パロディ的な四楽章(1936) - sound.jpProgram Note 奥平 一...

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Program Note 奥平 一 「パロディ的な四楽章」は、1933 年作曲者 26 歳の時に 作曲した管弦楽作品「五つのパロディ」を基に、1936 年 秋に募集された新交響楽団「邦人作品コンクール」へ応募 するため改作された作品である。主な改作のポイントは、 四点。第三曲目の削除、第一楽章推移部の追加、第四楽章 コーダの追加、全楽章の2管編成から3管編成へ大幅な オーケストレーション再構成、特に第二楽章の全面改訂、 などである。 1937 年、指揮・ローゼンシュトック (Joseph Rosenstock)、 ピアノ・井口基成、管弦楽・新交響楽団(現・NHK交響楽団) により初演され、1942 年の同じローゼンシュトック指揮 による再演以降、楽譜が失われていた。このため、戦後の 演奏や録音は「五つのパロディ」のうち、該当する4楽章 分の楽譜を代替して行なわれていた。 2004 年にオリジナル楽譜が発見され、この楽譜の影印 本を 2005 年全音楽譜出版社が出版した。本日の演奏は、 出版楽譜より新たに作成したオーケストラ・パート譜面に 基づいている。なお、譜面の作成にあたっては、柴山洋氏 により綿密な校正が行なわれたことを表記しておきたい。 従って、「パロディ的な四楽章」のオリジナル楽譜によ る演奏は、65 年ぶりのこととなる。 曲は、四つの楽章から構成されていて、順に「緩-急- 緩-急」のテンポを採る。各楽章は、深井が興味を寄せる 同時代の作曲家たちに捧げられている。 第一楽章は Manuel de Falla( スペイン ) に、第二楽章は Igor Stravinsky(ロシア)に、第三楽章は Maurice Ravel (フランス)に、第四楽章は Albert Roussel( フランス ) に。 曲の内容は、音楽的情感 が豊かであり、聴き手の感 覚を素直に曲想に寄せて楽 しむことができる。また、 作品の構成は、西欧の作曲 家の楽想を “ パロディ化 ” していると見せかけている が、“日本の管弦楽作品” としての主張が周到に仕組 まれている。(後述、12頁 参照) 当時の聴衆たちには、そ の主張を聴き取る力量がな かったのであろうか、以後 この作品をもって深井は 「モダニスト(現代主義者、 新しがりや、と言った意)」、 「アルチザン(フランス語で職人の意)」と誤認され、その 真価を評価されないまま今日に至った。 本日の聴衆の皆様には、全音楽譜出版社発行の楽譜「パ ロディ的な四楽章」に掲載されている、林淑姫氏の見事な 解題を一読されるようお奨めしたい。 楽器編成 / 初演:本プログラム主要作品一覧(p.22)を参照 使用楽譜:スコア 「深井史郎 パロディ的な四楽章」(全音楽譜出版社 2005.8.20 発行 ISBN4-11-893612-7) 及びこれに基づくオーケストラ・ニッポニカ制 作楽譜(校訂:柴山 洋) 「パロディ的な四楽章」初演 新響邦人作品コンクール当日 1937 年(昭和 12)1 月 29 日 日比谷公会堂 ローゼンストック指揮、新 交響楽団、井口基成ピアノ(日本近代音楽館提供) 「パロディ的な四楽章」と父のスクラップブック 柴山 洋 今回の演奏会に出演、及び楽譜製作の手伝いを依頼されてか らのことだが、実家で亡くなった父の古いスクラップブックを 見つけた。中には昭和十年前後の演奏会のプログラムやラジオ での音楽番組放送の予告の載った新聞の切り抜きなどが貼って あった。父は音楽を趣味とし、自分でもマンドリンやギターを 演奏していたのでその関係のものが多かったが意外にも普通の クラシック音楽のものも多い。中に「関東学生陸上競技対抗選 手権」で「吉岡、百米十秒四の日本新記録」などという記事が 貼ってあったのが御愛嬌である。 他にはこのニッポニカでも作品を取り上げた紙恭輔:指揮、 コロナ・オーケストラで齋藤秀雄(あの齋藤秀雄)作曲のジャ ズ組曲から「冬ばらのブルース」を演奏するとかなかなか面白 い記事が載っている。「あのトーサイがジャズねえ」と思わず 笑ってしまった。「荻野綾子:独唱」という記事もあった。 さて、 それよりもびっくりしたのは、今回演奏する「パロディ的な四 楽章」を放送するという記事が貼りつけられていたことである。 昭和十三年、おそらく改作後の放送初演であろう。あわててニッ ポニカに報告した。このプログラムにその記事のコピーが載っ ているはずである。 新聞は仙台か青森のもので、仙台なら「河北新報」と言った ところだろうか。その記事が出てから何と七十年、本日演奏に 参加するのは何か因縁を感じてしまう。個人的には、物を出し たら出しっ放し、レコードを聞けば内袋に入れず直接ジャケッ トにしまってしまう、と言った片づけの全くできない父だった ので新聞記事を切り抜いたりプログラムを貼りつけて保存する などというのは意外な一面を見た気がする。ちょっと幸せな気 持ちになった。 「パロディ的な四楽章」に関しては、明らかな臨時記号の付け 忘れとか移調の間違いと思われるところなどを校訂した。 また、「ディベルティスマン」は出版された楽譜に文字の誤 植が多く、フランス語のタイトルをいくつか校訂した。 (オーボエ奏者/「パロディ的な四楽章」楽譜校訂) ※新聞記事の内容※ 現代日本の音樂 國產管絃樂曲を每月定期演奏 第一回は深井史郞の作曲 ピアノ独奏 井口 基成 管弦樂 日本放送交響樂團 指揮 深井 史郎 昨年まで第二放送で放送して ゐた「現代日本の音樂」は最 近我作曲界の目覺しい進展と ともに大編成の管絃樂曲も多 數現はれる樣になつたが發表 の機會に恵まれずそのまゝ埋 れるものもある有樣なので今 月から第一放送で毎月一回定期演奏をし日本人の作品を鑑賞すると ともにこの作曲界の機運を助長し併せて一般の批判を求めるために 企てられたものである【写真は深井史郎氏】 深井史郎作曲 パロデイ的な四楽章 1「フアリア」2「ストラヴインスキー」3「ラヴェル」4「ルッセル」 昨年度の新春作曲コンクールで一等となつた作品で、作者がかつて 「五つのパロデイ」としてラヂオで發表したことのある管絃樂曲、こ れを四つだけにして樂器編成に筆を加えたものである。各作曲家の 横顔を描いたもので巧みにそれら作曲家の手法を模倣したピアノ協 奏曲風の樂曲である。 柴山洋氏提供の新聞切り抜き (内容は左記) パロディ的な四楽章 (1936)

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  • Program Note奥平 一

     「パロディ的な四楽章」は、1933 年作曲者 26 歳の時に作曲した管弦楽作品「五つのパロディ」を基に、1936 年秋に募集された新交響楽団「邦人作品コンクール」へ応募するため改作された作品である。主な改作のポイントは、四点。第三曲目の削除、第一楽章推移部の追加、第四楽章コーダの追加、全楽章の2管編成から3管編成へ大幅なオーケストレーション再構成、特に第二楽章の全面改訂、などである。 1937年、指揮・ローゼンシュトック (JosephRosenstock)、ピアノ・井口基成、管弦楽・新交響楽団(現・NHK交響楽団)により初演され、1942 年の同じローゼンシュトック指揮による再演以降、楽譜が失われていた。このため、戦後の演奏や録音は「五つのパロディ」のうち、該当する4楽章分の楽譜を代替して行なわれていた。 2004 年にオリジナル楽譜が発見され、この楽譜の影印本を 2005 年全音楽譜出版社が出版した。本日の演奏は、出版楽譜より新たに作成したオーケストラ・パート譜面に基づいている。なお、譜面の作成にあたっては、柴山洋氏により綿密な校正が行なわれたことを表記しておきたい。 従って、「パロディ的な四楽章」のオリジナル楽譜による演奏は、65 年ぶりのこととなる。

