HELI-2 “ヘリコプタ人生” 義若...

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HELI-2 “ヘリコプタ人生” 義若 2011/08/20 ヘリコプタ暦・第 1 19521961(昭和 2736 年):10 年間 川崎重工業株式会社は日本機械貿易(株)(後に三井物産株式会 社)のサブ・ライセンシとして竹トンボの BELL47 型ヘリコプタの 導入製造を開始した。 私にとってはヘリコプタ技術者駆け出しの時代、明石の時代でありま した空力性能及びロータ担当、1953 昭和 28 12 、日本最初のヘ リコプタ性能飛行試験を、BELL47D1国産初号機(日本保安隊向け 1 号)で、ベル社の技術報告書を参考に、谷村篤秀氏(後、川崎 重工取締役・ジェットエンジン事業部長)と計画実施した。 パイロットは後に H369 でヘリコプタの宙返りを初めて行った筒井 善直さんであった。 運輸省航空局に、飛行試験結果とベル社が米国 FAA へ型式証明取 得のために提出した全報告書の要約を提出し、 日本初の運輸省・航空 機型式証明第 1 号を、1955 昭和 30 3 8 日、川崎ベル47G/47D-1 ヘリコプタ・両機種に対して取得した岡田愿介ヘリコプタ研究課長御指導の下、“ヘリコプタの地上共 振(正しくは地上自励振動、運輸省助成)”、“回転翼翼素の試作研 究(通産省助成)”、“シーソ・ロータのウイービング”等の研究に も従事し、技術研究論文(例“回転翼機の地上共振”、日本航空学会 誌・第 8 巻第 75 59 頁,1960 年・昭和 35 年)も発表した。続い て大型ヘリコプタV107 の導入・国産化計画を担当した。 V107の事業展開は川重岐阜工場と決定され、1961 昭和 36 1 1 付で岐阜工場へ転勤発令、高橋忠男課長(後に川重企画室部 長、日本飛行機・取締役)に従って、1 19 日、V107 ヘリコプタ 導入の基本計画を携えて雪の降り積もる岐阜駅頭に下り立った。 ヘリコプタ暦・第2期 19621981(昭和 3756 年):20 年間 川崎重工は、大型ガスタービン・ヘリコプタV107、小型ガスタ ービン・ヘリコプタ OH6 (民間型 H369)を導入した。ガスタービン・ エンジンの搭載と設計技術の進歩とによって、ヘリコプタの性能・ 信頼性が飛躍的に向上した。ヘリコプタ実用の時代となった。 川崎重工はベル 47 ヘリコプタを 4 人乗り KH4 に独自改良開発、 日本最初の改良ヘリコプタとして多用され、傑作機としてその名を 留めています。また川崎重工は BK117 ヘリコプタを西独 MBB 社と リスク・シェア―で共同開発、1982(昭和 57 年)日独航空局の型式証 明を取得、その最新型 BK117C2 30 年を過ぎた今尚多数販売されて いる世界の傑作ヘリコプタである。 私にとっては中間管理者の時代、岐阜・東京の時代でありました1961 昭和 36 2 、国枝進・岐阜工場長をリーダとする 4 名―私は技術担当(係長)―がボーイング・

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HELI-2 “ヘリコプタ人生” 義若 基 2011/08/20

