HERMES-IR | HOME - 経済価値理論の一節 URL Right · 2018-11-07 ·...
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節
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I司
垣
寅
ラた
郎
ないこの論文に於ては、文献の渉畿によりて該博を期するよりは、私見の素描として、簡明に讃者に受符れられんことを専念
とした。論述を遜める便宜のために、節を別ちて次の如くする。
経済理論に於ける債値論と債格論との地位
経済理論に於ける償値論の紛糾
経済償値の心理的性質
現代の貨幣経済は債格によりて流通の行はるL
経済であり、債格なければ貨幣の存在の意義はたく、貨幣は債格を
経済僚値理論の一節(高垣)
東京商科大挙研究年報
終済革研究第一一一波
現はすためにその生成を促された。従って債格は流通経済の会現象に普遍的に纏はる属性である。日以れば流通経済理
論を考ふるに官りて、専ら之を債格を通じて見、之を債格の理論に統合せんとするものがある。斯くて債格論は今や
経済撃の中心理論として重要たる地位を典へられ、経済墜僅系の中に最も主要なる部分を形成するものとして、深い
研究を要求せらるλ
問題となヲてゐる。然しながら、経済皐上債格論の占むる地位に就ては、従来必やしも始めよ
D
今日の如き欣態にありしものにあらや、幾多の消長鑓謹のありしことは、経済同学史家の示す多くの文献に聴いて明か
たところである。蓋し経済撃の科撃としての性質問慢に種々の具見あり、その猫自の撃的形式と同有の認識封象に就
て論議の師一する所を見ざる以上は、その一分科と考へらるL
債格論が、各撃抵の岐るιλ
に従ひて著しく地位の高下
を被るのは、免れざること三百はねばならぬ。
然し経済閣宇諸流派
ω歴史的進展の聞から、慣格論の占め来れる地位を概観するならば、そは弐第に全経済理論中に
重要性を加へ来れることを論定し得るのであるc
正統率誠に於けるアダム・スミスよりマルサス、リカアドオへの展
聞は、貫に経済理論の主要課題として生産の問題を考へたものが、分配論の領域に進出したる墜問盟系の境運である。
更にゼイ・ピ
1
・セイ、ゼイ・エス・ミルの同十るに及んで完成せられた正統撃抵の皐同盟系は、謂ゆる生産、交換、
分配、泊費を以て成る匝分法であった。との経済撃の国学問的進歩によって、その観賭が生産過程より分配過程へ、更
に交換過程へ、推移し瑳展し行ける事責に顧みるとき、その債格理論に典へられし地位に如何たる理謹を見たるかは、
想像するに難くないことである。崎明太利撃汲に至りでは心理主義的に古典皐汲を深化し、慣値論延いては慣格論に新
機軸を興へ、その科準的確立に努力したことは、
一唐債格論の地位を高めたものと理解すべきであらうo
市して更に
その後新しく勃興し来れる一位曾撃と関聯して、経済撃に一つの枇曾撃的方法なるもりが取入れられ、経済現象をも亦
一位舎現象として統一的に把握せんとするに及んで、債格はその最も顕著にして叉把握に容易なる現象形態として、経
情民子的認識の中心に立たしめられ、誌に償格の経済息子に占むる地位の上に著しい重要性を加ふるに至ったo
(
こ
ω駄に
就いては
0・ω宮口PH15仏曲目自神仏句〈o-Z耳目吋神的岳民ZZ13・u・〉
ω・4jig-ω同
o-N58Pロ目印肉片山田町山口弘R72昨日目刷g
Z邑3・
出
-cwgqEPHUMUWJ124qo立・壮一?を参照せられたい。)郎ち流通なる観念に特別の意義が賦興せらるλ
に至り、経済撃の憧系
構成に鐙草を来して、流通観念による統一を得んとする立論の提唱せらるL
所以むものは、蓋し斯かる祉合的考察に
基く結果であると見ることが出来ると思ふ。(例へば同-FaRFロ四円
N庄内己住吉田宮ONg曲丸田
NS可白】叩凶司円。豆巾旨仏ROK-
DロoERFOロ吋ygユ白・終湾与論集第一ニ谷第三務所載論文参照)一附田博士も正統皐派以来の謂ゆる問分法に劃して、新しき意
味に於ける生産論に劃臨せしむるに、交換論、分配論を包含するところの流通論を以てし、生産及び流通の二分法を
以て、最も現在の理論経済撃に安営なる分類方法たりとせられた。この場合、この流通論の劃象たるべき流通現象を
最も簡潔的確に示す属性としては、先づ以て債格を拳げねばならぬ。債格は常に流通現象に伴ひ、たとへ債格なき流
通も之ありとするも、その現代経済上の意義は乏しく、従って債格は印ち流通論に課せられたる、最初にして而かも
根本的なる問題であるからである。斯くて新しく興起し来れる経済撃に於ては、債格理論はその小心的地位に引上げ
らる斗に至った。上述するところによって、経済的殻展に連れて進み来たれる経済挙自樫の展開の裡に、慣格理論の
占むる意義は弐第に重要性を加へ来り、以て今日に主れること在時ぼ理解し符ると思ふ。
然らぽ債格理論は何故に経済撃上斯く其の地位を高揚せらるおに五れるか。その根基を想ふとき、設に全く異れる
材料済償値理論の一節〔高知-)
東京商科大同学研究年報
加料済同学問附究第三波
四
二つの動機より生ぜるこうの極路を注目せねばならぬc
印ち一方に於ては経済生活の貧際的要求より必然的に慣格論
の高調に蹄着せる息問的態度を挙げねばならぬ。近時動態経済或は景気費動等の問題は、殊に多く経済撃者の注目す
るところとな
p、然かも斯かる経済動態、景気の礎動は結局何等かの意味に於て債格形態を以て考へらるh
が故に、
聞学者の研究焦賠は自ら偵格論の上に向けらるλ
に至ったo
(
〈位同・巴山岳
r-pgB門
戸
RZ児註富山-UW8OEO-ω・∞【凶・円073
司
O口
NHHEE-SLURω]臼
13斯くて貰際的要求に根ざす経済研究の結果は、遂に債格理論
ω意義を加へ、その地
位を上昇せしむるに至ったと云ふこと乞得る。然るに他方に於ては又、方法論的省察に出立して憤絡に経済的認識白
契機を見出さんとし、経済瓜干を以て結局庚き意味に於ける慣格理論に終始せしめんとする論者を見ることを得る。
J7
ィールは偵値論排除論者の典型としてゴヴトル。。三E
。三日SFEリ
1フマン同・口広BEロディ
Iチェル出・ロ一叩円N
叩】
及びカv