     曲は、四つの楽章から構成されていて、順に「緩-急-緩-急」のテンポを採る。各楽章は、深井が興味を寄せる同時代の作曲家たちに捧げられている。 第一楽章は ManueldeFalla( スペイン ) に、第二楽章はIgorStravinsky(ロシア)に、第三楽章は MauriceRavel

    (フランス)に、第四楽章はAlbertRoussel(フランス)に。 曲の内容は、音楽的情感が豊かであり、聴き手の感覚を素直に曲想に寄せて楽しむことができる。また、作品の構成は、西欧の作曲家の楽想を “ パロディ化 ”していると見せかけているが、“ 日本の管弦楽作品 ”としての主張が周到に仕組まれている。(後述、12 頁参照) 当時の聴衆たちには、その主張を聴き取る力量がなかったのであろうか、以後この作品をもって深井は

    「モダニスト(現代主義者、新しがりや、と言った意)」、

    「アルチザン(フランス語で職人の意)」と誤認され、その真価を評価されないまま今日に至った。 本日の聴衆の皆様には、全音楽譜出版社発行の楽譜「パロディ的な四楽章」に掲載されている、林淑姫氏の見事な解題を一読されるようお奨めしたい。

    楽器編成 / 初演:本プログラム主要作品一覧(p.22)を参照使用楽譜:スコア 「深井史郎 パロディ的な四楽章」(全音楽譜出版社 2005.8.20 発行ISBN4-11-893612-7) 及びこれに基づくオーケストラ・ニッポニカ制作楽譜(校訂:柴山 洋)

    「パロディ的な四楽章」初演新響邦人作品コンクール当日 1937 年(昭和 12)1月 29 日 日比谷公会堂 ローゼンストック指揮、新交響楽団、井口基成ピアノ(日本近代音楽館提供)

    「パロディ的な四楽章」と父のスクラップブック柴山 洋

     今回の演奏会に出演、及び楽譜製作の手伝いを依頼されてからのことだが、実家で亡くなった父の古いスクラップブックを見つけた。中には昭和十年前後の演奏会のプログラムやラジオでの音楽番組放送の予告の載った新聞の切り抜きなどが貼ってあった。父は音楽を趣味とし、自分でもマンドリンやギターを演奏していたのでその関係のものが多かったが意外にも普通のクラシック音楽のものも多い。中に「関東学生陸上競技対抗選手権」で「吉岡、百米十秒四の日本新記録」などという記事が貼ってあったのが御愛嬌である。 他にはこのニッポニカでも作品を取り上げた紙恭輔:指揮、コロナ・オーケストラで齋藤秀雄(あの齋藤秀雄)作曲のジャズ組曲から「冬ばらのブルース」を演奏するとかなかなか面白い記事が載っている。「あのトーサイがジャズねえ」と思わず笑ってしまった。「荻野綾子:独唱」という記事もあった。 さて、それよりもびっくりしたのは、今回演奏する「パロディ的な四楽章」を放送するという記事が貼りつけられていたことである。昭和十三年、おそらく改作後の放送初演であろう。あわててニッポニカに報告した。このプログラムにその記事のコピーが載っているはずである。 新聞は仙台か青森のもので、仙台なら「河北新報」と言ったところだろうか。その記事が出てから何と七十年、本日演奏に参加するのは何か因縁を感じてしまう。個人的には、物を出したら出しっ放し、レコードを聞けば内袋に入れず直接ジャケットにしまってしまう、と言った片づけの全くできない父だったので新聞記事を切り抜いたりプログラムを貼りつけて保存するなどというのは意外な一面を見た気がする。ちょっと幸せな気持ちになった。 「パロディ的な四楽章」に関しては、明らかな臨時記号の付け忘れとか移調の間違いと思われるところなどを校訂した。

     また、「ディベルティスマン」は出版された楽譜に文字の誤植が多く、フランス語のタイトルをいくつか校訂した。

    (オーボエ奏者/「パロディ的な四楽章」楽譜校訂)

    ※新聞記事の内容※現代日本の音樂 國產管絃樂曲を每月定期演奏 第一回は深井史郞の作曲

    ピアノ独奏 井口 基成管弦樂 日本放送交響樂團

    指揮 深井 史郎昨年まで第二放送で放送してゐた「現代日本の音樂」は最近我作曲界の目覺しい進展とともに大編成の管絃樂曲も多數現はれる樣になつたが發表の機會に恵まれずそのまゝ埋れるものもある有樣なので今月から第一放送で毎月一回定期演奏をし日本人の作品を鑑賞するとともにこの作曲界の機運を助長し併せて一般の批判を求めるために企てられたものである【写真は深井史郎氏】 深井史郎作曲  パロデイ的な四楽章1「フアリア」2「ストラヴインスキー」3「ラヴェル」4「ルッセル」昨年度の新春作曲コンクールで一等となつた作品で、作者がかつて

    「五つのパロデイ」としてラヂオで發表したことのある管絃樂曲、これを四つだけにして樂器編成に筆を加えたものである。各作曲家の横顔を描いたもので巧みにそれら作曲家の手法を模倣したピアノ協奏曲風の樂曲である。

    柴山洋氏提供の新聞切り抜き(内容は左記)

    パロディ的な四楽章 (1936)

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    Program Note 奥平 一 この曲は、「現代音楽を聴く会」の委嘱により、指揮・渡邉暁雄、演奏・ラモー室内楽団によって初演された。全 11楽章から成り、各楽章には宮澤賢治の童話「雙子の星」のストーリーに基づく表題、及び音楽の性格を表す標語が付けられている。(ストーリー、及び音楽標語の詳細については、プログラム第 3 頁、次頁を参照下さい) 深井は、1951年8月にラジオ放送された宮澤賢治原作の「放送劇 雙子の星」に21場面からなる音楽を作曲しているが、ディヴェルティスマンは「チュンセ童子とポウセ童子」「大烏」のテーマなどを用いただけで、全く別の内容の作品となっている。  “Prologue” により開始されて、第二曲目「星めぐりのうた」の後、第三曲目の冒頭四小節目から始まるフルートとオーボエの二重奏は、主人公の雙子「チュンセ童子とポウセ童子」のテーマである。この曲の標語 “Organum” は、本来多様な意味を持つが、ここでは「1音対1音のスタイルで平行進行する多声音楽」の意である。 第五曲目の「大烏とさそりのけんか」を除いて全曲にわたり、フルートは常に雙子の星の象徴であり続ける。第八曲目の “Mambo” から連続して演奏される第九曲目の “Elegie” で演奏されるフルートの見事なカデンツァは、だまされて海に落ちた雙子の嘆きの歌である。最後に第一曲目の “Prologue”が回顧された後、フルートとオーボエによって、天に帰った雙子の童子がキラリと光る様(さま)を見せて、静かに終わる。 余談ではあるが、深井の作品に関心のある者であれば、第八曲目の “Mambo” が自作「ジャワの唄声」(1944)の引用であり、この部分の物語が、雙子の童子が悪いほうき星にだまされて深い海の底へ沈んでしまう、という筋であることに驚くことと思う。