●ヘリコプタ暦・第 1期 1952~1961(昭和 27~36年):10年間

川崎重工業株式会社は日本機械貿易(株)(後に三井物産株式会

社)のサブ・ライセンシとして竹トンボの BELL47 型ヘリコプタの

導入製造を開始した。

◆私にとってはヘリコプタ技術者駆け出しの時代、明石の時代でありま

した。

空力性能及びロータ担当、1953昭和 28年 12月、日本最初のヘ

リコプタ性能飛行試験を、BELL47D1国産初号機(日本保安隊向け

第 1号)で、ベル社の技術報告書を参考に、谷村篤秀氏(後、川崎

重工取締役・ジェットエンジン事業部長)と計画実施した。

パイロットは後に H369でヘリコプタの宙返りを初めて行った筒井

善直さんであった。

運輸省航空局に、飛行試験結果とベル社が米国 FAAへ型式証明取

得のために提出した全報告書の要約を提出し、日本初の運輸省・航空

機型式証明第 1号を、1955昭和 30年 3月 8日、川崎ベル47G/47D-1

ヘリコプタ・両機種に対して取得した。

岡田愿介ヘリコプタ研究課長御指導の下、“ヘリコプタの地上共

振(正しくは地上自励振動、運輸省助成)”、“回転翼翼素の試作研

究(通産省助成)”、“シーソ・ロータのウイービング”等の研究に

も従事し、技術研究論文(例“回転翼機の地上共振”、日本航空学会

誌・第 8 巻第 75 号 59 頁,1960 年・昭和 35 年)も発表した。続い

て大型ヘリコプタV107の導入・国産化計画を担当した。

V107の事業展開は川重岐阜工場と決定され、1961昭和 36年 1

月 1日付で岐阜工場へ転勤発令、高橋忠男課長(後に川重企画室部

長、日本飛行機・取締役)に従って、1月 19日、V107ヘリコプタ

導入の基本計画を携えて雪の降り積もる岐阜駅頭に下り立った。

●ヘリコプタ暦・第2期 1962~1981(昭和 37~56年):20年間

川崎重工は、大型ガスタービン・ヘリコプタV107、小型ガスタ

ービン・ヘリコプタ OH6(民間型 H369)を導入した。ガスタービン・

エンジンの搭載と設計技術の進歩とによって、ヘリコプタの性能・

信頼性が飛躍的に向上した。ヘリコプタ実用の時代となった。

◆川崎重工はベル 47ヘリコプタを 4人乗り KH4に独自改良開発、

日本最初の改良ヘリコプタとして多用され、傑作機としてその名を

留めています。また川崎重工は BK117ヘリコプタを西独 MBB社と

リスク・シェア―で共同開発、1982(昭和 57年)日独航空局の型式証

明を取得、その最新型BK117C2は30年を過ぎた今尚多数販売されて

いる世界の傑作ヘリコプタである。

◆私にとっては中間管理者の時代、岐阜・東京の時代でありました。

1961昭和 36年 2月、国枝進・岐阜工場長をリーダとする 4名―私は技術担当(係長)―がボーイング・

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バートル社フィラデルフィア工場へ V107ヘリコプタ導入の為に出張し

