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対日講和条約と<安保〉の起源 75 対日講和条約と<安保>の起源 一米国の対日政策 1948-1949一 1. ‘ま じめ‘二 米国において対日講和条約の締結は・東アジアに安定した国際秩序を樹立せ .んとの期待と密接に結びついていた。講和をテコに東テジアに平和で安定した 秩序を創出せしめ,これによって米国の安全保障上の利益を確保することこ そ,米国の対日講和問題への対応を規定した最大の願望であったω。 ユ947年7月11日,米国は極東委員会(Far Eastem Commissi .諸国に講和予備会議の召集を提案するが,議決方式をめぐる中・ソ両国の反対 によって,米提案は流産する。この間米国においては,G・ケナン(George F.Kennan)のもとで対日政策が再検討される。ケナンは究極的なソビエト との了解を目指した構想の下に検討を続け,この成果は48年10月9日の国家 ’安全保障会議(NatiOnaI Security Counci1:NSC)の決定 として米国の公式の政策となるω。しかし米ソ了解にもとづく全面講和を意 1回するケナン構想は,D・アチソン(Dean Acheson)国務長官の下で否定 され,アチソンは中・ソ両国不参加の講和条約=日米二国間条約方式を採択す 一る。 本稿は,NSC13/2を導いたケナンの構想を検討した後,アチソンの下で ・の政策転換を主導,支持した国務省極東局政策担当者の動向と英国の対応を分 析の中心に据えて,転換の過程を明らかにする。即ち本稿は,対外政策の意思 挟定過程の解明を通じて,いかなる意味で49年末に国務省内部に単独・多数 講和=日米安保方式が有力な選択肢として登場するに至ったかを明らかにする 、ことを目的とする。

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対日講和条約と<安保〉の起源 75

対日講和条約と<安保>の起源

一米国の対日政策 1948-1949一

菊 池   努

 1.  ‘ま じめ‘二

 米国において対日講和条約の締結は・東アジアに安定した国際秩序を樹立せ

.んとの期待と密接に結びついていた。講和をテコに東テジアに平和で安定した

秩序を創出せしめ,これによって米国の安全保障上の利益を確保することこ

そ,米国の対日講和問題への対応を規定した最大の願望であったω。

 ユ947年7月11日,米国は極東委員会(Far Eastem Commission:FEC)

.諸国に講和予備会議の召集を提案するが,議決方式をめぐる中・ソ両国の反対

によって,米提案は流産する。この間米国においては,G・ケナン(George

F.Kennan)のもとで対日政策が再検討される。ケナンは究極的なソビエト

との了解を目指した構想の下に検討を続け,この成果は48年10月9日の国家

’安全保障会議(NatiOnaI Security Counci1:NSC)の決定(NSC13/2)

として米国の公式の政策となるω。しかし米ソ了解にもとづく全面講和を意

1回するケナン構想は,D・アチソン(Dean Acheson)国務長官の下で否定

され,アチソンは中・ソ両国不参加の講和条約=日米二国間条約方式を採択す

一る。

 本稿は,NSC13/2を導いたケナンの構想を検討した後,アチソンの下で

・の政策転換を主導,支持した国務省極東局政策担当者の動向と英国の対応を分

析の中心に据えて,転換の過程を明らかにする。即ち本稿は,対外政策の意思

挟定過程の解明を通じて,いかなる意味で49年末に国務省内部に単独・多数

講和=日米安保方式が有力な選択肢として登場するに至ったかを明らかにする

、ことを目的とする。

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 尚,本稿は,根本資料として,近年公刊の進む「米国外交関係文書」に多く

を依拠していることを付言しておきたい。

 2. NSC13/2とケナン構想

 1947年8月12日,国務省政策企画部(Po1icyp1anningStaff)部長G.

F.ケナンはラベット(Robert A.LOvett)国務次官宛覚書を送付する。こ

の中でケナンは,対日政策に関する米国の目的と態度が不明確であり,このよ

うな状況の下で講和問題を処理することがいかに危険であるかを指摘した。ケ

ナン覚書は,直接的には極東局で検討中の講和条約草案に対するPPSの評価

を言己していたが,その後PPSが対日政策に介入し,「封じ込め政策」の観点

から再定義する起点となる。

 覚書は,米国がいまだ日本及び太平洋地域における米国の目的を具体的に確

定していないことを指摘した後,米国は講和条約の協議に入る前に(1)米国の目

的を体系的に検討し,ωこれが政府首脳の合意を得,(3〕講和条約草案がこれら

諸目的と密接に関連付けられるまで,講和の協議の開始を延期するよう求め

た㈹。

 ケナンの検討は,冷戦認識をいち早く凝固させた国務省首脳,とりわけラベ

ットの強い支持の下にω,指導力を欠く極東局の講和推進論を押しのけ‘5〕,

強力に推進される。

 PPSは国務省首脳,陸海軍,グルー(JosephGrew)元駐日大使らと協

議を重ねるが,この成果は10月14日付ケナン覚書として結実する。覚書は,

ワシントンで検討すべき重要事項に関する事実関係が不明確であり・確たる判

断を下すことができないことを強調しつつも,講和問題に関するケナンの基本

的態度を明らかにしていた。要約すれば,以下の四点である。(1)講和後,日本

が政治的,経済的に安定するとの確かな証拠のない現在講和を結、ミ;ならば,そ

れは共産主義の浸透をまねく結果になろう。ωかっての四か国による日本非軍

事化案は放棄すべし。(3〕講和後,連合国が日本の管理や査察を行なうのは好ま

しくない。㈲強力な対日経済復興政策を推進すべし。

 P P Sによれば,講和の最大の価値は,日本国民に対する心理的効果にあウ

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た。もし講和後も管理されるならば,講和が日本国民に与えるであろう好まし