     この曲の現存するオーケストラ・スコア ( 譜面 ) は三種類あり、渡邉暁雄とラモー室内楽団の初演は第二版で行なわれたと推測されるが、今回の演奏は第三版で演奏される。次頁に掲載されている初演プログラム解説には、12 曲の曲名が並んでいるが、第三版では第 10 曲目「海の王さまのお城につれていかれて」が削除され、且つ全曲の最後に、初版、第二版には無い “Prologue” の回想が付け加えられた。(その他、細かい改作がある) しかし、第三版とは、1961 年 1 月に発行の雑誌「音楽芸術」に全曲を掲載された印刷楽譜であり、自筆楽譜は後半の三楽章分を除いて現在行方不明となっている。楽器編成 / 初演:本プログラム主要作品一覧(p.23)を参照使用楽譜:スコア『音楽芸術』1961 年 1 月号 及びこれに基づくパート譜(パート譜 制作・提供:アフィニス音楽財団)

    13 の奏者のためのディヴェルティスマン初演時の写真(1955.2.25「第 8 回現代作品を聴く会」YAMAHA HALL)。初演プログラムによると、指揮:渡辺 暁雄、チェロ:黒沼 俊夫、コントラバス:坂部 信夫、フルート:加賀 正治、オーボー:鈴木 清三、クラリネット:柴田 清夫、サキソフォン:坂口 新、ファゴット:戸沢 宗雄、トラムペット:金石 幸夫、トロムボーン:島 昇、ピアノ:武沢 武、ハープ:島崎 多加、打楽器:斉藤 健・池田 好道、主催はラモー室内楽団。

    〝誰にも分る曲を〟 

    深井史郞氏との対談

     

    深井史郞氏がラモー室内

    楽団のために新作を執筆中

    である、ということは今シー

    ズンの作曲界でのトピツク

    だ。戦後十年間に、いわゆ

    る純音楽のジヤンルではカ

    ンタータが一曲あるだけ、

    (その代り映画や放送あるい

    は文筆で大分活躍されたら

    しい)という深井氏の久々

    の新作に期待を抱く者は少

    くないに違いない。この新

    作=十三の奏者のためのデ

    イヴエルテイスマンについ

    ては深井氏はみずからその

    意図する所を述べていられ

    るので、これとは別に現代

    音楽の傾向映画音楽につい

    てなど、雑多な音楽論をお

    ねがいしてみた。

     

    ◇映画はいままでにどの

    くらい作曲していますか。

    さあ、あんまりたくさんあ

    るので分らないが、まあ百

    本ぐらいかな、廿何年間か

    にだよ。映画や放送という

    と大ていの作曲家は軽蔑す

    る、いわゆる芸術的な仕事

    と生活的な仕事を分けて考

    えてる人が今の作曲家には

    多いね。映画の場合はむろ

    ん作曲家としては役不足だ

    ろうが、しかしその大衆へ

    の影響力が大きいことを考

    えると、これを無視するの

    はまちがいだと思う。作曲

    期間? 

    短かいね、三日あ

    れば良い方で、大ていは一

    日しかない。重点的に書か

    なくちや間に合わない。

     

    ◇十二音音楽について

    は?

    一種の現実逃避だね、ニヒ

    リズムだよ。いわゆる日本

    の十二音作曲家の作品はた

    だうわべの技術とか形だけ

    をまねてるんで心がかよつ

    ていない。環境とか文化が

    結びついていないと思うね。

    それから形式についても、

    今の人は自分勝手に一つの

    形をきめられる、と思つて

    いるが、これは言葉と同じ

    で、聴衆と協力してでなく

    ちや出來ないものなんだ。

     

    ◇現代の作曲家で尊敬す

    る人はだれですか。

    ラヴエルだろうね、もう現

    代とは云えないかもしれな

    いが。シヨスタコヴイツチ

    も良かつが最近少し変にな

    つた。批判というのは一度

    位はいいよ、二度、三度と

    やられると作曲家がだんだ

    ん書けなくなる。プロコフ

    イエフは「三つのオレンジ

    への恋」「キージエ中尉」な

    んかすばらしかつたが、第

    五は駄作だ。彼はシンフオ

    ニー作家じやない。

     

    ◇作曲の本質についてど

    う考えますか。

    私の場合、だれにも分る、

    ということだ。一部の特種

    な人にしか分らないような

    ものは書きたくないね。オー

    ケストラ? 

    そう、これか

    らぽつぽつ何かやりたいと

    思つている。戦争で大分打

    撃をうけたせいか、戦後は

    ずつと何もかけなかつたが。

    作曲ノート

    「十三の奏者のためのデイヴ

    エルテイスマン」について

    深井 

    史郎

    ○楽章がたくさんある組曲で

    ある。「十三の楽器のための」

    といわずに「十三の奏者のた

    めの」としたのは、或る奏者

    は持ちかえで二つ以上の楽器

    を受けもつからである。

    ○曲は誰にも分る軽いもの

    である。これは「小学校四

    年以下の」童心にうつたえ

    るもので「無邪気さとユー

    モア」を必要とする世界の

    ものである。そしてこの但

    し書のある宮沢賢治の童話

    が、この曲のプログラムに

    借用されている。この曲は、

    今日流行の「芸術のための

    芸術」ではない。またこれ

    は「自らを高しとなす人」

    の作ではなく「自らを低し

    となす人」の作である。

    ○私は精神的風土のよくな

    い今の西欧に生まれた否定

    的な音楽技術も知つている

    が、あえて否定的なものの

    否定から出発しようと考え

    た。私の批評家は、羽根を

    ついたり、かくれんぼをし

    たりする私の子供である。

    ○私の音楽は十二音音楽では

    ない。いわば十二才音楽である。

    「13 の奏者のためのディベルティスマン」自筆スコア表紙。この作品についても推敲を重ねた深井自身の手になる複数の版がある。(日本近代音楽館所蔵)

    深井史郎による自作解説その2

     (「十三の奏者のためのデイヴエルテイスマン」)

    初出:『音楽新聞』一九五五、二、六記事

    「13 の奏者のためのディヴェルティスマン」 -宮澤賢治の童話による- (1955)

    新響作品コンクール

    「パロデイ的な四樂章」

    深井 

    史郎

    初出:『音楽評論』昭和12(

    一九三七)

    年2月号

     

    自分は最近傷だらけの過去の作品をとにかく

    人前に出せる樣にと修正を施してゐる。去年の

    六月新響のプロムナード・コンサートでやつた

    「都會」もその一つであり今度のもその一つだ。

     

    この作は一九三三年、二十六歳の時の作であ

    る。自分の管絃樂のための習作とも言はれ得べ

    きものだ。青木正氏から何か書いて見ないかと

    いはれて、鎌倉にひきこもつて書いたのがこれ

    である。今から考へてみると、どうしてかうい

    ふものが生まれたかと思はれるふしもある。

     

    この曲の目的とするところは、西歐の大家の

    影響を積極的にとり入れることにあつた。何の

    せいか知らないが日本の作曲家たちが誰の影響

    も受けてゐない事は今でも不思議に思つてゐる。

    多分不勉強のためだと思つてゐる。僕は影響を

    積極的にとり入れることに先づ腐心する。營養

    不良な所謂日本的作曲などゝいふ奴はしたくな

    い。

     

    この曲はいつか舊稿のまゝ諸井三郎氏におみ

    せした事がある。彼はこの曲のオモフオニック

    でありすぎる傾向を指摘してくれた。これもさ

    うだが何よりいけないことは、トナールがうま

    い具合に動いてゐないことだ。色々なオーケス

    トレーションで衣裳をつけてゐるもののこの缺

    點はどうも耳についてしようがない。

     

