HERMES-IR | HOME - アフリカの角と米ソ冷戦( · 110) Westad, op.cit.,...

24
1455 アフリカの角と米ソ冷戦(2・完1977年のオガデン紛争と米ソデタントの崩壊増  古  剛  久 Ⅰ はじめに Ⅱ ソマリアの独立と社会主義化 Ⅲ エチオピア革命と社会主義化(以上 6 巻 2 号) Ⅳ オガデン紛争と米ソ冷戦 Ⅴ 結論(以上本号) Ⅳ オガデン紛争と米ソ冷戦 1.オガデン紛争の勃発 1977 年 5 月 WSLF はオガデンにおいて本格的に武装闘争を開始した.兵力はゲ リラを中心に3,000名程度であったのだが,組織力とソ連製の優秀な武器を装備 したにことよって,民兵を含むおよそ 2 万人のエチオピア軍を圧倒した 104) .ソマ リア側が述べるところではこの武装闘争によって「エチオピア占領下にあるソマ リア領土」すなわちオガデン地域の約 60 パーセントを支配下に置いた. 同年7月 105) ,ソマリア正規軍がエチオピア領オガデンへ侵攻したことに端を発 『一橋法学』(一橋大学大学院法学研究科)第 6巻第 3号 2007年 11月 ISSN 1347- 0388 一橋大学大学院法学研究科国際関係論専攻博士後期課程在学中.2006 年 6 月よりケニア の首都ナイロビ在住.2007 年 7 月,ケニア国教育省から学術調査許可を取得.日本学術 振興会ナイロビ研究センター(JSPS;The Japan Society for the Promotion of Science), ナイロビ大学アフリカ研究所(Institute of African Studies, University of Nairobi)の 協力を得て,当地で調査研究活動を行っている. 104)Colin Legum op.cit., B226. 105) Africa Research Bulletin によれば,ソマリア正規軍のオガデン侵攻は7月下旬頃だと推測 される.エチオピア側の主張では,ソマリア軍はすでに 5 月には WSLF を支援するべく オガデン地域に出没し始め,7 月 23 日頃 WSLF とソマリア正規軍とが本格的にオガデン に侵攻した.一方,ソマリアはこの事実を否定している.Africa Research Bulletin, Political, Social and Cultural Series, vol. 14.7, August 15, 1977, p.4508. しかしながら, WSLF であれソマリア正規軍であれ,ソマリア側がエチオピアに侵略したことは紛れも ない事実である.また,オガデン「紛争(conflict)」,オガデン「戦争(war)」という 研究者も存在し,呼称は統一されていない. 341

Transcript of HERMES-IR | HOME - アフリカの角と米ソ冷戦( · 110) Westad, op.cit.,...

  • 1455

    アフリカの角と米ソ冷戦(2・完)─1977年のオガデン紛争と米ソデタントの崩壊─

    増  古  剛  久※

    Ⅰ はじめにⅡ ソマリアの独立と社会主義化Ⅲ エチオピア革命と社会主義化(以上6巻2号)Ⅳ オガデン紛争と米ソ冷戦Ⅴ 結論(以上本号)

    Ⅳ オガデン紛争と米ソ冷戦1.オガデン紛争の勃発

    1977年5月WSLFはオガデンにおいて本格的に武装闘争を開始した.兵力はゲリラを中心に3,000名程度であったのだが,組織力とソ連製の優秀な武器を装備したにことよって,民兵を含むおよそ2万人のエチオピア軍を圧倒した104).ソマリア側が述べるところではこの武装闘争によって「エチオピア占領下にあるソマリア領土」すなわちオガデン地域の約60パーセントを支配下に置いた.

    同年7月105),ソマリア正規軍がエチオピア領オガデンへ侵攻したことに端を発

     『一橋法学』(一橋大学大学院法学研究科)第6巻第3号2007年11月 ISSN 1347-0388※ 一橋大学大学院法学研究科国際関係論専攻博士後期課程在学中.2006年6月よりケニア

    の首都ナイロビ在住.2007年7月,ケニア国教育省から学術調査許可を取得.日本学術振興会ナイロビ研究センター(JSPS;The Japan Society for the Promotion of Science),ナイロビ大学アフリカ研究所(Institute of African Studies, University of Nairobi)の協力を得て,当地で調査研究活動を行っている.

    104) Colin Legum op.cit., B226.105) Africa Research Bulletinによれば,ソマリア正規軍のオガデン侵攻は7月下旬頃だと推測

    される.エチオピア側の主張では,ソマリア軍はすでに5月にはWSLFを支援するべくオガデン地域に出没し始め,7月23日頃WSLFとソマリア正規軍とが本格的にオガデンに侵攻した.一方,ソマリアはこの事実を否定している.Africa Research Bulletin, Political, Social and Cultural Series, vol. 14.7, August 15, 1977, p.4508. しかしながら,WSLFであれソマリア正規軍であれ,ソマリア側がエチオピアに侵略したことは紛れもない事実である.また,オガデン「紛争(conflict)」,オガデン「戦争(war)」という研究者も存在し,呼称は統一されていない.

    ( )341

  • 1456

    し,オガデン紛争が勃発した.この紛争では,エチオピア・ソマリア両国とも,米ソを中心に援助された武器を使用し,また紛争の経過と終結を巡っては米ソ双方の応酬が行われ,且つ犠牲者も過去のオガデンを巡るエチオピアとソマリアとの間の紛争と比較して大規模なものになった.さらに紛争後,紛争の影響に加え,この地域を干ばつが襲い,飢餓で死んでいく大勢の者たちの映像が国際社会に送られ大きな関心を呼んだ.これらの理由から,通説では「オガデン紛争」といった場合1977年7月の紛争を指す.

    当時の記録を紐解いて紛争の開始直後の経過を説明していきたい.7月28日,エチオピア国営放送は,ハラール南方に位置するデガバブルにおける戦闘で,ソマリア側の戦車17台,武装輸送車1台を破壊,2台を捕獲し,ソマリア第10戦車隊長アーメド・ハジ(Ahmed Haji)大尉と副隊長ハッサン・モハメッド(Hassan Mohammed)を捕虜にしたと報道した106).7月末までに,ソマリア正規軍とWSLFはオガデン地域のおよそ100の都市や市町村を奪取したが,その中にはソマリア国境からエチオピア国内に250キロ以上も入り込んだ場所もあったという.8月に入ってもソマリア正規軍とWSLFの優勢は続き,エチオピア=ジブチ鉄道が通る都市ディレダワ(Dire Dawa)もソマリア軍からの攻撃に晒されはじめた107).こうしてオガデン紛争開始当初はソマリア軍優位の戦況であった.

    明らかにソマリアが侵攻して開始されたオガデン紛争に対して,まだ同盟関係にあったソ連とソマリアとの間で一体どのようなやり取りがあったのだろうか108).オガデン紛争の開始と前後して,7月,バーレはソ連に対し「エチオピアとソマリアのどちらをソ連は選択するのか」と迫った,というやりとりがあったとされている109).

    8月4日夕方,ソ連政治局(当時)ではアフリカの角に関するミーティングが開かれた.ある指導者は「アフリカの角への直接的な関与は控えるべきである」と述べた.キリレンコ(Kirilenko)議長110)は「エチオピア・ソマリアの二国間

    106) Africa Research Bulletin, op.cit., p.4509.107) Colin Legum, op.cit., B226-B227.108) 1977年6月の段階ではソマリアはまだソ連から軍事援助を受けていた.109) Gavshon, op.cit., p.269.(邦訳,343頁).