い効果は減殺されざるをえない。P P Sの想定では講和後,日本は名実共に独

立国となり,行動の自由を得る。この結果当然ソビエトの指導する共産主義者

が日本に浸透すべく活発な活動を展開するに相違ない。P P Sの不安はここに

あった。この時日本が共産主義の浸透を阻止しうるか否かは,日本国民が占領

体制から引き継いだ政治諸制度をどの程度支持するかに依る。この態度を規定

する最大の要因が日本の経済状態である。将来望ましい経済生活を享受しうる

期待を国民が持つならば,共産主義が日本に流布する危険はない・とP P Sは

見た㈹。

 かくしてケナンは極東局の<対日講和→安定した日本の創出〉を逆転させた

<安定した日本の創出→対日講和>の論理を提示し,この手段として強力な経

済復興政策の推進を説くが,それは冷戦の基本戦略<封じ込め政策>から導き

出されたものであった。

 第二次大戦後まもなく本格化した冷戦の中で米国は,世界各地に分散する米

国の利益を一貫した外交戦略の下に組織化する必要に迫られる。ケナンの唱導

した封じ込め政策は,正しくこの要請のもとに生まれたドクトリンであった

が,その基調は,(1〕ソビエトのパワーをその領土内に限定し,(2〕この目的が実

現した時,ソビエトとソビエトの国境の外にあってソビエト権力の拡大をはか

る主要な手段である国際共産主義運動の間の分裂を促進し・(3〕これによって生

ずるであろうソビエト体制の変化を利用して米ソ間の相互了解の可能性を創出

することにあった{7〕。ケナンによれば,世界の力の均衡に重大な影響を及ぼ

す強国になる可能性を持つ地域は,米,英,ソ,日,西欧の5つに限られ,こ

のうちソビエトを除く4つの地域をソビエトの支配から防衛するならば,米国

の立場は強化され,ソビエトのそれは弱化する。この時,米ソ了解の可能性が

生まれるに相違なかった。米国の資源は,このために効率的に使用されねばな

らなかった{8〕。

 こうしたケナンの戦略は,極東においては従来の中国への過剰な介入の清算

の提言となる。ケナンは欧州における封じ込めの成果を高く評価し,今後欧州

復興計画が次第に効果を表わしてゆけば共産主義者が再度欧州で攻勢に転ずる

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可能性はないとして,欧州における対ソ封じ込めの将来に明るい見通しを立て

ていた。しかし他方,極東において米国は「手足を伸ばしすぎた。」極東の情一

勢は不安定で,将来の見通しは不明確だった。にもかかわらず米国はこの地域

に過剰にコミットしてきたが,情勢は一向に好転せず,米国にはもはや打つべ

き手はない。この地域では米国はできるだけ控え目でなくてはならず,欧州と

同様の影響力を行使しうると期待してはならない。米国は日本の復興とフィリー

ピンの確保に全力をそそぐぺきで,両国が共産主義の浸透から自由であれば,

極東における米国の軍事的,政治的利益は確保しうる,とケナンは説く㈹。

 さて,以上に述べた構想を秘めてケナンは48年2月末,マッカーサー(Dou-

glas MacArthur)と協議のため訪日する。ケナンは,ソビエト共産主義の

政治的浸透力を理解せず,ソ連を含む国際条約による日本非軍化案を素朴に信一

ず一るマッカーサーに強い衝撃を受ける。かくしてケナンは・マッカーサーに対

し,共産主義の政治的浸透カと占領がポツダム宣言の規定する初期段階から講二

和延期による日本の地位の「裂け目」を埋める段階一即ち占領軍撤退後,日

本が自立し安定した国家として存続しうるよう占領の性格を変える段階に達し

たことを認識させねばならなかったuo〕。

 ケナンは,マッカーサーのように日本の共産主義に対する抵抗力に信頼を置一

くことはできなかった。急激な占領改革は,日本社会の構造を根底からくつ返

してしまった。政治,経済を主導してきた人々は追放され,有能な人々が表舞

台から姿を消した。この結果日本社会は弱化し,国内に不満が充満している。

このような状況は,ケナンによれば,共産主義者に勢力拡大の絶好の機会を与

えるものであった。なぜなら共産主義者にとって,日本を奪取するには日本社

会に浸透し,その中枢を押えれば足りる。ケナンの眼には,日本はこの種の浸一

透に決定的に脆弱であると映った。従って今後米国は,この脆弱性を減ずべく

適切な措置を講せねばならないとケナンは主張するuD。

 他方ケナンは,ポツダム宣言の諸目的は既に達せられたとして,戦時外交の≡

枠組みたるF E Cに捕われる必要のないことを説く。ケナンのこの提言は,

単にマッカーサー説得のためだけでなく,彼の対ソ構想と密接に関連してい

た。即ちケナンによれば,FECの権限を事実上空洞化し,他方今後も米軍

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の駐留を継続させるならば,早晩ソビエトが講和交渉のテーブルに着く可能性