    全部四樂章。舊稿にはもう一樂章あるのだが、

    これは效果が面白くないので割愛してしまつた。

    ピアノを使つて相當動かしてあるが之は飽くま

    でもオーケストラの中のピアノとして取扱つた。

    ピアノに見せ場を與へるための形式的無理はし

    てゐない。ピッコロ一、フルート二、オーボ二、

    コール・アングレ一、クラリネット二、バス・

    クラリネット一(プチ・クラに持ち換へ)ファ

    ゴット三、ホルン四、トロムペツト三、トロンボー

    ン三、チュバ一、ティムパニ、小太鼓、大太鼓、

    シムバル、タムタム、トラィアングル、グロッ

    ケンシュピール、ザイロフォン、チェレスタ、

    ピアノ、之に絃樂五部の編成。

     

    第一樂章はスペイン式な感傷最初トロンペット三

    本のユニゾンのメロディが出る。これはイントロダ

    クションで、これから幕が開きますといふ意味、こ

    のパロデイはフアリアにさゝぐべきもの。

     

    第二樂章は近代の道化役者ストラヴィンス

    キーにさゝぐべきもの。これは一寸オーケスト

    レーションは違ふが「都會」の中の「チンドン屋」

    に用ひたもとの形である。

     

    第三樂章は年老いた孔雀の樣な存在ラヴェル

    に捧ぐべきもの。燻し銀の感傷。

     

    第四樂章はチュッテイに次ぐチュッテイの南

    京花火。これは此度の編曲で少しく味の變つた

    ものになつたのでルッセルに捧げることにする。

    全部の中で一番派手なものであるが、作曲者に

    いはせると勞して功少きものである。

     

    全曲二十分位。最後にイントロダクションのメロ

    ディが大きく出て、この比較的シーリァスな道化芝

    居の幕が下りる。

     

    この曲の舊稿は一度放送したことがある。ピ

    アノは高木東六氏がひいてくれた。この時は、

    僕がはじめて指揮臺にたつた時であり、棒が全

    然拙劣だつたのでその演出はお話にならないの

    であつた。癪にさわつたからそれから大いに棒

    を稽古した。機會あるごとに人の前に立つて振

    る樣にした。今は昔よりずつとうまくなつたら

    しい。

     

    この曲は四年も

    前の作品だ。だか

    らどうも自分の曲

    といふより他人の

    曲といつた方が强

    い。今度の演奏で

    作品のどんなあら

    が出るか樂しみに

    してゐる。多少試

    驗管へ入れて振つ

    て見たところもあ

    るから。

    怖るゝものへの風刺深

    井 

    史郎

    初出:『音楽世界』昭和12(

    一九三七)

    年2月号

     

    いつたい、僕はコンクールといつた形で、

    作品を発表するのは好きでない。新聞社でや

    るのは、審査に信用がおけないし、オリムピ

    ツクなぞは、どうせナチスの宣伝に使はれる

    のだから嫌だ。また巴里の万国博となると、

    あそこへ持出せるような作品がない。―

    うせ持出す以上は当然問題にされるやうな作

    品ではなくては面白くないと思ふからだ。で

    はなぜ、今度のコンクールには作品を出した

    かといふと、ローゼンストツク氏に非常に尊

    敬が持てるからだ。

     

    この「パロデイ的な四楽章」は四年前の作

    品で(オーケストレーションだけは去年やつ

    たが)今からみれば勿論不満も少くないもの

    である。この作品は実は、その頃放送局の青

    木氏から何か書いてみないかと言はれ、一ヶ

    月の間鎌倉に引きこもつて色々な作家の作品

    をあさつてみたのだが、その結果すつかり自

    信を失つてしまつた。そこで「もし今、本当

    に独自性のあるものが作り得ないなら、逆に、

    積極的に、かういふ優れた作家たちへの追随

    から出発してみよう」と考へた。――

    さうし

    て一歩退いて出発し直してみると、それまで

    渋滞してゐたしごとがじつにスラスラと捗つ

    て行つた。しかも作つた後で、その作品を見

    ると、色々な影響を雑多に受け入れてはゐる

    が、結局はそれが自己のものであつて、他の

    何人のものでもないことに気がついた。

     

    かうしてこ

    の作品の第一

    楽章はフアリ

    ヤに、第二楽

    章はストラヴインスキーに、第三楽章はラヴ

    エルに、第四楽章はルツセルに捧げられてゐ

    る。このことを先に「フイルハーモニー」に

    も漫画風に書いておいたが、それは興味本位

    に書いたので僕の本当の気持ではない。―

    本当の気持を言へば、各々それらしい衣裳を

    着けてはゐるが、この作品はそれらの人々の

    作品とは似てもつかない僕自身のものになり

    切つてゐると信じてゐる。

     

    この一の体験から判断して、我々は他の優

    れた作家たちから影響される事を少しも怖れ

    る必要はない。むしろ、自ら進んでその影響

    をうけ入れることも、ある場合には必要だ。

    たとひ自ら意識しなくとも、そこに生まれて

    くるものは、やはり「自己」のものだ。他の

    作家の影響をうけることによつて、自己を失

    ふことを怖れるものゝ如きは、個性の貧弱な、

    苟しくも芸術家たる資格のないものだと思つ

    てゐる。

     

    それ故にこの作品は、さういふ影響を怖れ

    すぎてゐる日本の作曲家たち、殊に日本的作

    曲なぞを云々しながら、外国の作品を余り研

    究しようとしない人々に対する一の風刺であ

    るだらう。

    深井史郎による自作解説その1(パロディ的な四楽章 

    二題)

    「パロディ的な四楽章」作曲のころ

    「パロディ的な四楽章」自筆スコア表紙と最終頁

    深井の所蔵スタディスコア。ラヴェル「ラ・ヴァルス」、ストラヴィンスキー「3楽章の交響曲」(” 愚作 ハラガタツ ”、アッカンベーをする顔の書き込み)、ファリャ「スペ インの夜の庭」、ルーセル「小組曲」

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    Program Note奥平 一

     深井にとって生涯最大の編成規模で作曲されたこの曲は、NHKから委嘱され、1949 年 8 月に指揮・山田和男(一雄)、演奏・NHK交響楽団によって放送初演された。その後、管弦楽のみの第三部を書き加えて再放送した後、1950 年 11月に開催された「文部省芸術祭」において、黛敏郎「交響的気分≪スフィンクス≫」、尾高尚忠「ピアノと管絃楽の為の狂詩曲」とともに、指揮・尾高尚忠、演奏・NHK交響楽団によって舞台初演された。 今日の演奏は、57 年ぶりの再演となる。 全曲は五部から構成されている。第一部は、武器を農具に持ち替えて暮らす平和な日々へのあこがれと希望を歌う。第二部は、凄惨な戦争の思い出。第三部は、戦火の跡にも春が訪れ、風が囁き、鳥がなくが、人々のこころの傷は癒えない。

    (作曲者の言) 第四部は社会の再生への意思と希望を自然の春から夏への生命の息吹に託し、第五部は平和な世へ生まれ変わる決意と希望を歌う。 曲は、序奏に出る複数のテーマが、循環的主題となって全曲を構成している。 冒頭のホルンによる主題は「戦火に焼き払われた跡」のテーマのようであり、第三部の冒頭にも現れ、第五部の主部への経過部では、ピアニッシモから力強い 8/9 の歓喜のリズムへと変容する。また、第一部で合唱が入る直前に現れるクラリネットの主題は「癒えぬ傷跡の歌」として、随所に現れる。 第五部では、希望に満ち満ちた、合唱と管弦楽による見事な二重フーガが現れて壮大なクライマックスを築くが、全曲の最後は、不穏な終止形で作曲者の意思を明確に示しているように思える。それは、D dur の響きの後、五度の和音で下降する全音階進行とD音を交互に三回繰り返したあげく、最後はDを基音とする五度の空虚な和音で終了するのである。戦争に翻弄された人間として、深井史郎が記憶すべき刻印として作品に残した音ではあるまいか。楽器編成 / 初演:本プログラム主要作品一覧(p.23)を参照使用楽譜:NHK所蔵

