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43 日本における戦争呼称に関する問題の一考察 庄司 潤一郎 〈要 旨〉 日本では、開戦時の戦争目的の不統一、戦後の米国による占領政策とその後の国内にお ける近現代史に関する歴史認識の「政治化」の影響を受けて、第二次世界大戦期に日本が 戦った戦争に対して様々な呼称が使用され、盛んな議論がなされている。そのため、ほと んどの呼称はイデオロギー的色彩を帯びており、公的には、「先の大戦」が使用されている。 呼称のなかで、12月8日以降の戦争を意味するものは、「太平洋戦争」、「大東亜戦争」、「ア ジア・太平洋戦争」であり、一方、地域的側面に関しては、「大東亜戦争」、「アジア・太 平洋戦争」は、日本が戦った戦場を明示しているが、「太平洋戦争」は、太平洋を戦場と する日米間の戦争とのイメージが強い。他方、国際性があり無価値の「第二次世界大戦」 は、日本の戦争を語る場合、時間的・地域的にはもちろん、「感覚的」にも違和感がある。 したがって、現時点では「太平洋戦争」が広く一般に普及しているが、今後の展望と して、12月8日以降の中国戦線を含めた戦争の適切な呼称は、イデオロギー性を否定した うえで、「大東亜戦争」もしくは「アジア・太平洋戦争」の使用を検討するのが適切では ないかと思われる。 はじめに 現在、日本においては、昭和期の日本の戦争に対して、「太平洋戦争」、「大東亜戦争」、 「15年戦争」、「アジア・太平洋戦争」 1 など様々な呼称が使用されている。もちろん、同一 の戦争に対する呼称が国家によって異なる事例は散見されるが 2 、国内において戦争の呼 称が分かれている例はほとんど存在しない。 特に日本の場合、戦争に対する歴史認識が分裂しているため、呼称にも影響を及ぼし、 より政治的な色彩を帯びている。例えば、歴史家の秦郁彦は、「呼び名などどうでも良い、 という考え方もあろうが、『名は体を現わす』で、著者の基本的歴史観を判定するのに、 1 「十五(一五)年戦争」、「アジア太平洋戦争」と表記する場合もあるが、本論文では各々「15年戦争」、 「アジア・太平洋戦争」と表記する。 2 例えば、日本の「朝鮮戦争」は、「韓国戦争」または「6.25(韓国語では「ユギオ」と発音)」(韓国)、 「祖国解放戦争」(北朝鮮)、「Korea (n) War」(米国)、「抗美援朝戦争」(中国)と各国で呼ばれている。

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日本における戦争呼称に関する問題の一考察

庄司 潤一郎

〈要 旨〉 日本では、開戦時の戦争目的の不統一、戦後の米国による占領政策とその後の国内にお

ける近現代史に関する歴史認識の「政治化」の影響を受けて、第二次世界大戦期に日本が

戦った戦争に対して様々な呼称が使用され、盛んな議論がなされている。そのため、ほと

んどの呼称はイデオロギー的色彩を帯びており、公的には、「先の大戦」が使用されている。

呼称のなかで、12月8日以降の戦争を意味するものは、「太平洋戦争」、「大東亜戦争」、「ア

ジア・太平洋戦争」であり、一方、地域的側面に関しては、「大東亜戦争」、「アジア・太

平洋戦争」は、日本が戦った戦場を明示しているが、「太平洋戦争」は、太平洋を戦場と

する日米間の戦争とのイメージが強い。他方、国際性があり無価値の「第二次世界大戦」

は、日本の戦争を語る場合、時間的・地域的にはもちろん、「感覚的」にも違和感がある。

したがって、現時点では「太平洋戦争」が広く一般に普及しているが、今後の展望と

して、12月8日以降の中国戦線を含めた戦争の適切な呼称は、イデオロギー性を否定した

うえで、「大東亜戦争」もしくは「アジア・太平洋戦争」の使用を検討するのが適切では

ないかと思われる。

はじめに

 現在、日本においては、昭和期の日本の戦争に対して、「太平洋戦争」、「大東亜戦争」、

「15年戦争」、「アジア・太平洋戦争」1など様々な呼称が使用されている。もちろん、同一

の戦争に対する呼称が国家によって異なる事例は散見されるが2、国内において戦争の呼

称が分かれている例はほとんど存在しない。

特に日本の場合、戦争に対する歴史認識が分裂しているため、呼称にも影響を及ぼし、

より政治的な色彩を帯びている。例えば、歴史家の秦郁彦は、「呼び名などどうでも良い、

という考え方もあろうが、『名は体を現わす』で、著者の基本的歴史観を判定するのに、

1 「十五(一五)年戦争」、「アジア太平洋戦争」と表記する場合もあるが、本論文では各 「々15年戦争」、「アジア・太平洋戦争」と表記する。2 例えば、日本の「朝鮮戦争」は、「韓国戦争」または「6.25(韓国語では「ユギオ」と発音)」(韓国)、「祖国解放戦争」(北朝鮮)、「Korea (n) War」(米国)、「抗美援朝戦争」(中国)と各国で呼ばれている。

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それが『踏み絵』の役割を果してきたのも事実だ」3と指摘しているのである。

 最近では、2008(平成20)年10月麻生太郎首相が、「日清、日露(戦争)と、いわゆる

大東亜戦争、第2次世界大戦とは少し種類が違うと思う」と語ったところ、それが「『大東

亜戦争』と表現」とメディアで報道され、北朝鮮などが非難を行った4。

 ある新聞の終戦記念日の「社説」は、日本では統一した呼称がないことが、いつまでも

過去を総括できない一因となっており、「慣用句のように『太平洋戦争』を記事に書いて

きた」が、今後は記者の戦争認識が問われており、「戦争呼称は、ジャーナリズムの宿題

でもある」と指摘していた5。

 そこで、本論文は、戦争呼称をめぐる歴史的経緯、各呼称の特色と問題点、及びその使

用頻度について分析することにより6、今後の戦争呼称のあり方を検討する際の一助とな

ることを目的とする。

1 戦争呼称をめぐる歴史的経緯

(1)「大東亜戦争」の決定 

 「大東亜戦争」の呼称が正式に決定されるまでは、『対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹

案』、『対米英蘭戦争指導大綱』、『対英米蘭戦争ニ伴フ財政金融ノ持久力判断ニ関スル大蔵

大臣説明要旨』などの文書に見られるように、「対米英蘭蒋戦争」、「対米英蘭戦争」、「対

英米蘭戦争」といった「対○○(相手国名称)戦争」という呼称が使用されていた7。

 開戦後の1941(昭和16)年12月10日、大本営政府連絡会議は、「今次戦争ノ呼称並ニ平

戦時ノ分界時期ニ関スル件」を、以下の通り決定した。

一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那

事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス

ニ、給与、刑法ノ適用等ニ関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日

3 秦郁彦『昭和史を縦走する』グラフ社、1984年、141頁。4 『朝日新聞』2008年10月1;同2008年10月18日;『読売新聞』2008年10月1日。2001年1月に、森良朗首相(当時)が、同2月に野呂田芳成衆議院予算委員長(当時)が「大東亜戦争」と発言し、問題化している。5 「社説 あの戦争を何と呼ぶか」『静岡新聞』2009年8月15日。6 呼称問題をめぐる研究としては、木坂順一郎「アジア・太平洋戦争の呼称と性格」『龍谷法学』第25巻第4号、1993年3月;坂本夏男「『大東亜戦争』及び『太平洋戦争』の呼称に関する一考察──両呼称についての意見とそれらの使用を中心として(上)・(下)」『久留米工業高等専門学校研究報告』第29・30号、1978年3月・8月などがある。7 太田弘毅「『大東亜戦争』の呼称決定について」『軍事史学』第13巻第3号、1977年12月、16-17頁。

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午前一時三十分トス

 上記決定は、12日の閣議において正式に決定され、ここに「大東亜戦争」が定められた

のである。呼称をめぐる議論では、海軍側から、主敵は米英で、主戦場は太平洋であると

の観点から「太平洋戦争」、「対米英戦争」、他方、より政治的目的を明確にした「興亜戦争」

というように各種の案が出されたが、「支那事変」(中国戦線)を含めることを考えると適

当ではなく、さらにソ連が参戦した場合も考慮して、最終的に「大東亜戦争」が採用され

たのであった8。ちなみに、「大東亜戦争」は、英語では「Great East Asia War」と表記さ

れた9。

 「大東亜」という用語が、初めて使用されたのは、1940年7月26日第2次近衛文麿内閣が

発足にあたって決定した「基本国策要綱」で、「日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東

亜ノ新秩序ヲ建設スルニアリ」と記されていた。さらに、同年8月1日、松岡洋右外相は談

話において、「日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立」と、初めて「大東亜共栄圏」

という用語を使用した10。そこで松岡は、「大東亜共栄圏」は、「従来東亜新秩序圏乃至は

東亜安定圏と称せられてゐたものと同一であり、広く蘭印、仏印等の南方諸地域を包含し、

日満支はその一環であること」とされた11。すなわち、「大東亜」とは、「日満支」と当時

称された東アジアに東南アジアなど南方を加えた地域を凡そ意味していたのである。

 閣議決定を受けて同日、内閣情報局は、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜

戦争と呼称す、大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意

味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非ず」との声明を発表した。

 1942年2月17日には、「勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ為シタル場合ヲ除クノ外各法律中『支那事

変』ヲ『大東亜戦争』ニ改ム」との法律第9号が閣議決定された。さらに、2月28日の大本

営政府連絡会議は、「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スヘキ大東亜ノ地域」を決定し、「大東亜」

の地域を、「日満支及東経九十度ヨリ東経百八十度迄ノ間ニ於ケル南緯十度以北ノ南方諸

地域 其他ノ諸地域ニ関シテハ情勢ノ推移ニ応シ決定ス」と規定した。

 以上の経過から、大きな問題が生じた。それは、「大東亜戦争」の呼称の由来で、当時

海軍が提案した「太平洋戦争」と同様に地域的呼称なのか、もしくは情報局の発表にある

8 防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部 3』朝雲新聞社、1970年、192-194頁;防衛庁防衛研修所戦史室『大本営海軍部・聨合艦隊 2』朝雲新聞社、1975年、102-103頁;防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部開戦経緯 5』朝雲新聞社、1974年、569頁;種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房、1979年、146頁。9 太田「『大東亜戦争』の呼称決定について」17頁。10 三輪公忠「『東亜新秩序』宣言と『大東亜共栄圏』構想の断絶」三輪公忠編『再考・太平洋戦争前夜』創世記、1981年、222-226頁。11 『東京朝日新聞』1940年8月2日付夕刊。

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ような「大東亜新秩序建設」という戦争目的なのかといった点である。当時大本営参謀で

あった原四郎(陸軍少佐)は、情報局の発表を聞いて、「情報局は何を血迷ったかという

の外はないのである」と当時の感想をのちに記しているが12、その背景には、戦争目的を

めぐる混迷が存在していた。すなわち、「自存自衛一本であると強調するもの、大東亜新

秩序建設を加えた二本建てであると考えるもの、大東亜新秩序建設こそが戦争目的である

理解しているものがあって、思想の統一を欠いていた」13のであった。

 いずれにしても、戦争目的の不統一が、「大東亜戦争」という用語の是非を焦点とする

その後の戦争呼称をめぐる議論にも大きく影響を及ぼしたことは否定できない。

 

(2)「大東亜戦争」の禁止と「太平洋戦争」の誕生

終戦後も、1945(昭和20)年11月24日幣原喜重郎内閣が「大東亜戦争調査会官制」を

公布したことから明らかなように、暫らくは「大東亜戦争」が使用されていた。しかし、

同年12月15日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、神道の国家からの分離、神道

教義から軍国主義的、超国家主義的思想の抹殺、学校からの神道教育の排除を目的として、

「国家神道(神社神道)ニ対スル政府ノ後援、支持、保護、管理、布教ノ廃止ノ件」との

覚書(いわゆる「神道指令」)を日本政府に対して発した。そこでは、「『大東亜戦争』、『八

紘一宇』ノ如キ言葉及日本語ニ於ケル意味カ国家神道、軍国主義、超国家主義ニ緊密ニ関

連セル其他一切ノ言葉ヲ公文書ニ使用スル事ヲ禁ス、依テ直チニ之ヲ中止スヘシ」とされ

ていた。この覚書にしたがって、先に設置された「大東亜戦争調査会」は、1946年1月11

日「戦争調査会」と改称され、官制条文中の「大東亜戦争」の語句もすべて「戦争」に改

められた14。また、12月20日文部省は次官通達(官総第270号)により、管轄の学校、機

関などに対して同覚書を伝達した。

一方、政府は、「大東亜戦争」に代わって暫定的に「今次(の)戦争」と置き換えるこ

ととしたが、以後公式の呼称は定められず、公的な場においては「今次戦争」のほか、「先

の大戦」、「第二次世界大戦」などが使用されている15。

 「神道指令」は公文書を対象としていたが、ほぼ同時にGHQは、新聞・雑誌や出版物に

対する規制を強化していった。1945年9月10日「ニューズ頒布についての覚書」、9月19日「プ

レス・コード(新聞規約)」を発した。それに基づき、GHQから新聞社や出版社に、「プ

12 原四郎「『大東亜戦争』という名の戦争」『大東亜(太平洋)戦争戦史叢書 第65冊付録』朝雲新聞社、1973年5月、3頁。13 防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部開戦経緯 5』570頁。14 由井正臣「占領期における『太平洋戦争』観の形成」『史観』第130号、1994年3月、5頁。15 読売新聞社編『20世紀 どんな時代だったのか 戦争編 日本の戦争』読売新聞社、1999年、520頁。

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レス・コードにもとづく検閲の要領にかんする細則」が通達された。細則は、日本におい