セルの・()伊国田町一一等を拳げてゐる。
(ωHH0・)同より共等の俄値論を排する意味は一様ではないが、カりセルの
所論の如きは裁にその代表的なるものとして皐ぐべきであらう。例へばカりセルは云ふ「経済撃の封象は経済生活に
あり、その研究の方法に於て、吾人の努力を初めより直接にこの経済生活心叙述に向けるたらば、最もよき導千を得
るであらう。従って現貫生活が示現するところの貨幣形態、即ち債格に於て交換経済を研究することは正に古然なこ
Eであらう」とO(の目的曲目
-wH25ESSE、目。幅広田山口問no口。自由gwHUU由
Lu℃g
u
)
卸ち彼は債値論を以て寅盆たき室庇
の無用物として斥け、債値論なき経済理論健系を債格構成の担論の上に築かんとするものである。その論擦となると
ころを要約すれば崎ぼ弐のやうである。悦値の許慣は算術的に之を取扱ふことを得ないが、之を表現すべき共通の測
度を用ふることなくしてその理論を組立つることは、大なる困難に遭遇せねばならぬ。然しかL
る共通の測度が取入
れらる与や否や貨幣が問題となり、貨幣のない交換経済を想定することは不可能である。その場合には最早や、慣値
ぱ債格によって代られ、慣値理論に代へて債格理論をもつことL
たる。この事責から結論して、謂ゆる慣値の理論の
全部は経済撃から排除さるべきであると云はねばならぬ。交換経済の理論は始めより貨幣を取入れねぽたらぬのであ
って、斯くて本質上債格の理論でなくてはたらぬ。斯くすることは経済理論の非常たる皐純化であって、無用の紛糾
を伴ふた多数の問題を完全に避けることを得る。之によって経済撃を最も性質の悪い煩蹟折口墜に堕せしめてゐた論議
から、解放し得るであらうと見るのである。((リ目出位、吋吋回目OH刊
庁目的
nZω。江戸川croロOBFHcupω・合同出)債値の問題を斯く皐
に償格の問題と搾一的に考ふることは一面的であって、
雨者を国果的闘係に於て
Enz-EEm円の開係に於て現はれ
るものと見るとき、自ら師結するところは異って来ねばならぬ。貨幣たき流通経済は存在せざるか否か、叉慣値の測
定は可能たるか否かと云ふが如きは、債値理論を拒否する上に本質的に根擦となるべきことではない。然し訟には斯
くの如き経済撃認識の方法が、果して安官たりや否やの問題に深く立入ることを必要としたい。とにかく上述すると
ころにより、債格理論が責際的要求に鷲足せる論者によりて、又理論的改造を志す撃者によりて、共にその重要性在
加へられ来った事責を見るとと左得れば足りるo
「総ての岡氏経済理論はその詮上に債格理論を殻見する」と稿せら
れるのは無理のたいことである。
斯くの如く慣格珂論の重要性をもち来ることは、決して債値の理論を無用とするものではなく、
して来る所以であるの何となれば債格を客観的なる現象として額現せしむる闘係を考へるたらぱ、我等は債値の現象
にまで遡らざるを件ないからである。仮に経済一位舎に於ける流通現象を横に断固をとって、その聞に現れたる債格の
月住
aその意義を増
経済僚値理論の一節(高垣)
五
東京商科大町学研究年報
終済事研究第三波
← L. ノ、
問題を理解し、之によりて同一千面上の相互の闘係が認識せられるとするならば、流通現象の縦なる断面を考へ、
の段階に結某せられてゐる憤格を、その前なる段階に遡らしむるとき、そこに憤値の現象を見山さYるを得ない。問
題を任意に限定して、
その範間内に於ける明確さと一貫性とを求むることも、開学問的態度として許さるべきことでは
あるが、
それよりも能ふ限り忠寅に現賓の闘係を究明し、事物の良相を把握すべき興味を拾で斗はならぬ。
或は経済風下に於ける近時の力強き一傾向に見ゆるが如く、慣値の理論をその範囲外に放逐し、謂ゆる
JCESの経
情理論を打立てるこそ、理論健系を確立するものだとたす者があるo
然しながら、経済現象は人間枇舎の現象にして、
外国外客慢の債値判断的底置を内容とすると見ざるべからざるが故に、憤値の一現論は経情理論の一基礎に置かれねばなら
ぬ。之を度外聞しては、吐合現象としての経済現象も理解せられないc
そは患に経済前的考量
4242HgnEEEHO
何
ZP閃口口市川たるに止ら守して、賞に-経済の基礎的内容をたすものである。殊に主観的立場をとりながらも、そが純粋
に個人的にして、之を統一的に把握するに由たきの故を以て、経済的問題となすまいとすること、例へばリ
1フマン
の如きがある。然したがらその場合に於ても、慣値なる誌は避けられてゐるけれども、憤値現象の正馳胞は質質的には
決して排除されてはゐたい。経済の本性は費用と款問との比較考量にあると得する黙に、既に憤値現象の存在は意味
されてゐるo
そは唯だ他の用語、例へば日山口宮門
NEねなどの語によりて置き換へられてゐるに過ぎたい。之は要するに
これまで偵値理論の紛糾に柄されて、経済理論の進展が阻害せられてゐると云ふ理由から、之をその範囲外に放逐せ
んとしたものであるが、結果に於ては用語心境吏以上の妓果を示してはゐない。印ち慣他理論は慣格出論の基礎とし
て重要組せらるべきのみならす、有ゆる経済理論の根底をなすものとして、追究されねばならね重要の問題である。
ディ
l
ルも指摘せる如く、債格の形成は経済生活に封し基本的に重要なこv
乙であって、憤値論の主要問題は、債格
構成の究極
ω原悶及び決定根擦を誌に求むべきことの中に存する。
一般債格の説明が問題となるのみではなく、償偵
論は又、分配論の理解のためにも根擦を典へるものである。蓋し労銀は労働給付の債格であり、利子及び地代は資本
及び土地の利用の債格であり、従って慣値論は殆ど綿ての重要なる純情問題に劃して意義乞有するからであるo
(同内・
口一叩
yf何己主耳目ね同日仏曲目
ω宮内出口日仏
-Z邑05-owSOE95uuwω一
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む
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EEZq問問。仏・〈
o-F耳目吋門的岳山内け回一
mrFHDU少
ωg・)之
は財の一偵格宣一般債格論とするに射して、持銀、利子及び地代を所得理論として取扱ふも、
一般恨格論を補充すると