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月342

  • 1457

    と我々が今抱えている状況は,非常に複雑なものである.我々は,エチオピア側にもソマリア側のどちらかの味方に立って争いをする理由など全くない.しかしながら,我々は,非常に限定的ながらも,エチオピア・ソマリア相互の関係に影響を与える可能性は持っている」と答えた.8月中旬,ソ連は公然とソマリア非難を開始した.たとえば,8月16日付のイズベスチャ紙の報道では「ソマリア正規軍のエチオピア領オガデンへの侵攻は,その地域111)の住民が民族自決権を有しているとソマリア側がどれだけ主張しても,全く正当化されない」とソマリアに対する批判記事を掲載している112).8月30,31日とバーレはソ連を訪問した.バーレはモスクワに対して「オガデンに住む住民の民族自決を達成するためのソマリアの闘争」を支援してくれるよう要請したが,逆にモスクワは「エチオピア領からのソマリア軍の即時撤退」を要求した113).8月中にはソ連は,ソマリアに対して軍事援助を含めすべての援助を中断した114).

    9月上旬にはエチオピアにとって戦況が悪化した.オガデンのハラール東方にあるエチオピア軍戦車隊基地ジジガ(Jijiga)が陥落し,WSLFに占領された.オガデン紛争序盤の劣勢に対し,エチオピアのメンギスツはどのように対応したのだろうか.1977年8月21日,メンギスツは「社会主義労働者によって作られた戦車や大砲によってエチオピアの主要都市のひとつが破壊されるような事態を,エチオピアの革命的労働者が予想できたであろうか」と公式に声明を出した115).9月7日,エチオピアはソマリアと国交を断絶し,国境を閉鎖する宣言を行った.9月9日には「ソマリアの拡張主義を非難する」というエチオピアとケニアの共同声明が発表された.9月16日,エチオピア政府は「戒厳令」を布告した.10月には首都アディスアベバよりおよそ200キロメートル地点までソマリア正規軍は

    110) Westad, op.cit., p.275.資料の所在は,Archive Prezidenta Rossiiskoi Federasti.ブレジネフが欠席したためキリレンコが議長を務めた.

    111) オガデン地域を指す.112) Colin Legum, op.cit., B381.113) Gavshon, op.cit., pp.269-270.(邦訳,343頁).114) Garthoff, op.cit., p.701.115) 小田英郎の論文では,メンギスツの演説題目は「侵略者及び介入勢力に対する全人民的

    戦争に向けて」となっている.木戸前掲書,317頁.Selassieの文献では,演説題目は,” on general mobilization” となっている.Hile-Selassie, Revolutionary Ethiopia, p.214.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 343

  • 1458

    進軍した.10月19日,とうとうソ連が動いた.ラタノフ大使は,アディスアベバのラジ

    オ局を通じて速報の公式声明を発表した.その声明では「ソ連はソマリアへの軍事支援を停止し,その代わりエチオピアに対し “革命を守るための防衛を目的とした武器” を支援する116)」.ボルスキーの研究によれば,ソ連が動いた背景には, 10月上旬エチオピア外相フェレケ(Feleke Gedle-Ghiorgis)がキューバを訪問し,キューバ人軍事技術者の増員と正規軍派遣を要請したことがきっかけであるという117).10月23日には,キューバとエチオピア両国が共同声明を発表し,キューバはエチオピア革命支持を表明した.こうして1977年9月下旬から,ソ連とキューバを中心にエチオピアに対する大規模な軍事援助開始された.ソ連は10億ドル規模の軍事援助を行い,南イエメン軍二個大隊が到着,戦闘に参加した.カストロは,キューバとアンゴラから11,600人のキューバ軍と6,000人規模の軍事顧問団と専門的技術者派遣した.

    しかしながら,ソ連は単にエチオピアの要請に従って,無条件で大規模な軍事援助を実施したわけではない.1977年10月30,31日にかけて,メンギスツが極秘にソ連を訪問した際,メンギスツは,ソ連政府側から,ソマリアへの反撃のための軍事戦略はソ連とキューバによる指揮下で行われ,エチオピア軍もその指揮下に入ると約束することを余儀なくされた.さらに,メンギスツはブレジネフから二つほど厳しい注文を受けた.一つは,マルクス・レーニン主義の原則に基づいた政党がエチオピアに存在しないことを理由に「革命の勝利を守り革命を促進する大衆の更なる動員をもたらす政党」を作るよう注文された118).二つ目には

    116) David A. Korn, Ethiopia, The United States and the Soviet Unioin, Southern Illinois University Press, Carbondale and Edwardsville, p.41.

    117) G. Volsky, “Cuba”, in T.H. Henriksen (ed.), Communist Powers and Sub-Sahara Africa, Stanford, Calif.: Hoover Institution Press, 1981, pp.71-72.

    118) Westad, op.cit., p.277.資料の所在は,CPSU CC to SED CC, “Information on the 30-31 October 1977 Closed Visit of Mengistu Haile Mariam to Moscow”, November 8, 1977.ガートフの著書では,1977年5月上旬にメンギスツがソ連を訪問し,ソ連と武器援助協定を結んだ.メンギスツは,モスクワ滞在中ソ連指導部から「真の革命指導者」として賞賛されたが,一方で「まだ真の社会主義者ではない」という評価を受けていた,という記述がある.Garthoff, op.cit., p.696.

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月344

  • 1459

    「エチオピア国内での問題を解決するべく現実的な措置を取ること.モスクワはエチオピア国内の反対派から貴政府を救うために二度は介入しない」との注文であった119).

    上記について,ウェスタッドの研究によれば,第二次大戦後,ソ連・キューバ両軍が第三世界の紛争において,当該地域の軍司令官を公式に指揮下に置き,管理した上で戦闘を行うという事例は存在しなかった120)と分析されている.だとすれば,オガデン紛争を米ソ冷戦との関係で眺めたとき,ソ連が,冷戦の周辺の問題に対し「公式」に冷戦の論理で関与した根拠がアフリカに存在する,と解釈できる.こうしてソ連は,アフリカの角オガデン地域におけるエチオピアとソマリアとの紛争に対して公式に関与した.

    エチオピアとの関係強化を選択したソ連は,エチオピアとソマリア両国に対してどのような外交を行っていったのか.またソ連とソマリアとの関係はなぜ破綻したのかを次に述べていきたい.

    2.ソマリア・ソ連関係の終焉

    オガデン地域への侵攻を理由に,ソマリアはソ連から軍事援助が打ち切られた.ソ連からの軍事援助が打ち切られたソマリアはどのようにしてオガデン紛争を戦ったのか,そしてソマリアとソ連との外交関係はなぜどのように破綻したのだろうか.

    1977年10月下旬には,ソマリア軍の資源がとうとう底を突いたとされている121).11月13日,ついにソマリアのバーレ大統領は,1974年に締結したソ連との友好協力条約を一方的に破棄し,ソ連に対して,ソマリア国内の基地使用禁止などを通告した122).バーレは条約を破棄した理由を「ソ連のエチオピアへの軍事援助は1974年のソマリア・ソ連友好協力条約に違反する」と述べた.バーレはソマリア革命社会主義政党中央委員会会議においてソ連との関係を破綻させる理由を

    119) Ibid., p.277,資料の所在は,CPSU CC to SED CC, “Information on the 30-31 October 1977 Closed Visit of Mengistsu Haile Mariam to Moscow”, November 8, 1977.

    120) Westad, op.cit., p.277.121) Garthoff, op.cit., p.703.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 345

  • 1460

    述べている.以下,演説の内容を整理して提示していきたい.