て発行される出版物のすべてがGHQ民間検閲局の事後検閲または事前検閲を受けるとさ

れ、さらに「『大東亜戦争』『大東亜共栄圏』『八紘一宇』『英霊』のごとき戦時用語の使用

を避けなくてはならぬ」と規定されていた16。

 その結果、1945年12月7日の『朝日新聞』(朝刊)は、開戦の日に当って、「真珠湾事件

の悔悟」と題した「社説」を掲載、「太平洋戦争」の用語を用いて、「太平洋戦争、支那事

変から延連し、支那事変は満州事変から発端した」と連続性を強調していた。戦後『朝日

新聞』紙上に「太平洋戦争」が用いられた最初の例である17。

 さらに、翌12月8日(真珠湾攻撃から4年)から17日まで、GHQ提供による「太平洋戦

争史―真実なき軍国日本の崩壊」が、新聞各紙に連載された。これは、GHQの民間情報

教育局(CI&E)が準備、参謀第3部(G-3)の戦史官の校閲を経たものであったが18、満

州事変から連続した戦争として捉え、太平洋を主戦場として米軍の役割を強調すると同時

に、南京事件や「バターン死の行進」など日本軍の残虐行為を詳細に叙述した点が特徴で

あった19。こうした解釈は、満州事変からの一連の日本の侵略を、一部軍国主義者の「共

同謀議」であるとした極東国際軍事裁判の判決と一致するものであった。特に、「『太平洋

戦争』という呼称を日本語の言語空間に導入したという意味で、歴史的な役割を果たして

いる」20と指摘されたのであった。

 本連載は、翌1946(昭和21)年3月、GHQ民間情報教育局述(中屋健弌訳)『太平洋戦

争史―奉天事件より無条件降伏まで』と題して、高山書院から出版された。本書は、10万

部を完売、GHQの指導により、学校現場などでも使用が奨励された。なお、出版に際して、

下記の中屋による「訳者のことば」は、民間検閲支隊の事前検閲によって、2箇所の「大

東亜戦争」の用語が、「太平洋戦争」に修正された21。

「この一文によって始めて(ママ)、われわれは今次戦争の責任乃至原因が『大

東亜戦争』のみに在るのではなくして、遠く満洲事変に遡るものであることを訓

へられ、又『大東亜戦争』が如何に日本にとって無理な戦争であったかを知るこ

とが出来た」

16 松浦総三『増補改訂版 占領下の言論弾圧』現代ジャーナリズム出版会、1969年、49-51、59-61頁。17 武市銀治郎「大東亜戦争と太平洋戦争」『正論』1996年9月号、281頁。18 江藤淳『閉ざされた言語空間──占領軍の検閲と戦後』文藝春秋、1989年、227頁。19 由井「占領期における『太平洋戦争』観の形成」3頁。20 江藤『閉ざされた言語空間』230頁。21 同上、231頁。

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 講和により日本が独立したのち、1952年4月11日公布された「ポツダム宣言の受諾に伴

い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(法律第81号)は、ポツダム宣言の受諾に

伴って発せられた命令は、「別に法律で廃止又は存続に関する措置がなされない場合にお

いては、この法律施行の日から起算して百八十日間に限り、法律としての効力を有するも

のとする」とされた。日本政府はその後、「大東亜戦争」呼称廃止の覚書に関して、廃止・

存続いずれの措置も採らなかったため、現在では既に失効している。

 

2 日本における各呼称の特色と問題点

 本章では、日本における各呼称について、その由来、使用の理由、及び呼称の包含する

問題点について分析を行う。

(1)「太平洋戦争」

 ① 由来

 「太平洋戦争」は、開戦時において海軍が提案したが、それ以前にも将来予想される日

米間の戦争の呼称として使用される例があった。最も古い著作は、1925(大正14)年に出

版された日米未来戦記である『太平洋戦争』及びその翌年同文献に対する批評も加えて刊

行された『太平洋戦争と其批判』である22。

 戦後は、1945(昭和20)年12月に連載された前述したGHQの「太平洋戦争史」が嚆矢

である。その後1950年代に入り、GHQにより廃止された戦争調査会の事務局長官であっ

た青木得三の著作である『太平洋戦争前史』(全6巻、世界平和建設協会及び学術文献普及

会、1950 ~ 1952年)、日本外交学会編『太平洋戦争原因論』(新聞月鑑社、1953年)など

が刊行された。さらに、歴史学研究会編『太平洋戦争史』(全5巻、東洋経済新報社、1953

~ 54年)も刊行された。マルクス主義史学の歴史学研究会の共同研究が、「太平洋戦争」

を使用した理由について言及していないが、新版(青木書店、1971 ~ 73年)の「刊行の

ことば」では、15年間のアジアに対する侵略戦争との認識から、「日米間の戦争を重視し

た太平洋戦争史という名称は必ずしも適切ではなく、日本を主とした第二次世界大戦史も

しくは一五年戦争史というほうが内容に即しているが、これらはまだ一般化した名称では

ない。また、侵略を美化する大東亜戦争史という名称をもちいることはできない。このた

22 ヘクター・シー・バイウオーター『太平洋戦争』堀敏一訳、民友社、1925年(Hector C. Baywater,

The Great Pacific War, a History of the American-Japanese Campaign of 1931-33, London: Constable &

Co. ltd, 1925.);ヘクター・シー・バイウオーター『太平洋戦争と其批判』石丸藤太訳、文明協会事務所、1926年。

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め、便宜的であるがひろく使われている太平洋戦争史という名称をもちいることにした」

と述べられていた23。

 同様に、「昭和史論争」を惹起するなど話題を呼んだマルクス主義史学の遠山茂樹・今

井清一・藤原彰『昭和史』(岩波書店、1955年、新版:1959年)は、「太平洋戦争」を使用

している。

 1960年代に入り、マルクス主義とは歴史観が異なる日本国際政治学会が編纂した日本国

際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』(全8巻、朝日新聞社、1962 ~

63年)は、「太平洋戦争」と題した理由として、読者の問いに以下のように答えていた24。

「慎重に討議を重ねた結果、『支那事変』の代りに『日中戦争』を、『大東亜戦争』

の代りに『太平洋戦争』という呼称を採用することを決めました。これは、日本

側からの一方的呼称よりは、国家と国家との関係から把握する国際政治的呼称に

よるという見地に立ったもので、・・・実際にも学術上ではWar in the Pacific(太

平洋戦争)の名称が国際的に行われています」

 その後も、児島襄『太平洋戦争(上)・(下)』(中央公論社、1965~ 66年)、家永三郎『太

平洋戦争』(岩波書店、1968年)、林茂『日本の歴史 25 太平洋戦争』(中央公論社、

1974年)など「太平洋戦争」と題した著名な本が刊行されていき、「太平洋戦争」の呼称

は完全に定着していった。

但し家永は、「太平洋戦争」を表題とした理由について、以下のように記している。

「厳密には『十五年戦争』と呼ぶべきものである。・・・しかし十五年戦争の呼

び名は、すでに一部の人々の間で使用され、その名を書名にとりいれた書物まで

出ているとはいうものの、現在まだ世間のすべての人たちに理解されるだけの通

用性をもっているとは思えない・・・第二次世界大戦という名称は、視野を日本

の直接関係した局面のみに限定する本書の書名として用いるわけにいかない」

 そして家永は、「太平洋戦争」は、開戦前に海軍が提唱しているように、必ずしも米国

側の立場とは言えない反面、中国戦線を捨象し日米戦争重視している点で、「完全に科学

23 歴史学研究会編『太平洋戦争史 1 満州事変』青木書店、1971年、ⅰ-ⅲ頁。24 「読者だより」日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道 第3巻』朝日新聞社、1962年、付録10頁。

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的客観性をもっているとは言えない」が、「十五年戦争や第二次世界大戦という名が、実

用的見地から本書の書名として採用しにくい以上、便宜上、比較級的に不適切性の少いこ

の名を用いるほかに代案がなかった」と述べていた。さらに、「大東亜戦争」は「断じて

不可」であり、「次善の方法として『太平洋戦争』を書名に用いるという、実際的解決方

法をとる以外に道がなかった」と結んでいた25。

 ② 問題点

 このようにして急速に日本に広まっていった「太平洋戦争」であったが、問題点も数多

く指摘されている。第一に、呼称としての「太平洋戦争」の有する問題点を認識しつつも、

「大東亜戦争」を拒否する立場から、「次善の方法」として、「便宜上」やむを得ず「太平

洋戦争」を使用していた点である。したがって、多くの「太平洋戦争」支持者が、のちに

他の呼称へと変更している。例えば、家永は、「太平洋戦争も大東亜戦争も、特定国の政

治的立場が露骨にあらわれていてよくない」として、「15年戦争」を支持26、1985年に刊

行された『戦争責任』(岩波書店、1985年)では、「15年戦争」を使用している。また、「ア

ジア・太平洋戦争」を提唱した歴史家の木坂順一郎も、それ以前は、中国戦線のことが捨

象される問題点を認めつつ「太平洋戦争」を使用、「十五年戦争といえばよさそうだが、

これでは満州事変と日中戦争がはいってしまうし、十五年戦争の第三段階では、本の題名

にならない。そこで、従来から一般化している太平洋戦争という呼称を使用し、中国戦線

の叙述に意をもちいることにした」と注記していた27。歴史家の藤原彰は、『太平洋戦争

史論』において、「大東亜戦争」はイデオロギー的な意味から避けるが、「太平洋戦争」と

称したからといって「戦争の範囲を日米間の戦争に限定するものではないことはいうまで

もない」と述べていたが28、その後『十五年戦争と天皇』(あずみの書房、1988年)、『昭

和天皇の十五年戦争』(青木書店、1991年)などを刊行している。このように、「太平洋戦

争」から呼称を変更した論者の多くはマルクス主義など「進歩派」である。

 第二に、対象とする戦争期間の分裂である。一般には、前述した木坂の指摘にあるよう

に、真珠湾攻撃以降終戦までを対象とするが、その前後に拡大して使用する例も数多く散

見される。GHQの『太平洋戦争史』は、「奉天事件から無条件降伏まで」という副題が物

25 家永三郎『太平洋戦争』岩波書店、1968年、ⅲ-ⅳ、3-4頁。家永は、同書の第二版刊行に際して、「今日では『十五年戦争』の称号がすでに学界・読書界に定着しているので、書名も改めたかったのであるが、初版本の第二版であるために、書名を改めることはできなかった」と記している(「第二版を刊行するにあたって」『太平洋戦争 第二版』岩波書店、1986年、ⅷ頁)。

26 「大東亜戦争か太平洋戦争か──アンケート11氏に聞く」『サンデー毎日』1970年11月29日号、46頁。27 木坂順一郎『昭和の歴史 7 太平洋戦争』小学館、1982年、17頁。28 藤原彰『太平洋戦争史論』青木書店、1982年、108-109頁。

Page 9: bulletin j13-3 3 - MOD3 秦郁彦『昭和史を縦走する』グラフ社、1984年、141頁。 4 『朝日新聞』2008年10月1;同2008年10月18日;『読売新聞』2008年10月1日。2001年1月に、森良朗首

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語るように、満州事変以降を対象としており、家永の『太平洋戦争』も同様であった。古

典である歴史学研究会編『太平洋戦争史』は、満州事変以降を対象に、一連の不可分の戦

争として捉え、講和条約発効(1952年)までを執筆範囲としているが、本文では「太平洋

戦争」は、真珠湾攻撃以降の中国戦線も含めた戦争を意味している。

また、近年でも由井正臣編『近代日本の軌跡 5 太平洋戦争』は、満州事変以降の「15

年戦争」期を対象としているが、由井は、「今までにも『太平洋戦争』と題して、足掛け

十五年に及ぶこの時期を対象とした書物は決して珍しくない」と指摘している29。このよ

うに、「太平洋戦争」は、満州事変以降(「15年戦争」)、真珠湾攻撃以降、さらに、「支那

事変ヲモ含メ大東亜戦争」の観点から「支那事変」以降、もしくは日中間の戦争は1941年

12月以降も継続しているため、中国戦線を除外した専ら対米英蘭戦争を指すといった様々

な理解がある30。いずれにしても、歴史学研究会編『太平洋戦争史』のように終末を延長

する例は稀であるが、真珠湾攻撃以前に遡って「太平洋戦争」と称する例はいくつか散見

される。

 第三に、「太平洋戦争」といった場合、世界史上では、中南米で生起した別の戦争が二

つ存在している点である。有名なものは、1879年から84年まで、硝石資源をめぐってチリ

とボリビア・ペルーの間で戦われた戦争があり、原語では「the War of the Pacific」、「la

guerra del Pacifico」(スペイン語)、もしくは「la guerre du Pacifique」(ポルトガル語)

と表記されている。また、1865年から66年にかけてチリ・ペルーとスペインが戦った戦争

も、「太平洋戦争」(la guerra del Pacifico:スペイン語)と称しているが、いずれも中南

米における戦争を指している。

ちなみに、日本の「太平洋戦争」は英語では、一般に「the Pacific War」と表記され、

中南米の戦争と区別している。また、米国などではむしろ、「the War in the Pacific

(Theater)」、「WWⅡ-Pacific Theatre」、もしくは「the Pacific Theatre in the Second World

War」とも表記されている。日本で刊行されている関連辞書や年表には、中南米の戦争は、

日本の「太平洋戦争」とともに,同様に「太平洋戦争」として掲載されている31。こうした

先例があるため、国際的には「太平洋戦争」という呼称は誤解を与え兼ねないといった指

摘もなされている。

29 由井正臣編『近代日本の軌跡 5 太平洋戦争』吉川弘文館、1995年、1頁。30 斉藤孝「『大東亜戦争』と『太平洋戦争』──歴史認識と戦争の呼称」『世界』1983年11月号、282頁。31 坂本「『大東亜戦争』及び『太平洋戦争』の呼称に関する一考察(上)」4-5頁。辞書としては、ジョージ・C・コーン『世界戦争事典 改訂増補版』鈴木主税・浅岡政子訳、河出書房新社、2006年;京大西洋史辞典編纂会編『新編 西洋史辞典 改訂増補』東京創元社、1993年;『世界大百科事典 17』平凡社、1988年など。