一式ふ意味に於て、各所得部門に於ける特殊償格論となす、ヴィ
1ザアの主張とも相通やるものであるo
(
巧wnp斗荘。号
仏-mm回日ロ山口町田一Eu--nHMmDdJ『町田片山wuF同州市ン
也凶串、
ω-Et即ち慣値理論は有らゆる債格理論の根底に立つものとして、後者心地位
'の高揚せらるL
と共に袋ょその意義を加ふベく、
理論経済開門干の基礎問題として重要
ω地位在輿へられねばならぬ。
一一
「枇舎の経済的興味に闘する殆んど綿ての思索は、或る慣他の理論を含んでゐるo
との一問題に闘する最小の誤謬も、
之に照臆する誤謬を他の綿ての結論に倖へる。市してその概念に於ける如何たる暖昧も、その他の一組てに亙りて混乱
と不明瞭とを語り山す。幸にして慣値の法則には、
現在若しくは将来の著者にとりて明確にせらるべき、何ものも珪
ってゐないu
こ
ω問題の理論は完全であるOL
之はゼイ・エス・ミルがその著の完備を誇るかのやうに紫蹴を一不し℃
終済制同値理論の一節(」口同垣)
七
東京商科大挙研究年報
経済皐研究第三時制
1¥
ゐる言葉であるが、不幸にして憤値の理論は決して完成を見ざるのみならや、却って上述する如き諸種の論難を受け、
混沌として師結するところを知らざるの賓情にある。(]ω
・
5-r甲山口
ntg祖国
F自・mUF4・同-〉田町
-m3E-同】・お岱)
これまで経済慣値理論の上には、客観債値説と主観償値説との劃立があるものとして一般に敬へられてゐる。然し
たがらそは一見張想し得る如くに、同一の事貫に劃する具たる凡解の封立であるか、先づその鈷を顧みなくてはなら
ぬ。前者に云ふところの債値は主観的意識の問題ではなく、客観的に数量として表現されたものである。正統率抵の
所説にありでは、慣値と債格との聞に何等の医別はなく、自然憤値
Z同EEZ-5は自然債格
ZPHR巳切口円。に外な
ら十、市場償値
冨日司
Has-5は又市場債格同門戸円押印門同)ユロ凸と具なるところはない。主観的意義の債値に至りでは会
く問題とされたい。思ふに初期正統皐抵の興味の中心は、市場慣格の動揺する中にありて何が中正の債格であるかを、
自然的秩序の構想に従って自然慣値の名の下に見出さんとすると共に、現買に市場償格の時変動を支配する原因を求め
んとするにあった。恰かも自然科皐に於て、長さ、重さ等の客観的員貫性在以て決定し得るものあるが如くに、経済
撃に於ても、債値なる基礎的事貫に立脚せしめ件るところがたくてはならぬと考へた。印ち内在的債値
F包口同庁
gzo
の観念が、貫際の市場債格たる外在的償値
Hh同E-一口丘口
4目、}己目
と区別せられてゐたのであって、今日一式ふ如き意味に於
ける主観的償値ば問題の中心に持たれてゐたのではない。殊にマルクシズムに於ける如く「商品は使用慣値である」
「労働は僚値の貫慢である」等と一式ふときは、慣値は一唐の兵憧性を有ったものと見られてゐるo
然るに主観主義に
云ふところの償値は、斯かる客観的たる存在ではなく、その前階段に立つ意識的批態である。従って等しく償値なる
名稽によりて呼ばれるとは云へ、雨者は全くその内容を具にすべく、同一の事責に劃する具たる-一撃説の劃立の如く
考ふることは営を得ない。凡そ異なる撃説の劃立と一五ふことは、同一の事責に針し異たる見解を生やるとき始めて意
義あることであって、異なる事責に封し異なる見解を生十るのは、寧ろ蛍然のこと与一式はねばならぬ。慣値準設上に
於ける異なる二主義の封立の如く考へられてゐるのは誠に意味のないことであって、之を精特に一式ふならば、債格の
如き・客観的なる現象の前に.糊りて心理的たるものを考ふることの、経済墜上必要とせらるミことなるや否やの問題
である。主観主義か客観主義かの軒立にはあら守して、債格以前に抑も心理的なる債値現象を観念することの、経済
開学上安営且つ有意義なりや否やと云ふにある。
同より流通経済組織の下にある経持者の偵値判断にあたりては、既に成立せる経済財の交換比泰、即ち諸債格相互
の関係を考慮の中に入れるべく、現買には慣格を離れて債値判断を行ふことはない。従て慣値の問題は慣格をその前
提として橡想する、と見ることにも一憾の道理はあるc
然しながら理論上誌に問題とするのは、債格は憤値判断に基
いて成立すると一式ふことであづて、個々の慣値判断が既成の俄格をその内容に於て考へると一式ふ、事宜上の連続闘係
を否定することではない。現在の慣値判断は債格を前提するとしても、その債格は慣値判断に基いて成立したことで
ありけ斯くてその連鎖を手繰りて稜端に糊れば、償値判断は債格を離れて存在せねばならぬ。諸財の憤値を比較し、
その交換比家を定むることは、債格の存在と闘係なく、凡そ交換の行はるλ
にあたりて試みられねぽたらぬところで
あるが、その前にそれに先ちて、
一定の比率によりて流通の行はる込事賓が確立せられてゐなければならぬと云ふ事
情は存したい。即ち之を理論の問題として見るとき、恒値現象は総ての債格の成立にあたりて、前提せらるλ
要素で
あると一式ふに不合理はな日u
終狩償依叩叫論の一節(高垣)
ブし
東京商科大事研究年報
経済同学研究第三放
つ
慣値なる一土聞の久しきに亙る用法に内はれた結果であらう、填太利皐況の理論の中にも、慣値の本質に惇り、その所
設の中に矛盾を生ぜしむる黙がある。憤値に種別を認め、主観憤値と客観債伯、私経済的憤怖と園民経済的債値と一式
ふが如く、本質上相異なるものを一概念の下に統一せんとする如きは、債依心主観的本質に混乱を生ぜしむるもので
ある。先
づ使用慣値と交換債値の与
55FZ皇子、円吉田円}阿君主との区別に就て見ょう。この匝別は凡そ憤値を論ホノる者の、
一般に看過せざるところである。アダム・スミスも「債値たる語はニつの異なる意味を有つc
時としては或る特定の
客僅の放用を一五ひ現はし、時としてはその客種の一所有がもたらすところの他の財を購買する力を一五ひ表はす」と一式ふ。
(者。
μ5azEO口曲、の山口口山口ば冊。.H-H
】・日0
・)然し之は、債値なる語に二つの朋訟のあることを認むるのみにして、雨者
が一つの概念の下に於ける二つの種別なるや否や、両者の闘係に就ては別に説くところはない。。填太利皐誠にありて