    「今我々ソマリアに対して,キューバ,ソ連そしてエチオピアから徹底的な軍

    事侵攻を目的とした共同計画が差し迫っていることを十分確信した.ソ連はソマ

    リアの国益と安全保障を危機に陥れる行動をとったのである.ソ連はソマリアに

    対して,ソマリアを侵略者とみなすという誤った根拠のない罪を向けた.そして

    ソ連は目下,高度に洗練された数多くの武器をエチオピアに先例のないほど注い

    でいる.これはソマリアに対する徹底的な侵略への前兆とみなすことができる行

    動である.ソ連は,ソマリアそしてこの地域の民族解放に対して,帝国主義のエ

    チオピア側の味方となって,キューバと他の軍隊を動員していることを認めてい

    る.ソ連は,アフリカの角の紛争において,ソマリアに味方しようとする社会主

    義国家に圧力をかけている.ソ連は,ソマリアとソ連との間に現存する協定を違

    反して,ソマリアへの合法的な防衛兵器供給を一方的に終わらせたのである.こ

    ういった状況の中,ソ連やキューバと長い間保ってきた関係を見直す以外にソマ

    リアに選択肢はない 123)」.

    これに対して,11月22日のノボスチ紙上にはソ連の反論が掲載された.記事によると,

    「ソ連・ソマリア友好条約はソマリアからの提唱で結ばれたものである.もっ

    122) ソマリアとソ連との公式関係は断絶されなかった.しかし,ソマリアはキューバと外交関係を断絶し,すべてのキューバ軍顧問団を国外退去させた.同じ日にソ連軍軍事顧問団を追放し,1974年に締結されたソ連・ソマリア友好条約を無効にした.当然のことながら,ソ連はベルベラの海軍施設の使用ができなくなった.ソ連は仕返しとして,ソ連国内で訓練を受けていた600人のソマリア人を急遽ソマリアに送還した.参考文献はGarthoff, op.cit., p.703,並びにMohamed Haji Mukhtar, Historical Dictionary of Somalia New Edition, The ScarecrowPress, Inc., Lanham, Maryland, 2003.ワシントンポストによると,7月22日はソ連の軍事顧問団がソマリアから退去しはじめている,と報道されている.Washington Post, July 22, 1977.

    123) ‘Repudiation of Treaty of Friendship and Co-operation between Somali Democratic Republic and the USSR: Statement by President Siyad Barre to the Central Committee of the Somali Socialist Revolution Party’, November 13, 1977, in Colin Legum, op.cit., C 80.

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月346

  • 1461

    とも重要なことは,主権を持つ独立国家としてソマリアの国際的な地位を強化す

    ることにあった.この協定は,不正な戦争の目的に使用されることはできない.

    ソ連が,近隣諸国に対するソマリアの指導者の領土的要求を支持しないことをソ

    マリア政府は知っているはずだ.ソ連の軍事援助の唯一の狙いは,帝国主義の拡

    張主義に対抗するためにソマリアの防衛を高めることであった.すべての武器は,

    国土の防衛の為にソマリア政府に与えられたものであり,近隣諸国を攻撃するた

    めのものではない.

    ソマリア正規軍は,ソマリア系部族を解放するためという理由から,エチオピ

    ア領土のかなりの部分を占領してしまった.これではここで起こっていることが

    エチオピアで暮らすソマリア国民の解放であるはずがない.

    ソマリアは今,他国の領土の略奪と現存する国境線の引きなおしを暴力的手段

    によって行っているのである.これはソ連が支持することなど決してできない種

    類の行動である.こうした行動は,暴力的手段によって国境線を変更することを

    禁じたOAUの解決策に違反している.

    ソ連を含め,ソマリアの友人たちは率先してこの衝突を回避するべくあらゆる

    可能性を行ってきた.そして,平和的手段によってエチオピア,ソマリア二国間

    で問題となっている争点の解決に向けた方法の突破口を開き,衝突を回避させよ

    うとしてきた.

    それにも関わらず,ソマリアの指導者たちは,交渉の席で,問題の解決策にお

    いて仲裁を申し出たソ連やキューバ及び他の諸国からの平和的な提案を拒絶し

    た.今ソマリアにおいて交戦主義かつ拡張主義の傾向が常識を超え支配している

    ことは明らかである 124)」.

    この記事の内容は以下の点で非常に興味深い.つまり,ソ連の第三世界に対する外交方針は,前述した1976年2月の第25回共産党大会でのブレジネフ演説において端的に示されているよう「植民地主義をもたらした帝国主義に反対し,第

    124) ‘Soviet Reaction to Somalia’s Repudiation of Friendship Treaty’, Article issued by Novosti Press Agency, signed by ‘Observer’ (usually an official Soviet Spokesman), Source: Soviet News, November 22, 1977. Ibid., pp.C 80-84.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 347

  • 1462

    三世界の民族解放闘争を支持する」ものである.しかしながら,この記事を検証すると,アフリカに関しては,ソ連は,ソマリアを批判する根拠として植民地時代に作られた国境線を維持することを明確に主張している.ということは,一見すると,ソ連は帝国主義すべてに反対しているように見えるが,実はソ連は,帝国主義の遺産すべてを批判するのではなく,帝国主義がもたらした部族横断的な且つ人工的な国境線を認めた上で,民族解放闘争を支援しているのである.つまり,本論文で分析したアフリカの角の事例から判断すると,この時代のソ連の外交の柱であった第三世界の民族解放闘争を支援するという外交方針は,植民地時代に引かれた国境線の存在を認めた上で民族解放闘争を支援するものであったのではないか,という仮説的な結論を導き出せる.

    ソマリアは1977年11月末頃,エチオピアに対し再び総攻撃を仕掛けた.この結果,オガデンを含む州都ハラールは陥落寸前に追い込まれ,ソマリア正規軍とWSLFはオガデン地域の90パーセントを手中に収めた125).

    ところが,エチオピアがソ連とキューバからの本格的な軍事支援を受けたことによって,12月から1978年1月にかけてオガデン紛争の形成は一変した.1月にはキューバ軍の正式参戦によって,ソマリア軍は大打撃を被った.2月2日には,ソ連はエチオピアに対してさらなる武器援助を実施し,軍事顧問団派遣した.またソ連の輸送機と輸送船がキューバ正規軍15,000人を輸送した.CWIHPの研究では,この支援において,ソ連人バシリティ・ペトロフ(Vasiliti I. Petrov)将軍が,正式にエチオピア・キューバ連合軍の直属の司令官として着任したことが確認されている126).この事例はまた,先述した10月末のメンギスツの訪ソの際,ブレジネフがメンギスツに対して具体的な要求を行ったことと同様,ソ連がアフリカの角の紛争に「公式に」関与したことを示す端的な事例であると考えられる.この件に関して,アメリカ側の資料からも,1978年2月24日「エチオピアにおけるソ連とキューバの役割を公に世界に広く訴えるべきである」と主張し,その根拠となる事例として,多数のキューバ軍がエチオピアに到着し,バシリティ・

    125) Colin Legum, op.cit., B228.126) “New Evidence on the Cold War in the Third World and the Collapse of Detente in the 1970s”, in

    CWIHP, Virtual Archive Introduction to Bulletin 8-9, Winter 1996/1997, p.38.

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月348

  • 1463

    ペトロフ将軍がその指揮官となったことを含めるべきである」と記録されていることが確認できる127).

    3月5日までにはエチオピア・キューバ合同軍は,77年9月にソマリア軍によって奪われたジジガを再び奪い返した128).その後,ソマリア軍は撤退を開始し,エチオピアはオガデンを再び取り戻した.こうしてオガデン紛争は,エチオピアのメンギスツとソマリアのバーレ大統領との間で,停戦や和平に関する交渉もなく,なし崩し的に終結した.