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(2)「大東亜戦争」

① 由来

 歴史学研究会編『太平洋戦争史』と同年1953(昭和28)年、参謀本部作戦課長という要

職を務めた服部卓四郎の執筆による『大東亜戦争全史』(全4巻、鱒書房、1953年、1965年

原書房より合本して再刊)が刊行され、戦後初めて「大東亜戦争」を冠した代表的著作と

なった。

 哲学者の上山春平は、『中央公論』1961年1月号に論文「大東亜戦争の思想的意味」を発

表した。「大東亜戦争」を選んだ理由として、戦後の日本人が「太平洋戦争」が占領軍に

よって付与された米国側の見方である事実を忘却し、自分の考えであるかのように錯覚し

ている思想状況に、「一つのショックをあたえることができればという気持をこめて、あ

のような一見奇異と見られる言葉を表題に入れた」と回想していた32。

 1963年には、作家の林房雄が「大東亜戦争肯定論」を『中央公論』に連載、翌年単行本

として『大東亜戦争肯定論』と題して刊行された。林は、ペリー来航以来の欧米列強の侵

攻に対する日本によるアジア解放のための「東亜百年戦争」であったとの歴史認識に基づ

き、「大東亜戦争」はその一環であり最後の集大成であると積極的に肯定した。その観点

から、呼称についても、米国の理想は「白い太平洋」の実現で、一方日本のそれは「大東

亜共栄圏」の建設であり、「アメリカ人が『太平洋戦争』と呼ぶのは結構だが、それを日

本人が-特に学者諸君がそのまま用いるのは歴史の真実を知らぬ偽学者のやることだ。日

本人は堂々と『大東亜戦争』と呼んだほうが科学的歴史的である」と主張したのであ

る33。  

林の連載を受けて、上山は、先の論文の主張をさらに敷衍して、1964年『大東亜戦争

の意味―現代史分析の視点』を刊行した。上山は、当時タブー視されていた「大東亜戦争」

という用語を敢えて使用した理由として、「それをタブーとみなす心情のうちに、『太平洋

戦争』史観を鵜のみにする反面、『大東亜戦争』史観には一顧だにあたえようとしないと

いう二重の錯誤の根をみとめたからである」と述べていた。すなわち、「大東亜戦争」史

観のみならず、「太平洋戦争」史観「帝国主義戦争」史観、「抗日戦争」史観のいずれも、

国家利益と結びついた本質的に「虚偽意識」としての性格を持つ政治的イデオロギーであ

るにもかかわらず、「大東亜戦争」史観のみ断罪するのは、アンバランスで「二重の錯誤」

が生じたと指摘、各史観を相対化することにより、「大東亜戦争」史観にも「対等な権利」

32 一連の上山の論稿をまとめたものとして、上山春平『大東亜戦争の意味──現代史分析の視点』中央公論社、1964年、2-36頁。33 林房雄『続・大東亜戦争肯定論』番町書房、1965年、21-22頁。

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が与えられるべきであると主張したのである。したがって、林の全面的な「大東亜戦争肯

定論」に対しても、「日本の対中国戦争のねらいは赤裸々な国家利益の追求にあり、アジ

ア民族の解放などということは、ほとんど眼中になかった。『大東亜戦争』を植民地解放

戦争とみるよりは、むしろ植民地再編成をめざす戦争とみるほうが、事実に即している」

と批判していた34。

 その後、「大東亜戦争」は、その論調は多岐にわたるものの、林のように戦争を肯定す

るする人々を中心に広まっていき、その是非をめぐって論争も展開された。

② 根拠

 「大東亜戦争」を使用する人々の根拠は、多岐にわたっている。第一に、林房雄に象徴

されるように、「大東亜戦争肯定論」の立場である。

 第二に、「大東亜戦争」が、閣議(大本営政府連絡会議)決定という「合法性」を有し

ている日本の正式な呼称であるとの主張である。例えば、元大本営参謀で防衛研修所戦史

室が編纂した「戦史叢書」の戦史編さん官である原四郎は、大本営政府連絡会議で正式決

定され、戦後GHQにより使用が一時禁止されたが、「平和条約の発効とともに、GHQの指

令は当然解消するんですから、大東亜戦争という名前は、当然復活すべきもの」で、「大

東亜戦争というのが、歴史的に正確な表現である」と述べていた35。

 第三に、「大東亜戦争」には、イデオロギー的含蓄はなく、単なる地理的呼称で、地域

的に戦争の実態によく適合しているとの主張である。

例えば、駐米大使、外務事務次官などを歴任した外交官の村田良平は、以下のような

理由から、「大東亜戦争」を使用している36。

「『大』は英語に訳せばgreater、即ち『東亜』のみでは主として日、中、朝鮮、

モンゴルのみを指すことが多いので、『より広義の』東アジアを指すことにした

ものであり、中国大陸やビルマまでの戦いも考えれば、米国の強制した『太平洋

戦争』の用語の方がおかしいのである」

 また、評論家の村上兵衛は、地理的にはアジアに広範に拡大した戦場を考慮した場合、

「太平洋戦争」では無理があり、中国戦線を含めて「東アジア(東亜)戦争」と呼ぶべき

34 上山『大東亜戦争の意味──現代史分析の視点』37-64頁。35 原四郎「“太平洋戦争”ではなく“大東亜戦争”と呼ぶべきである」『偕行』1977年3月号、5頁。36 村田良平『村田良平回想録(下巻)──祖国の再生を次世代に託して』ミネルヴァ書房、2008年、342頁。

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だが、この呼称では「歴史的に日清・日露戦争のイメージまで呼び覚ましかねない」ので、

「東アジアにおいて行われた大きな戦争」の意味で「大東亜戦争」という呼称を用いると

主張した。したがって、「大東亜共栄圏(新秩序)」という思想を踏まえて当時日本が採用

した「大東亜戦争」の意味とは異なると述べていた37。

 開戦当時大本営参謀であった原は、「大東亜戦争は、『大東亜の地域において戦われる戦

争』という意味」で、大東亜新秩序建設を目的とするものではないと指摘、GHQが使用

を禁止したのは、「大東亜戦争をもって大東亜新秩序を建設する戦争と誤解したからであ

る」と回想していた38。

 さらに、米国の歴史家ジョン・J・ステファンは、地域的観点から、「第二次世界大戦」

は「あまりに広い範囲」、「太平洋戦争」は「あまりに狭すぎる」ので、「満足すべき用語

ではない」として、「いささかきまり悪いものの、『大東亜戦争』という用語がやはり、日

本がインド洋や太平洋、東アジアおよび東南アジアで繰り広げようとした戦争を最も正確

に表現している」と指摘していた39。

 このように、「大東亜戦争」の由来は、「大東亜新秩序の建設」という政治目的ではなく、

単なる地理的呼称であるとする見解があるが、もしそうであると仮定すると、「大東亜戦争」

は、閣議決定という一定の「合法性」、地域適合性、さらに後述するように「同時代性」

を有すると同時に、イデオロギー色のない呼称ということになる。すなわち、開戦前、海

軍が提唱した「太平洋戦争」が、地域的要因もあり最終的に「大東亜戦争」に決まったの

と同様に、現在では、「太平洋戦争」が「アジア・太平洋戦争」に改められており、皮肉

な見方をすれば、「『大東亜戦争』の呼称が正しいといふことの反証でもある」40とさえ指

摘されたのであった。

 「進歩派」でさえ、「太平洋戦争」は開戦前に海軍が提案しており、必ずしも米国の見方

とするのも難しく、一方、「大東亜戦争」も「地理的理解(「より広い東アジアを戦域とす

る戦争」:引用者注)とを並記すれば、『アジア太平洋戦争』の提唱の趣旨とほとんどかわ

らなくなる。・・・『大東亜』をたんなる戦域と読みかえてしまえば、批判と対立の根拠は

37 村上兵衛『再検証「大東亜戦争」とは何か』時事通信社、1992年、134-138頁。批評家の小浜逸郎は、呼称が決まっていないのはその評価の乱立の反映であると指摘しつつ、「価値中立的」な立場から、「東アジア戦争」が最も妥当であると指摘している(宮崎哲哉編著『ぼくらの「侵略」戦争̶昔あった、あの戦争をどう考えたらよいのか』洋泉社、1995年、63-64頁)。38 原「“太平洋戦争”ではなく“大東亜戦争”と呼ぶべきである」5頁;原「『大東亜戦争』という名の戦争」2頁。39 ジョン・F・ステファン『日本国ハワイ──知られざる“真珠湾”裏面史』竹林卓監訳、恒文社、1984年、210-211頁。40 小田村四郎「戦争呼称『正名』論(上)──『大東亜戦争』と『太平洋戦争』」『日本文化』第23号、2006年冬、47頁。

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失われるかもしれない」と述べていたのである41。

 「大東亜戦争」を使用する第四の根拠は、善悪は別として、「実体」もしくは「同時代性」

があるという主張である。

歴史家の信夫清三郎は、1983年に発表した論文「『太平洋戦争』と『大東亜戦争』」に

おいて、「大東亜戦争」の呼称を回避したいがために、「太平洋戦争」を「科学的に必ずし

も正確な名称とはいえない」と認識しつつも、「次善の方法」として「便宜的」に使用す

るのは、「怠慢、怯懦」であると、家永や歴史学研究会編『太平洋戦争史』などを批判した。

そのうえで、ドナルド・キーン(Donald Lawrence Keene)の論文「日本の作家と大東亜

戦争」42を例に挙げ、「大東亜戦争」の使用が戦争の肯定・支持を意味するものではないと

し、「戦争の歴史的性質を最も的確に表現し、戦争の実体を最も広く蔽いうるもの」とし

て「大東亜戦争」を用いるべきであると主張した43。

 この論文は、信夫がこれまでマルクス主義史学の立場で「太平洋戦争」や「15年戦争」

を使用してきただけに、国際政治学者の斉藤孝が批判を行うなど学界に大きな反響を及ぼ

した44。

 信夫はその後さらに、東南アジア・インドにおける独立運動と日本との関連を「もう一

つの太平洋戦争」と位置づけ、「大東亜戦争」を使用する理由として、政府が決定した公

定のものであるだけではなく、「大東亜新秩序(大東亜共栄圏)を目的とする戦争」とい

う「歴史的意味」も含蓄しているとまで指摘した45。当初の侵略戦争史観から、「大東亜

戦争」の使用にともない、東南アジア・インドの独立に及ぼした日本の積極的な役割の評

価というように、歴史認識も大きく変化していったのである。ちなみに、信夫の弟子の黒

田展之は、インドネシアにおける戦争中の日本軍の貢献が再評価されているとの理由から、

「最近、私も大東亜戦争という呼称を気に入っており、アジア・太平洋戦争とどちらを使

うか迷っている」と述べていた46。

また、『竹内好論』を書いた評論家の松本健一は、「戦争の呼び名は、歴史的であって、

後の時代に、その呼び名を変える(たとえば、太平洋戦争)ことによって、歴史的性格を

41 岡部牧夫「アジア太平洋戦争」『戦後日本 占領と戦後改革 1 世界史のなかの一九四五年』岩波書店、1995年、26頁。42 Donald Keene, “Japanese Writers and the Greater East Asia War,” The Journal of Asian Studies, vol.23,

no.1, Februaly 1964.