はブ正統皐誠に於けるが如くとの種別を認め、雨者の闘係を共の如く説明する。経済の殻達尚ほ未だ低く、交換の行
はれざる場合にありでは、経済者の需要を充すためには唯だ直接的に自らの努力によりて之を調達したくてはならぬ。
この場合には使用慣値のみが問題となる。然るに殻達せる経済の下にありては、経済者はこの方法以外に、その支配
の下にある財を他人の財と交換することにより、謂ゆる間接的にその需要を支足するに至る。この場合始めて交換債
値たるものが問題となって採る。印ち一財が直接的に経済者の欲笠を交足することによりて得る意義た使用慣値と云
ひ、間接的に交換を通じて経済者の欲竪を充足することにより得る意義を、交換憤値と見てゐるのである。
然らば使則慣値と交換債値とは如何なる開係に立っか。メンガア
。・
zg町内町円によれば、孤立経済に於ては財は経
持者にとり使用債値を有するか、或は一般に慣値を有せざるかである。然るに護達せる文化欣態の下にありては、又
活設なる交易の行はる
ι
‘工場合にありでは、財は使用慣値を有するのみなる場合と、交換償値のみを有する場合とがあ
り得る。前者は例へば祖先の遺した文書の如く、特定の人には大なる使用慣偵を有するが、必歩しも交換の可能性を
有つものではない。後者は例へぽ商品として存在する財の如く、買手にとりでは使間川t慣値は認められぬが交換債値は
大である。然し師に名づくるに足るほどの交換流通の殻達せる場合に於ては、経済者はその支配の下にある財を、そ
の欲望充足のために直接的方法に於て用ふるか、或は間接的方法に於て用ふるかを選揮することが出来る。従って経
済財は彼等にとりては原則として、使用慣値と同時に交換慣値を有する。
(の吋ロロ仏師MHR而色町吋〈。]]同盟主一吋門的口町同時
Z-my「9同也凶
MF
ω・ロ臼・)即ち雨者は理論上互に排除せざるのみなら歩、原則として同時に経済財に現はる与に至るものである。従て雨
者の差異は、皐に之を以て欲望を充足する方法の上に存するのみとなる。原則としてと一耳ふは通常の場合と一耳ふほと
の意味にして、同より例外なきことを将ふるものではない。
この直別は経済憤値以外の慣値現象に見られざることであるが、その性質上自ら一方を客観的なるものに、他方を
主観的なるものに結付けしむる萌芽を含んでゐる。印ち一は交換に用ふる場合なるがために、それが獲得する力を息
はしめ、従って叉共れに換へらるL
財の量を考へしむるに反して、他は直接的に之を使用する場合なるがために、共
れによりて受くるところの故果を息はしむるがためである。正統朗半減の撃者も多く奉ぐるところの例誰たる、織と金
剛石との比較、印ち前者は交換債値小なれども使用慣値は大きく、後者は交換慣値多けれども使用慣値は少しとする
が如きことも、両者の償値の内存として考ふるところ、必ホノしも本質的に等しき一つのものに統合せらるべきもので
経済債依理論の一節(高垣)
東京商科大築研究年報
経済事研究第三放
はない。慣格と同組せらるλ
意味に於て使用慣値を考ふること玩に自然ではなく、客観的意義に於て之を考へるなら
ぽ、財の客観的能力を問題とするの外はない。填太利撃抵の所説に於ても、使用慣値に就ては之を前日用性に結びつけ
てその主観的たる側を強く浮上らせながら、交換憤値に就ては動もすれば之を他の財を獲得すべき可能性即ち購買力
として考へ、客観的意味に之を特化するの傾きを示した。印ち主観主義自らの中にさへ、斯かる紛糾を喚ぴ起すべき
機縁を含んでゐるo
主観主義憤値理論の下にありでは、嗣種の償値ともに主観的のものたるべく、何れも評慣主程に
よりて判断せらるλ
亘要性の認識でなくてはならぬ、印ち一は直接の使用によりて、他は他財を得るために用ふるこ
とによりて。若し交換に用ふることも使用の一方法に外ならナと見るときは、この匝別を立てL
使用慣値と交換償値
となすことは意味をなさぬ。之を直接慣値と間接慣値と見るは、或はよくその意味を倖ふること与なるであらう。
弐に経済慣値の匝別として一般に認められてゐるものは、主観的憤値
EZmE42当
2と客観的慣値
o忍岳号巾ニ〈
2
との別であり、填太利祭抵の理論の上にも一般に見らるλ
ことである。然し之を混乱のまL
に放任することは、主観
的立場を取るものにありでは撞着を免れたいことである。ボェ
l
ム・パヴエルクの如きも、この貼には大に考慮を廻
らしてゐるのが見受けられる。印ち二つの慣値概念を認め、主観的意義に於ける憤値者免許吉田口ぷ島円
74225とは、
或る主慢の一順一祉の目的に謝して或る財若しくは財の量が有する重要性であるとし、客観的意義に於ける償値巧
35
。sorH28∞…ロロとは、
一定の外的、客観的殻果をもたらすべく、五口人の判断に於て認められた財の埴性、円売
zffx
であるとしてゐる。従って後者に就ては、財と我等が達成せんと欲する客観的目的若しくは故果との閥係に感じて、
この意味に於ける慣値が問題となるべく、例へば燃料の熱憤値、食物の皆養償値、艦船の戦闘悦値等L」云ふが如きこ
とが之に属するであらう。然し此等の事責はたとへ慣値の名によりて呼ばれようとも、純技術的闘係に属することで
あって、経済撃の問題としては何等の闘係をも有たない。客観的意義に於て問題となることは財の客観的交換債値で
あって、交換に於ける財の客観的たの色
zaであり、換言すれば典へられたる事費的関係の下に、交換流通に於て他
の財の一定量を獲得し得ペき可能性である。之が経済墜上極めて重要の問題をなすべきことは一五ふまでもない。理論
上、客観的債値が殊に説明の目標となるものと一式ひ得るならば、主観的債値は説明の手段とも解せられると云ふ。
FautgE回ZRFHMSR宮、pg丘四仏巾国関目立
EgvH-EaHCMHuω・ロ∞IHS-)斯く一方に於ては人類の一耐祉に劃する重要性と、
他方に於ては他の財と交換せらるべき客観的能力と、共通の特質を含まざるものを包容して、統一的概念を導き出す
ことの無意味なるは、ボェ
1ム自らもよく認めてゐるところである。或る語の内容、或はその用法等が、時代の推移
と共に動いて行くのは避け難いことであって、その時型選の道行を跡付けることは言語撃者の仕事に委ね斗ばならぬ。
債値の諸に合まる与内容を饗へ、従ってその語の縛用乃至は分裂を来してゐる以上は、債値の理論自らもそれに臨じ