は高まるはずであった。なぜならソビエトが現在のまま交渉に参加しないなら

ぱ,それは唯,米国がF ECの権限に属すことなく無期限に日本にとどまる

ことを可能にするだけである。ソ連が日本における米国の政策の実施を妨げる

場として頼ってきたのはF ECであり,これさえ対日政策の手段たることを

停止すれば,ソ連は米国が希望する講和条約に同意するか,それとも米国が軍

隊を無期限に日本に駐留させることに同意するか,いずれかを選択せねばなら

ない状況に追い込まれる。この結果ソビエトの立場は弱化し,米国は優位に立

てるはずである。この時,封じ込めが目指した米ソ了解の可能性が生まれると

ケナンは考えた‘12〕。米国はこの機会を利用して,日本に駐留する米軍を日本

の中立化,非武装化の保証をソビエトから得るためのバーゲニング・カードと

して使用し,東アジアに米ソ了解にもとづく安定した国際秩序を樹立しうるは

ずであった{13〕。

 ケナンの献策にもとづきN S Cは10月9日,共産化を阻止し,安定した日

本を創出すべく強力な経済復興政策を推進せんことをうたった,新たな対日政

策NSC13/2を採択するω。

 N S13/2はしかし,日本の安定化,自立化の促進をうたっていたものの,

占領を今後何年続け,究極的にいかなる形で講和を締結するのか等に関し明確

な規定を欠いていた。P P Sの介入は急激であり,ケナン構想は・ワシントン

内部のコンセンサスを得るに至らなかったのである。この結果・ケナン構想の

実現は,ケナンの発言力の確保とNSC13/2にもとづく政策の実施によっ

て日本の安定化と自立化を獲得できるかどうかに,大きく依存することにな

る。

 3. 極東周:早期講和の<遺制>と冷戦認識

 米国によるF EC諸国に対する講和予備会議召集の提案は,極東局中堅層

の早期講和論者の活動を著しく鼓舞する。彼らは主張する。占領は戦争の一形

態にほかならず,日本と連合国は現在,依然として戦争状態にある。この状態

を清算せぬ限り日本を経済的に復興させる措置は好ましくない。復興のための

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経済活動は速やかに開始されねばならないが,まず第」段階として講和条約が

締結されねばならない。しかも米国の提案は日本国民の中に占領終結への期待

を高めており,もし講和に失敗するならば,それは日本国民の深刻な反動を惹

起し,米国の利益は重大な影響を受けるに相違ない。「舞台は既にしっらえら

れ,聴衆も集り,前奏曲も奏てられている。ここでカーテンをあげなければ,

米国が主役を演ずる可能性は滅じ,別の役者が主役をとって代わるだろう。」

米国が跨躇するならば聴衆(日本国民)は混乱し,主役(米国)の威信は著し

く傷つけられよう。こうした事態を回避するためにも米国は条約締結にむけて

直ちに積極的行動に出ねばならない㈹。

 彼らの主張はP P Sの介入によって否定されるが,講和の無期限延期(N

S C13/2)にもかかわらず,極東局中堅層の中に根強く残る。

 49年1月,アチソンの国務長官就任によってPPSが国務長官への直接の

献策の道を封ぜられるに伴い,省内におけるケナンの発言力は急速に低下す

る。この中で早期講和の実現に失敗した極東局政策担当者は,日本国内の情勢

に深い憂慮を示し始める。彼らの認識枠組みは従来のそれと基本的に異なって

いた。ケナ:ノを通して日本の国内状況と共産主義の密接な関連に理解を深めた

彼らは,新たな視点から日本を見つめ直す。そして彼らの見た日本は,正しく

ケナンが見たのと同様,共産化の危険を内包する国家であった。この判断と早

期講和を封ぜられた「遺制」.が結びつくに伴い,極東局内に再度,早期講和論

が台頭する。

 49年2月,ロイヤル(Kemeth C.Roya11)陸軍長官に同行して訪日した

ビショップ(Max Bishop)は,日本の状況を言己した覚書をパタワース(Wa1-

ton W.Butterworth)極東局長に提出する。 「日本人の多くは米国の援助

に感謝しているが,にもかかわらず,日本国民の間には占領軍当局が日常生活

の細部にわたって干渉することに強いいらだちがある」とビショップは言己す。

1月の総選挙の結果はこのいらだちを反映している。日本で会った多くの人々

が共産党の勢力拡大を憂慮し,現在を危機と認識しているようだった。ビショ

ップによれば,日本は今や,復讐の念を激しく燃え上らせる道へ進むカ㍉独立

と米国との協調に向かうかの分れ道にある。今後の数ケ月は,日本がいづれの

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道を歩むかを決定する重要な時期になろう,とビショップは警告を発す。占領

軍当局者が既得権の上に惰眠を食っている今,ワシントンはその指導力を行使

して占領の性格を変えてゆかねばならない。「米国が世界情勢や日本自身の行

動によって占領の性格の変更を余儀なくさせられる状況に追い込まれるなら

ば,米国は再び“強さ”でなく“弱さ”の故に譲歩するという,有難くない立場

におかれよう。」米国の影響力の強い現在,日本人の心理を読み取り,先手を

打って占領の性格を変えてゆかねばならないとビショップは勧告する㈹。

 同様の見解は,ライシャワー(Edwin O.Reishower)によってビショッ

プの下に伝えられていた。ライシャワーは,日本国内に占領に対する不満が高

まっており,共産主義に共鳴する人々が急速に増大していることに注意を喚起

し,占領への批判が高まらぬうちに米国は,日本を独立した国家へと慎重かつ

漸進的に変えるよう措置を講ずべきであると勧告した。独立・民主日本への転

換は,4~5年先よりも,現在の方がはるかに容易かつ安全である,とライシ

ャワーは付言するΩ7〕。

 こうした議論が国務省首脳の関心を引きっけるのは,何よりもN S Cユ3/2

の実施が不徹底であったことが大きく影響する。4月15日・パタワースはビ

ショップ・ライシャワー両文書をアチソンに送付し,注意を喚起するととも

に,占領軍当局の日本政府への過剰介入に不満を表明したα8〕。パタワースも

また,日本国民が次第に反抗的になりつつあり,講和を望む声が広まりつつあ

ることを認識していた。「日本における共産主義の脅威は現実のものである」

とパタワースは覚書に言己す(19〕。

 「日本の伝統的社会は,基本的には全体主義的,共産主義的イデオロギーに

対する低抗要因となっていない。日本人は一・一服従することに慣れた国民であ

る」‘20〕とは対日政策担当者に共通した日本観であったが,共産中国の誕生に

伴う東アジアの激動の予兆は,・この日本観と相集って,日本の親米的傾向の維

持に重大な疑問を投げかけずにはおかなかった。

 こうして講和締結による新たな日米関係の樹立をテコに日本の親米的傾向の

維持をはかるべしとの議論が極東局内に強まるが,実際,東アジアにおける共

産主義の脅威の増大は日本の将来に不安を与えるものであったが,他方それ

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は,米国の講和問題に対する基本的立場をFEC諸国,とくに日本の復興に