43 信夫清三郎「『太平洋戦争』と『大東亜戦争』」『世界』1983年8月号、222-231頁。44 信夫の主張及び信夫・斉藤論争など反響については、木坂「アジア・太平洋戦争の呼称と性格」39-51頁。45 信夫清三郎『「太平洋戦争」と「もう一つの太平洋戦争」』勁草書房、1988年;信夫清三郎『聖断の歴史学』勁草書房、1992年、ⅰ-ⅲ頁。46 読売新聞社編『20世紀 どんな時代だったのか 戦争編 日本の戦争』519頁。

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変えてしまうことは、意味がない。歴史を否定するためにこそ、歴史の歴史的把握が必要

である」として、「大東亜戦争」は、「わたしの常用するものである」と述べていた47。

さらに、ノンフィクション作家の保阪正康は、「大東亜戦争」を使用しないのは、「ま

さに前歴を隠すに等しいのではないか」と指摘、「オモテの言論」の一部である「太平洋

戦争」という認識を再検討する必要があるとの観点から、「大東亜・太平洋戦争」という

呼称の妥当性に言及している。すなわち、「私たちの国が『大東亜戦争』という主体的意

思を持って戦った戦争であるなら、それはその当時の戦時指導者と全く違う認識で大東亜

戦争というものを歴史の中に位置づけることができる」というのである48。

 第五に、「侵略」と「解放」の両義性をこめて使用する例である。木坂は、「濃淡の差は

あれ『大東亜戦争』がもつ『侵略と解放』の両義性を明らかにすることを目的」として「大

東亜戦争」を使用する例として、先の信夫のほか、東南アジア研究者の後藤乾一、歴史家

の三輪公忠などを挙げている49。

 後藤は、「侵略的色彩の濃い戦争」で、「タテマエとしての崇高な理念」にすぎなかった

が、「全体的にみればごく一部でしかなかったが、『大東亜戦争』の理念に自己のアイデン

ティティを求め」た日本人が東南アジア各地に少なからず存在したと認めつつ、以下のよ

うに述べていた50。

「無謀な戦争から歴史的教訓を学び取る上でも―加害者として、そして被害者と

して―あるいは今なお東南アジアの年輩の人々の間で『ダイトウアセンソウ』の

語が語り継がれている事実からも、当時の『大東亜戦争』に“こだわる”ことが必

要ではないかと考える。しかしいわゆる『肯定論』とは明確な一線を画すために

も、本書全体を通じ括弧つき『大東亜戦争』を原則として用いることにしたい」

 上記のほかに、「大東亜戦争」を使用している中国文学者の竹内好は、日本の対外戦争

は「自衛のほかに東亜の安定を名目」として行われ、「その最大かつ最終のものが大東亜

戦争」で、「第二次世界大戦の一部という側面」もあったが、「日本人がアジアを主体的に

考え、アジアの運命の打開を、自分のプログラムにのせて実行に移した」という「大東亜

戦争に固有な性格があった」と指摘した。さらに竹内は、特に中国に対して侵略戦争であ

47 松本健一『竹内好論』岩波書店、2005年、116頁(松本健一『竹内好論』第三文明社、1975年)。48 保阪正康『オモテの言論 ウラの言論』秀明出版会、1999年、8-27頁;保阪正康「大東亜戦争・太平洋戦争はいかに語られてきたか」『防衛研究所戦史部年報』第2号、1999年3月。

49 木坂「アジア・太平洋戦争の呼称と性格」48-50頁。50 後藤乾一『近代日本と東南アジア』岩波書店、1995年、182-186頁。

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った事実は否定できず、林房雄のように全面的に戦争を肯定することに同意しないとした

うえで、「ただ、侵略を憎むあまり、侵略という形を通じてあらわされているアジア連帯

感までを否定するのは、湯といっしょに赤ん坊まで流してしまわないかをおそれる」と主

張していた51。

こうした両義性と呼称の関連について、政治学者の山口定は、両義性の主張もまた「意

図」と「結果」を混同していると批判しつつ、「大東亜戦争」という呼称が現在も生き残

っている理由として、ABCD包囲網という被害者意識と同時に、「『西欧帝国主義からのア

ジア諸民族の解放』という『大東亜共栄圏』の理念が、第二次大戦の終了後、基本的には

壮大な『歴史の逆説』としてかなりの程度まで実現したという事実の寄与によるものであ

る」と指摘している52。 

 第六に、「異なった戦争には、違った呼称を冠し、かつ使用すべきである」との根拠から、

「大東亜戦争」を使用すべきとの立場である。すなわち、文部省主任教科書調査官を務め

た村尾次郎が指摘するように、中南米の戦争に「太平洋戦争」と称する「先称権」があ

り53、したがって、のちに勃発した日本の戦争は「太平洋戦争」以外でなければならず、

その場合、「大東亜戦争」を除いて適切な名称がないという主張である54。

 そのほか、「大東亜戦争肯定論」を否定する立場から、「大東亜戦争」を使用する論者も

存在する。東南アジア研究者の倉沢愛子は、「太平洋戦争」では東南アジアの戦争が捨象

されるという問題意識と、当時政府が決定したとの観点から、「いま歴史を語るにもこの

名のまま使うほうがスッキリしている」と主張する。しかし、戦争肯定と誤解される虞が

あるため、「括弧をつけて『大東亜』戦争と呼ぶ」としている55。

 また、児童文学作家の山中恒は、『ボクラ少国民』シリーズにおいて「大東亜戦争」に

こだわった理由として、「太平洋戦争」は米国が与えたもので、「こちら側の戦争って意識」

という同時代感覚を重視するとともに、「大東亜戦争」を使うことにより、アジアに対す

る侵略に加担した事実を見つめ、肯定論にもクレームをつけるためであると述べてい

た56。しかし、山中はのちに、「大東亜戦争」に固執するのは、「侵略戦争ではないと擁護

する側の人たちが多い」との認識から、「アジア・太平洋戦争」へと呼称を変更したので

51 竹内好『日本とアジア』筑摩書房、1993年、92-96頁(『竹内好評論集 第3巻──日本とアジア』筑摩書房、1966年の文庫版)。

52 山口定「二つの現代史──歴史の新たな転換点に立って」粟屋憲太郎他著『戦争責任・戦後責任──日本とドイツはどう違うか』朝日新聞社、1994年、242-244頁。53 村尾次郎「教科書にあらわれた軍事史の取扱について」『軍事史学』第11巻第3号、1975年12月、66-67頁。54 坂本「『大東亜戦争』及び『太平洋戦争』の呼称に関する一考察(下)」5頁。55 倉沢愛子『「大東亜」戦争を知っていますか』講談社、2002年、26-28頁。56 山中恒『ボクラ少国民 補巻 少国民体験をさぐる』辺境社、1981年、106-107、152-153頁。 

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ある57。

 一方、日本外交史研究者の松浦正孝は、最近『「大東亜戦争」はなぜ起きたのか』と題し

た大著を刊行したが、著者は敢えて「大東亜戦争」を使用した理由として、以下の二点を

指摘している。第一に、「満洲国」と同様、「様々な政治的評価があるにもかかわらず、そ

れが当時の時代的文脈の中で政府の公式名称として用いられた」ためである。第二に、「『ア

ジア主義』ないし汎アジア主義というイデオロギーによって引き起こされた側面を強調し

たい」点である。その上で、「『アジア解放』のための戦争であったことを否定するが故に、

本書は、敢えて『大東亜戦争』という呼称をかぎ括弧付きで使う」と述べていた58。

③ 問題点

 先ず、「大東亜戦争」が有しているとされるイデオロギー性である。その使用を否定す

る人々は、それが含蓄する戦争を美化し肯定する思想を問題にしていた。この主張は、前

述したように、家永三郎や歴史学研究会編『太平洋戦争史』などに代表される「進歩派」

の識者を中心になされた。

 例えば、「大東亜戦争」を提唱した信夫を批判した斉藤は、信夫と同時代史の認識に大

きな隔たりがあると指摘し、「大東亜戦争」という名称は、「占領軍の指令がなくとも、本

来日本国民自身が否定すべきものであった」、「タブーではなくて、回避したい呼称の一つ

である」と主張、さらに、「大東亜戦争」は地理的名称との意見に対しては、「『大』をつ

けるのは自分を誇示しようとするから」で、「『東アジア』とでもいったらいい」と反論し

た。そして、呼称としては、価値判断が含まれない「第二次世界大戦」か「太平洋戦争」、

また中国戦線軽視というのであれば、「15年戦争」がよいと述べていた59。また、安井三

吉も、「この呼称(大東亜戦争:引用者注)ではアジア側の抵抗の『実体』を『蔽い』え

ない」と信夫の主張を批判したのである60。

 同様に、外国、特に近隣諸国では、「大東亜戦争」は戦争や植民地支配を正当化するも

のとして負のイメージを抱かれている。最近では、「日中歴史共同研究」において、中国

側は、日本側の報告書が「大東亜戦争」を使用しなかった点を評価61、「日韓歴史共同研究」

57 山中恒『アジア・太平洋戦争史』岩波書店、2005年、ⅶ頁。58 松浦正孝『「大東亜戦争」はなぜ起きたのか』名古屋大学出版会、2010年、5-13頁。松浦は、「さきの大戦」といった漠然とした表現しか昭和天皇が出来ず、学界においても様々な呼称が乱立しているのは、政治的理由のほか、戦争への「複雑な過程を、六〇年以上経った今も、歴史家がきちんと説明できていないという事情に由来するのではないだろうか」と問題提起を行っていた(同、12頁)。59 斉藤「『大東亜戦争』と『太平洋戦争』」280-284頁。60 安井三吉「日中戦争史研究についての覚え書──『十五年戦争』と『抗日戦争』」『歴史科学』99・100合併号、1985年5月、105頁。61 『産経新聞』2010年2月2日。

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では、韓国側は、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が「大東亜戦争」を使用して

いる点を問題視していたのである62。

 また、閣議決定という「合法性」や「同時代性」に関しても、現在定着している戦争の

呼称の多くは後からつけられたものであり、「けっして固有名詞ではなく、時代の流れと

ともに変化しうるものである」といった指摘もなされた63。

 他方、前述したように、「進歩派」を含め、「大東亜戦争肯定論」を否定する人々の間で

も、信夫、倉沢、後藤などのように「大東亜戦争」を使用する場合もあった。

第二に、対象とする期間について、「大東亜戦争」も、「太平洋戦争」ほどではないが、

同様に混乱が見られた。すなわち、「支那事変ヲモ含メ」の意味、換言すれば「大東亜戦争」

と「支那事変」との区分けの問題である。一般には、「支那事変」を1937(昭和12)年ま

で遡って含むのではなく、1941年12月8日以降の「支那事変」、具体的には中国大陸での戦

争を含めるものと理解されている。例えば、木坂順一郎は、「『支那事変をも含め』という

のは『支那事変』にさかのぼってふくめるのではなく、一九四一年一二月八日以降の、中

国地域での戦争をふくめるという意味であった」64と指摘していた。

ちなみに、前述の「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期ニ関スル件」では、「給与、

刑法ノ適用等ニ関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス」

とされていたのである。

 一方、開戦後の12日に出された内閣情報局の発表は、「過去四年有半にわたって遂行さ

れた支那事変も大東亜新秩序のため米英両国の傀儡化した重慶政権の打倒を目指したもの

であり、その目的は今回の対米英戦と同一でその本質も異なるところなく、従って『大東

亜戦争』の下に含まれることになった」65と述べていた。また、前述した法律第9号の趣旨

説明のために作成された「『大東亜戦争ノ呼称ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案』説

明基準」は、「其ノ目的ニ於テ又、其ノ本質ニ於テ従来遂行セラレ来レル支那事変ト何等

異ル所ナク従テ大東亜戦争ナルモノハ支那事変ノ生成発展シタルモノト謂フヲ得ベシ」と

述べたのちに、「支那事変ヲモ含メ」の趣旨について、以下のように指摘している。

「今次勃発ノ対米英戦ノミヲ支那事変ト区別シテ大東亜戦争ト称スルモノニ非ザ

ルコトヲ示ス。更ニ、右決定ハ、今後大東亜戦争ナル呼称ヲ用フル場合ニハ昭和

62 同上、2010年3月24日。63 木坂「アジア・太平洋戦争の呼称と性格」52-53頁;斉藤「『大東亜戦争』と『太平洋戦争』」282-283頁。64 木坂『昭和の歴史 7 太平洋戦争』24頁。65 『朝日新聞』1941年12月13日。

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十六年十二月八日前ノ支那事変ヲモ包含スルモノナルノ意ヲ含ム」

 ここに示された「支那事変ヲモ含メ」との記述は、法律運用上の問題とされるが、誤解

を招きやすい表現であり、国民の間にも混乱が見られた。例えば、戦後の1945年11月30日

の第89帝国議会貴族院において、村上恭一貴族院議員は、「大東亜戦争調査会」の調査範

囲に関連して、下記の質問を行った。

「世間デハ一般ニ昭和十六年十二月八日ヲ以テ大東亜戦争ノ勃発シタ日ト斯ウ見

マス、併シ私ハ是ハ間違ヒデアルト思ヒマス、大東亜戦争ハ右申シマシタ法律(法

律第9号:引用者注)ノ規定ノ結果、嘗テノ支那事変ヲモ含ムノデアリマスカラ、

大東亜戦争ガ開始シタノハ決シテ昭和十六年十二月八日デハナク、昭和十二年九

月何日デアリマシタカ、其ノ日デアルベキモノト斯ウ思ヒマス」

これに対する松本烝治国務大臣の答弁は、以下の通りである。

「而シテ法律中ニ「支那事変」トアッタノハ「大東亜戦争」ニ改メルト云フコト

ニシテ居リマス、斯クノ如キ法律ヲ定メタ趣旨カラ考ヘマシテモ、或意味ニ於キ

マシテ大東亜戦争ト支那事変トハ矢張リ区別シテ考ヘルベキモノデアル、・・・

区別ガアルカラコソ此ノ法律ニ依ッテ及ブコトニシテアルノデ、矢張リ別ノ時期

ガアルト考ヘマス」

これに対して、村上議員は、「大東亜戦争一本、ソレハ必ズ総テノ戦争ヲ包含スルモノ・・

ドウモ私ニハ腑ニ落チカネマス」と述べていた66。

ちなみに、「戦史叢書」は、例えば『支那事変陸軍作戦』(全3巻)の執筆範囲が1937年

7月から1941年12月8日までであるように、12月8日以前の中国戦線での戦いを「支那事変」

と看做しており、それ以降の戦争は中国戦線を含めて「大東亜戦争」としていた。また、

靖国神社は、祀られている戦没者数を「支那事変」と「大東亜戦争」に分けているが、そ

の境界は1941年12月8日である。

  

66 『帝国議会貴族院委員会速記録 115 昭和篇』東京大学出版会、1999年、172-174頁。

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日本における戦争呼称に関する問題の一考察

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(3)「15年戦争」

① 由来

 「15年戦争」の呼称を初めて使用したのは、哲学者の鶴見俊輔である。『中央公論』1956

(昭和31)年1月号の「知識人の戦争責任」において、「十五年戦争(一九三一~四五年)」

の用語を冒頭で使用、同じ『中央公論』1956年7月号の「日本知識人のアメリカ像」にお

いて、その理由として、「今度の大戦争を、日本人は二部に分けて、満州事変、上海事変、

北支事変の系列は中国に対する戦争、太平洋戦争はアメリカに対する戦争と理解し、あと

の部分がまずかったと評価している。このように戦争をわけてとらえることで、戦争の責

任がぼかされてしまっている」との問題意識から、「昭和六年から昭和二十年にわたる一

シリーズの戦闘を、一つのものとして名づける方法を、現代史家に望みたい」と述べてい

た67。「太平洋戦争」では、満州事変以降の中国との長期にわたる戦争が捨象され、日本

の戦争責任が曖昧にされると考えたため、それを防ぐために「15年戦争」が提唱したので

あった。

 一般に普及する契機となったのは、1968年に刊行された家永三郎『太平洋戦争』(前述)