    「平和への祈り」 ~ 4 人の独唱者及び合唱と大管弦楽のための交声曲(大木惇夫作詞)(1949)

    左: 平 和 へ の 祈 り 自 筆 スコ ア 冒 頭 部 分、 右: 舞 台初 演 の プ ロ グ ラ ム 表 紙、下:交響絵巻<東京>初演

    (1956.10.7)「開都五百年記念大東京祭 専属芸能人大競演会」  右隣は清瀬保二

    深井史郎による自作解説その4(

    交声曲「平和への祈り」)

    初出:プログラム『昭和25年度文部省藝術祭』

    一九五〇年十一月十六日より

    「平和への祈り」のこと

    深井 

    史郞

     

    こんどの作品は、昨年夏放送

    局の委嘱によつて書かれたもの

    で、今まで書いたもののなかで

    最も大きいものである。八月と

    十一月の二回放送した。十一月

    の放送では後半を改訂して新し

    く管絃樂だけの第三部をかき加

    えた。第二部の「戰爭の思い出」

    から第四部に至る經過が必要に

    思われたので、これを加えたも

    のである。燒けあとにも春が訪

    れ、風が囁き、鳥がなくが人々

    の胸にある傷痕はまだ消えない

    のである。

     

    戰爭の何年間か、私はあまり

    作品を書かなかつたので、色々

    な創作上の欲望が一時に溢れ出

    て來てこれを整理するのに苦勞

    した。そのためもあり、全體が

    思つたよりはるかに長いものに

    なつてしまつた。

     

    今、第三者になつてこの作品

    をみると、「平和への祈り」では

    何か力が弱く「平和のための戰

    い」でなければならないようで

    ある。

    13 の奏者のための ディヴェルティスマン

    (宮沢賢治の童話による)深井史郎

    1.プロローグ

    2.星めぐりのうた

    3.チュンセ童子とポゥセ童子 冬から春にかけての夜空には、『天の川』の西になかよく向いあつた『双子のお星さま』のお宮が見えます。これは『天の王さま』につかえる『チュンセ童子』と『ポゥセ童子』のお宮です。空の『星めぐりのうた』にあわせて、夜どおし銀笛を吹くのが二人の役目でした。ある朝、お日さまがのぼつたのも知らずに笛を吹きつづけていた『ポゥセ』は『チュンセ』の言葉でやつと指を休めました。(以上の三つはつづけて演奏されます。)『星めぐりの歌』というのはこんな歌です。

    「あかいめだまの さそり ひろげた鷲の つばさ あおいめだまの 小いぬ ひかりのへびの とぐろ

     オリオンは高く うたい つゆとしもとを おとす アンドロメダの くもは さかなのくちの かたち

     大ぐまのあしを きたに 五つのばした ところ 小ぐまのひたいの うえは そらのめぐりの めあて」

    4.白い貝がらのくつをはいて 二人はそれから白い貝がらのくつをはき、空の『銀の芝原』をとおつて歌いながら『西の原の泉』へ出かけます。

    「お日さまの おとおり道を はき淨め ひかりをちらせ あまの白雲 お日さまの おとおり道の 石かけを 深くうずめよ あまの青雲」

    5.西の原の泉のほとりで * 二人が泉につくと間もなく、空のすすきをかきわけて、のつしのつしと大股であらわれたのは『大烏の星』でした。まつくろなズボンをはき、まつくろなマントを着ています。やがて南の空の赤眼の『さそり星』も水をのみに来ました。『さそり』は二つの大きなはさみをゆらゆら動かしながら、長い尾をからからひきずつて歩きます。その音は天の野原いちめんにひびきわたるほどでした。 この二人は大変なかがわるく、『チュンセ』と『ポゥセ』がとめるのもきかずに、すぐけんかとなりました。

    『大烏』のくちばしが槍のようにして『さそり』の頭に落ちて来たのと、『さそり』のかぎが『大烏』の胸に深くつきささつたのは、まつたくいつしよでした。どちらもかさなりあつて気を失

    つてしまいました。

    6.七つの小川と十の芝原をすぎて 『チュンセ』と『ポゥセ』は泉の水で何度も傷口を洗つて『大烏』と『さそり』を助けました。それから弱つた『さそり』をおくつて、歩きだしました。お日さまが沈んで、ほかの星がかがやくころになつても、まだ『さそり』の家へはつきません。みんなこまつて泣きそうになりました。だが『空の王さま』は、『チュンセ』と『ポゥセ』のあたたかい心をよろこんで、『いなづま』をむかえによこします。『さそり』も『王さま』からの薬で元気をとりもどします。

    7.ある暗い夜に

    8.ほうき星のしつぽにつかまつて 空の下に黒い雲がいつぱいとなり、下界は大雨の晩のことです。空のにくまれものの『ほうき星』があらわれて、二人を旅にさそいます。『ほうき星』は『王さま』のおゆるしがあつたと嘘を言つて、二人をつれ出し、『天の川』の落ち口あたりで、はげしく尾をふり青白い霧をふきかけて吹きおとしてしまいます。二人は青ぐろい大空をまつしぐらに落ちて、空気や雲の中をとおり海にはいり、それからまた暗い底の方へどんどん沈んで行きました。

    9.ふかいふかい海の底から 二人は海の底から、とおくの空をのぞみながら、おわびとわかれの言葉を言いました。 『王さま』さようなら。私どもは今日から海の『ひとで』になるのでございます。ばかな私どもは『ほうき星』にだまされました。今日からはくらい海の底をはいまわります。10.海の王さまのお城につれていかれて * 二人は海のわるものの『くじら』に呑まれようとしましたが、『海蛇』に助けられて『海の王さま』のお城へつれて行かれます。11.龍巻の頭にのせられて12.エピローグ 『海の王さま』は、二人が『大烏』と『さそり』を助けたことを知つていました。そして、『たつまき』をよんで、二人を空に送ります。 『天の川』が近くなつたころ、二人は『たつまき』の言葉で眼をあげました。頭も胴もばらばらになり、その一つ一つが気ちがいのような声をあげて落ちて行くものがあります。それは二人をだました『ほうき星』の最後でした。 『チュンセ』と『ポゥセ』は『たつまき』のおかげで無事にお宮にかえり、『王さま』におわびを申しあげてから、また銀笛をとりあげました。東の空がこがね色となり、もう夜明けに間もありません。

    *本日演奏する第三校版では、この解説の5曲目のタイトルは「大烏とさそりのけんか」となっているほか、10 曲目「海の王さまのお城につれていかれて」は削除されている。

    写真上:深井史郎と娘李々子/写真下:深井史郎が娘李々子あてに出した絵手紙(三連)。昭和 23(1948)年 12 月 10 日消印。

    深井史郎による自作解説その3 (「十三の奏者のためのデイヴエルテイスマン」)

    初出:第 8 回現代作品を聴く会」プログラム 1955.2.25

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    平和への祈り

    四人の獨唱者及び合唱と

    大管絃樂の爲の交聲曲

    大木惇夫作詩

    深井史郞作曲

    第一部

    (合唱)

     

    花ありて 

    われらをめぐり

     

    草ありて綠うるほす

     

    美うるはしき 

    美はしき

     

    あけぼのは近づけり、はや

    (バリトン獨唱と合唱)