厳しい批判を加えていた豪州が支持するであろう可能性を高めた,と極東周担

当者は判断した。7月29日,グリーン(Marshall GreenプはF EC諸国

の講和問題に対する態度の要約を提出するが,この中でグリーシは,共産中国

の誕生と各地で激しい抵抗運動を展開する共産ゲリラを前にF EC諸国の対

日態度に微妙な変化が生じ始めていることを指摘する。即ち今やF E C諸国

の多くにとって,日本は安全保障の最大の脅威でなくなりつつあり,対日態度

は軟化した。従ってこれらの諸国が米国の希望する講和の諸条件を原則的に支

持する可能性は,1947年以降実質的に増大した,とグリーンは結論を下す(21〕。

 対日講和の促進は,49年8月,共産中国誕生後のアジア政策を検討中のジ

ェサップ(Philip C.Jessup)ら国務省諮間グループの支持を得る{22〕。だが

グリーン文書が述べるように,彼らは中・ソ両国不参加の講和には慎重だっ

た。アジアで共産主義が勢力を拡大しつつある今,中・ソ両国不参加の講和で

はたして米国の戦略的価値を確保できるか不明であった。しかもこのような講

和は,共産圏,非共産圏の間隙を一層拡大,尖鋭化させるに相違なかった。こ

こに極東局政策担当者のディレンマがあった。

 アチソンが対日政策に眼を向けはじめるのは,正にこの時期であった。既に

47年5月の「デルタ演説」の中て日本を極東の安定の礎石と肥えていたアチ

ソンであったが,49年前半はNATO結成,パリ外相会議,欧州再軍備問題

等に忙殺される。しかし,国民党政府の崩壊と国内政治における中国問題の沸

騰は,アチソンをして再び日本に注目せしめる‘23〕。

 アチソンの対日政策は,ヤルタ体制の現状を維持するに必要な程度に日本を

政治的,経済的に自立させることにあったが㈱,このために最適の方法は日

本と戦勝国間に存在する戦争状態を解消し,日本に国際社会の一員としての資

格を与えることにあった㈱。極東局の講和推進論は,アチソンのこの見解に

合流する。しかしアチソンの対ソ認識に立てば,交渉開始の際に問題になるの

はソビエトではなかった。アチソンによれば,敵だるソビエトの性格は不変で一

あり,ヒトラー・ドイツとスターリン・ロシアの間には多くの共通点がある。

敵は理想主義的な説得や人類のための協調といった言葉に応ずるはずはなく,

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敵にとって唯一の言葉は物理的力である。従ってケナンのようにソビエト権力

の性格や意図を検討するのは,アチソンにとって,時間の浪費以外の何物でも

なかった{26〕。

 こうして極東局の早期講和論は,対ソ了解の可能性を否定するアチソンの強

力なイニシアチブのもとに,国務省の合意へと向かう。しかし国内調整に乗り

出す前にアチソンは,英国との協議の機会を得ていた。対ソ了解を否定する中

で,英連邦の支持は従来にも増して重要であり,英国の意向は慎重に検討され

ねばならなかった。49年9月,ベビン(EmestBevin)外相をむかえて開催

された米英外相会談は,アチソンが対日講和に踏み出す決定的契機のひとつと

なる。

 4. 講和問題と米英関係

 戦後の英国の対日政策は,l1)英連邦諸国への配慮,12〕日本経済の速やかな再

建,(3)戦後日本の改革のモデルたる英国という自己イメージ,によって規定さ

れていた。既に大戦中期より太平洋における影響力を著しく低下させていたに

もかかわらず英国は,かつての同盟国として,戦後日本の改革・復興に寄与し

うると想定していた(27〕。

 ところで第二次大戦は,英国にひとつの教訓一ヴェルサイユ条約は社会

的,経済的混乱を惹起した一を与えていた。世界平和の創造のためには社会

的,経済的再建こそ急務であるとの「歴史の教訓」は,対日政策の底流を形成

する㈱。

 経済の再建によって日本を世界共同体の安定に寄与させんとした英国にとっ

て,講和締結は,緊急の課題であった。47年7月,米国の講和予備会議召集

の提案に英国はいち早く支持を与える。米国提案が議決方式をめぐる対立で頓1

挫した後も,英国の早期講和への期待は不変であった。「もし日本が現在のよ

うに中途半端な状態のままならば日本の世論の硬化は必至で,日本国民の批判

は主たる占領国である米,英両国に向けられるに違いなく,この結果,ソビエ

トとの対決において日本が西側民主主義国を支持する可能性は減ずる」と英国

はワシントンの決断を迫る。降伏条項のほとんどすべてが実施された今,日本

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は米国の庇護から自立し,その政治的将来を自らの手で切りひらかなくてはな