    一方ソ連とキューバから大規模な軍事援助を受けオガデン紛争を戦ったエチオピアと,オガデン紛争後のソ連との関係はどのように展開したのか.1978年11月20日,ソ連・エチオピア友好条約が締結された.この条約では,1977年10月30,31日にメンギスツがソ連を極秘訪問した際「本当の共産主義政党をエチオピアに作る」よう,以前ブレジネフが要請したことを繰り返しソ連側から要求された.1979年早々までに,ソ連を含め他の社会主義国家からの軍事部門,文民部門の合同アドバイザー 7,000人以上がエチオピアに到着した.目的は,エチオピア革命を担っていくマルクス・レーニン主義政党を立ち上げることである.逆に,エチオピア人は東欧,ソ連で社会主義に関する訓練を受ける.アドバイザー達はメンギスツに対して「軍隊は国家が社会主義者への変革に向かう途上で役に立つだけである.革命を完成させるためには政党が必要である.エチオピア革命の欠点は,秘密裏にも公にも革命闘争の中で試練を受け,労働者階級のイデオロギーを備え,民衆に革命への道を与える政治的な組織が全く存在しないことである」と忠告した129).1979年12月18日,政党の前身として,エチオピア勤労人民党組織委員会(COPWPE;Commission for Organization the Party of the Working People of Ethiopia)の設置が宣言された.1984年9月,メンギスツの管理下にお

    127) U.S. Policy Toward the Horn of Africa, Digital National Security Archive, http://nsarchive.chadwyck.com/

    128) エチオピアがジジガを取り戻した日が1978年3月5日であることは “The President’s News Conference of March 9 1978”, Presidential Documents, vol. 14 (March 13, 1978), p.490.及びWestad, op.cit., p.278.

    129) Westad, op.cit., p.280.資料の所在は,Eremias Abebe, “The Vanguard Party: Imperial Instrument of Soviet Third World Policy 1976-1986”.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 349

  • 1464

    いて,メンギスツが書記長となって「エチオピア労働者党(Workers’ Party of Ethiopia)」を設立させた130).

    以上述べてきたよう,ソ連はエチオピアの社会主義革命の成功を助けるためとは言え,ソ連の傀儡政権となるような政党を作るよう,メンギスツに要求している.こうしたアフリカの角でのソ連の影響力行使に対して,アメリカ政府はどのように対応したのだろうか,次に論じていきたい.

    3.オガデン紛争とアメリカ政府の対応

    1977年1月大統領に就任したカーターは「人権外交」を基盤として,アメリカの外交方針を決定していった.たとえば,エチオピアを含めいくつかの国家を

    「人権弾圧国家」として指定した.2月25日,一方的にエチオピアへの軍事援助を削減し,後日,全面的に停止してしまった131).この仕返しとしてソ連と関係を強化していたエチオピアのメンギスツは,エチオピア国内のアスマラ(現エリトリア首都)近郊にある米軍のカグニュー通信基地を閉鎖し1977年5月には,アメリカとの関係を破棄してしまった.

    カーターが大統領に就任した頃には,すでにエチオピアのメンギスツとソ連との関係が強化されつつあった.カーターが人権外交の理念に基づいてエチオピアとの外交関係を終焉させたことよってエチオピアはより反米姿勢を強めた.アメ

    130) この条約は20年間の期限であった.ソ連の再三の圧力にも関わらずメンギスツが躊躇していたのはなぜなのか.ソ連は「メンギスツのみに従属するのではないソ連・エチオピア関係の発展のため制度的な基盤」を作ることを希望した.一方,メンギスツはこのような基盤が,メンギスツの独裁的な支配に対して,反メンギスツグループに潜在的な選択肢を与えるのではないかと怪しがっていたのである.こうしたメンギスツの猜疑心から「エチオピア労働者党」の設立は1984年9月となり,メンギスツはこの政党の書記長に就任し,自らの管理下においたのである.Paul B. Henze, “Communism and Ethiopia”, in Problems of Communism, vol. 30 (May-June 1981), pp.63-64.この時期のソ連は,第三世界と積極的に条約を結んでいる.たとえば,1978年11月3日には「ソ連・ベトナム友好条約」を調印,12月5日には「ソ連・アフガニスタン友好条約」を調印そして1985年3月には「ソ連・アンゴラ経済協力協定」を締結している.マクナマラによれば,1975年から79年にかけて,アジア・アフリカでは親ソ派の共産党政権が7つも誕生した,という.ロバート・S・マクナマラ(仙名紀訳)『冷戦を超えて』(早川書房,1990年),85‒86頁.

    131) エチオピアのほかアルゼンチンなども人権弾圧国家として指定した.

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月350

  • 1465

    リカは,エチオピアがアメリカを気にすることなくソ連に接近する条件をエチオピアに与えてしまったと言えるだろう.あるいはアフリカの角と米ソ冷戦という観点からカーターの人権外交を分析するならば,カーターのエチオピアに対するこの措置は,ソ連が,エチオピアも含め,益々アフリカの角に進出する条件を,アメリカがソ連に与えてしまったとも言える.

    一方,1977年7月のオガデン紛争開始直前,すでにソ連との関係に齟齬をきたしていたソマリアとアメリカとの間ではどのようなやりとりがあったのか.1977年5月上旬にはエチオピアとソ連との間で軍事協定が結ばれ,ソ連へのエチオピアの軍事支援が本格化した1977年6月10日,カーターはインタビューに答え,ソマリアに関してこう言及した.

    「我々は,一度ある国家が私たちの国家と友好的にならず,ソ連の勢力圏になっ

    たからという理由で,そうした国家が永久にその地位に留まるべきだという立場

    をとりたくはない 132)」.

    6月13日には,別の記者会見の場で,ソマリアに対し「過去ソ連と非常に親密で友好であった国家が,我々と親密になっている諸国家との友好関係を勝ち取るために」と言及している133).この発言から,カーターは,ソマリアをアメリカと西側同盟に何らかの形で迎えようとする姿勢を示していると読み取れる.

    このカーターの発言を受け,6月中旬,駐米ソマリア大使は,アメリカからの緊急の軍事援助を求めるべくカーターと秘密裏に会う.ソマリア大使の要請に対し,カーターは「アメリカからの直接の軍事援助は困難」であると返答する.しかしながら「アメリカの同盟を通じての援助なら可能だと見ている」と述べる134).77年6月の時点で,ソマリアのバーレ大統領は,ソ連から軍事援助を受けていた

    132) President Carter, “Interview with Magazine Publishers Association”, June 10 1977, Presidential Documents, vol. 13 (June 20, 1977), p.866.

    133) “President Carter’s News Conference of June 13”, State Bulletin, Vol. 77 (July 4, 1977), p.3.134) Cyrus R. Vance, Hard Choice: Critical years in America’s foreign policy, Simon and Schuster

    1983, p.73.バンスはカーター政権時代の国務長官.ガートフの研究では,バンスのこの回顧録によって初めてこの秘密会談が公開されたとされている.Garthoff, op.cit., p.698.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 351

  • 1466

    にも関わらず,ワシントン,ロンドン,パリ,ボンそしてローマに対して兵器援助を要請した.西側諸国は「原則的に」同意したが「防衛的な」武器しか提供しないと回答した135).またバーレは,7月13,14日,アラブ連盟の盟主であり親米国家であるサウジアラビアを訪問した.訪問の目的は,紅海の安全保障に関する意見交換を行うためであったとされている136).こうした一連の事実を振り返ると,6月から7月にかけて,バーレはソ連との関係を調整しつつも,「ソ連後」を考え,ソ連離れを具体的に示した行動を取っていた.

    1977年上旬,アメリカは,ソマリアに対し防衛的な武器を「原則的に」供給することに合意した.7月15日,アメリカ,イギリス,フランスによって秘密裏にソマリアへの運搬が開始された137).7月26日,国務省スポークスマンは「アメリカとイギリスフランスは原則的にソマリアに武器を供給する準備ができた」と発表した.7月28日,カーターは公式にこのことを認めた138).8月上旬,ソマリアの派遣団がアメリカに対して武器援助を要求するべくワシントンに到着した.同時に,アメリカの派遣団がスーダンに派遣された.同月,バンス国務長官は中国側の諒解を取り付けるため北京を訪問し「ソマリアに対してすでにささやかな武器援助を開始している」と報告した139).