を通してである。家永は、「柳条溝事件から降伏にいたるまでの、日本と諸外国との連続

した、一連不可分の―私はそう解すべきであると考えている―戦争」を「15年戦争」と称

していた68。ちなみに、教科書で最初に「15年戦争」を使用したのは、家永の『新日本史』

(三省堂、1974年)で、注釈で「当時日本政府は、〈支那事変〉を含めて〈大東亜戦争〉と

よんだ。〈太平洋戦争〉は戦後広く行われている名称である。しかし中国戦線を含めての

名称としては多少問題もあるので、〈満州事変〉以後の一連の紛争を〈十五年戦争〉とよ

ぶ者がある。このほうがいっそう適切であろう」と述べられていた69。

 しかし、前述したように、家永が本の表題を「太平洋戦争」とせざるを得ず、また歴史

学研究会の『太平洋戦争史』の例が示すように、1970年前後は、「15年戦争」はいまだ普

遍性を有しているとは認められておらず、書名としては躊躇せざるを得なかったのである。

 その後、黒羽清隆(『日中十五年戦争』全3巻、1977 ~ 79年)、今井清一(『体系・日本

現代史 2 15年戦争と東アジア』日本評論社、1979年)、江口圭一(『昭和の歴史 4 十五年

戦争の開幕』小学館、1982年及び『十五年戦争小史』青木書店、1986年)、藤原彰・今井

清一編『十五年戦争史』(全4巻、1988 ~ 89年)などが「15年戦争」を使用、広まってい

67 鶴見俊輔「日本知識人のアメリカ像」『中央公論』1956年7月号、176-178頁。鶴見はその後、著書『戦時期日本の精神史』において、より包括的に本件について語っている(鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』岩波書店、1982年4、69-70、148-149頁)。68 家永『太平洋戦争』ⅲ頁。69 秦『昭和史を縦走する』369頁。

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った。

 こうした「15年戦争」は、第一に、日本のアジアに対する侵略が一貫した意図のもとに

遂行された点、第二に、前の戦争が生み出した矛盾が新たな戦争を引き起こすというよう

に、三つの戦争(「中国東北戦争」(満州事変)、日中戦争、「アジア・太平洋戦争」)が密

接不可分である点、第三に、15年に及ぶ中国の抗日民族解放闘争が三つの戦争を連続させ

る最大の力となっていた点を強調する歴史認識が大きな特色であった70。

 一方、これらと異なる立場の論者でも、「15年戦争」を使用する例が見られた。歴史家

の伊藤隆は、『日本の歴史 30 十五年戦争』(小学館、1976年)を刊行したが、「15年戦争」

と冠した理由について、「十五年間のこの時期に、日本人が戦争しかしていなかったとい

うわけではない」と注釈を付けたうえで、「一九三〇年代から四〇年代前半の時期は、動

揺の時代であった。戦争は動揺の最大のものであった。『十五年戦争』というのはそうい

う意味である」と述べ、「動揺」の15年の側面を強調していた71。

 また、村尾次郎は、世界史上戦争継続期間を呼称にする例は数多あり、したがって「太

平洋戦争」や「大東亜戦争」に拘るのではなく、「『十五年戦争』というとらえ方自体がは

たして妥当かどうかをまず検討するべきであり、それが妥当であるなら『十五年戦争』と

称することは決して無価値でないと考えるべきだ」と述べていた72。

② 問題点

 一方、「15年戦争」に対しては、疑問や批判も呈せられた。第一に、三つの戦争を連続

して捉えることの是非で、「15年戦争」と一括すると、戦争を回避もしくは抑止する様々

な選択の可能性を見落とす危険があるのではないかと批判されたのである。例えば、歴史

家の臼井勝美は、「15年戦争」が提起する戦争責任の重要性には基本的には同意するとし

ながら、満州事変以降を戦争期として一括することは無理があり、「満州国成立以後も、

日中間には幾つかの岐路があり、そのいずれを選ぶことによって戦争へ突入したと見たい」

と、満州事変から日中戦争への連続性に疑問を呈していた73。さらに、臼井は、「15年戦争」

というのであれば、1931年から45年ではなく、1937年から51年が適切で、したがって「太

平洋戦争」は、1941年から51年まで続いたとする「太平洋戦争一九四一~五一年」説を提

70 木坂「アジア・太平洋戦争の呼称と性格」56-57頁。71 伊藤隆『日本の歴史 30 十五年戦争』小学館、1976年、16頁。ちなみに伊藤は、真珠湾攻撃以降は、「太平洋戦争」としている。72 村尾「教科書にあらわれた軍事史の取扱について」67頁。73 臼井勝美『中国をめぐる近代日本の外交』筑摩書房、1983年、7-10頁。同様な批判は、藤村道生、秦郁彦、山口定らによってもなされている(藤村道生「二つの占領と昭和史──軍事独裁体制とアメリカによる占領」『世界』1981年8月号;秦郁彦『昭和史を縦走する』148-151頁;山口定「二つの現代史」247頁)。

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日本における戦争呼称に関する問題の一考察

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唱している。すなわち、「15年戦争」の起点は日中戦争の勃発で、「太平洋戦争の終結は、

日露戦争がポーツマス講和条約で終るのと同じように、一九五一年のサンフランシスコ講

和条約、日米安保条約の締結まで待たなければならないとするべきではなかろうか」とい

うのである74。

 第二に、東京裁判で提示された歴史認識を、満州事変以降を対象とした点に象徴される

ように、「正義の裁き」、「文明の裁き」と看做し、ほぼ追認した点が問題であると批判さ

れた。家永は、起点を満州事変とする発想の先駆けは、GHQの「太平洋戦争史」であっ

たと述べていた75。こういった批判は、いわゆる「東京裁判史観」を批判する「保守派」

だけではなく、日本の戦争責任に向き合うべきとする「進歩派」からもなされた76。

 第三に、具体的な戦争期間の問題である。秦郁彦は、満州事変から終戦までは「十三年

十一か月で、切り上げても十四年にしかならない。『十四年戦争』としたらどうだろう」

と批判した77。これに対しては、「満」か「足かけ」かの違いであり、問題ないとの反論

もなされた78。ちなみに、中国では、「抗日戦争」と公式には呼称するが、盧溝橋事件以

降を「抗戦八年」、近年、柳条溝事件以降も含めて「十四年戦争」との呼称も使用されて

いるが、「15年」という字句は使われていない。

(4)「アジア・太平洋戦争」

① 由来

 「アジア・太平洋戦争」を活字として初めて使用したしたのは、国際政治学者の柳沢英

二郎で、1985(昭和60)年2月加藤正男との共著で刊行された『現代国際政治 ‘40s ~ ‘80s』

(亜紀書房)の小見出しにおいてであると言われている。その趣旨は、「日米戦争は西太平

洋の覇権をめぐる闘いとしての『太平洋戦争』」であったが、「日本にとっては、日米戦争

はアジア(東南アを含む)勢力圏確立のための手段であり・・・したがって、『アジア・

太平洋戦争』という呼称が、国際政治上はもっとも適当」であるというものであった79。

 1985年8月、木坂順一郎が、「アジア・太平洋戦争」を正式に提唱した。木坂は、「太平

洋戦争」は米国が命名したもので中国戦線の比重を過小評価する恐れがあり、「大東亜戦争」

は日本の侵略を正当化するため、二つの呼称を回避し、「東アジアと東南アジアおよび太

74 臼井『中国をめぐる近代日本の外交』20-21頁。75 家永『太平洋戦争』3-4頁。76 山口「二つの現代史」246頁。77 秦『昭和史を縦走する』151、239、369頁。78 安井「日中戦争史研究についての覚書」106頁;江口圭一『十五年戦争小史』青木書店、1986年、5頁。79 木坂「アジア・太平洋戦争の呼称と性格」42-43頁。活字以外では、既に1984年12月、副島昭一が学会報告で「アジア・太平洋戦争」の呼称に言及していた(同、43頁)。

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平洋を戦場とし、第二次世界大戦の一環としてたたかわれた戦争という意味と、日本が引

き起こした無謀な侵略戦争への反省をこめて、この戦争を『アジア・太平洋戦争』と呼ぶ

ことにしたのである」と述べている80。

その後、副島昭一(「日中戦争とアジア太平洋戦争」『歴史科学』第102号、1985年11月)、

江口圭一(『十五年戦争小史』青木書店、1986年)、吉見義明(『草の根のファシズム』東

京大学出版会、1987年)などで採用され、広まっていった。そして、1993年1月には、「ア

ジア・太平洋戦争」を表題に使用した最初の単行本である森武麿『日本の歴史 20 アジア・

太平洋戦争』(集英社、1993年)が刊行された81。近年でも、『岩波講座アジア・太平洋戦争』

(全8巻、岩波書店、2005年~ 2006年)、吉田裕・森茂樹『戦争の日本史 23 アジア・太平

洋戦争』(吉川弘文館、2007年)、吉田裕『シリーズ日本近現代史 6 アジア・太平洋戦争』

(岩波書店、2007年)などで使用されている。

② 問題点

 「アジア・太平洋戦争」の問題点は、第一に、対象とする戦争期間である。特に、同呼

称の支持者は、同時に「15年戦争」も支持しているため、両呼称の関連が混乱を招いた。

最初の提唱者である木坂は、「中国東北戦争(満州事変:引用者注)、日中戦争およびアジ

ア・太平洋戦争という三つの戦争を一五年戦争と総称する」とし、「アジア・太平洋戦争」

は、「15年戦争」の第3段階に当たり、真珠湾攻撃以降を対象としていた82。すなわち、「ア

ジア・太平洋戦争」は、「15年戦争」と対等(対立)する用語ではなく、その一部分であ

った。

 多く論者は木坂の概念と一致しているが、木坂自身が「アジア・太平洋戦争という呼称

を使う論者の中に、日中戦争を含めて使用する例が散見されるが、日中戦争時に日本は太

平洋では戦っておらず、このような使い方は誤用である」83と注記するように、例外も存

在していた。例えば、「アジア・太平洋戦争」を初めて使用した柳沢は、日中戦争以降を

対象としており、真珠湾攻撃以降は、「対米=太平洋戦争」と称されていた。また、『岩波

講座アジア・太平洋戦争』は、「戦闘の時間・空間に限定せずに、帝国-植民地の関係を

見据え、『戦時』に止まらず『戦後』をも考察の射程に入れる」との問題意識から、「アジ

ア・太平洋戦争」を、真珠湾攻撃以降の狭義の意味から広義に再定義して使用するとして、

80 木坂順一郎「『大日本帝国』の崩壊」歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本歴史 10 近代 4』東京大学出版会、1985年、338-339頁。81 木坂「アジア・太平洋戦争の呼称と性格」44-51頁。82 同上、56-70頁。83 木坂順一郎「アジア・太平洋戦争論」『戦争責任研究』第50号、2005年冬、21頁。

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日本における戦争呼称に関する問題の一考察

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満州事変から終戦を中心に、その前後をも広く包含したものとなっている。したがって、

「15年戦争」に対しても、戦後をも対象化するため、「時期を明確に限定した呼称には慎重

にならざるを得ません」と否定的であった84。

 そのため、当初は歴史家の今井清一のように、「アジア・太平洋戦争」という呼称は、「ま

だ熟しておらず、対米英宣戦以降の戦争よりも十五年戦争全体を指すと考える人が多い」

との理由から、使用を避け、問題点は認めつつ「日中戦争をも含むということを強調した

うえで太平洋戦争という呼称を用いる」といった指摘もなされた85。 

 第二に、「大東亜戦争」と「太平洋戦争」を否定するために、新たに作られた呼称のため、

「歴史的状況から離れた言葉になっている」86、「歴史術語の用件である特定性に欠け、日

本人の主体性が表現されていない」87といった批判もなされた。「アジア・太平洋戦争」を

使用している歴史家の吉田裕も、「『大東亜戦争』『太平洋戦争』にかわる適切な呼称が、

他に見出せないという理由からである」88と述べており、次善の選択であった。

(5)「第二次世界大戦」

 「第二次(世界)大戦」は、世界的に広く認知された用語である。日本では、例えば斉

藤孝は、「『大東亜戦争』はタブーではなくて、回避したい呼称の一つ」としたうえで、そ

の代わりは、「『第二次世界大戦』か『太平洋戦争』でよいと思う。これらの語には特に価

値判断が含まれていないからである」と述べている89。また、政治学者の猪木正道は、「私

は正直なところ名称など、どうでもよいと考えている」と前置きしたうえで、「大東亜戦争」

は「偏狭で、独善的な軍国主義の臭い」があり、「太平洋戦争」は日中戦争が含まれない

ため、「あっさり第二次世界大戦と呼ぶのが一番よいだろう」としている90。

 いずれも、「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の対立を踏まえて、イデオロギー的に無価

値な点と国際性が評価されている。例えば、かつて秦郁彦は、各々の呼称を検討し、公式

名称でも消滅した例があると指摘しつつ、「〈日独戦役〉がすたれて〈第一次世界大戦〉へ

統一されたように、やがて(d)[第二次世界大戦:引用者注]が定着するのではあるま

84 「刊行にあたって」・「はしがき」成田龍一他編『岩波講座 アジア・太平洋戦争 1 なぜ、いまアジア・太平洋戦争か』岩波書店、2005年、ⅴ-ⅹⅲ頁。85 今井清一「十五年戦争論」藤原彰・今井清一編『十五年戦争史 1』青木書店、1988年、8頁。86 江間史明「戦争呼称と近現代史教育」『教育内容研究』第10号、1996年3月、11頁。87 藤村道生「提言 『昭和大戦』という呼称の提案」『軍事史学』第32巻第3号、1996年12月、9-10頁。88 吉田裕『シリーズ日本近現代史 6 アジア・太平洋戦争』岩波書店、2007年、ⅴ-ⅵ頁。89 斉藤「『大東亜戦争』と『太平洋戦争』」283-284頁。90 猪木正道「『第二次世界大戦』がよい」(「あの戦争を何と呼ぶべきか──敗戦二十年をむかえて」)『サンケイ新聞』1965年8月14日(夕刊)。