     

    かの昔むかし 

    まぼろしにイザヤが見ける

     「その槍やりをうちかへて 

    鋤すきとなす日」よ、

     「その剱

    つるぎ

    うちかへて 

    鎌かまとなす日」よ、

     

    すくものは 

    やすらひてすき

     

    播まくものは 

    やすらひて播き

     

    刈かるものは 

    やすらひて刈り

     

    織おるものは 

    やすらひて織り

     

    人らみな 

    智ちえ慧

    の園ゆきめぐり

     

    人らみな 

    愛の巣にこもる日よ

     

    のびらに 

    ほがらに 

     

    牧まきの歌 

    みちみつる日よ 

    (合唱)

    【あ ゝ

    その日

     

    抗さから

    ひも 

    犇ひしめきも 

    戰たたか

    ひも跡なきその日よ 

     

    のびらかに 

    ほがらかに 

     

    牧の歌 

    みちみつる日よ

    第二部

    (ソプラノ獨唱)

     

    あゝされど戰ひの日のをののき

     

    今なほ

    こゝろに消えず 

     

    碎くだかれて 

    碎かれて、

     

    籾もみがら殻

    と散りし 

    われら

    (合唱)

     

    怒いかりの日 

    審さばき判

    の日か 

    ソドムの日

     

    ゴモラの日かと

     

    ひとゝきに 

    なべては崩れ

     

    ひとゝきに 

    なべては荒れて

     

    火の旋はや

    ち風 

    冥よみ府

    のさかひに 

    さまよひ

     

    傷きづつき 

    荒あれ 

    廢すたれ 

    燒かれ 

    擊うたれ

     

    追はれ

     

    碎くだかれ―

    ――

    (ソプラノ獨唱と合唱)

     

    いなづまのごとく 

    閃ひらめき

     

    いかづちのごとく 

    落おち來て

     

    たまゆらに 

    毀こぼちたるもの

     

    洪でみず水

    なす 

    火に燒やきしもの

     

    みな 

    神かみのみ心

    こころ

    なるや

     

    燒け落ちし

    壁かべよ 

    柱はしら

    よ 

     

    巷ちまた

    には 

    飢うえに 

    泣くもの

     

    荒あらたへ妙

    の 

    つづれをまとひ

     

    身を墮おとし 

    獸けもの

    めくもの

     

    あはれ 

    地はなべて荒あれ野となりぬ

     

    荒野となりぬ 

    【暗き日や 

    思おもひいでては

     

    悔くい多く 

    涙なみだ

    はあつし

     

    なぐさめは 

    いづこにありや

     

    あはれ 

    あはれ 

    いづこにありや

     

    いづこにありや

     

    いづこに

     

    いづこに―

    ――

    第三部

    (管絃楽のみの間奏)

    第四部

    (テノール獨唱と合唱)

     

    久しくも 

    うなだれしもの

     

    面あげて 

    蒼あをぞら空

    をみよ

     

    行くところ 

    望のぞみあり

     

    たゞならぬ 

    苦なやみ患

    の後に

     

    よみがへる 

    生いのち命

    あり

     

    悲かなし

    みの極きわまるところ

     

    やすらひと 

    慰めの光あり

     

    光の中うちに聲をきかずや

     「空そらにみ榮さかえ 

    地に平やす

    らひ和

     

    よき者の上にあれ」

    (アルト獨唱)

     

    荒あれの野

    にも

    湧わく泉

    いずみあ

     

    渇かわくもの掬くまであらむや

     

    うるほへば 

    など地の痩せむ

     

    春は來て 

    緑みどり

    つのぐみ

     

    木の枝えだに 

    また花ひらき

     

    夏なつめぐり 

    麥むぎは熟うれむに

     

    あ ゝ

    友ともよ 

    額に汗あせして

     

    歎なげくこと 

    澤さわにある日も

     

    よき土に 

    よき種た

    ね子まかむ

     

    げに 

    夢ゆめと希のぞみのうちに

     

    さいわひの果みのりを刈らむ

    (ソロの四重唱と合唱)

     

    このうつつ 

    この今の

     

    暗くらさを哭なかず 

    憂うれひをいはず

     

    みづからの培

    つちか

    ひの淸しみ

    ず水うるほす

     

    美しき心もて 

    あがなはむのみ

     

    祈いのりつつ 

    この今を越こえむ

    第五部

    (合唱)

     

    善きかなや 

    よみがへるもの

     

    新しき生命いの

    ちに

     

    新しき果みをむすぶもの

     

    禍わざわ

    ひを福

    さいわひに

    代かへ

     

    ためいきを 

    笑えまひに代へて

     

    不ふしちょう

    死鳥と翔かけあがるもの

    (合唱)

     

    善きかなや 

    よみがへるもの

     

    新しき生いの

    ち命

     

    生うまれ出づる 

    息いぶ吹

     

    新しき 

    愛のおとづれ

    (合唱)

    【かの昔

    むかし 

    イザヤが見ける

     「その槍やりをうちかへて 

    鋤すきとなす日」は

     「その剱

    つるぎ

    うちかへて 

    鎌かまとなす日」は

     

    緑みどり

    野に 

    丘おかに 

    畑はたけ

    に 

     

    のびらかに 

    ほがらかに

     

    牧まきの歌 

    ひびきみつ日は】

    (合唱)

     

    近づけり 

    近づけり

     

    あけぼのは近づけり

     

    あ ゝ

    平やすらひ和

    の日は―

    ――

    昭和25年文部省芸術祭プログラムより

    (一九五〇・十一・十六)

       【 

    】部分は、ヴォーカルスコアには掲載され

    ているが、舞台初演時のプログラムでは

    「(合唱)歌詩略」として省略されている

    ⓒ大木惇夫

    日本音楽著作権協会(出)許諾第〇七〇三三一五―

    七〇一号

    撮影 丹野章

    深井が作曲を始めた時代 深井史郎は、1907 年(明治 40)秋田の生まれ。第七高等学校(現・鹿児島大学)で物理を学び、卒業後、郷里で結核による療養生活を送った。1928 年上京して音楽を志す。1929 年東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)及び帝国音楽学校(作曲科)などで学び、作曲家・菅原明朗に師事した。 深井は 1933 年(昭和 8)に、最初の本格的な管弦楽作品といえる「五つのパロディ」を作曲した(同時代の政治的、思想的背景は、本プログラムの、林淑姫氏の深井史郎論に詳しい)。 日本の管弦楽作品の作曲の歴史は、1910 年代、山田耕筰により本格的に始まって、10 年代は山田の独壇場であった。山田以外の作曲家の活動は 1920 年代になってようやく始まり、現在私たちが一般的に録音や情報を共有できる 1920 ~33 年の間の日本の管弦楽作品といえば、20 曲前後に過ぎない。 大沼哲≪マルシュ・オマージュ≫(1927)、橋本國彦≪感傷的諧謔≫≪笛吹き女≫(1928)、諸井三郎≪交響的断章≫

    (1928)、伊藤昇≪マドロスの悲哀への感覚≫(1930)、近衛秀麿≪越天楽≫(1931)、大澤壽人≪小交響曲≫(1932)、大木正夫≪組曲「五つのおとぎばなし」≫(1932)、橋本國彦≪交響組曲「天女と漁夫」≫(1932)などが代表的な作品である。他に、菅原明朗≪交響詩「内燃機関」≫(1929)など、優れた作品であると伝聞されながら焼失、紛失したものもあるが、日本の管弦楽曲作曲の歴史は始まったばかりと言って良かった。 日本のオーケストラ演奏の本格的な活動も始まったばかりで、新交響楽団(現・NHK交響楽団)の結成、及びラジオ放送初出演は 1926 年、定期演奏会の開始は 1927 年 2 月のことであった。 深井の師であった菅原明朗はといえば、当時 1930 年代には邦楽器と管弦楽のための作品を多く書いていて、代表作のひとつである≪交響詩「明石海峡」≫は1939年の作品である。  深井の作品からは、菅原明朗の直接的な影響はまったくと言って良いほど見られない。 卓抜な管弦楽作品を書いた深井史郎は、西欧の作曲家の多くの楽譜と音楽に関する書物から直接に作曲技法やオーケストレーションをまったく独自に学んだようである。