て調整して行かねばならぬ。全く具なるべき謝象をば、同一の名辞にて呼ばねばならぬことは、同より不合理極まる
ことである。債値の理論に於ける混乱と腰昧とは、過去より停はった惰性に慣らされて、一言葉を濫用したことに由来
するとこ4
ろが大であるo
師にその不合理を認める友らばその医加を正し、経済患に於ても、
一方には主観的慣値と、
他方には交換可能性たる購買力と、
二つの方向にその理論を展開せしめ、それを規定する根本原理を尋ねて行かねば
ならぬ。
債値を主観的なるものと解する以上は、ディ1λの一式ふ如き意味に於て、有らゆる時代有らゆる民族に共通なる債
経済償依理論の一節(高垣)
東京商科大事研究年報
経済同学併究第三時抗
四
値理論は存したいと云ふことも認めねばならぬ。併値理論の課題は経済生活の歴史的形態に従って著しく異なり、例
へぽ家族経済の時代と流通経済の時代とに於て、甚だ具なる慣値現象を生じ、経済組織の相違すると共に慣値問題も
自ら兵たるであらう。流通経済に先だっ経済時代印ち家族経済の下にありでは、家族自らの欲望に従つてのみ慣値判
断は行はるべく、そこに問題となることは謂ゆる使用悦値であって、純粋に主観的問人的のものである。之と具なhy
流通経済の下にありでは、慣値は終極に於て例人的評慣に蹄荒することは勿論であるが、そ市等のい什似は自ら或る千
均的たる大さに一致する傾向あ夕、主観的なる個々の評慣、印ち各個人の欲求の窮迫性、所有及び所得の欣態等よれy
離れて成立ち得ることである。慣値に客観性ある如く聯想せしむるはこの故であり、ディ
1ルはこの貼に問みて普通
慣値と愛芳慣他。mgaHH2312F〉伊
EogJ司ロユとの百一別を立てた。前者は或る事物に針し倒人的汗慣に某いて賦
興せらるミ慣値であり、後者は市場慣格の中に現はる土慣値であ一り、
一般的千均的評慣に従って究買債格の中に具哩
化せらるミ貨物の慣値である。通例経済生活に於て、或る債格の支挽にあたり現はれて来るのは普遍償値であり、特
に欲求せらソQ
L
貨物と一式ふが如く稀な場合にのみ、愛着慣値が現象の上に現れると見るのである。(同盟問
EAEgRF
Z邑8白
HUWCロ・
ωE-]SFω・司・
0EEZm乱開問己・〈。-wgEREEWH同
HPHcupω・58・)主観的仙人的なる慣値に一般性
を帯ばしめる所以に就ては、失節に於て私見を述べて見たい。上越の如き説明のみを以てしては、未だ謂ゆる普遍州国
値たるものそ成立する根擦は明かにせられ歩、慣値現象の普通的性質は説かれない。偵値に客観的なる或るものを抽出
想するととは、憤値の佐賀白樫の許さどるととろである。
慣値の理論はびとり経済撃の占有し得ぺきものではない。殊に枇舎生活の護展と共に生活内容の複雑化を来たし、
それに連れて諸種の慣値現象を生じ慣値の内容を稜雑たらしめた。祉舎には諸種の行動の部面あり、制度がある。そ
の各分野に於て其れに特有なる償値現象を生AYベく、撃問的、道徳的、事術的償値等は経済慣値と相並んで、
一般債
値現象の一部分を構成する。然れぽ各個の債値現象の領域に於て、殊に主として墜問、道徳、事術等の方面に於て員
善美の問題として、或は経済生活に於ては妓用性若しくは交換性の問題として各別に論究せられしに劃し、此等を賞
過する一つの統一一原理の上に、有ゆる償値現象を取扱はんとする一般偵値理論の研究は、最近数十年準問上の要求と
して現はれて来た。市して締ての償値は客観的責在それ白煙ではたく、或る標準に閥らしめての被判断封象と意識的
主樫との閥係の中に成立するものであり、主煙によりて意識せられ判断せらるべきものなるを以て、主観的、心理的
性質を有するものであるo
如何なる生活の領域に於ても債値ありとせられることは、その分野の生活目的に劃し或る事物が有意義であり、役
立つことでたくてはならぬ。政治生活の目的を達するために有意義たりと解せられるとき、そこに政治慣値の現象を
生47ベく、経済生活の目的に役立つとせらる与とき、経済憤値を生やノるものである。従って憤値は目的を議想するこ
とであり、之を標準として或る事物の有する重要性を判断したものである。償値は在るところの事物又はその性質に
終済償僚理論の一節(高知一)
一五
東京商科大泉町附究年報
終涛泉研究紘一一一鋭
あらすして、或る関係に就て斯くありと判断せらる斗ことなるぺきを以て、主慌の判断を侠たなくてはならぬ。慣値
を心盟的現象と見なくてはならぬ所以は之れである。斯く償値は或る生活上の目的を前提するものであるが、その闘
係を意識するに就ては、判断者の自由なる意思、欲求のみによら夕、之を規制するところの枇合的なる、従って例人
の判断を支配する力がある。評慣する主慢はこの力の影響の下に立ち、又斯く判断すべき生得的傾向をもってゐる。
拾に個人的主観的なる慣値現象にも、枇合的一様性と連績性とを具ふること与なる。
慣値の心理主義は償値現象を純梓個人的のものと限定するのではない。之は一位合生活によりて瑳注し、叉逆に例人
放に一位舎に影響を興ふるものなることを認めるo
査し、各側人は異なりて反動作し、時恨んベなる可礎性を現すべき京地
を有すれども、倒人は枇合からの影響を免る三乞件ナ、一杭合今一世に倒きつλ
ある作川に支配せらる斗ものにして、此
等は偶人の慣値判断の上に現はる-A
が故であるo
例人的経験たる債依が枇合的なる作川に依存し、又逆に枇合的作川
ともなる所以は、少くとも弐の如く之友説明することを得るであらう。印ち例人は偵値を判断し識別する牛一件的能力
に於て、その血放的及び枇合的泊先に負ふこと、例人は枇合生活上同様の保件に作用せられ、その後六的影響を共に
寸ること、例人の慣値判断は直接父は間接に、他の例人によりて著しく影特せらるλ
こと、等之であるむ'叩ち枇合を
形成する個人は自ら立識する主樫なゐと北ハに、その立識故に意識の顕現は他の例人の立識から
ω影響を交け、ー人選に
それに影響するは体件となるc
斯かる刊向によりて、本来例人的なる偵値現象にも枕合的なる性質を生ドし、例人の償位
判断を導くべき枇合的影響を生じて来る。然れば次の問題は、例人の心到にU
仲間脅する枇合的なる力は、如何なる方法
に於てするかと一五ふことであるc