・らないと英国は主張する{29〕。

 英国の現状認識は,米国のそれと対照的であった。軍事的観点に立てば日本

への軍隊の駐留は対ソ関係において有利だが,政治的観点から見れば駐留の継

=続は日本国民の不満を強めるにすぎず,日本を西側陣営の側に引きとどめるこ

とを困難にする。むしろ占領軍の撤退こそが日本の西側諸国との協調を促進し

よう。日本人は生来共産主義を嫌悪しており,米国への経済的依存の大きさか

らみても,占領軍撤退後日本が共産化する危険はない。占領軍が撤退し,日本

人自らが将来に責任を負うならば,日本の指導者は共産主義者に断固たる姿勢

をとるであろう。従って占領軍の撤退によって日本が西側諸国との協調を強め

るであろう長期的効果は,撤退から生ずるであろうリスクよりもはるかに大き

い,と英国は判断していた㈹。

 英国の意向は48年4月2日のデニング(Maber1y E.Deming)=ティコ

ーパー(Erle R.Dickover)会談で米国に明確に伝えられる。席上デニング

は,英国の支持する講和方式として,(1)米英両国による会議召集提案,12〕3分

一の2方式による草案作成,(3)ソ連も招くが不参加の場合でも会議を進行させ

一る,を提示した㈹。

 しかしケナンのもとに対日政策を再検討中のワシントンに,英国提案を受け

.入れる基盤はなかった。

 英国は説得に失敗するが,英国を何よりも不安にさせたのは,米国が単独で

対日政策の再検討を行ないつつあることにあった。英国は米国が検討中との感

触を得ていたが,この問題をめぐる両国間の情報交換は極めて狭められてお

り,英国の不安と不満は昂進する。ケナンやドレーパ」(William H.Dra-

per)陸軍次官の訪日は,再検討が進行中であることを暗示していたが,ロン

ドンにその詳細な情報はなかった。英国は対日占領における米国の権限の優越

性を承認していたが,FECの枠組みを重視し,米国の単独行動には批判的で

」あった㈱。

 英国の猜疑は,英国をして米国との意見交換を促進せしめる。48年5月末

一6月のデニング・ミッションの訪米は,紛れもなく英国の不安と不満を反映

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対日講和条約と〈安保>の起源 85

していたのである。

 デニングは英国の講和への希望を伝えるが米国側の反応は冷やかであった。

米国の反応はケナシのそれに代表される。ケナンは講和締結が困難である理由

として,(1)現状ではソビエトの参加を望めず,もしソビエト不参加のまま条約

が締結されるならソビエトは条約の諸条項に何らの顧慮も私わぬであろうし,

加えてソピェトは米国よりももっと有利な条件を日本に提示しうる立場に立

つ。{2〕現状で政治的,経済的管理を伴う条約が締結されるなら,講和が日本国

民に及ぼすであろう好ましい心理的効果は著しく減殺されざるを得ない。13)逆

に管理のない条約が締結されるならば日本は無防備になり,共産主義の浸透を

阻止しえない,を指摘した㈹。

 かくして両国の見解対立は解消されずに終るが,デニングは米国説得のため

の具体的提案を携行していた。即ち6月2日の会談においてデニングは後の講

和条約=日米安保の原型となる構想を提示し,米国の説得をはかる。ソビエト

が攻撃的である限り,米国がそれに応ずべき適切な措置を講ぜぬうちは講和締

結に乗り出さぬと見たデニングは,米国の西太平洋地域の安全保障上の利益を

確保する手段として,講和条約と別個に日米両国間で条約を締結するよう求め

る。デニングによれば,この方式によって米国は,日本に基地と軍隊を確保し

うるはずであったω。

 デニングの主張は,講和と安全保障を一体のものと見る米側の反論をうける

が・デニング・ミッションは・以後の米英関係の展開に重要な貢献をした。第

一に,現状のまま日本が置かれるなら日本国民の緊張は弛緩するであろう。従

って講和が締結されなくとも日本に一層の自立性を与えることが必要であると

の認識の一致をみたこと。第二に,デニング・ミッションの訪米を契機に両国

の意見交換が促進され,英国の対米協調が強まったこと。第三に,講和条約と

安全保障問題を分離し,日米安全保障条約への道を切りひらいたこと。

 英国の講和締結の熱情も,’48年春のチェコ事件からヘルリン封鎖に至るヨ

ーロッパの緊張の激化の中で次第に弱まり,同年末までには講和問題は,英国

の対外政策の中での優先度を著しく低下させる‘35〕。

 しかし英連邦諸国はもとより英国内においても早期講和を期待する声は根強

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86 一橋研究 第5巻第4号

 く,’49年秋までにアトリー政権は,議会及び英連邦諸国から講和締結を急

ぐよう強い圧力を受けるに至る㈹。かくして英国は再度講和締結にむけて対

米説得に乗り出すが,今回のそれは,国務省の動向にうまく合致する。

 ところで,9月の外相会談は,米英協調による対日講和推進の開始をしるす

画期的会談であった。席上ペピン外相は,英国がこれまで対日政策の枠組みと

して重視してきたF FCに固執することなく、中・ソ不参加の講和会議で英

連邦諸国が米国の立場を支持するよう積極的な説得に乗り出すとの意向をアチ

ソンに伝える。またベビンは,安全保障上の利益の確保に不安を示す米国に,

英連邦諸国との事前協議による合意形成方式を提示する。ここに講和会議で条

約の内容を検討する講和方式を避け,米国と英連邦諸国との間で事前協議を行

ない,重要項目に関しあらかじめ合意を得ておくという講和方式が浮上する。

ベビンはさらに,デニング・ミッション同様,日米二国間条約による米国の利

益確保に強い支持を与えるとともに,英連邦諸国もこの方式に同意しているこ

とを伝えた{37〕。

 ベビンの積極的支持にアチソンは講和締結に乗り出す決意を固める。講和を