    創作における伝統の欠如 明治維新以来の欧米化政策は、文化にとってもあまりに急進的であり、創作の基盤を置くべき伝統、あるいは打ち破るべき伝統が失われかけもした。しかし、美術の分野ではフェノロサ(1853 - 1908)が日本美術をいち早く再評価し、文学においては、古来からの主たる文学である和歌の伝統を継ぎ、革新を図る多くの歌人が活躍、また坪内逍遥(1859- 1935)や森鷗外(1862 - 1922)らが明治以前の史実や戯作を意識して明治維新以降の新しい価値観を創ったために、美術、文学分野の創作活動において踏まえるべき伝統は、確保されたように見える。 しかし、音楽において日本人は、五音音階と四度と五度の音程に支配される音階から成る民謡や都節、律、沖縄の各音階によってはぐくまれた日本の音感覚を捨てて、政府の政策によって、西欧の言わば「土着音階」である七音音階や平均律へと耳を訓練して、なお且つ、幾重にも音を重ねるオーケストラ作品を書く時に、踏まえる伝統はまったく無かった。

     深井は、音楽を志す道程において、こうした不条理な条件を克服するために、自己の基盤とする伝統を「五つのパロディ」の対象とした同時代の作曲家たちの書いた “ 譜面 ” として捉え、切実なそして必要とされる音楽性の源は深井自身の感性の中に見つけていこうと決心したのではあるまいか。

    周到なる「パロディ」 「パロディ的な四楽章」の主題構成には、その意思が見え隠れするように思える。この曲は、西欧の作曲家の楽想を真似る素振りを見せながら、内容的には第一楽章から終楽章へ向けて音階的主題を有機的に増幅、発展させて旋律を形づくり、重要な場面においては日本音楽の色濃い音程である(ということは、耳慣れた音程)4 度と 5 度の音程を効果的に使用する周到な構成を取っている。しかも、終了直前には日本古謡「さくら」の断片的テーマが金管によって奏される。 第一楽章は、5 度音程の確信的なファンファーレで始まる。全音階的に始まる第一主題は、「短 2 度と長 2 度」の動機に収束する。第二主題は、「短 2 度と長 2 度」の動機と 4 度音程も加えた旋律で、終盤「短 2 度と長 2 度」の音型をヴァイオリンが確かめた後、最後は4度のピチッカートで締める。 第二楽章は、「短 2 度と長 2 度」に「3 度」を組み合わせた動機の伴奏で始まる。主要主題は、「5 度と 4 度とオクターブ」の組み合わせ。最後は、「5 度と 4 度」をヴァイオリンが奏でて終わる。 第三楽章は、「4 度と 3 度と長 2 度」の組み合わせ伴奏音型に乗って、「4 度」の印象の強い主題旋律が奏でられる。 第四楽章は、最初に現れる主要主題の音構成は、「短 2 度、長 2 度、3 度、4 度」の組み合わせである。中間部に「C -D - F - D、C - G - C」という律音階的モティーフが現れた後、第一楽章の全音階的な第一主題と主要音型(短 2 度と長 2 度)のミラー音型「長 2 度と短 2 度」を組み合わせて日本古謡「さくら」を “ 思わせる ” テーマを導き出す。最後は、第一楽章の5度のファンファーレを奏して終わる。 つまり、終楽章の最終部分は第一楽章をまるごと別な形で回顧して終わることになる。 なんという知性と遊び心と諧謔心と余裕を持った若者であったのであろうか。

    周到なる「パロディ」 ~同時代の西洋音楽と、自己の感性と

    奥平 一

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    日本人の生活を語ることができるならともかく、ヨーロッパが発明し育ててきた音楽の体系を支えの杖としなければならないのなら、そしてそのヨーロッパ音楽の精神も技法も手中にしていないのなら、今なすべきことはそれらに精通することではないか。深井史郎の言い分は以上である。一般の言論を通じてじわりじわりと進めてくる国家の要求を見抜き、明確に拒絶したのは当時も後も、深井史郎の一文だけである。彼の文章は恐らくは当時の作曲家たちの心情を代弁するものであったろう。しかし誰もそのことについて言及することはなかった(作家坂口安吾が共感の跡を示しただけだ)。 この時考えることを怠った作曲家たちは 1935 年以降、とりわけ浅野晃が「国民文学論の根本問題」を発表して論議を引き起こした 37 年以降この問題に足を掬われることになる。ほとんどの者は例えば和辻哲郎の「風土」論に拠って、モンスーン地帯に生きる「日本民族」の精神のたおやかさを発見し「日本の美」を探し始める。あるものは雅楽や能楽に心をよせ、あるものは数少ない民謡の記憶を引用する。

     深井史郎の考えは違った。彼は「日本的なるもの」を古代の宮廷音楽や能の幽玄の世界に求めることをしなかった。「俚謡」(民謡)を、「故郷の狭い町並」を懐かしく連想させる祭りの唄や土に生きる人々の仕事唄を、彼の現在の生活のなかに把え返そうとした。彼にとって「俚

    謡」は文字通り「うた」である。民衆のうた、生活のうた。歌曲作家としての技倆は既に 35 年、荻野綾子のために書かれた城左門詩の「春

    はるまたはる

    幾春」で証明されていた。死んだ恋人の面影を偲ぶ詩語の陰影をゆるぎなく追い、音楽作品として再び立ち上がらせたこの歌曲で、器楽作家深井史郎はまた「うた」の人であることも立証したのだった。

     2 年後、「パロディ」発表の年、彼は城左門、北川冬彦、草野心平たちと「ポム・クラブ」を結成し(日東紅茶がスポンサーだった)、同時代の詩に拠る歌曲を発表する。清明なリリシズムを湛えた城左門詩「水の歌」、朗唱を取り入れた北川冬彦「芥

    は き だ

    溜めを漁る人」、そして草野心平の「蛙・祈りの歌」。死にゆく蛙「ごびろ」の幻視は朗読で、その死を悲しむ「りるむ」の歌はファルセットを使い 2オクターヴ以上の広い音域を上下する。どの作品も詩が内包する精神の風景を表現し強い牽引力をもっている。十代の頃同人誌に詩を発表していた作曲家の鋭敏な言語感覚と詩精神は歌とピアノが対位的に交感する作品のなかに凝縮され、詩と音楽のあり方にひとつの方向性を与えたといっても過言ではない。 深井史郎は同時代の詩人のことばに民謡音階を用いることで現代に生きる歌のもうひとつの方向を探る。同郷秋田の詩人菊岡久

    く り

    利の詩につけた「潟かた

    の小径」もポム・クラブの「ティー・コンサート」で発表されたものだ。方言を残したこの恋歌に、作曲者は「秋田おばこ」を思

    わせる音階と 2 拍子のリズムをつけ、いかにも明るく健やかな娘の想いを歌にした。つづいて発表された北原白秋「日本の笛」を支える 2 種の民謡のリズム(八木節型と追分型)は、民謡を原曲とした戦後の「四つの日本民謡」とともに、作曲者の土に生きるものへの深い共感と民謡に対する熱心な研究の成果を示している。民謡もまた現代に生きる歌。そう在らしめるために彼は放送局の集めた資料に飽きたらず採譜に赴く。勉強に励む作曲家の姿はこのとき「自分が考え出した問題を一所懸命解こうとする」ラヴェルのそれと同じだ。自ら設定した新しい課題は熟達した書法で発表されなければならない。新しいものは