    ところが,8月中にアメリカ政府は,ソマリアに対して「もしも武器を支援したらこの紛争に対して火に油を注ぐことになる」という理由から「ソマリアへ武器を提供しない」と突如発表した140).アメリカ政府はなぜ突然このような態度をとったのか.アメリカ政府は,ソマリアがオガデンをエチオピアから奪い取り,ソマリアに合併させるために武器を使用する意図があることを確認したのであ

    135) Gavshon, op.cit., p.269.(邦訳,343頁).136) 小田前掲論文,323頁.137) “Africa in a Global Perspective”, October 27, 1977, State Bulletin, vol. 77 (December 12,

    1977), p.845.138) “President Carter’s News Conference of July 28”, October 27 1977, State Bulletin, vol. 77

    (August 22, 1977), p.222.139) Garthoff, op.cit., p.701.140) Cyrus R. Vance, op.cit., pp.73-74.ガートフの著書では,8月のこのアメリカの立場の変

    更は「公式」には9月1日と一般的には知られている,と書かれてある.Garthoff, op.cit., p.702.

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月352

  • 1467

    る.それゆえ,新たなアメリカ政府の立場は「自制という政策がもっとも賢い方法であり,ソマリアへ武器を供給することを明確に拒否する」ものであると表明した141).つまりアメリカ政府は,ソ連がソマリアに対して軍事援助を打ち切った理由と同じ理由によって,ソマリアに対する軍事援助を実施しないことを決定したのである142).

    しかしながらアメリカ政府としては,ソ連がソマリアそして今はエチオピアに対して深く関与していることに対する批判を行う必要があった.1977年11月22日の国連総会の場でまずカーターは,アフリカの角でのソ連の行動を批判した.12月14日にはブレジンスキー大統領補佐官とドブルイニン(Anatoly Dobrynin)駐米ソ連大使との間で晩餐会が持たれた.その場でブレジンスキーはドブルイニンに対して「アメリカはその他の国家を通じてアメリカがアフリカの角で行動する可能性も否定できない.もしソ連が,これ以上エチオピアの支援に固執し続けるならば,アメリカはその地域の友人たちに “自制しなくてもよい” と言うかもしれない」と述べた.ドブルイニンはブレジンスキーに対し「エチオピアがオガデンを奪還した後,今度はエチオピアがソマリア領土に侵攻しないよう,エチオピアに要請しこれを保証する」と回答した143).

    ブレジンスキーとドブルイニンとの間でのこのやり取りで注目するべきは,ソ連は,エチオピアがソマリアの領土に侵攻することに対して,非常に注意を支払っているということである.しかも米ソ両国の政府指導者の間で,エチオピア・ソマリア現国境,つまり植民地時代に引かれた国境を,米ソ両国とも互いに尊重するという共通諒解を確認することができる.1977年のソマリア・ソ連友好条約が破棄された理由,1977年8月アメリカが突如ソマリアへの軍事援助を中止した理由,そしてドブルイニンの回答を踏まえ,これらの事実の分析から導き出せる結論は,米ソ両国とも,たとえアフリカのある国家が親米,親ソになったとして

    141) State Bulletin, vol. 77 (December 12, 1977), p.845.142) 1978年1月17日,アメリカに対し,再びソマリアから武器に代わるなんらかの支援要

    請があったが,アメリカ政府は拒否した.Garthoff, op.cit., p.706.143) Zbigniew Brezinski, Power and Principle: Memoirs of the National Security Adviser, 1977-1981,

    Farrar Straus Giroux, New York, 1983, p.179.「その他の地域国家」とは,サウジアラビアに支援されたイランやエジプトを想定している.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 353

  • 1468

    も,近隣諸国の国境を侵犯し領土を奪還しようとする動きを見せたときには共同で何らかの介入の姿勢を見せる,ということである.ここに冷戦期の米ソの対アフリカ外交の特徴の一つを見出せるのではないか.仮にアフリカのどこかの国家が,武力という手段に訴えて領土変更を試みた場合,もしもそうしたことが成功してしまった場合,OAUが懸念していたよう「アフリカはパンドラの箱を開けた状態」に陥り,さらにはアフリカという場で,米ソ両国,あるいは米ソの代理人(国家)が武力衝突をする可能性が高まってくる.こうしたことだけは,米ソ両国とも回避する努力を見せたのである.アフリカの独立後そして国家形成の時代,冷戦の周辺であるこの地域の対立に関して,国境の変更は決して起こさせない.アフリカと米ソ冷戦を眺めるとき,こうした視点がひとつ大事なものになってくるだろう.

    なぜならば,この時期の米ソは冷戦という対立構造を維持しつつも,デタント政策を実施することによって,米ソは核戦争を考えずに冷戦を闘う仕組みを作り上げようと努力していた.たとえばそれは,キューバ危機以降,米ソの核兵器を巡る交渉の過程を分析することによって理解することができるだろう.また米ソはデタント政策によって,お互いの勢力圏が確定している地域においては,小規模の戦闘がエスカレートして大規模な通常兵力による戦闘,さらには偶発的な核戦争につながっていく危険性を減らす努力も行った.この点で,たとえば,1975年の欧州安全保障協力会議(CSCE;Conference on Security and Cooperation in Europe)144)の設立は極めて重要な事例である.1975年7月に,アメリカとカナダを含む東西35 ヶ国が参加し,CSCE会議か開かれた.この会議において,最終文書「ヘルシンキ(Helsinki)宣言」が採択された.ヘルシンキ宣言により,東西欧州の領土の現状を固定した.ヨーロッパの国境はこれ以降,平和的方法以

    144) 全欧安保協力会議ともいう.1975年7月30日から3日間,アルバニアを除く全欧州諸国とアメリカ,カナダを加えた35 ヶ国首脳がヘルシンキに集結.ヘルシンキ宣言は安全保障の分野に人的交流の拡大と人権尊重を盛り込んでおり,東西の情報交流の自由化を可能とした.また,1990年11月19日から3日間.パリにおけるCSCE首脳会議において「パリ憲章」を採択し欧州における冷戦の終結を謳った.ヘルシンキ宣言と冷戦の崩壊との関連に関する近年の研究は,宮脇昇『CSCE人権レジームの研究』(国際書院,2003年).CSCEは1995年1月1日より欧州安全保障協力機構(OSCE;Organization on Security and Cooperation in Europe)となり,常設機構化された.

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月354

  • 1469

    外では変更することができないという取り決めがなされたのである.つまり,米ソは核兵器を中心とした軍備管理と米ソの勢力圏画定によって,米

    ソの勢力圏内または米ソが互いに強い影響力を持っている地域では,冷戦を制度化145)させ,米ソ両国が世界を管理しようと試みたのである.これがアフリカ以外での米ソデタント政策の概要であった.ところがブレジンスキーもドブルイニンもこの米ソデタント政策の理念をアフリカにも適用できるはずだとこの時点では確信していたのかもしれない.

    しかしながら,オガデン紛争が米ソに与えた教訓は,米ソの勢力圏未確定地域であったアフリカの角という冷戦の周辺でのエチオピアとソマリアとの対立と,その対立を巡る米ソの対応の仕方次第では,その影響はアフリカ大陸だけで終わることなく,米ソ自身と互いの同盟にも影響を及ぼす可能性をもたらすということであったのだ.たとえば前述したように,ソ連がエチオピアへ支援を決定するにあたっては,カストロの影響が存在したと推測される.そしてソ連は,アフリカでのキューバの行動を把握し管理できていたとは言えない.ソ連はアフリカでのソ連自身の行動のみならずキューバの行動が,米ソ関係に非常に大きな影響を及ぼすという点にまではこの時点で気付いていなかったのである146).

    アフリカにおけるソ連とキューバの行動を非難するために,1977年12月,カーターは,アフリカに向けた発言を行うべくアフリカの記者とのインタビューにおいて,以下のように述べている.