希望しつつも積極的にイニシアチブをとろうとしなかった英国が今回,英連邦

諸国説得のために全力をつくすとの言質を米国に与えたことは,講和締結の可

能性を高めたとアチソンは判断したに相違ない。しかも二国間条約方式は,日

本における軍事的権益の確保を強力に主張する軍部説得の有力な方策として働

くかもしれなかった㈹。

 9月13日,アチソンは講和に関する見解とベビンとの会談の要旨を言己した

文書をトルーマン(Harry S.Truman)大統領に送付し,交渉に入る前に

安全保障」:の要請を理解するため,軍部の意見を聴する旨伝える{39〕。 9月17

日,シューマン仏外相をむかえて開催された米英仏三国外相会談においてアチ

ソンは,速やかに講和条約の締結をはかりたい旨伝え,両国の協力を要請す

る。㈹

 ところで国務省は6月の統合参謀本部作成の文書(N S C49)に対する回

答の作成に追われていたが,この成果は10月4日,NSCに提出される(N

SC49/1)。アチソンが回顧録の中で「49年末までに国務省内のわれわれの

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対日講和条約と<安保>の起源 87

ほとんどが,北東アジア課長ジョン・アリソン(JOhn A11ison)の,最良の

状況および管理のもとでも,占領後に日本国民が,われわれが建設しようとし

てきた自由主義的,民主主義的,そして平和的社会を維持存続するであろう

チャンスは五分五分以上ではないとの判断に同意するに至った」と言己すよう

に舳,この文書は,日本の将来に極めて暗い見通しを立てていた。文書は米

国の目的として日本の親米的傾向の維持,促進を掲げるが,これが実現するで

あろう可能性を極めて低く評価し,究極的には米国はこの目的を放棄し,強力

な民族主義的,反共産主義的日本をより望ましい国家として認めねばならない

事態に直面するかもしれない,と警告していた。従ってこうした事態を回避

し,日本の民主主義と親米的志向を維持するために対日講和を推進せねばなら

ないと説く。講和の締結は,講和条約ないし同時に締結される他の取り決めに

よって米国の軍事的利益が保証されるならば,占領体制を継統するよりも米国

の目的実現に必ずしも不利でないとの結論を文書は下す{42〕。

 ジェサップら国務省諮問グループは11月1」日トルーマン大統領の検討のた

めの極東政策文書を提出するが,この中で日本はインドと並んでアジアの安定

の中心として位置付けられる。講和に関しこの文書は,ソビエトの参加如何に

かかわらず,米国は締結にむけて直ちに措置を講ずべきであると勧告する。文

書はまた,講和条約が日米二国間の合意に基く基地権の確保を排除すぺきでな

いことを付言する㈹。

 トルーマン大統鴛国務省,英国の支持を得てアチソンは,講和にむけて努

力を重ねるカ㍉ それは端的に,ケナン構想の否定にほかならなかった。12月

24日付オリバー・フランクス(O1iver Franks)駐米英大使宛アチソン覚書

に示されるように,アチソンにとって,東西対立の中で「中立」などありえな

かった。西側諸国が中立のためにその任務を遂行しても,ソビエトは引き続き

日本の転覆をはからんと様々の戦術を駆使するであろうし,軍事力による威嚇

を行なうかもしれない。国連の安全保障軍は存在せず,自衛のための日本軍の

創設も現状では受け入れられまい。従って,現在のアジア情勢の下では,琉

球,千島を含む日本に米国軍隊を駐留させることは,日本の防衛に不可欠であ

り,これ以外に日本の安全を確保する途はない,とアチソンは断ず㈹。

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88 一橋研究 第5巻第4号

 こうしたアチソンの対ソ不信感と安全保障に対する深い不安感の根底にあっ

たのは,世界各地に米ソ両国の「勢力圏」を設定して相互の均衡を維持すると

いうのではなく,ソ連の「勢力圏」が日増しに拡大し,世界の安定と均衡は崩

壊の瀬戸際にあるという危機意識であった。同年8月のソ連の原爆実験の成功

によって,米ソ核戦争の概念は従来よりはるかに具体性を帯び,以後の米国括

導者の対外認識を拘束する。他方アジアでは,同年10月,中国共産党による

統一が達成される。これら49年秋の一連の「事件」は,米国指導者に非常な

衝撃を与え,彼らは,米国は対ソ冷戦において,決定的に劣勢に追い込まれて

いる,と見た。アチソンもまた,この「衝撃」から自由でありえなかった。と

りわけ対ソ冷戦の「前線ライン」の確立を志向するアチソンにとって,太平洋

西側の防衛ラインの一翼を担うべき日本は,米国極東戦略の「資産」にほかな

らなかったと言えよう。

 さて,1949年末にかけて,国務省,N S Cを中心に,全般的なアジア政策の

再検討がなされる。その特徴のひとつは,アジアをひとつの地域と見傲し,個

々の問題をアジア情勢全般との関連で処理しようとする態度である㈹。12月

23日N S Cで検討された文書は,日本をアジアにおける最も重要な国の一国

に位置付ける。アジアの勢力均衡は,日本の潜在的工業力と日本が米ソいずれ

と手を結、ミ;かによって決定的な影響をうけるからである。従って文書は,日本

の民主主義と経済復興を促進し,日本の親米的傾向を維持することを第一の政

治的要請とする。戦略的には対ソ戦の際の欧州における戦略的攻勢,アジアに

おける戦略的防衛との前提に立って,アジアにおいては,最小限の防衛線の維

持を要請する。この最小限の軍事的ポジションは,アジアの島瞑連鎖網によっ

て維持され,日本はこのラインの中心に位置付けられる㈹。

 上言己文書は修正の後,12月29日, トルーマン大統領の承認を得る㈹。

「アジアにおいて卓越するソ連の勢力と影響力を減少させ,最終的には消滅さ

せること」を基本方針とした本文書の採択はまた,米国のアジア政策が,冷戦

構造の一環として確立されてゆくことを意味した。この過程で日本は,その一

