〇
五一頁
35
吾妻鏡
の記す
去月
とは
去々月
つまり三月八日からということでよいだろう
さすれば
三月二十九日に執行された前執権経時第三年仏事の導師が隆弁ではないことも了解しやすいだろう
36
時輔の元服後の初名は時利であるが
本稿では時輔で統一しておく
37
吾妻鏡
寛元二年三月十八日条
38
佐藤進一氏
増訂鎌倉幕府守護制度の研究
東京大学出版会
一九七一年
39
北条九代記
続群書類従
二十九上所収
40
川添昭二氏
北条時宗
人物叢書
吉川弘文館
二〇〇一年
七
九頁
41
将軍執権次第
関東評定伝
武家年代記
などによる
北条九代記
や
鎌倉年代記
は
遷
任の日を六月四日とする
なお
吾妻鏡
は建長元年欠文である
393
42
北条義時以下の官途などについては
北条氏研究会編
北条氏系譜人名辞典
新人物往来社
二〇
〇一年
国史大辞典
吉川弘文館
一九七九
九七年
安田元久氏
北条義時
人物叢書
吉
川弘文館
一九六一年
上横手雅敬氏
北条泰時
人物叢書
吉川弘文館
一九五八年
森幸夫
氏
北条重時
人物叢書
吉川弘文館
二〇〇九年
等を参照した
43
金澤正大氏
武蔵守北条時房の補任年時について
吾妻鏡
承元元年二月廿日条の検討
政治
経済史学
一〇二号
一九七四年十一月
時房の武蔵守補任は
承元四年正月十四日であり
吾妻
鏡
編纂者の作為であることを論証されている
44
尊卑分脉
四巻
九八頁
45
拙稿
建保五年
大江広元の陸奥守辞任事情
政治経済史学
五五七号
二〇一三年
広元の高
齢と体調不良
眼病
を理由にして
義時が陸奥守を奪取し
武蔵守と交換したことを述べた
46
豊田武・遠藤巌・入間田宣夫各氏
東北地方における北条氏の所領
日本文化研究所研究報告
別
巻七集
一九七〇年三月
東北文化研究室紀要通巻第十一集
奥富敬之
鎌倉北条氏の基礎的研究
吉川弘文館
一九八〇年
47
拙稿
北条泰時時房政権の成立
Ⅰ
Ⅱ
政治経済史学
三七〇号
一九九七年四
六月合併号
三七七号
一九九八年
48
川添昭二氏
北条時宗
人物叢書
吉川弘文館
二〇〇一年
49
時輔母は
吾妻鏡
では三河局と表記
讃岐局の出自などは
今野慶信氏
北条時輔の母
出雲国
横田荘と京都・鎌倉
段かずら
三・四号
二〇〇四年
50
隆弁と重時との関係については
拙稿
北条重時と三浦宝治合戦
Ⅰ
Ⅱ
政治経済史学
二三
二号
二九八号
一九八五年
一九九一年
でもすでに言及しているところである
論者は
時頼よ
394
りも先に重時との関係が構築されていると考えている
51
前註
50
拙稿
52
渡邊晴美氏
鎌倉中期幕政における一番引付頭人の政治的地位に関する考察
吾妻鏡
建長元年条
欠文理由との関連において
政治経済史学
五七四号
二〇一四年
53
彦由三枝子氏
足利泰氏出家遁世の政治史的意義
上
下
政治経済史学
一〇九号
一一〇号
一九七五年
54
吾妻鏡
康元元年
一二五六
六月二十七日条に卒去記事
55
高橋慎一朗氏
中世の都市と武士
吉川弘文館
一九九六年
56
彦由三枝子氏
前註
53
論考