た。 以来今日まで海外渡航 20ヶ国 49回、ヘリコプタを軸に、世界を

飛び回って、多くの国の多くの人々とヘリコプタについて語り、ヘリコ

プタに汗を流してきました。

導入時は信頼性が低く事故多発、これが米国 FAAの型式証明を取得し

た量産機かと批判の声も高かった KV107Ⅱヘリコプタ、このままではも

たないと、川重が独自改良した 4次防対策機 KV107ⅡAは米国連邦航空

局(FAA)の型式証明を取得し(日本製のヘリコプタでは今に至るも KV107

ⅡA只 1機種)、川崎重工が開発した多彩なヘリコプタ運用システムと相ま

って、海外でも数多くのオペレータで活用され、世界に誇る傑作ヘリコプタへ

玉成されていった。

◆KV107Ⅱヘリコプタは、日本国内では陸(隊員物資輸送)・海(掃海

輸送)・空(捜索救助輸送)の 3自衛隊と、警視庁(捜索非常時対処)、

関汽エアーラインズ、エアーリフト社(旅客・資器材輸送)で採用され

運航された。輸出にはタイ国(VIP機)、米国(旅客資材輸送・木材

伐出・消火)、スエーデン(海難救助・輸送)、サウジアラビア(消防・

救助・病院 VIP)がある。

我々が開発納入した海上自衛隊掃海ヘリコプタ KV107ⅡAは 1970昭和

45年当時世界最初の実用掃海ヘリコプタ、現在に至るも掃海ヘリコプタを

開発したのは米国シコルスキ社と日本の川重しかない。二木節夫氏(後に

川重常務・航空宇宙事業本部本部長)がチーフで開発した KV107ⅡAプロ

グラムド飛行システムは、1977昭和 52年大河内記念技術賞を受賞した。

本受賞は日本航空界の先駆けとなった。

大汗をかいたサウジアラビア王国防災ヘリコプタ団の創設・展開では、

我々が独自構想で開発した4種類のKV107ⅡAヘリコプタ・消火システム

は、ベル社・アグスタ社・エアロスパシャル社等世界のヘリコプタの強豪に

勝利した。本プログラムは、第 1次・第 2次契約からなり、合計 16機の

KV107防災・医療・指揮 VIP機、5基地の建設、パイロット・整備士等要員

の訓練育成、10 年間の運航整備からなるフル・ターン・キー・プロジェクト、

我が国の航空宇宙工業界では未曾有・異例の大国際プロジェクト(総契約

金額約 1千億円)となった。1988昭和 63年 6月、川崎重工は 10年以上

に及ぶ全契約を成功裏に完了した。

◆川重のヘリコプタ・ビジネスはKV107Ⅱの事業展開によって確立された。

私はヘリコプタ担当課長・部長として常にその中核にあったと自負す

るとともに、運は私についたと感謝している。

●ヘリコプタ暦・第 3期 1982~2001(昭和 57年~平成 13年):

20年間

第 2期に導入されたヘリコプタの後継機・大型タンデム・ロータ・ヘリコプタ CH47(総重量約 23トン・

正副操縦士等 3名・乗員座席 55・吊下げ輸送貨物約 10トン)がボーイング社より導入され、陸空両自衛隊

で採用され、隊員・物資輸送用・災害対策対処用ヘリコプタとして活用されている。

◆防衛庁は川重をプライム・コントラクタに日本で初めて OH1偵察ヘリコプタを独自完全開発した。OH1ヘリコプタ

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開発ティームは、1998平成 10年 5月、ワ―シントン DC、米国ヘリコ

プタ学会(AHS)年次総会において Howard Hughes賞を受賞した。同賞

は、1977昭和 52年航空界の先人 H・Hughes氏の功績を讃えるため

創設された AHSの表彰で、前年度にヘリコプタ基礎技術の発展で最

高の成果を挙げたと認められる個人又は団体に授与される賞、日本

の OH1開発ティームの受賞は米国以外の国からはで最初となった。

丹羽良之氏(防衛庁技術研究本部)・板東舜一氏(川崎重工ヘリコプ

タ設計部)は、OH1のロータ・ハブ開発で、全複合材製ベアリングレス・

ロータ・ハブの相当フラッピング・ヒンジ・オフセット 7%を具現した。

フラッピング・ヒンジ・オフセットはロータ・ハブ設計の最重要ファクタ、

6~9%(フラッピング・ヒンジ・オフセットをロータ半径で割った数値)が

最適。フラッピング・ヒンジ・オフセットが大き過ぎると操縦力・加振力

共に過大となり、安定性にも強く影響する。 UH61、コマンチ、KH7等

フラッピング・ヒンジ・オフセットが過大で本機開発は失敗した。

OH1の全複合材製ベアリングレス・ロータ・ハブ(7%)は20世紀末の

ステート・オブ・ザ・アート(12~14%)をブレーク・スルーするものと

ボーイング社(元)コマンチ開発担当副社長 W.W.Walls氏が激賞した。

◆私にとっては、ビジネス・マネージメントの時代、岐阜へ U ターン、

川崎重工岐阜工場長。

BK117プログラム・マネージメント、当初の雨降り時には先ず傘をさ

し、田中義章氏(川重航空業務部主幹、後に理事・川重企画室長)