    「我々はアフリカでの超大国の対立の回避を希望する.ひとつの基本的な目的

    は,ソ連やキューバやあらゆる他の諸国の支配がアフリカから利益を搾取しない

    ように,アフリカ人が強く繁栄するアフリカをアフリカ自身と世界とともに平和

    145) 「冷戦の制度化」に関連する研究として,コラディジェは冷戦を「(米ソによる)協調的安全保障Cooperation(Cooperative Security)」と言った.(Roger E. Kanet and Edward A. Kolodziej (Ed.), The Cold War as Cooperation; Superpower Cooperation in Regional Conflict Management, The Johns Hopkins University Press, Baltimore, 1991.).また,ズボクとプレシャコフは,ケネディ・フルシチョフ時代から開始されたデタント政策を「冷戦を飼い慣らす(The Taming of the Cold War)」為の政策と評した.Vladislav Zubok and Constantine Pleshakov, Inside the Kremlin’s Cold War: From Stalin to Khrushchev, Harvard UP, Cambridge, Massachusetts London, England, 1996.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 355

  • 1470

    に作り上げることを助けることである.もし我々か,あるいはソ連とその同盟が,

    アフリカを権力対立の源とするような衝動を生み出そうとするならば,アフリカ

    の人々が平和的な方向を選択する上で,アフリカを支援するという我々の機会が

    大きく損なわれるだろう.

    歴史上,国際的に信用されてこなかった植民地主義的な介入という側面を復活

    させることを目的としたキューバの明らかな体質は,アフリカの平和と繁栄をも

    たらす助けとなるはずなどない.アフリカの大地の上におよそ18,000人もの

    キューバ兵が駐留し,しかも積極的にアフリカの人々に対して戦闘を行っており,

    新植民地主義の押し付けがキューバの関心事項であることを明らかにしており,

    世界のほかの地域において状況を悪化させる危険性がある 147)」.

    1978年1月12日,カーターは「アフリカの角でのソ連の不当な関与に対して関心がある.我々はソ連とキューバに対して,アフリカの角地域に兵士も武器も送らないようにすることを希望する」と表明した148).1月18日,ブレジンスキー

    146) たとえばアフリカの角でのカストロの一連の動きに関して,キューバ資料を利用したCWIHPの研究報告は次の通りである.1981年秋,レーガン政権での国務長官ヘイグとキューバ副首相カルロス・ロドリゲス(Carlos Rafael Rodriguez)はメキシコ郊外で密会した.主要な議題の一つは,どのようにしてキューバはアフリカに関与したのか,であった.ヘイグは,カーター政権は,「キューバはアンゴラやアフリカの角に介入しソ連の代理国家か操り人形として行動した」と主張している.一方,カルロスは「ハバナは自国の国益の観点から自主的に動いたのであって,たとえソ連と多少の協力があったとしてもキューバを操作するには,アフリカはモスクワとはあまりにも遠すぎる.ブレジネフではなくカストロこそが,アフリカの革命的な指導者へ軍事的支援を送ることに熱心に主張し続けたのである.事実の本質とは完全に食い違っており,歴史が光をもたらすだろう」とカルロスは述べた.Jim Hershberg, “New Evidence on the Cold War in the Third World and the Collapse of Detente in the 1970s”, in CWIHP, Virtual Archive Introduction to Bulletin 8-9, Winter 1996/1997. pp.3-4.また,アンゴラ内戦を巡るキューバの動きについては,元駐米ソ連大使ドブルイニンは,総じて「キューバは我々に相談することなくキューバ自身のイニシアチブでキューバ軍を送った」と述べている.出典は,Piero Gleijeses, “Havana’s Policy in Africa, 1959-76: New Evidence from Cuban Archives”, in CWIHP, Bulletin 8-9, Winter 1996/1997, pp.12-13.

    147) ‘US Policy in Africa; Interview given by President Carter to Raph Uwechue, Editor-in-Chief of Africa’, December 1977, Source: Africa, London, No.76, December 1977, in Colin Legum, op.cit., pp. C 21-22.

    148) “The President’s News Conference of January 12, 1978”, Weekly Compilation of Presidential Documents, vol. 14 (January 16, 1978), pp.56-57.

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月356

  • 1471

    大統領補佐官はカーターに宛てたメモの中で「エチオピアへのソ連の軍事的関与が米ソ関係に悪影響を及ぼすことをソ連の指導者は明確に述べるべきである,とソ連の指導者に伝えるべきである」と述べた149).2月21日,国家安全保障会議の特別調整委員会(SCC;Special Coordination Committee)の場で,ブレジンスキーは「アメリカはアフリカの角地域においてより強力な対抗措置を実施し,ソ連に強固な警告を発するべきである.また,米ソ関係のほかの局面で,ソ連の指導者に対して,エチオピアでのソ連の関与に警告を発する手段としてリンケージ戦略を用いることを強く提案する」と主張した150).

    そしてついに3月1日,ブレジンスキーは「アフリカの角でのソ連の行動は必ずSALT交渉を悪化させるだろう」とソ連に対して不満を述べた.この発言はSALT交渉の成否とソ連・キューバのアフリカの角からの撤退をリンクさせる

    「リンケージ案」を意味する発言であったため,翌日のソ連プラウダ紙は,アメリカのあらゆるリンケージ案は「無礼な脅しである」という記事を掲載した151).このブレジンスキーのリンケージ発言が米ソデタントを大きく揺るがす引き金となったのである.

    3月2日のSCCでは,多くのアメリカの指導者によって,エチオピア・ソマリア間の戦争にソ連が参加することは重大な問題であると議論された.たとえば,ブレジンスキーがアフリカの角の問題とSALT交渉をソ連に対してリンクさせることを具体的に提案した.その上でアフリカの角にアメリカ海軍機動部隊を派遣しバーレに対する支援を増やすという対応を提案した.その提案に対して,バンス国務長官は強行に反対しブレジンスキーと激しく対立した.またハロルドブラウン(Harold Brown)国防長官は,ソ連のアフリカの角での行動を止めさせるために,中国の力を借りて米中で共同声明を発表したらどうかという提案を行った152).

    3月9日,ソマリアのバーレ大統領が突如「ソマリア正規軍はオガデンから撤退する」と発表すると153),同日カーター自身も「ソマリアはオガデンから撤退する決定をした」と発表した.カーターはこれを歓迎するとともに「ソ連・キュー

    149) Zbigniew Brezinski, op.cit., pp.181-184.150) Ibid., pp.181-184.151) Garthoff, op.cit., p.654. Pravda, March 2, 1978.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 357

  • 1472

    バのエチオピアからの撤収」を呼びかけた154).3月25日,すでに共和党次期大統領候補に名乗りを上げていたロナルド・レー

    ガン(Ronald Reagan)は『世界におけるアメリカの目的』と題する演説で「もしもソ連がアフリカの角で成功したら,アフリカの角すべてがソ連の軍門に降ってしまうだろう.そして,アフリカの角からソ連は西欧やアメリカへオイルを運ぶシー・レーンを脅威に晒すに違いない.ソ連のアフリカの角の支配は,反共をはっきりと示しているアラビア半島の諸国家に混乱をもたらし,逆にソ連には安定をもたらすであろう.数年のうちに,我々は,アディスアベバからケープタウンまで拡張したソ連帝国の繁栄に直面するかもしれない155)」とソ連の拡張主義を批判しその脅威を煽るような演説を行っている.

    また,キッシンジャー前国務長官は1978年中ごろ,ニューヨークでの「国際ラジオ・テレビ協会(International Radio and Television Society)」における演説の中で,アフリカの角について以下のように触れている.