翼を担う重要な一国としての地位を与えられてゆくのである㈹。

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対1ヨ講和条約と<安保>の起源 89

 結びにかえて

 軍事的権益の喪失を憂慮する軍部の反対と朝鮮戦争という予期せざる事態の

発生によって,講和の締結は遅延を重ねるが,1951年9月,サンフランシス

コにおいてその成立をみる。この間11949年末にアチソンが決断した講和方

針一単独:多数講和,日米二国間条約,事前協議による合意形成一は,中途に

「太平洋条約」への「揺れ」を見せながらも,一貫して米国の対日政策の底流

を流れる㈹。

 朝鮮戦争勃発後の1950年8月,ケナンは国務省を去るにあたって,長文の

覚書を国務省に送付する。この中でケナンは,対日講和によって日本本土の米

軍基地を恒久化せんとする政策が,日本国民の将来の自由な選択を拘束し,日

米両国の関係を害し,ひいては米国の国益をも害している,と激しい批判の言

葉を言己す。そしてケナンは,日本の中立化と非軍事化を提言し,北朝鮮軍の南

朝鮮からの完全撤兵と平和維持の約束と引きかえに,日本の中立化と非軍事化

を共産側に提案し,もしそれが受諾されない場合には,米軍による日本再占領

という対抗手段を留保して交渉にあたるべきであると主張する{50〕。だが,日

本を極東戦略の「礎石」とみなす政府,軍部に,ケナンの議論をうけ入れる余

地はほとんどなかったと言ってよい。

 (註)

(1) 講和に関しては,以下を参照。F肥derik S,Dum,月eme-mα伽ne ma肋e

  Se捌舳舳茸ω舳∫砂酬、Rin㏄ton U.P、,1963.

(2) マッカーサーの早期講和の提唱からN S C13/2までの米国の政策決定過程

  に関しては,五十嵐武士氏の一連の業績を参照されたい。「対日講和の提唱と反共

  感の位相」『国際問題』1976年7月,41-57頁。「対日講和の提唱と対日占領政策

  の転換」『思想』1976年10月,21-43頁。「対日占領政策の転換と冷戦」中村隆

  英編『占領期日本の経済と政治』東大出版会,1979年,25-57頁。 「ジョージ・

  ・ケナンと対日占領政策の転換」同上書,59-86頁。

(3) Davies to Keman,Aug.11.1947,FOmなn.Re’α物価θ∫肋eσn伽6

  ∫”es(以下FRと略す)1947,Vl.pp.485-486;Kennan to Lovett,Aug.

 12.1947,ibid.,PP.486-487.

(4) FR.ibid.,PP.489-489,P.492.

(5) 親蒋介石派は共和党右派と結びついて極東局批判を強めていたが,47年9月,

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90 一橋研究 第5巻第4号

  45年9月以来極東局長としてアジア政策を主導してきたJ.ヴィンセントは,彼

  らの非難を静めるためその任を解かれる。David Ha1berstam.τ加肋5㍑m me

  B悔〃e5f.1969、邦訳「ペスト&ブライテスト」第一分冊,155-160頁。Tang

  Tsou,λm〃言α〆5ハ”n〃e加C”m.Chicago,1963,p.453.

(6) Memorandum by Kennm,Oct.14.1947,FR1947,VI,536-7.

(7) John Lewis Gaddis,R肌s伽,肋e So〃e舌σ〃。m,αm”肋2σnκe4∫fαfes,

  N.Y.,1978,p.193.

(8) cf.Thomas H.E屹。ld,“The Far East in American Strategy,1948-19

  51”,in EtzOId ed.,λ功e眺0ア∫初θ一バme7切n Re!”m∬伽。e1787,N.Y.,

  1978, 102-126.

(g) ppS13,“Resum6of World Situation”,Nov.6.1947,FR.1947,I,

  772-777;ppS23.“Review of Current Trends”,Feb.24,ユ948,FR1948.

  I (part2), 523-526.

(1O) FR,1948,VI,697-712.

(工1) FR,ibid.,800-807.

(12) FR,ibid.,P.704

(13) George F.Keman,Mem0’751925-50,I,N.Y.,1972.邦訳,「G F.ケ

  ナン回顧録」上巻第16章参照。

(14) この間の経緯は五十嵐前掲論文「ジ目一ジ・ケナンー」参照。NSC13/2,

  “Recommendation with resp㏄t to U.S.policy toward Japan’’,Oct. 7.

  1948,FR,1948,Vl,858-862.

(15) Max BishOp to pe口fie』d,Aug,ユ4,ユ947,FRユ947,V,,492-494.

(16) Bishop to Butterworth,Feb.18.1949,FR.1949,Vn(part2),659-66

  2.

(17) Bishop to Butterworth,Feb.18.1949,FR.ibid.,662-663.

(18) Butterworth to Acheson,APr.15.1949,FR.ibid.,708-709.

(19) Butterworth to Webb,May19.1949,FR.ibid.,752-754.

(20) Robert A,Feary,丁加0ocψακ伽。ア∫ψm.Seω〃P吃α52:1948-50,

  N.Y.,1950,邦訳「日本占領」,ユ90頁.

(21) Memorandum by Green,Ju1y29.1949,FR.1949,op.cit.,819-825.