枇曾在一つの意識する主慢と見、その心の存在を認むることは、思ふに十九世紀中葉の生物堅殻遣の影響を受けて
生れたる枇含有機鶴一説の反映と見らるべきものであるo
之に立脚して米闘に於てはクラアク』・ロ・
0副長セリグマン
開-Hpkt・∞町一一mgmg等は、杭曾悦値比什しくは祉合的限界説用などの理論を立てたο印ち枇舎の意識する限界致用があ
り、世舎の判断する償値があるとしたのである。
Mmしながら杜合生活は有機慢とは遥かに異なるものであって、枇合
的集闇はその性質、その行動に於て、有機慢の細胞とは全く具たるところの、自己意識的、自決的なる仰人より成つ
てゐる。祉合生活に於ては、有機慣に類似を見出し件ない多くの僚件がある。従ってこの設は一般の支持を受け得な
いものであるo
心理主義の立場より云へば、社舎は共同の目的のために心理的相互作用の行はるλ
範聞である。例人は枇舎を形作
る一人として、祉舎の構成に参興すると共にその影響を離るλ
ことを件ない。然しながらこの場合、総ての心理作則
は個人の心に存する。例人心を超越する一世舎心はなく、例人の立識を超えてその外に立つ枇合の意識はない。例人の
心頭的構成は枇合的環境の下に張出し、その作用は枇命日的影響に支配せられる。陪示、模倣等が如何に川人の行動方
訟を決定し、例人の判断を一様化するかは、之れまで吐合同時γ
殺、心珂同学宥の説明してゐるところであるo
遺体、習慣、
倖統等が縦に問先なる時代を通じて枇舎を川化する力となるととは、
械に同時代の例人に血判する作用と
同じく看過することそ得ない。遺悼は生命の連続であるが、同時に枇合的連績のや一閉山的某礎をなすものである。ょに
よりて秋代より世代に沙り、
その開放の内在的特性般に心川的機構が時貨に保持せられるc
即ち汎ゆる正常山一間人は
品川(増的たる本能を有ち、多くの符慣を形成すべき能力を有ち、父時ぽ同様に感情し、思杉し、叩知する能力を有づて
経済債依珂論の一郎(高垣)
ヒ
東京商科大祭研究年報
終済拳研究第三貌
/i、
生れて京市る。新かる遺倖的能力あるにあらざれぽ、社合的連践の如きはあり得たい。事責上各個人の有機的構造の一
様性、心理的構成の一様性によりて、歴史的吐合的蓮績は可能とされる。斯かる能力は同より伺人によりて具なるこ
とを菟れないが、之を祉合的に大観すれば、
一様牲を有するものと云ふは不営ではない。遺体と共に枇合的連績を可
能たらしむる自然的基礎は、自然的環境の蓮績である。地理的環境並に之に加へられたる人魚的改造は、相官に永き
期聞を通じて習慣を維持し、習慣を打立つる力となる。絶て此等は各佃人に劃し同様たる刺戟とた夕、相似たる反動
作を起さしめ、斯くして社合的統一、社合的蓮績を可能ならしめる。
個人によりて取得せられたる習慣が、世代土り世代に遺体せらる込ことも、一耽曾的連続に於ける主なる要素と考へ
られる。斯くして停播せらると管慣を枇合的慣習と一五ふが、との倖建の過程は、種々たる枇合統制手段の塵力によっ
て一暦昨買にせられる。桐人の祉舎に生れ来たるや、その環境は比較的確定したる行動方法を有ち、相互に或る定ま
れる閥係を保つ人々を以て充たされてゐる。換言すれば、個人は比較的に同定せる社合的構造の内に生れて来るo
こ
の内にありて習慣を形成する能力によりて吐舎の行動様式を取り上げ、その一世合生活を連績するo
慣用自はその起源並
に生成に於ては心理的なれども、出来上れるものとしては各例人に封して外在的に働きかけるが故に、之を
2H然的要
素の如く考ふることを得る。
此等の遺停、環境、習慣等は人類以下の動物の枇合的禁固にも見出され、その一枇命日的連続を説明し得るものであら
うが、人類吐舎の歴史的文化的連績は、此等のみによりでは説明せられ歩、更に他の要素を考へねばならぬο
そは前
ゆる枇合的侍統によるととであって、遁去よ
P受稽がれたる知識、観念、標準、慣値等を意味するc
之は削ち世代よ
-P世代に棋を張れる、思考し感情する習慣的方法であって、人類
ω知識の殻遣によりて可能ならしめられたものであ
る。我等の知る限り偉統は動物の一位舎には恐らく成立ち得ざるものにして、人類社舎の連績を特徴づける特有のも心
である。高き文化の賞展段階に於ける複雑せる習慣は、過去より受糟がれたる知識D集積なくしては、人類の枇舎に
打立てられや又維持せられない。ホヴプハウスは一五ふ、「倖統の一砿舎の賞展に於けるは、遺停の種族の生理的殻達に於
けるが如くであるo
そは過去と未来とを結ぶ蓮鎖であり、その中に過去の抜来は統合せられ、その基礎の上に将来の
補正は樹立せられる」と。(目、『・出
ogog3F口町田】切さ
-ESS仏司
oEB】叶ymO門司、同省
-ER・)斯くして生4yる停統の護
遣は、一世舎にとりては具樫的物質的環境に置換ふるに、心理的環境を以てすることを意味し、文化的歴史的連績の基
礎をなすものである。遺体と体統とは一は生物的にして他は心理的なる本質上の差異があ
p、習慣と悼統とは一は多
く行動の方法に闘し、他は多く心珂的内容に闘する。
此等の作用によりて、佃人はその接蝿する特定の側人心心理作用によらざる、然かも物理的勢力にもあらざゐ、外
部的なる拘束力を感守るQ
即ち個人の目的、意思に反し、之を抑制する枇曾的客観の世界にあることを感歩る。デュ
ルケ
lムはこの事責に顧みて、我等は一の集聞に生活する以上、そこに琵達したる社合的潮流の
25己回目。己主同の文
配を受けざるを得ない。この潮流は佃人に劃して外部的、客観的なる力として作用し、個人は自己の意思を抑へでも、
こ心力に従はねばならぬことを感やノると詑き、外部性、客観性、強墜性を有するの故を以て、枇合意識の責在設をと
った。(開・ロロ司WZEw円
巾
帥
吋
bm-gru百件ro白巾
叩
Dnzz松宮町、℃・口¥)
然しながら如何なる意味に於ても、例人の心、偶人の意識を超越する、吐舎の心、社舎の意識を想定することは、
経済僚値理論の一節(高垣)
九
東京市科大間学研究年報
終済泉町附究第三披
O
我等現布
ω科県的知識を揃見せしめやノ、その質化を説明するに足る十分の材料は
ιしない。思考し、感情し、意思す
るものは例人であって、枇命日は此等の例人心相万一作川と北ハ川作川L
」心方法によりて結成されたものである。故に枇曾