    「ソマリアのエチオピアへの侵入を,単にソマリアとエチオピアとの争いのみ

    によって分析することは不可能である.誰が最初に国境を侵犯したのか,という

    152) 1978年3月2日の「アフリカの角に関する国家安全保障会議特別調整委員会」の場では,バンスはブレジンスキーの「リンケージ案」に対して「SALT交渉に関してソ連と問題を起こすべきではない.これこそがあなたと私との意見が全く異なるところだ.そんなことをしたら,対ソ関係は非常に危険な結果をもたらしかねない」と激しく対立している.“SCC Meeting on the Horn of Africa, March 1978”, Carter-Brezhnev Collection, National Security Archives (NSecA), Washington, DC.16-9 “SCC Meeting on the Horn of Africa, March 1978”, in Jussi M. Hanhimaki and Odd Arne Westad (Ed.), The Cold War: A History in Documents and Eyewitness Accounts, Oxford U P, UK, 2003, pp.542-544.またはMinutes of meeting on the Horn of Africa. Topics include: strategy for political settlement; measures designed to convey U.S. displeasure to the Soviets; measures designed to convey U.S. displeasure to the Cubans; moves toward Ethiopia; U.S. military posture; status of U.S. consultants with other governments. Minutes. Department of State. SECRET. Issue Date: Mar 2, 1978. Date Declassified: Sep 05, 1997. Sanitized. Complete. 14 page(s), DDRS.

    153) Stephen S. Kaplan, “Diplomacy of Power”, The Brookings Institution, Washington, D.C., 1981, pp.624-625.

    154) Garthoff, op.cit., p.707.155) 演説題目は ‘America’s Purpose in this World’.ロナルド・レーガンプロジェクトホー

    ムページより収集.URLはhttp://www.reaganlegacy.org/

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月358

  • 1473

    ことも問題ではない.なによりもまず,第一に留意するべきことは,最初にソ連

    がソマリアに対して装備を送ったことである.その結果,ソマリアがあらゆる近

    隣諸国に対して領土的要求を行ったのだ.このようにソ連の装備は拡張主義的手

    段によって使用されることを常に目的としている.それにも関わらず,ソマリア

    がその目的の為にソ連の装備を使用したとき,ソ連は方向転換し,ソ連の装備に

    よって脅威に晒されていた領域(エチオピア.筆者注)の擁護者となったのであ

    る.そして17,000人のキューバ人と10億ドルものソ連製の装備がエチオピア

    に流入したのだ.

    ソ連の目的は地政学的なものであり,中東を包囲することであり,アメリカが

    友好国を防衛できないことを周囲に示すことなのだ 156)」.

    キッシンジャーは1974年9月にエチオピア革命が勃発したとき,フォード政権下での国務長官を務めていた.彼は,エチオピア革命初期,エチオピアの隣国ソマリアに対してソ連が軍事援助を行っていることを鑑み,アフリカの角や紅海沿岸の安定の為,エチオピアの革命政権に軍事支援する立場を取り続けてきた.キッシンジャーの演説からは「ソ連のソマリアへの軍事援助はソマリアがエチオピアを侵略することを目的としていた」と解釈できる157).果たしてソ連は,ソ連の軍事援助をソマリアが隣国エチオピアを侵略する手段として使用することを承認していたのか.このことは,たとえば1974年のソ連・ソマリア友好条約締結の際,ソ連とソマリアとの間で実際どのようなやりとりがあったのか,さらに史料を詳細に分析する必要があろう.しかしながら,本論文を執筆する際に眼を通した史

    156) Gavshon, op.cit., p.273.(邦訳,347頁).157) エチオピア大使館にいたポール・ヘンゼも,この点ではキッシンジャーと同様の見解を

    示している.「ソマリアは,長い間オガデンへ侵略することを計画していた.おそらく何人かのソ連人から侵略するように扇動されていたのだろう.ここ数年の,ソマリアへのソ連の兵器の過剰な供給がソマリアのオガデンへの侵攻の本当の原因なのである」.Memo to Zbigniew Brzezinski from Paul B. Henze reflects on the Carter administration’s policy failure in the Horn of Africa. Henze proposes steps the United States can take to prevent the Russians and Cubans from capitalizing on their success in Ethiopia to move on to central and southern Africa. Memo. National Security Council. SECRET. Issue Date: Mar 10, 1978. Date Declassified: Sep 24, 1997.Unsanitized. Complete. 4 page(s), DDRS.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 359

  • 1474

    料からは,ソ連がソマリアの拡張主義を承認していたとは到底言えない.なぜならば,最大の理由は,ソマリアがエチオピアに侵攻を開始したとき,ソ連はソマリアを非難し,逆にエチオピアを支援したからである.もしソ連がソマリアの拡張主義を承認していたのであるならば,ソ連にとって,ソマリアがエチオピアに侵略したという事実は,むしろソ連にとっては好都合であったのではないか.

    キッシンジャーのこの演説には数多くの批判が寄せられた.たとえばジェームス・メイヨールは,1978年9月に書いた論文の中で「第三国の領空侵犯158)という問題を除けば,アフリカの角におけるソ連の行動を不正であるとして非難することは困難である.ソ連がソマリア政府に対して失地回復主義の野望を奨めるよう確固たる根拠は何もない」と論じている159).またアルバトフは「ソ連がソマリアと友好関係を維持していたときには,ソマリアはエチオピア領土の一部の領有権を主張するどころか,エチオピア問題に介入しようとしたことは一度もなかった.我々は,万が一ソマリアが侵略行為に踏み切った場合,ソマリアがソ連に支持や援助を頼ることができると思わせるような口実は何一つ与えていない.エチオピアに戦争を仕掛けたのはソマリアである.なぜならばソマリアがアメリカやどこか他の国の支持を獲得できると信じ込まされていたからである.そういうことがなかったら,ソマリアは隣国エチオピアを侵略することなど絶対になかったと確信している160)」とキッシンジャーと正反対の見解を示している.

    以上,本節で述べてきたよう,アメリカはアフリカの角におけるソ連とキューバの行動に対して強硬な声明は出すものの,なんら具体的な行動を取ることができなかった.オガデン紛争後終結後の1978年11月20日にはエチオピア・ソ連友好条約が結ばれた.アメリカ政府の立場から述べるならば,アメリカはアフリカの角でのソ連の「拡張」を許してしまったのである161).アメリカ政府にとっては,

    158) 1978年6月22日付フィガロ紙の地図に示されたような空路をソ連が実際に取っていたならば,ソ連は主にヨーロッパではイタリア,アルバニア,ギリシア,アフリカではエジプト,タンザニア,スーダン,チャドなどの領空を侵犯していることになる.曽村保信『地政学入門』(中公新書,1984年),197頁.

    159) James Mayall, “The Battle for the Horn: Somali Irredentism and International Diplomacy”, in The World Today, September 1978.

    160) アルバトフ(佐藤信行・藤田博司訳)『ソ連の立場 デタントのほかに道はない』(サイマル出版会,1983年),354頁.

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月360

  • 1475

    カーターの人権外交によって「人権」を基準に対エチオピア関係に終止符を打ったことが,アメリカが意図しないところで,エチオピアとソ連とが近づき易い環境を作り上げてしまった.こうした事実を省みることなく,オガデン紛争の勃発後,アメリカは只々「ソ連は拡張主義者である」と批判することに終始することになったのである.

    Ⅴ 結論以下,本論文の結論を三点示したい.第一点目は本論文の主目的であるオガデン紛争を巡る米ソの外交が米ソデタン

    トの崩壊に与えた影響について解釈を試みたい.ソ連のアフリカの角での成功に対して,アメリカ政府内部で苦し紛れから議論された対ソ外交が,SALT交渉の成否をソ連とキューバ軍のアフリカの角からの撤退に絡めた「リンケージ外交」であった.アメリカ政府は,アフリカの角からのソ連の撤退とSALT交渉をリンクさせようとしたのである.SALTは,この時代の米ソデタントの要諦であった.ソ連は,アメリカ政府がSALTの成功にはソ連のアフリカの角からの撤退を主張し始めたことに対して強硬に反発する.たとえば1978年6月8日,ブレジネフはソ連政治局(当時)で「深刻な悪い問題が起こった.その主な原因はカーター政権の外交政策が,彼自身や彼にもっとも近い同僚,とりわけブレジンスキーの発言からわかるよう,より鋭く反ソ的性格になり,徐々に攻撃的になってきたということである」と発言した162).