(22) Memorandum to Acheson,Aug.29.1949,FR1949,ibid.,1193-1195.

(23) Gaddis Smith,Dmnλo伽5m,N.Y.1972,P.289.

(24) Akira Iriye,C0〃W〃切λゴ”,脾entice-Hall,1974,p.174、

(25) David McLeuan,Demん此e5m,N.Y,1976,p.266、

(26) Smith.op.cit.,p.407.1949年6月のパリ外相会談でソビエトは,四ケ国

外相会議において講和条約問題を討議するよう再提案するが,アチソンは,この方

式ではソビエトの拒否権のため,米国はソビエトの受諾可能な条約以外締結は不可

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対日講話条約と<安保>の起源 91

  能であると再認識する。

  Re〃刎s oゾ肋e W〃〃Sκ吻κm,1脳9-1950,U.S.Senate,1979,p.102.

  FR.1949,op.cit.,pp.757-758.

(27) Gordon DanieIs,“3〆切肋’s”em0∫カ05切α7ノ切αn,1945-49”,prepared

  for the Ang1o-Japanese Confer㎝ce on the History of the Second World

  War,July17-20.1979,at the ImperiaI War Musem,London,PP11-2

  cf Christpher Thome,λme50∫αK物4London,1978,P日rt5.

’(28) Danie1s,op.cit.,p.1

(29) DougIas to Marshall,Feb.20.1948,FR,1948,op.cit.,664-6651

・(30) Borton to Butterworth,Mar.19.1948,FR,1948,ibid.,685-687.

(31) Dickover to Butterwo正th,Apr.1.1948,FR,工948,ibid.,720-721

(32) c壬.Sebald to Marshau,Mar.29.1948,FR,1948,ibid.,719-720.

一(33) FR,1948,ibid.,782-785,788-794.

(34) FR,1948,ibid1,796-799.

(35) Memorandum by Seba1d,Sep.3.1948,FR,1948,ibid.,842-844.

(36) Jo㎞W.Wheeler-Be㎜ettandAnthonyNicholls,”e∫em舳nceoμ2m,

  MacMinan,1972,p,507.英連邦諸国,とりわけ厳しい対日姿勢を堅持してい

  た豪州の動静に関しては,さしあたって以下を参照。R.N,Rosecran㏄,

  λm5炉α”ακDφわ”吻ηomd∫α少。m,1945-1951,Melbourne U. p., 1962.

(37) FR,1949,op二。it.,858-859.

(38) 軍部は一貫して講和条約は「時期尚早」であるとする。NSC49,FR.工949,

  ibid.,773-777.マッカーサーは1ソビエトが日本に対するnon-aggvession,

  neutra1ityの保証に参加するなら,すべての軍隊は日本から撤退すべきであると考

  えていたが,他方,保証措置のない場合は,将来にわたって日本にprOtective

  military fOrCeを置く措置が講ぜられねぱならないとする。マッカーサーによれ

  ば,このための取極は,講和条約本文に含まれるべきでなく,日本の求めによっ

  て,日米二国間で結ばれるものである。Sebald to Acheson,Sep.,1949,FR.

  1949. op. ci t., pp. 862-864.

(39) Acheson to Truman,FR,1949,ibid.,P.860.

(40) FR,1949,ibid.,P.861

・(41) Dean Acheson,Pm5m刎m Cmα地〃・W.W.Norton,1969,邦訳「ア

  テソン回顧録」第2巻,80頁.

〈42) NSC49/1,FR,1949,op,cit.,870-873.

(43) Jessup to Acheson,FR,1949,ibid.,1209-1214.

〈44) Acheson to Franks,FR,1949,ibid.,927-929.尚,アチソンは日本の再

  軍備には慎重だった。McLelIan,oク.c〃.,p.266.

〈45) Reviews of the Wo1d Situ司tion,oP.cit.,P.86.FR,1949,op.cit.,

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92 一橋研究 第5巻第4号

 pp. 1209-1214.

(46) NSC48/1,The positionof the U.S.with respectto Asia,Dec.23.

  1949. U.S.Dept. of Defense,σ.。S.一Weオmm児e伽κ伽5.1945-1967,

  V111,1971,pp.226-64二周知の通り,ごめ議論は翌1950年1月12日のアチソン

  の「defensive perimeter」演説につらなる。この間の事情については以下を参照。

  但しギャディスは日本問題は論じていない。John L,Gaddis,‘The Strategic

  Perspective:The Rise and Fa1I of the‘‘Defensive perimeter”Concept,1947

 -1951’,in Dorothy Borg and Wa1do Heinrichs eds.,σme物肋γm75,

  C加ゴmse一λm67切m亙e’ακms,1947-1950,Columbia U.P.,1980,PP,61.

  一118.

(47) NSC48/2,Dec.30,σ.∫一We切αm Re伽κθ棚,op.cit.,pp.265-272.

(48) ダウアーは1949年末を,前年来の「逆コース」の「全面展開期」とみる。

 John W.Dower,‘‘The Superdomino in postwar Asia:Japan in and out of-

  the pentagon papers”、in Pen切gOn P妙e7∫(Grave[edition),V,p.113.

(49) 豪州は対日講和とからませて,米国を構成国とする「太平洋条約」を提唱す

  る。豪州の主張は,講和締緒を急ぐ米国政府を微妙な立場に追いこみ,米,英,豪

  関係を緊張させるカ㍉この問題は稿を改めて論じたい。参照,Sir砕rcy Spender、

  互mmses切り桝。mαψ,Sidney U,p.,1969.

(50) Kennan to Acheson,Aug.21,FR.1950,V11I,Korea,pp.623-628.

(筆者の住所:浦和市元町2-23-29柳荘)