的集闘に於ける例人の枇合的心瑚現裂はあるけれども、
例人心と川校
CE味に於ける枇合心の如きものはないο
枇曾
心月一現象は、
例人外のが貰の例人心叩に以映せられて生する一而であり、杭合生活によりて生やノる側人心の枇合的側
出に外たらぬ。印ち前ゆる枇合心は例人心の中に作する心謂はいゐ枇合心、
吐合立識にはあらやyして、
心心枇舎でありノ、
意識
ω枇舎である。例人心刊の立脚賄より一位合心理現象を説き、一川待問心川町民子を椛成せんとする傾向山近時に於て漸く
府間著なることは、王山口同の要求に山内づるものと一五はねばならぬ。
拾に憤値現象の性質を明かにするためには、償値判断の判断としての内本を明瞭にすることを必要とする。この場
AH償値の判断と貫在の一判断官官
BBHrgZ52ymmg司王含円bp一一芯とは明かに区別されねばならぬことである。
一は山単なる一争責の判断なるに封して、他は意識的主慌に劃する閥係に於て、客慢に或る意義生賦興する判断である。
前者
ω場合に於ては、主僅の欲望、感情、意思等一切の意識扶態に顧みることなく、客樫に或る性質を割賞つるもの
にして、
その判断は客観性を目指してゐる。然るに後者の場合にありでは、客僅に或る客観的性質の存することを確
定することのみを以て満足してはゐない。その判断は評慣的性質を有するが故に、感情、意思等の介入することを無
同し件ないものである。若し客樫たる事物、人、行均等が主僅の内に惹起すところの、斯かる心理的欣態を考慮の中
に入れす、之を無嗣するものであるならば、そは全く州国値判断としての意味を失ふ。慣値の判断は純粋に客樫の性質
のみを取上げたるものにあら歩、その性質に封する主樫の態度を一川すものであるc
印ちそは主観性を有する。勿論こ
の場介、主観的容間的なる一一一H柴の川び万には一以封の立見のあり川げることを想像し得るc
唯心論乃烹は硯九正枝川の江川切に
於ては、外凶作の賓在それ自ら一も我等の心を離れては存在せや、出物は之を知覧する斤人の感性たくしては志味を有た
たい。市物の性質は之を珂解する古人の
m山々だくしては珂解し刊げたいと一五はれる。従ってその立場にありでは、
.l'l. 上
の如く容観的と主観的?にを区別することは許されまいC
M
m
し観念論か賢作揃かの古くして同雑なる問題には、段、によ
入るを必.要としない。之を一方的に解決することは向ほ水く多くの皐将の思索に残してよい問題であらう。唯心)品川者
の立場に於ては、有ゆる判断はたとへ賓在の性質を一式ひ現はすものであるにしても、主慢の心珂によりて把握せられ、
その心理扶態を反映するものと見らるL
が故に、
主観的である。従ってその意味よりえへば、設に式ふ川田値の判断は
主観を通じて把握するのみなら歩、汗償的性質をも一五ひ現はすものなるを以て、・二去に主観的であるo
この後の意味
に於ける主観性を取去るとき、総ての俄他現象は消滅する。悦値は主樫の欲求、感伯、児怨等の立識吠態との闘係に
於て存在する。伯偵の判断は岡崎性賦典的なると同時に、感覚的一什悦的である。之は例人の利那的なる印象より離れ、
伺人の一時的気分とは異なる汗併を事物に賦興する。汗慣が賞在なるかの如き感を興ふるはこのためであるが、我等
は感覚性を有すると同時に智能を有するを以て、その一判断は現花の心開欣態のみに同限せられない。従って一方に同
闘し得ベく、他方に議見するととを得る。一一」口ひ換へれば抽象することを得べく、又普遍化することを得るo
利那的印
象より離れて事物を感覚し得て、之に客観的なるかの如き汗債を輿へ得るはこの故である。然れぽ悦値判断の主観的
なることは孤立例人的なるにあらやして、謂はど一批舎側人的目。円円。,r己主(THE-
なることにある。
弐に慣値の存在するがためには、主観と客観との問に若干の距離の存することを必要とするか。
一般にはこの鈷を
材料涛債償問論の一節(高対)
東京商科大闘争餅究年報
経済率研究第一二放
承認するものλ
如く、殊に経済憤値に於て著しいことである。ジムメルの-m一BE巳によるも、官了換の利那、印ち主
憧と客僅とが雨者の問に存したる衝突を除却するとき慣値は吸収せられ、主憧から分離せられ客樫として之に封立せ
らる与とき債値は現はれる。獲得の困難を感じ、喪失の懸念、獲得のために戟ふの必要を感やるとき債値は生じて来
る。事物が我等に費さしむる努力は剖ち一一種の犠牲にして、獲得困難なればなるだけ、
一一唐その憤値は浮び上って来
る。この開係は、主盟と客憶との聞に他の主僅の立入るととによりても増加せられる。との場合、主憧の聞に競争を
生じ、競争の範閣の蹟大は需要の密度を増加するが故である。憤値に客観性あるが如く思惟せしむる原因の一は誌に
もある。多くの人の潟し得ざる行潟たるが故に、或る行震の善なる性質が高められ、界易に見出されざる景色なるが
故に、美なる性質が増さる斗が如き一般の事賓は存すれども、この闘係は特に経済償偵の場合に明かにせられてゐる。
即ち妓用性と稀少性
ZZ円N-一円yrmpd・∞
012TFとを以て、等しく経済慣値の原円として封立せしむること是れである。
例へぽメンガアに従へば、経済者の財に劃する需要或は欲望と、支配し件べき財心量と
ω闘係に於て、前者が後者よ
りも大なる場合一般に慣値の問題を生十る。印ちその場合、欲望の一部は充足され十して残されねばならぬし、又支
配し得べき財の極小部分の存在すると否とによりて、欲望充足が影響を受けざるを得たい。
「今、経済者がこの事情
を意識するならば、即ち各部分量に到する支配に、若しくは上の如き数量閥係にある各財に、彼等の欲望充足が依存
することを認識するならば、この財は欲望充足そのものが彼等に封して有っところの意義を獲得することL
なるo
こ
の意義を我等は債値と呼ぶ。故に慣値は我佐一寸の欲笠充足が財に封する支配に依存することを意識することにより、財
が我等に劃して得るところの意義であるしとした。(のE邑gQ町一
gMUwω-J3i司・)而してメンガアに於ては、上越の如
き需要或は欲望と支配し得ぺき財の量との数量闘係は、凡そ経済性巧吉田口FPEwrr一円の、従って又財の経済的性質
L2cwoロOBUnZ
円
urSF2ω2052の費生する唯一の保件であるが故に、財はこの閥係に遭遇することによりて.