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いか」と予想していた91。1970(昭和45)年、週刊誌が著名な知識人11人に対して行った

戦争の呼称についてのアンケートでも、その結果は、「第二次(世界)大戦」が4人でトッ

プ、以下「太平洋戦争」3人、「大東亜戦争」及び「15年戦争」各2人であった92。

他方、問題点も指摘されている。特に、欧州の戦争とのイメージが強く、日本が直接

関係した戦争の特殊性(日本人の主体性)を論ずるには不適当であるとの指摘もなされて

いる。また、「第二次世界大戦」は、1939年9月のドイツによるポーランド攻撃により始ま

ったというのが通説であるが、日本の真珠湾攻撃と起点が一致せず、むしろそれは正確に

は「第二次ヨーロッパ戦争」と呼称すべきで、独ソ戦、真珠湾攻撃をへて文字通り世界大

戦になったのであるから、「第二次世界大戦」は1941年12月8日からの戦争を指すのが正し

いといった見解もある。さらに「支那事変」や満州事変が包含されないといった疑問の声

もある93。一方、中西功は、「太平洋戦争」、「大東亜戦争」及び「15年戦争」といった呼

称では、「第二次世界大戦」という世界史的文脈と「支那事変」が無視されているとして、

「第二次大戦-アジア・太平洋戦線」が妥当であると指摘した94。

(6)その他

日本の元号に因んだ呼称には、「昭和大戦」と「昭和戦争」がある。歴史家の藤村道生

は1996(平成8)年、戦争の有する「侵略」と「解放」の両義性、さらに原爆、シベリア

抑留などの日本人の被害をも包含した意味を考慮し、特に「解放」という「戦争の今まで

タブーとされてきたこの側面を解明し、朝鮮・ベトナムの両戦争がこの戦争と有機的関連

を持つことが解明された時にも対応できるよう、八・一五以後も展望」できる「昭和大戦

(当時は大東亜戦争と呼称した)」の呼称を提唱している95。藤村は、それ以前は、1931(昭

和6)年の満州事変から1972年の日中共同声明・沖縄返還(米国による占領の終結)まで

を対象として、「昭和『40年戦争』」と称していた。そこには、戦後米国が遂行した朝鮮・

ベトナム両戦争に対する日本の加担と、その結果生じた日中間の冷戦状態も含むものとさ

れた96。

 一方、読売新聞社は、2006年8月13日、連載企画「検証・戦争責任」の総括として、い

ずれの呼称も将来にわたる恒久性がないと指摘、過去の日本国内での戦争が元号で呼ばれ

91 秦『昭和史を縦走する』369頁。92 「大東亜戦争か太平洋戦争か」44-46頁。93 木坂「アジア・太平洋戦争の呼称と性格」69-70頁;読売新聞社編『20世紀 どんな時代だったのか 戦争編 日本の戦争』、521頁;藤村「提言 『昭和大戦』という呼称の提案」10頁。94 家永三郎「日中戦争についての中西功書簡」『近きに在りて』第3号、1983年3月、55頁。95 藤村「提言 『昭和大戦』という呼称の提案」4-13頁。96 藤村「二つの占領と昭和史」55頁。

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日本における戦争呼称に関する問題の一考察

67

ていることが多いこと、一連の戦争が昭和時代に生起したことから、本紙では、今回の紙

面から、「満州事変、日中戦争、日米戦争にいたる一連の戦争」を、一応「昭和戦争」と

呼ぶこととしたとしている。但し、「昭和戦争」と呼ぶことにしたのは、「昭和天皇を念頭

に置いたものではなく、昭和時代に起きた戦争という意味で、元号の『昭和』を冠したも

のである」と、昭和天皇と関連付けた呼称ではないと注釈がなされている97。ちなみに、

過去の日本の戦争は、「壬申の乱」、「応仁の乱」、「文永・弘安の役」など元号に因んでつ

けられた例が多い。同紙では、過去にも1989年2月、連載企画において1回限りではあるが、

満州事変以降の戦争を「昭和戦争」と称したことがある98。

 『読売新聞』では、その後「社説」をはじめ「昭和戦争」の呼称を使用したが、ほかの

マスコミや教科書に普及することはなく、同紙でも近年は「太平洋戦争」と併用する傾向

が見られる。また、最近では、渡部昇一が「昭和の大戦」を使用している99。

主な交戦相手国といった戦争の実態、理念や実質的な利害対立といった戦争の特質の

観点から、日本にとっての主な対象国の国名に因んで、「日米戦争」(入江昭)100、「日英戦

争」(細谷千博)101、「日英米戦争」(塩崎弘明)102といった呼称がなされている。しかし、

入江は、「日米戦争」と同時に「太平洋戦争」を併用、最近では、「アジア・太平洋戦争」

を使用している103。

 英国の歴史家クリストファー・ソーン(Christopher Thorne)は、日米間で使用され

ている「太平洋戦争」では、「戦争の地理的・地政学的側面の性格づけが、とくにその広

範囲にわたる影響に関してはほとんどなされていない」と指摘、戦争は基本的には英国と

日本との戦いで、米国は日本や中国ではなく英国との関係から戦争にいたったとの観点か

ら、「極東戦争」との呼称を提案している。また、「極東(戦争)」という呼称は、英国・

ヨーロッパ中心の世界観から生まれたとの批判を当然受けるであろうとしつつ、その意味

で日本が「極東戦争」ではなく、「大東亜戦争」と呼称したのは理解できると述べてい

97 「『昭和戦争』の責任総括」『読売新聞』2006年8月13日;読売新聞戦争責任検証委員会『検証 戦争責任 Ⅱ』中央公論新社、2006年、277頁;「『戦争責任』とは何か(渡辺恒雄・保阪正康対談)」『論座』2006年11月号。98 「昭和検証 24」『読売新聞』1989年2月4日。99 渡部昇一『日本の歴史 6 昭和篇 「昭和の大戦」への道』ワック、2010年。100 入江昭『日米戦争』中央公論社、1979年。101 細谷千博「太平洋戦争は日英戦争ではなかったか」『外交史料館資料』第10号、1979年10月;同編『日英関係史』東京大学出版会、1982年、301-302頁。102 塩崎弘明『日英米戦争の岐路』山川出版社、1984年;波多野澄雄「日中戦争から日英米戦争へ」『国際政治』第91号、1989年5月、1-18頁。103 入江昭『太平洋戦争の起源』東京大学出版会、1991年(Akira Iriye, The Origins of the Second World

War in Asia and the Pacific, Longman, 1987);入江昭「アジア・太平洋戦争の意義──20世紀史におけるその多面性」『国際問題』第423号、1995年6月。

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る104。ソーンやA・J・P.・テーラー(Alan John P. Taylor)など英国の歴史家の間では、

英国の視点から、日本はアジアにおける英国の勢力を駆逐するために戦争を始め、結果と

して英国は植民地を失い「敗北」したとの歴史認識から、日本が自身の戦争を「大東亜戦

争」と称するのもかまわないのではないかといった考え方もなされている105。

 一方、「大東亜戦争」の呼称を決定した閣議の3日後の1941年12月15日、次官会議は、「大

東亜戦争」の呼称を決定した今日、英国中心の語辞である「極東」の用語を、「日本人自

身がこれを使ふことは洵に不名誉至極であると共に絶対ゆるすべからざる不注意である」

との理由から、公文書をはじめ新聞・雑誌、宣言、決議などにおいて使用しないよう申し

合わせを行った106。

「15年戦争」と同様に、戦争の継続した期間に因んで付けられた呼称がいくつかあるが、

対象とする期間、始点や終点が各々異なっている。「東亜100年戦争」は、前述の林房雄が

『大東亜戦争肯定論』において使用したもので、ペリー来航前後から終戦までの、アジア

に侵攻してきた白人勢力に対する日本の反撃と抵抗を意味している。

 一方、全く逆の日本のアジアに対する一貫した侵略を強調する人々からは、「50年戦争」、

「70年戦争」、「100年戦争」が提唱されている。「50年戦争」は、日清戦争から終戦までを

対象としており、最初は1973年に歴史教育協議会で古谷博(共立女子高教諭)が指摘し

た107。その後、戦後50年の1995年に、ジャーナリストの本多勝一が、「日清戦争から満州

事変までは、どうも切れ目なく連続した情況にある」との認識から、「50年戦争」を提唱

した108。また、その亜流として、台湾出兵から終戦までを対象とした「70年戦争」といっ

た呼称もなされている109。さらに、戦後をも対象に含め、日清戦争から自衛隊のPKO派遣

までを日本による一貫したアジア侵略と看做す「100年戦争」といった呼称もある110。

 

3 公的使用の状況

 (1)現在の政府見解

 戦争の呼称に関する政府の見解は、鈴木宗男衆議院議員(無所属、当時)の2件の質問

104 クリストファー・ソーン『太平洋戦争とは何だったのか』市川洋一訳、草思社、1989年、3-4頁。105 松本健一「幕末から大東亜戦争まで──アメリカのペリー提督が持ってきた『白旗』のこと」『大東亜戦争の総括』展転社、1995年、71-72頁。106 『朝日新聞』1941年12月16日(夕刊)。107 『朝日新聞』1994年9月19日。108 本多勝一『本多勝一集 第24巻 大東亜戦争と50年戦争』朝日新聞社、1998年、208-209頁。109 丸山静雄『日本の「七〇年戦争」』新日本出版社、1995年;東谷敏雄『「70年戦争」と平和の伝言』日本機関紙出版センター、1995年。110 木元茂夫『アジア侵略の100年』社会評論社、1995年。

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日本における戦争呼称に関する問題の一考察

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主意書に対する答弁書で明らかにされている。

 第一は、2006(平成18)年11月30日に提出され、同年12月8日に答弁書が受領された質

問主意書で、内容は下記の通りである111。

「質問:大東亜戦争の定義如何。大東亜戦争という呼称の法令上の根拠を明らか

にされたい。

 答弁:昭和16年12月12日の閣議において、「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移

ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称

ス」とされているが、お尋ねの定義を定める法令はない。

 質問:太平洋戦争の定義如何。太平洋戦争という呼称の法令上の根拠を明らか

にされたい。太平洋戦争に1941年12月8日より前に行われていた日中間の

戦争が含まれるか。

 答弁:「太平洋戦争」という用語は、在外公館等借入金の確認に関する法律(昭

和24年法律第173号)等に使用されているが、お尋ねの定義を定める法令

はなく、これに日中間の戦争状態が含まれるか否かは法令上定められてい

ない。

 質問:政府は、いつから大東亜戦争という呼称を用いなくなったか。その経緯

と法令上の根拠を明らかにされたい。

 答弁:昭和20年12月15日付け連合国総司令部覚書以降、一般に政府として公文

書においてお尋ねの呼称を使用しなくなった。

 質問:政府は公文書に大東亜戦争という表記を用いることが適切と考えるか。

 答弁:公文書においていかなる用語を使用するかは文脈等によるものであり、

お尋ねについて一概にお答えすることは困難である。」

 

 第二は、2007年1月26日に提出され、同年2月6日に答弁書が受領された質問主意書で、

内容は下記の通りである112。

「質問:大東亜戦争の定義如何。

 答弁:昭和16年12月12日当時、閣議決定において「今次ノ対米英戦争及今後情

111 「大東亜戦争の定義に関する質問主意書」(提出者:鈴木宗男、平成18年11月30日提出、質問第197号)及び「内閣衆質165号第197号」(内閣総理大臣安倍晋三、平成18年12月8日)。

112 「大東亜戦争の定義に関する質問主意書」(提出者:鈴木宗男、平成19年1月26日提出、質問第6号)及び「内閣衆質166号第6号」(内閣総理大臣安倍晋三、平成19年2月6日)。

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勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争

ト呼称ス」とされている。

質問:太平洋戦争の定義如何。

答弁:「太平洋戦争」という用語は、政府として定義して用いている用語ではない。

質問:大東亜戦争と太平洋戦争は同一の戦争か。

答弁:「太平洋戦争」という用語は政府として用いている用語でもなく、お尋ね

についてお答えすることは困難である。」

 以上の答弁が示している点は、第一に、1941(昭和16)年12月12日の閣議において、「支

那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされたが、「大東亜戦争」、「太平洋戦争」共に法

令上の定義・根拠はないということ。第二に、公文書における使用は、「太平洋戦争」が

一部法律で使用されているが、使用は文脈等によるものであり、「大東亜戦争」の使用を

禁止するものではないということである。

(2)法令

 法令においては、政府が暫定的に定めた「今次の戦争」が使用されているのは、「罹災

都市借地借家臨時処理法」(昭和21年8月27日、法律第13号)、「認知の訴の特例に関する法

律」(昭和24年6月10日、法律第206号)の2件で、いずれも戦後まもない時期である。「今

次の大戦」は、最も古くは「引揚者給付金等支給法」(昭和32年5月17日、法律第109号)、

新しくは「総務省組織令」(平成12年6月7日、政令第246号)など6件で使用されている。

 一方、「太平洋戦争」は、最も古くは「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24

年6月1日、法律第173号)、新しくは「沖縄振興特別措置法」(平成14年3月31日、法律第14

号)など9件で使用されている。

(3)「お言葉」・演説・談話など

 昭和天皇は、戦後初めての「お言葉」である1945(昭和20)年1月1日の「人間宣言」に

おいて、「長キニ亘レル戦争」と述べられている。また、毎年8月の全国戦没者追悼式では、

天皇陛下は「先の大戦」を使用され、晩餐会等では、「あの不幸な戦争」、「不幸な一時期」

などの表現がなされている。特定の呼称を使用しない点について、宮内庁は、「その(人

間宣言:引用者注)後も戦争名を頭に付けない表現を繰り返しているうちに定着した。特

定の意図をもって○○戦争という言い方を避けているわけではない」と回答している113。

113 読売新聞社編『20世紀 どんな時代だったのか 戦争編 日本の戦争』523-524頁。

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日本における戦争呼称に関する問題の一考察

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 一方、記者会見などにおいては、「第二次世界大戦」という言い方をされることが多いが、