を支援して、MBB社管理部長 G.マークラフ氏の強欲を矯正せんと、

MBB 社・K.フライドラ―上席副社長等3氏を相手に大立ち回り。MBB

社との相互売買契約、円マルクの為替レート変動対処に第3通貨・

米ドルを組み込んだのは田中主幹の大手柄。 尐し雲が切れると、

増江達哉博士・ヘリコプタ設計部長の知恵を便りに乗り気でない社

内を説得、BK117初の改良計画、エンジン換装への途を開いた。

1986昭和 61年、MBB社・新任上席副社長とマークラフ氏が来日、

岐阜工場訪問後、西柳ヶ瀬の焼鳥屋“たぬき”に一人招かれて送別

の宴、“貴殿退職後は誰と話せば良いか”と副社長、すかさず

“勿論、田中義章氏”と応えて別れた。予てより私はマークラフ氏

には敬遠されていると思っていたが。

1984昭和 59年 8月、ボーイング・フィラデルフィア工場におい

て、CH47ヘリコプタ国産計画のキック・オフ・ミーテイングが開

かれた。私は川重派遣ティームの団長としてこれを統括した。

V107・25年の山谷を乗り越えて CH47へと繋ぎ感慨一入。

1987昭和 62年 1月、ヘリ運航会社エアーリフト社社長就任、

大赤字のエアーリフト社を 3年間で再建し、10年間安定成長の軌道に乗せた。運輸省航空局並びに雑誌ダイアモ

ンド誌上でヘリ運航業界の優良企業と評価された。

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1987昭和 62年、日本ドクター・ヘリコプタ運航の先達。