経済財たる性質を得ると共に慣値を得る。従って憤値現象は斯かる数量闘係にある財に就てのみ見られる。然らざる
財は欲望充足に役立ち得る能力、部ち殻用性は有するのであるが、事情が費じて上述の数量闘係に瓦つに王らざる限
り、慣値を有し得ないこと-A
されてゐる。
私見によれば、主僅と客樫とは離れて存在することを前提とし、両者の融合するとき、憤値現象も亦解消せられる
ことは云ふ迄もたいが、それは雨者の離れて存在することを要求するのみであり、必やしもその問に獲得の難易、存
在量白多寡を問題とする詮明にはならぬ。稀少性並に獲得の困難は、同じく慣値の原因たることの中にも従属的なる
繭係に立つQ
稀少を感ぜしめ、獲得の欲望を持たしむるは、既に放用性を認むることを前提とするが故である。稀少
性、獲得の困難と一式ふは、物理的絶劃的意味に於て一五ふにあら守して、客樫と主僅との相封的関係に於て一耳ふことで
ある。稀少なりとするとと師に有用なることを前提するものでなくてはならぬ。
郎ち慣値現象の現在するためには、観念上債値質意識と債値量意識と在別けて考へねばたらぬ。兵鵠的事賓の問題
としては、恰かも数拳上の貸さなくしてたY位置のみを有する鞘を考ふることの困難なると同様に、債値の存在を忠
ふためには、債値の性質と共に慣値の大さを考へざる在得ぬことが少くないであらう。債値質のみありて慣値量なき
ものを想定することは、少くとも流通経済の現象としては意味のないことである。然し事責上より之を見るも、債値
を有するためには稀少たるのみにては足らや、先づ何等かの拭用あることを前提せねばならぬ。経済債値は費用なく
終済償値理論の一節(高垣)
ト米京商科L
八町内十日附究年報
終確川泉州究第一一一波
11当
して存し件れども、放周若しくはその橡想たくして存するを得ない。費削を投ナるとも慣値を生ぜしめないことがあ
り得る。或る客樫を有偵値の欣態に導き来るがために、如何に多くの費用を要したりとするも、それが主慢によりて
債値ありと判断せらるふにあらざれば、債値在生占yることはない。或る客慢を得るがために労働及び生産費の投ぜら
るL
と云ふも、結局之が慎値ありと判断せらるh
に至るべきことを前提するが故にして、弊働及び生産費を誘導して、
之に特定の方向を取らしむる所以がなくてはならぬ。その原因は用ひらるL
附労働の以前にあり、加へらるL
生産費に
先ちてト仔花し、慣値の根源として第一弐的なる性質を有するものである。等しく慣値なる意味に於て同様の立場にあ
るべきに拘ら歩、謂ゆる超越的低値
5ロ∞
NB(】
gE24342と稽せらるλ
ものが、得観的作在畳とは全く閥係なくあり
件るに謝して、経済慣値のみが特殊の取扱を受くるが如く見らるれども、(こ白一黙に就ては例へば左右旦品二郎会集会第二、
四五一頁以下を参照)との意味に於ては経済慣値も具なるところはないc
以上の如く解せらるλ
主観的なる慣値は、許憤者の意識的存在であり、従って意識一般心性質として、大さは有す
れども測定し件ベき量ではない。然るに交換せらるべき財の倒値が相万一に比較せられ、その結果として交換せらるべ
き比率となり、悦格として表示せらるL
ときは、明かに正確に測定せられ件る最となり、純然たる客観的数日賓として
取扱はれる。主観的欣熊より存観的数量に至る展開には、
その間輸ゆべからざる溝渠を越え、論理を飛躍せしめでは
ゐないか。師に或る財に封する立識吠態が他の財に封する窓識欣態と封立せられ、両者が選揮可能のもりとして比較
せらる込ところに、主観から存制へ、債依より慣格への民間を導くべき萌芽がある。
巧妙なる例誌は決してい品物本来心性質を明かにするものにあら歩、比品開は佐々にして肢となるが、凡そ斯くの如き
事費は、我等の一枇合作一活の一上に庇ぱ凡らるLH訴しき出品象にして、枇合生活に於ける何(比一の要求の毘みたるものに外た
らない。主観的意識の欣態を七公示するに、
口一論文字等の如き客観的表現を以て
L、然かも何等の不AH理をも忠ばざる
が如きは、
常に身遁に見らる斗著しい場介である。
へアダアH
・0・4・Z2nr『の持て一五へる如く、
知可こして限こよる
1
i
l
-
-
1
1
形像や綿ての感覚を、一ヰ日報によりて代表せしむることを作るか。否、思想を式円荏に去現せしめ、一昔撃を吏に記述の上
にい口氏一不することを件るか。若し突如として我等にこの謎の如き疑問を琵せらるλ
としたならば、恐らくは我等は、故
も異なる封象を混同し、色を-4Hに、首躍を思想に特化せんと試むる狂人の試問として排棄するであらう。然しながら
との品の如き事貰こそ、官際生前の一上に疑惑を本れざる解答として存花ぜるところである。共搾的トぃ火現それ自らとし
ては、営然に主観的欣態と本質相通するものにあらナ、
客観化左詐されたものではないが、
両者を結びつけ、
UHドリ,こ
J4J
ー
闘聯せしむること底ばなるときは枇伶的珂刷所在生じ、殊によが杭合的慣行ともならば、同将は不可離の閥係を我等の
観念上に件て、その木質相隔たることには刷みらふλ
ことなく、その推移する揮路を川はる与ととなく、客観的夫現
は直ちに主観的欣態の長一不なる如く見らる与に支る。走れ本来、主観をψ
什削脱化することの可能なるがためにあらすし
て、批合生活に於ける便宜の要求に北川き、
一般に是認せらソ心主に五ったもの一であるc
主観的慣似より例絡的表現への
心珂的経過も、之とその趣を一にする。即ち債格は主観的なる杭持MM値を正確に客脱化したものではなく、流通存樫
に刑判する慣値判断に法き、流通首長符によりて試定せられたも
ωに過ぎない。その聞の推移には何等の不合珂もなく、
況んやまた腔術もないc
悦他の珂摘には向ほ数多の問題が含まれてゐるが、
複雑多岐の晶賠を沙搬しゆくことは拾に私の目指すところでは
的れ拙川侠依
m川論
ω一
節
(
古
川
虻
)
とfi.
東京商科大挙研究年報
絞済附学研究策一一
4
放
一一一』
ノ、
ない。殊に債値理論については、我聞に於ても師に先輩の取扱ばれた貴重の文献が多いが、
こλ
では殊更に之に開設
しなかったω
この小篇に於ては、たY経済債値理論の理論上の地位と、債値現象の性質とにつき、率直に私見を述べ
て他日の修正を約束するに止めたい。(昭和九、一二、一ニO、稿了)