この点について、秦郁彦は、「はっと目を開かれたような思いでした。よく考えてみると、

さきほどの三つ(「太平洋戦争」・「大東亜戦争」・「アジア・太平洋戦争」:引用者注)の呼

称には国際性がありません」と、「第二次世界大戦」という呼称が、外国人にも通じる国

際性を有している長所を指摘している114。

 一方、内閣総理大臣などの演説や談話において、「先の大戦」、「過去の戦争」、「過ぐる

大戦」、「第二次世界大戦」などが使用されている。例えば、1995(平成7)年8月15日の村

山富市首相によるいわゆる「村山談話」(「戦後50周年の終戦記念日にあたって」)は、冒

頭で「先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの

戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものが

あります」と述べられていた。

(4)公的機関等

 次に、主要な公的機関の刊行物を分析する。内閣では、内閣官房編『内閣制度七十年史』

(大蔵省印刷局、1955年)は「大東亜戦争」、内閣制度百年史編纂委員会編『内閣制度百年

史』(全2巻、大蔵省印刷局、1985年)は「大戦」を使用している。特に、後者では、本文

において、「同日未明、日本軍はハワイ真珠湾を攻撃し、米英軍と戦闘状態に入った」と

記述、年表では「米英に対し宣戦布告」というように、特定の呼称の使用しない表記とな

っている。議会では、衆議院・参議院編『議会制度七十年史』(全12巻、大蔵省印刷局、

1960-63年)は「太平洋戦争」と「大東亜戦争」を併用、衆議院・参議院編『議会制度百

年史』(全10巻、大蔵省印刷局、1990年)は、本文では「大東亜戦争」、年表では「太平洋

戦争」を使用している。

大蔵省では、大蔵省百年史編集室編『大蔵省百年史』(全3巻、大蔵財務協会、1969年)、

大蔵省財政金融研究所財政史室編『大蔵省史』(全4巻、大蔵財務協会、1998年)のいずれ

も「太平洋戦争」を使用している。厚生省では、厚生省20年史編集委員会編『厚生省20年

史』(厚生問題研究会、1960年)は「太平洋戦争」、但し、「開戦時『大東亜戦争』と呼称」

と補足、厚生省五十年史編集委員会編『厚生省五十年史』(全2巻、厚生問題研究会、1988

年)は「太平洋戦争」を使用している。外務省では、外務省百年史編纂委員会編『外務省

の百年』(全2巻、原書房、1969年)が、章のタイトルは「『大東亜戦争』(第二次世界大戦)」、

本文では「大東亜戦争」を使用している。すなわち、各省では、外務省以外は、「太平洋

戦争」が使用されている。

114 秦郁彦・松本健一「特集対論 大東亜戦争と昭和天皇」『歴史読本』2008年9月号、52頁。

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また、このような呼称が決定される過程において、「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の

いずれが適切かをめぐって議論がなされていたようである。例えば、大蔵省百年史編集室

編『大蔵省百年史』において、官房調査企画課は、法令上も政府の公文書でも正規の呼称

であることを理由に「大東亜戦争」を主張したが、官房文書課は、一般に普及している「太

平洋戦争」を使用すべきと異論を唱えた。最終的には、百年史編纂顧問の谷村裕・元大蔵

次官115の裁定により、「太平洋戦争」と決まった。その理由は、「当時文部省も教科書検定

において『太平洋戦争』を認めており、殆どの教科書がこの呼称を使用している」という

ものであった。しかし、本書の冒頭に掲載された福田赳夫大蔵大臣による「序文」では、

「大東亜戦争」と記述されたのであった116。

次いで、戦史部と同様に近現代史を扱っている公的機関における呼称の使用について

概観する。国立公文書館及び同付属のアジア歴史資料センターでは、「太平洋戦争」、もしく

は「太平洋戦争(大東亜戦争)」が使用されている。外交史料館では、「太平洋戦争」が使

用され、外交文書は、外務省編纂『日本外交文書 太平洋戦争』(全3巻、2010年1月)と題

して、最近刊行された117。ちなみに、日中戦争についても、近々『日本外交文書 日中戦争』

と題して刊行される予定で、両者の境界線は1941(昭和16)年12月の開戦通告となっている。

 また、国会図書館は、「普通件名」、「関連語」などの分類用語は、「太平洋戦争」に統一

されており、対象期間は1941年から45年である。他に、「日中戦争」、「満州事変」の分類

用語が使用されている。都立図書館における分類も全く同様である。

(5)防衛庁・自衛隊及び防衛研究所の公刊物における呼称

 防衛省の公刊物(年史)においては、以下のように、「太平洋戦争」もしくは「第二次

世界大戦」が使用されている。

 例えば、防衛庁自衛隊十年史編集委員会編『自衛隊十年史』(大蔵省印刷局、1961年)

及び防衛庁技術研究本部創立10周年記念行事委員会編『防衛庁技術研究本部十年史』(大

蔵省印刷局、1962年)は、「太平洋戦争」と「第二次世界大戦」、防衛庁編『防衛庁五十年

史』(防衛庁、2005年)、海上自衛隊50年史編さん委員会編『海上自衛隊50年史』(防衛庁

海上幕僚幹部、2003年)及び防衛庁調達実施本部25年史編さん委員会編『防衛庁調達実施

本部二十五年史』(防衛庁調達実施本部、1980年)は、「第二次(世界)大戦」を使用して

115 谷村は、海軍主計短期現役第1期、海軍主計中尉。戦後、大蔵次官、東京証券取引所理事長など歴任。また、海軍歴史保存会会長で、同会が編纂した『日本海軍史』では、「太平洋戦争」が使用されている(海軍歴史保存会編『日本海軍史』第一法規出版、1995年)。116 小田村「戦争呼称『正名』論(上)』35-36頁。117 「日本外交文書」のシリーズで、他の戦争は、例えば「北清事変」、「日露戦争」、「清国事変」、「満州事変」などと表記されている。

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日本における戦争呼称に関する問題の一考察

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いる。また、最近刊行された防衛施設庁史編さん委員会編『防衛施設庁史―基地問題とと

もに歩んだ45年の軌跡』(防衛施設庁、2007年)では、「第2次世界大戦(日米戦争)」と記

述されている。

ちなみに、民間が刊行した草地貞吾ほか編『自衛隊史』(日本防衛協会、1980年)では、「大

東亜戦争」が使用されている。

 防衛研究所の年史では、防衛研修所30年史編さん小委員会編『防衛研修所三十年史』(防

衛研修所、1984年)は、「大東亜戦争」と「太平洋戦争」を併用、防衛研究所40年史編さ

ん委員会編『防衛研究修所四十年史』(防衛研究所、1993年)及び防衛研究所50年史編さ

ん委員会編『防衛研究所五十年史』(防衛研究所、2003年)は、「大東亜戦争」というよう

に、「大東亜戦争」が主に使用されていた。

 また、防衛研究所のホームページ<http://nids.go.jp/research/military history/index.

html>は、当初は「過去の戦争」と「今次大戦」が使用されたが、これは、戦後の公的な

場における使用例に準拠したものであろう。その後、何度か改訂された現行のHPでは、

戦史部に関しては、「第二次世界大戦」、「過去の戦争」、「太平洋戦争」、史料室に関しては

「大東亜戦争」というように使い分けがなされているが、これは、「公文書においていかな

る用語を使用するかは文脈等によるものである」とする政府見解に則していると理解する

ことも可能であろう。すなわち、史料室は、所蔵している旧陸海軍文書の表記である「大

東亜戦争」を尊重、そのまま使用しているのである。

(6)「戦史叢書」における呼称の問題

 「戦史叢書」の計画段階では、「太平洋戦争史」と仮称されていた。したがって、参事官

会議の決定に基づき刊行を正式決定した1965(昭和40)年11月18日の防衛事務次官から防

衛研修所長に対する通達も、「太平洋戦争史の編さん及び刊行について」と題されていた。

その後、1966年第1巻(『マレー侵攻作戦』)の刊行に際して、「戦史叢書」における戦争の

呼称が、具体的に問題となった。当時の西浦進戦史室長は、戦史室の意見として、1.公

刊戦史である以上、大本営政府連絡会議という最高機関において正式決定された呼称を使

用すべき、2.戦場の地域的側面、3.「太平洋戦争」という用語は米国が使用していた

もので日本政府において使用を認めた記録はないなどの理由から、「大東亜戦争」の名称

の採用を要望した。

 しかし、その後、紆余曲折を経て、正式に「大東亜戦争」の用語を用いることはせず、

折衷案として、シリーズや各巻のタイトルに使用せず、単に「戦史叢書」とすると同時に、

「まえがき、凡例等には用いない。本文中には用いてよい。ただし、本文中においても、

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あえて『大東亜戦争』『支那事変』の用語を用いなくてよい場合は、つとめて他の表現(例

えば『今次大戦』)を用いる」とされたのであった。その間の事情を、戦史編さん官の原

四郎は、「防衛庁も、依然として太平洋戦争と言葉を使っているんです。戦史室も、『内容

には大東亜戦争という言葉を使ってよろしいが外面はいかん』ということだったんです」

と回想している118。

 一方、出版社である朝雲新聞社は「大東亜戦争公刊戦史」として認識119、パンフレット

も「不滅の記録 全102巻遂に完結!!大東亜戦争公刊戦史 子孫に残す真実の史書」と

題されていた。

 さらに、当初刊行が保留されていた「戦争指導史」シリーズが、1973年事務次官通達に

より刊行が決定した際、陸軍版の編さんを担当した原四郎は、「大東亜戦争という言葉を

使わしてくれないなら出版せんでよろしい」と島貫武治戦史室長に直訴、宍戸基男防衛研

修所長の判断で、『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯』(全5巻、1973 ~ 74年)と初めて巻

のタイトルとして採用された。原は、「一般に太平洋戦争と呼ぶ向きが多いんですが、こ

れは、あくまでも俗語で、大東亜戦争というのが、歴史的な正確な表現であります」と述

べていた120。同書の「凡例」には、「戦争、事変名などは、満洲事変、支那事変、大東亜

戦争というように、当時の正式の呼称を用いた」と注記されていた。次いで、『大本営海

軍部大東亜戦争開戦経緯』(全2巻、1979年)も刊行された。

 「戦史叢書」の戦史編さん官のほとんどは、旧陸海軍関係者であったが、戦後50年を記

念して、旧陸海軍関係者が、各々シリーズを刊行した。すなわち、陸軍は、奥村房夫監修

『近代日本戦争史』全4巻(同台経済懇話会、1995年)、海軍は、海軍歴史保存会編『日本

海軍史』全11巻(第一法規出版、1995年)である。同台経済懇話会は、陸軍士官学校OB

の経済人の団体で、海軍歴史保存会も旧海軍将校の団体である水交会を基盤とした、日本

海軍の歴史に関する史料収集と調査研究を行うことを目的とした防衛庁所管の財団法人で

ある。前者では「大東亜戦争」、後者では「太平洋戦争」が使用されている。また、『近代

日本戦争史』は、続編として、奥村房夫編『大東亜戦争の本質』(同台経済懇話会、1996年)

が刊行された。

 こうした点にも、陸海軍の相違が示されているが、戦史室は旧陸軍の影響をより強く受

けていたこともあり、「大東亜戦争」の使用を要望したのであろう。

118 原「“太平洋戦争”ではなく“大東亜戦争”と呼ぶべきである」5頁。119 「『大東亜戦争』と『太平洋戦争』」防衛研修所30年史編さん小委員会編『防衛研修所三十年史』防衛研修所、1984年、92頁。120 原「“太平洋戦争”ではなく“大東亜戦争”と呼ぶべきである」、5頁。

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日本における戦争呼称に関する問題の一考察

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5 各呼称の使用頻度

 本章では、代表的な「太平洋戦争」、「大東亜戦争」、「15年戦争」、及び「アジア・太平

洋戦争」の4種類の呼称を取り上げ、各分野におけるその使用頻度を分析する121。

(1)新聞・図書・雑誌

① 新聞

 主要新聞における呼称をデータベースにより分析した結果は、以下の通りである。依拠

したデータベースは、『聞蔵Ⅱ』(『朝日新聞』、1985年以降の記事を収録)、『ヨミダス歴史

館』(『読売新聞』、1986年以降)、『毎日Newsパック』(『毎日新聞』、1987年以降)、及び『中

日新聞・東京新聞記事データベース』(『中日新聞』1987年以降、『東京新聞』1997年以降)

の4種類で、2010(平成22)年3月時点のデータである。

新聞各紙における各呼称の掲載回数太平洋戦争 大東亜戦争 15年戦争 アジア・太平洋戦争

『朝日新聞』 13846 611 594 387『読売新聞』 7332 251 158 41『毎日新聞』 8150 341 271 128『中日・東京新聞』 8194 359 260 91