    また1978年7月11日,駐米ソ連大使ドブルイニンはモスクワで指導者たちにスピーチを行っている.ドブルイニンはアメリカ政府内部から発せられたリンケージ案を受け,スピーチの中で一貫して今後の米ソ関係に対する悲観的な見解を述べている.それは,

    161) 「ソ連が拡張した」との立場を取る者は,マクナマラ,ダンコースなど.マクナマラ前掲書,84‒86頁.D’encausse, op.cit.,.(邦訳前掲書).

    162) “The Soviet Politburo on Foreign Policy and Human Rights, June 1978”, in Jussi M. Hanhimaki and Odd Arne Westad (Ed.), The Cold War: A History in Documents and Eyewitness Accounts, Oxford U P, UK, 2003, p.539.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 361

  • 1476

    「ソ連とアメリカのカーター政権との関係は目下非常に不安定である.その大

    きな理由は,カーター政権の国内政治,国外事情いずれにおける計算違いから生

    じているものである.カーター政権は米ソ関係に緊張を生み出すためにアフリカ

    (アフリカの角など)を利用している.米ソデタントは核兵器を用いた対決の恐

    れを軽減するものであった.しかしながら,デタント政策のすべてを再検討しな

    ければならなくなった 163).」

    ブレジネフ発言やドブルイニン演説から理解できるよう,ソ連は対米観を悪化させ米ソデタントの見直しの可能性にまで言及することとなった.カーターの人権外交がエチオピアとアメリカ関係に終止符を打ち,エチオピアでソ連が成功すると,アメリカはアフリカの角からのソ連の撤退とデタントの要諦であるSALTをリンクさせた.本論文で述べてきたよう,実はソ連はアフリカの角を巡る外交において,アフリカの角の中でかなりの拘束を受けていたことがわかる.しかしながらアメリカはソ連のアフリカの角での行動を「拡張主義」と判断し過剰反応してしまったのだ.アメリカ政府のその判断が米ソデタントの要諦であるSALT交渉の見直しとソ連のアフリカの角からの撤退をリンクさせるという,ソ連政府にとっては,アメリカ政府の真意を図りかねる到底飲めない条件をアメリカ政府は提示することになってしまった.ソ連の立場に立てば「なぜ米ソデタント政策が順調に進んでいる最中に冷戦の周辺地域であるアフリカの角の問題で米ソデタントの要であるSALT交渉の見直しをアメリカ政府から突きつけられなければならないのか」という感情をアメリカ政府に対して持ったのかもしれない.しかもアフリカの角おけるソ連の行動は拡張主義だと決定できない性格を持つものである.なぜならば,ソ連はソ連なりの手段で「マルクス主義連邦構想」を持ち出し,アフリカの角における対立を解決しようと試みた.

    こうしてソ連はアメリカのデタント政策に対して大きな不信感を持った.米ソ

    163) “Ambassador Dobrynin on US-Soviet Relations, July 1978”, Russian State Archive for Contemporary History (RSACH), Moscow.16.8. “Ambassador Dobrynin on US-Soviet Relations, July 1978”, in Jussi M. Hanhimaki and Odd Arne Westad (Ed.), The Cold War: A History in Documents and Eyewitness Accounts, Oxford U P, UK, 2003, pp.540-542.

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月362

  • 1477

    デタントは,米ソ両国の対アフリカの角外交の過程の中で大きく揺らぎ始めていたのである.米ソデタントの崩壊にとってアフリカの角は非常に大きな要因となっていたのである.それはブレジンスキーが後の回顧録の中で「米ソデタントはオガデンの砂漠に沈んだのだ164)」と触れていることからも,米ソの対アフリカの角外交と米ソデタントの崩壊が密接に関連していることは明らかであろう.米ソデタントの崩壊を論じる際にアフリカの角という要素を加味すると,米ソデタント崩壊させる要因を作ったのは,ソ連ではなくむしろアメリカ政府の方であるという解釈も可能である.

    第二点目は,本論文で取り扱った事例から導き出すことができるソ連の対アフリカ外交の特徴である.ソ連は,アフリカの独立から国家形成の時代において,アフリカで行われていた民族解放闘争を支持していた.しかしながらソ連は,過去のアフリ大陸での植民地時代を全否定するものではなく,植民地時代の遺産,つまり植民地時代にアフリカ大陸に引かれた国境線を維持することを引き受けてのことであった.前述したよう,1976年2月のソ連共産党第25回大会におけるブレジネフの演説によって,ソ連はアフリカの民族解放闘争を支援し,アフリカの大地から植民地主義時代の残滓を一掃しようとする外交方針を発表した.しかしながら,これはあくまで民族解放闘争が植民地時代に引かれた国境の現状を変化させないという範囲においてであった.ソマリアのシアド・バーレは,こうしたソ連の外交方針を読むことができなかった.また,以下の点もすでに本論文中で触れたが,1977年12月14日,オガデン紛争が続いている中,駐米ソ連大使ドブルイニンはブレジンスキー大統領補佐官に対し「エチオピアがオガデンを奪還した後,今度はエチオピアがソマリア領土に侵攻しないよう,エチオピアに要請しこれを保証する」と約束している.この事例からわかることは,ソ連の第三世界における冷戦政策としての民族解放闘争支援の論理は,植民地主義,帝国主義を批判しつつも,領土保全,現状の国境線の維持を前提としていたのである.

    最後に第三点目では,アフリカの角と米ソ冷戦について総括的な評価を試みたい.米ソ両国は,アフリカは米ソ冷戦構造における従属的地位であり,米ソ冷戦

    164) Zbigniew Brezinski, Power and Principle: Memoirs of the National Security Adviser, 1977-1981, Farrar Straus Giroux, New York, 1983.

    ( )増古剛久・アフリカの角と米ソ冷戦(2・完) 363

  • 1478

    の周辺としての存在であり,米ソ冷戦構造の変動に対して大きな影響を及ぼさない,と考えていた.しかも,アフリカの角オガデン地域を巡るエチオピアとソマリアとの対立の端緒は,米ソ冷戦とは全く関係がなかったのである.しかしながら,対立の争点が冷戦以前の時代に生まれ,冷戦期においても冷戦の周辺,従属的地位として考えられてきた地域での対立に対する米ソの対応が,米ソ冷戦構造,つまり米ソデタントの変動に大きな影響を及ぼしたのである.これは何を意味するのだろうか.この時期のアフリカ大陸には,国民国家として統合し発展を目指そうとするナショナリズムと国境を越えて民族・部族を統合させていこうとするナショナリズム,「二重のナショナリズム」が存在したのである.米ソも,アフリカ大陸を駆け巡っていたこの二重のナショナリズムに気付いていたとは言えない.米ソデタント政策によって,米ソは冷戦構造を維持しながらも世界を管理していこうと試みた.しかしながら,アフリカの角という場での,米ソデタント政策の周辺の出来事が,米ソデタント構造を確実に揺るがしたのである.米ソデタントは,アフリカの角を巡る米ソの対応で揺らいだ.そして1979年12月27日,これも冷戦の周辺と考えられてきたアフガニスタンにソ連が侵攻し,アメリカが更に猛反発したことによって米ソデタントは終焉を迎えたのである.

    ( ) 一橋法学 第 6 巻 第 3 号 2007 年 11 月364