ふるさと岡山、川崎医大・小濱啓次教授御指導の下、日本

最初の BK117EMS機で、ドクター・ヘリコプタの実用運航

を岡山・香川の両地区で計画し遂行した。

1989平成元年、日本ヘリコプタ技術協会(現日本ヘリコプタ

協会、米国ヘリコプタ学会 AHS・日本支部も機能の一部)を創

設し、初代会長に就任、日本ヘリコプタ技術の国際交流を推

進した。

1993平成 5年 5月、日本人初の米国ヘリコプタ学会国際

副会長(International Vice President, American Helicopter Society)、

欧州 回 転翼機討論会・組織委員( Member of Executive

Committee, European Rotorcraft Forum)にも就任した。

1994平成 6年 5月、米国ワシントン・セラトン・ホテルにて開催の

AHS第 50回記念総会において、日本セッションを企画遂行した。日本

セッションは、二木川重常務・小暮富士重常務・河内東大教授・

長嶋防大教授等々、日本ヘリコプタ産学のトップ・リダー方が講師

として、キー・ノート・スピーカ義若日本ヘリ技術協会会長、チェ

アー・パーソン山田伊藤忠アビエーション社長で進行された。当該

セッションは、日本ヘリコプタ技術者に対する AHS総会での機会

均等、研究発表の門戸開放を促す結果ともなった。1999・2000年

と 2 回にわたり、AHS 年次総会での日本からの研究発表が各 7 件、

参加人員が約 20名にも達した。それ以前日本からの研究発表は皆

無、参加者は 3重工から の出席者を主体に毎年精々3~4名であ

った。

1998平成 10年 4月、岐阜市・長良川国際会議場で、第 1回 AHS国際会議

Heli Japan 98 “ヘリコプタの先進技術と防災”を企画開催した。

国際会議:名誉議長梶原拓岐阜県知事・議長東昭東大名誉教授・特別顧問

大庭日本航空宇宙工業会会長・鈴木防衛技術協会会長、会議テーマ“ヘリ

コプタの先進技術と防災”、総参加者約 670名、うち海外 12カ国から約 100

名参加の大会議となった。OH1ヘリコプタ開発の先進技術、阪神淡路大震災

を切っ掛けとするヘリコプタの災害対策運用が発表討議され、第 1回 AHS

国際会議 Heli Japan 98 は後に続く日本宇宙関係国際会議の名実共に模範と

なった。

担がれる程の貫禄のない私、全て自ら狙いを定めて計画実行し、日本の

ヘリコプタ技術者をリードした。

●ヘリコプタ暦第 4期 2002~2021(平成 14~32年):20年間

世界のヘリコプタは低迷期に入った。 日本ヘリコプタもこの大波から 逃れられるものではない。情報収

集・ドクターリコプタ・遭難救助・防災・減災・警察・防衛等ヘリコプタの非常時運用に焦点が集まってき

た。私には後始末の時、幕引き準備の時、幕引き準備も八十半ば迄も生きると多様です。

◆孫へはルーツの継承・墓の建設・自分史を遺す。我が家族制度を維持する為のささやかな目論みです。

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◆川重の後輩へは“ヘリ老爺の憎まれ口”と題して。日本ヘリコプタ協会

には、2006平成 18年 4月 28日、三菱重工業(株)横浜ビル 3301会議室

において、“ヘリコプタ発展の為には何が必要か、ヘリコプタ協会は何を

成すべきか、何が出来るかを”討論し、“日本ヘリコプタ協会会報”第 17

号 2007平成 19年 6月に書き残した。

◆一般社会には、2006平成 18年 11月、名古屋国際会議場、第 3回 AHS

国際会議にて、“大震災時におけるヘリコプタ空中消火の盲点”と題して、大

震災発生時、大型ヘリコプタ CH47の空中消火能力と緊急発進時間とを例

に取り、“複合広域大災害発生直後の減災活動の主体は自衛隊と之を法で定

め、CH47大型ヘリコプタ 10機を中核とする大中小からなる陸自中部ヘリコプタ

機動旅団を編成、名古屋空港に駐屯させ、愛知県守山の陸自第 10師団の精

鋭 7000名と共同して自然・事故第災害・東海大地震に緊急対処する。同時に

南海大地震に備えて南海大地震に備えて陸自近畿ヘリコプタ機動旅団を伊丹

の大阪空港に駐屯させ、更に将来の道州制を睨んでこれを順次各道州地区にも進めて行く”と、阪神淡路大震災

以降、スマトラ沖大地震、ハリケーン・カトリーナ、新潟県中越地震を経て、ヘリコプタ老爺がラスト・メ

ッセージを咆哮した。

国家財政赤字はⅠ千兆円に迫り、大地震対処にも限度がある。無い物

ねだりではない。陸上自衛隊が保有する大中小ヘリコプタを尐極集中から

重点地方への分散配置を唱えるものである。

治山治水、耐震構造、津波対策、原子力発電所の耐震化、自助・共助・

公助、皆遣らねばならぬ。それでも尚大災害は発生する。 鍋・釜・風呂から

架橋用船艇まで保有する陸上自衛隊は災害対処・非常時対処の最大実力

集団、地方駐屯の地上部隊とヘリコプタ機動旅団とを直結して、地震発生

30分以内に偵察ヘリを、1時間以内に災害救助実働隊をヘリコプタで緊急

発進。道が走れると思うな! 水があると思うな! これが今直ぐ手の付け

られる減災対策、最も効果的な最善の減災公助である。 必要とあれば

自衛隊の海外出動・国際貢献も遣れば良い。しかし、日本の安全管理・

危機管理を最優先に、日本の大地は震えている。

◆2006平成 18年、名古屋国際会議場、第 3回 AHS国際会議にて、

米国ヘリコプタ学会の日本ヘリコプタ技術の発展に対する長年の貢献

に謝意を表し、日本ヘリコプタ初代会長として、自作油絵“富士”F10号

を米国ヘリコプタ学会 Phil. J. Dunford 会長(ボーイング社ヘリ担当 副社長)

へ贈呈した。米国バージニア州アレキサンドリアの学会本部応接室に

長く展示される由、己としては世界ヘリコプタの殿堂入りと自ら

大満足。 (終わり)

付表1: HELI-3 川重量産ヘリコプタの歴史

付表2: HELI-4 川重ヘリコプタ研究の歴史(2-1,2-2)