 いずれの新聞も、圧倒的に「太平洋戦争」が多く、次いで「大東亜戦争」、「15年戦争」、

「アジア・太平洋戦争」の順である。

 現在使用されている呼称は、『朝日新聞』、『毎日新聞』、『読売新聞』122、『しんぶん赤旗』

(1997年4月、『赤旗』より改称)が「太平洋戦争」、『日本経済新聞』は「先の大戦」、『産

経新聞』は「大東亜戦争」を使用している。また、『しんぶん赤旗』は、「アジア・太平洋

戦争」も併用している。ちなみに、日本新聞協会(新聞、放送、通信の158社が加盟)は、

用語懇談会を定期的に開き、用語について意見交換を行っているが、これまでに戦争の呼

称について議論したことはない123。

121 以下のデータは、サンプル、手法共に完全な意味での統計ではない。例えば「大東亜戦争」を否定的な意味で使用している場合もカウントされている可能性もある。あくまで、普及の概観的な傾向を知るための、ひとつの材料と理解していただきたい。122 前述したように、読売新聞社としては、「昭和戦争」を提唱している。123 『読売新聞』1998年7月27日。

Page 34: bulletin j13-3 3 - MOD3 秦郁彦『昭和史を縦走する』グラフ社、1984年、141頁。 4 『朝日新聞』2008年10月1;同2008年10月18日;『読売新聞』2008年10月1日。2001年1月に、森良朗首

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② 図書・雑誌

和図書のタイトルについて、国会図書館(NDL-OPAC)の書誌検索(2010年4月7日時点)

により分析した結果は、「太平洋戦争」1576件、「大東亜戦争」592件、「15年戦争」287件、

「アジア・太平洋戦争」91件である。

 しかし、最近5年間(2005年以降)は、「太平洋戦争」323件、「大東亜戦争」59件、「15

年戦争」76件(シリーズが43巻含まれているため多い)、「アジア・太平洋戦争」47件とい

うように、「アジア・太平洋戦争」が増えつつある。

 他方、雑誌記事のタイトルについて、同様に国会図書館(NDL-OPAC)の書誌検索(2010

年4月7日時点)をもとに、時系列別に分析した結果は下記の通りである。

 全体的(総計)には、新聞と同様に、「太平洋戦争」、「大東亜戦争」、「15年戦争」、「ア

ジア・太平洋戦争」の順であるが、雑誌の時系列の分析結果から、1969(昭和44)年まで

は「大東亜戦争」が「15年戦争」に優っていたが、1970年代から90年代半ばまではそれが

逆転、近年再び「大東亜戦争」が再逆転した。これは、「15年戦争」を使用していた人々が、

歴史認識を変更することなく、「アジア・太平洋戦争」(明確には、両者の対象とする期間

は異なるが)へと移ったためと思われる。

雑誌記事タイトルにおける各呼称の掲載回数太平洋戦争 大東亜戦争 15年戦争 アジア・太平洋戦争

~ 1969年 257 73 4 なし1970-1983年 112 38 66 なし1984-1995年 201 47 98 なし1996-2000年 157 82 63 292001-2004年 181 52 39 262005年~ 369 102 50 85総  計 1277 394 320 140

 

(2)教科書記述

  現行の「学習指導要領」において、小学校では「日華事変」、「我が国にかかわる第二

次世界大戦」、中学校では、「第二次世界大戦」、「大戦」、高等学校では、「第二次世界大戦」

と記述されている。

一方、現在使用されている小学校、中学校、及び高等学校の検定済み教科書124における

124 小学校は平成16年、中学校は17年及び21年、高等学校は14年から19年に検定済みのものである。

Page 35: bulletin j13-3 3 - MOD3 秦郁彦『昭和史を縦走する』グラフ社、1984年、141頁。 4 『朝日新聞』2008年10月1;同2008年10月18日;『読売新聞』2008年10月1日。2001年1月に、森良朗首

日本における戦争呼称に関する問題の一考察

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戦争の呼称の使用状況は以下の通りである125。小学校(「小学社会 6年上」、全4種類)

は、すべて「太平洋戦争」、中学校(「歴史的分野」、全9種類)では、「太平洋戦争」8種類、

「大東亜戦争」2種類、「アジア・太平洋戦争」1種類である。高等学校(「日本史A」及び

「日本史B」、全18種類)では、「太平洋戦争」17種類、「大東亜戦争」5種類、「アジア・太

平洋戦争」4種類となっている。

 いずれも、「太平洋戦争」の記述が定着しており、次いで「大東亜戦争」、「アジア・太

平洋戦争」の順である。

 「アジア・太平洋戦争」は、当初は「一般に普及していない」との理由で、文部省の検

定で認められなかったが126、近年の普及により、中学校と高等学校では徐々に認められて

いる。特に高等学校の場合、注釈を含めると18種類中10種類で記述されている。他方、小

学校では、2011(平成23)年4月から使用される教科書で、初めて「アジア・太平洋戦争」

という用語を使用した教科書(光村図書と日本文教出版の版)が申請されたが、「理解し

がたい」との検定意見がつき、光村版は「太平洋戦争」に修正、日本文教版は、「アジア・

太平洋戦争」に「一般に太平洋戦争とよばれています」との説明を加えて合格した127。但

し、教科書で使用されている「アジア・太平洋戦争」は、「太平洋戦争」に代わる呼称で、

したがって1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃以降の戦争を意味している。

 一方、「15年戦争」は、教科書検定における文部省と執筆者の議論を経て、1990年代に

漸く中学校及び高等学校の教科書の本文において記述され広まっていったが128、現在では

高等学校のわずか1種類の教科書において注釈で言及されているにすぎない。そこでは、「こ

の戦争をどうよぶか」と題した注釈で以下のように記述されている129。

 「開戦直後、政府は、1937年以来の『支那事変』をふくめて、戦争の呼称を『大東亜戦争』

とした。・・・開戦後、アメリカはこの戦争を『太平洋戦争』とよんだ。・・・近年では、

日本の侵略がアジア太平洋地域全体におよんだことを重視して、『アジア太平洋戦争』と

よぶことが多くなった。いっぽうで、柳条湖事件から太平洋戦争終結までを『十五年戦争』

とよぶことも多い。戦争状態は約15年間実質的に継続しており、日本の対外的侵略の衝動

を重視した表現が『十五年戦争』だといえよう。このように戦争の呼称には、戦争の性格

や目的がふくまれていることを理解することが大事である」

125 注釈は除外、本文の記述に限定した。また、本文において括弧で複数表記がなされている教科書もあるため、総計が重複している場合もある。126 『読売新聞』1998年7月27日。127 『産経新聞』2010年3月31日。128 教科書検定と「15年戦争」の記述については、江口圭一『十五年戦争研究史論』校倉書房、2001年、334-344頁などを参照129 田中彰他著『日本史A 現代からの歴史』東京書籍、148頁(平成19年検定済み)。

Page 36: bulletin j13-3 3 - MOD3 秦郁彦『昭和史を縦走する』グラフ社、1984年、141頁。 4 『朝日新聞』2008年10月1;同2008年10月18日;『読売新聞』2008年10月1日。2001年1月に、森良朗首

防衛研究所紀要第13巻第3号(2011年3月)

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 おわりに

 最近、作家の池澤夏樹は、「土地の名・戦争の名 呼称の困難性」と題して、以下のよう

に述べている130。

 「十五年戦争・・・その間、戦争は連続していなかったという反論がある。ぼ

くには抽象的すぎて実感が湧かないと思う。昭和戦争という名称が普及しないの

は戦後の歴史を無視するものだからだろう。・・・今の日本ではアジア・太平洋

戦争と呼ぶのが一般的らしい。しかしアジアはちょっと広すぎないか?アフガニ

スタンやトルコまで戦域だったわけではない」

日本では、開戦時の戦争目的の不統一、戦後の米国による占領政策、そしてその後の

日本国内における戦争を中心とする近現代史に関する歴史認識の「政治化」の影響を受け

て、様々な呼称が使用され、その是非をめぐって盛んな議論がなされ、池澤の感想のよう

にいまだ決着がついていないのが現状である。

 そのため、ほとんどの呼称はイデオロギー的色彩を帯びる結果となっており、全般的に

は、戦争を正当化・肯定する人々は「大東亜戦争」、相対的に中立的な「太平洋戦争」、ア

ジアに対する侵略戦争と看做す「15年戦争」及び「アジア・太平洋戦争」といった傾向が

見られる。したがって、これらいずれの呼称も、世界に通用する国際性を有していない。

「太平洋戦争」でさえ、世界史的には中南米の戦争と誤解される問題点を抱えているので

ある。

一方、国際性があり、かつ無価値の「第二次世界大戦」に対しては、日本の戦争を語

る場合、時間的・地域的問題点のほか、「感覚的」にも違和感があるといった指摘が根強

い点も否定できない。

また、新たに呼称を定めることは、『読売新聞』が提唱した「昭和戦争」が普及しなか

ったことからも明らかなように、極めて難しい。したがって、既存の呼称を検討するとい

うことになるであろう。

代表的な「太平洋戦争」、「大東亜戦争」、「15年戦争」、「アジア・太平洋戦争」を中心

として、その特色を「時間」(期間)と「(地理的)空間」の視点から概観する。

「時間」、すなわち対象とする戦争期間に関しては、各々諸説があるものの、代表的な

見解をまとめると次頁の通りである。

130 池澤夏樹「終わりと始まり」『朝日新聞』2010年8月3日(夕刊)。

Page 37: bulletin j13-3 3 - MOD3 秦郁彦『昭和史を縦走する』グラフ社、1984年、141頁。 4 『朝日新聞』2008年10月1;同2008年10月18日;『読売新聞』2008年10月1日。2001年1月に、森良朗首

日本における戦争呼称に関する問題の一考察

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各 呼 称 の 対 象 期 間         1931年~ 1937年~ 1939年~ 1941年~

「太平洋戦争」 △ △ ○「大東亜戦争」 △ ○「15年戦争」 ○「アジア・太平洋戦争」 △ △ ○「第二次世界大戦」 ○「満州事変」 ○「日中戦争」 ○(~ 1945)「支那事変」(「戦史叢書」) ○(~ 1941)

注:○は代表的見解、△は少数意見

このように、戦争の起点をいずれにとるかによって異なってくるが、12月8日以降の戦

争を対象とする場合は、「太平洋戦争」、「大東亜戦争」、「アジア・太平洋戦争」のいずれ

かということになるであろう。

 「空間」、すなわち戦場という地域的側面に関しては、「大東亜戦争」、「アジア・太平洋

戦争」は、凡そ中国戦線を中心とする東アジア、東南アジア(インドを含む)、及び太平

洋を明示的に対象としている。「15年戦争」も名称では明示されていないが、概念として

はそれに該当する。一方、「太平洋戦争」は、名称から太平洋を戦場とする日米間の戦争

とのイメージが強く、そのため、近年では「進歩派」を中心として「アジア・太平洋戦争」

に変更する例が見られる。

 使用頻度では、新聞、雑誌、教科書など広く一般では、「太平洋戦争」が圧倒的であるが、

識者に関しては、近年「太平洋戦争」から「アジア・太平洋戦争」への変更が顕著である。

また、識者の一部には「大東亜戦争」の使用も根強く残っており、結果として、一般では

「太平洋戦争」、識者では「アジア・太平洋戦争」、「大東亜戦争」という奇妙な構図となっ

ている。

 一方、公的使用の状況は、法令では、「大東亜戦争」が禁止されたため暫定的に使用す

るとされた「今次の戦争(大戦)」、「太平洋戦争」、「お言葉」、演説・談話などでは、「先

の大戦」、「過去の戦争」、「第二次世界大戦」などが使用されている。また、年史など公的

機関の刊行物では、主に「太平洋戦争」が使用されているが、内閣、議会及び外務省では

「大東亜戦争」も使用されており、特に一般における「太平洋戦争」の普及と比較した場合、

興味深い結果となっている。

 12月8日以降の中国戦線を含めた戦争の呼称の長短を総括的に検討した結果は、以下の

Page 38: bulletin j13-3 3 - MOD3 秦郁彦『昭和史を縦走する』グラフ社、1984年、141頁。 4 『朝日新聞』2008年10月1;同2008年10月18日;『読売新聞』2008年10月1日。2001年1月に、森良朗首

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通りである。「太平洋戦争」は、新聞・雑誌、教科書など広く一般に普及しているものの、

地域的問題がある。「大東亜戦争」は、地域的適合性、「同時代性」、閣議決定という一定

の「合法性」といった長所の反面、イデオロギー性という印象を免れがたい。特に、「大

東亜戦争」の場合、そのイデオロギー性が問題視されるが、アジア解放といった戦争目的

は包含されていないとの指摘もあり、さらに本論で考察したように、イデオロギー的立場

と呼称が、必ずしも明確に一致しているわけではない。例えば、一部「進歩派」などの識

者が、「大東亜戦争」を使用すべきと主張している例も散見される。一方、「アジア・太平

洋戦争」は、地域的適合性、「太平洋戦争」や「大東亜戦争」と異なり新鮮味がある反面、

やはり、「大東亜戦争」とは逆のイデオロギー性を有している。

 結論としては、現時点での使用状況は、「太平洋戦争」の普及度が高いが、今後の展望

として総合的に考察した場合、12月8日以降の中国戦線を含めた戦争の適切な呼称は、戦

争の全体像の視点から、いずれもイデオロギー色を否定したうえで、「大東亜戦争」もし

くは「アジア・太平洋戦争」の使用を検討するのも一法ではないかと思われる。

(しょうじじゅんいちろう 戦史部上席研究官)