    「新しさ」に気づかれないように、以前から存在したものが偶然姿を現したように書く。それが彼の美学でもある。こうした姿勢は放送局に委嘱されて書いた民謡を素材とするいくつかの管弦楽曲にも、43 年発表の「交響的映像<ジャワの唄声>」にもまっすぐにつながってゆく。「ジャワの唄声」が前者と異なる背景をもつとすれば、北国に育ったものがもつ南国への抑えがたい憧れ。窮屈な時代から逃れて飛んで行きたい想像の場所。「ジャワの唄声」がレコードにもなって人々に好まれた理由は、明るいリズムと華麗なオーケストレーションが表現する空想にも似た世界を、人々もまた夢見たからではなかったか。日本の敗色は次第に色濃くなっていた。

     戦後、深井史郎は映画の仕事に復帰する。以前と同様生活を支えていたものは映画だった。彼にとって映画音楽も演奏会作品も条件こそ違え創作者としての行為に変わりはない。音楽は映像と「対位法」的な関係にあるというその映画音楽論は、映像に切り詰めた音楽を与える。時代劇でも所謂文芸作品でも同じである。 東京と京都の撮影所を往復する忙しい日々のなかで、カンタータ「平和への祈り」「ジャズのためのラプソディ」

    「神秘的組曲(マイクロフォンのための音楽)」「13 の奏者のためのディヴェルティスマン」「架空のバレエのための三楽章」などが書き継がれてゆく。いずれも緻密な構成と煌めくような感性が支える円熟期の作品である。敗戦の日、脱力感に苛まれながら、欺瞞に振り回された自らの教養を恥じ、今後は「どんな長いものにも巻かれない」と強く思った深井史郎のその後の歩き方を含めて、私たちが彼から受けとるものはいかにも重く大きい。

     深井史郎は 1959 年7 月 2 日京都で急逝した。享年 52。内田吐夢監督の映画「浪花の恋の物語」の音楽を作曲している最中だった。

    太田(荻野)綾子とともに昭 10.7.7.「詩朗読 北原白秋詩集」放送前にJOBK スタジオにて(日本近代音楽館提供)

    「神秘的組曲(マイクロフォンのための音楽)」を作曲中の深井史郎(1952)(撮影 丹野章)

    書斎にて(撮影 丹野章)

     作曲家深井史郎は批評家でもある。作曲家たちの創作の現場とその周囲を明晰な論理と平明な文体で書いた。彼の音楽と同様に達意の文章で、作家と作品にどこまでも寄り添って書く。やわらかな視線で作家がこだわらずにいられなかった細部を検証し、作家の理想としたものと現実に作られた作品との道のりを思い、誕生した作品の置かれている位置について考えをめぐらす。 だから深井史郎の肖像画を描くとき、人はまず彼の眼を注意深く描かなければならない。批評家だからといって神経質そうで険しい眼を与えてはならない。美しいものに素直に感動する丸みを帯びた眼がふさわしい。作品に寄り添い思考する眼。その眼差しがラヴェルの譜面から 20 世紀音楽の古典となるべき書法を見出し、ストラヴィンスキイから故郷喪失者のよろめく舞踏を読みとり、シェーンベルクに重力をもたない星の運行を研究する孤

    独者の背を見、ショスタコーヴィチから検閲の網をかいくぐる技法の哀しみを抱きとる。 頭を傾げて音楽に聴入る耳は周囲の雑音のなかから微かに響いてくる音にも注意を向ける。この耳で 1933 年夏「日本精神」を喋喋するものの背後の意思を聞きとり、1945 年 8 月 15 日、死の宣告を受けた筈のものがその後も妖怪のように歩き回るであろう足音を聞いた。 口元に浮ぶ微笑は幼い娘を思ってつい綻んでしまう父親のそれ。音楽は聴衆とともにある

    と信じている。間違っても世の皮肉屋のように口を歪めることはない。1907 年春家族がもっとも幸せな時期に生まれ育った三男坊は衒いが苦手なのだ。仕上げは寝癖がとれていない髪。櫛を入れることをつい忘れる。売り込みのできない書生タイプだ。趣味は読書と酒。アパートに「古本屋が開ける」ほどの書物とスコアに囲まれて住んでいた。ついでにいえば彼は小説を読むような恰好でスコアを読む。 画才にも恵まれていた肖像画のモデルはこちらを見つめていう。「どうですか ? 部分を過度に強調するのは上手い描き方ではありませんよ」。

     1936 年秋、深井史郎は「パロディ的な四楽章」で新交響楽団のコンクールに応募することにした。今までコンクールに参加したことはない。ひとと競うことも好みでないが信頼できる審査員もいなかったから。でも今回は違う。常任指揮者として来日したばかりのローゼンストックが審査委員長だというから彼に見て欲しい。「パロディ的な四楽章」は 3 年前の「五つのパロディ」を改稿したものだ。今から見ると「五つのパロディ」はいかにも荒削りだ。構成もデッサンも楽器編成も大幅に改めたこの作品を残したいと思う。「パロディ」の意味も分からず「模倣で独創性に欠ける」と言う人々には言わせておこう。ローゼンストックなら分かる。「ほかの作品を養分にすること以上に、独創的で、自分自身であることはない。ただそれらを消化する必要がある」(ヴァレリー)。あの頃書いた山田耕筰批判にしても第 1 回音楽コンクール評にしても、本当の意味でオーケストラ曲を書くに至っていないこの国の作曲家たちの現状を指摘し、創作者としての正しい自己認識を迫るものだった。そうした状況のなかで「日本精神」を持ち出し、あたかもそれが日本の芸術家のオリジナリティだといわんばかりの論調には憤慨せざるを得なかった。 3 年前、26 歳の深井史郎に聞こえていたものがある。

    「満洲事変」後の国際世論に対抗し国連を脱退した 1933年前後、国内には「非常時」とともに「日本精神」なることばが出没し、夏に閣議決定された「思想善導方策具体案」は「国民精神文化研究所」の拡充を図っていた。敬愛する伊庭孝はこともあろうに「非常時」における音楽家のモラルを問い、気鋭の評論家須永克己は「音楽に於る日本主義に就て」を書いていた。時間を少し先にすすめて考えてみれば昭和 10 年代に文学界を席巻した「日本主義」論争は実は音楽から始められたと言っていい。明治に導入されたヨーロッパ文化の影響を根底のところで受け止めなければならなかった音楽が「西洋と日本」を強く意識するのは当然だったからである。それは作曲に携わるものなら誰しも感じていることである。しかし何故今か。治安維持法が改定され思想の自由が次第に狭められている今、「日本的」ということばはいかにも胡散臭い。深井史郎の鋭敏な耳は隠された意図を聞きつける。エッセイ「日本的情緒への袂別」はこうした状況下で書かれた。 エッセイ「日本的情緒への袂別」と管弦楽曲「パロディ的な四楽章」は一対の作品である。創作は現代の生活を表すものでなければ意味がない。現代を語るのに古代の音楽への憧れや俗楽の旋法に頼ることもない。オリエンタリズムの意を汲んで「ハッピコート」を着て舞台で踊るようなことはしない。日本の音楽が従来の形で現代の

    深井史郎の肖像・素描林淑姫(日本近代音楽館)

    東京高等音楽学院入学当時(1929)