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153 .l/O l' 2011 I也J1l! 5.9-5 _l1{/¥・� 2(}11 j由J11 .:;9 5 52

一ー__..はじめに

この特集は

-特集企火山災害は噴火だけじゃない

軍災大

岩松� H

の後に起きた

てけ供六な被引一けがあった

のは比削れた光以のためか、� 小川組にむならない

T

桜山のマグマは大.止仰の9訓かた川悦していると枇引けして

いるにもかかわらず、

である

こんなことで良いのだろう

、。

2.大正噴火の概要

絞れ向大正噴火は、市独の突発事象ではなく、明治末期か

ら大正初期にかけて、

日目地時� (1913年)や得品御鉢

噴火� (1913年)など、出九州.市で地従や噴火が相次

ぎ、地乍的な前向則に発生した

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計誌名と言われて�

3.火山活動終息後の災害

「火山災咋は噴火だけじゃない」という

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に時宜を得た合州だと思った

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加世紀にわか問が経験した日以ト〈の火山噴火である鮫島大正

噴火百同年であった� -年近くさまざまな記念行事が行わ

長句-こ ・刀、

関心は専ら火山活動の今後の予測と由民避難に集

中した一

島外の人々にとって、

大-止・引火は観光資源としての大.止

治む原と開没れ川陀皮しか辿恕されず、人ごとと受け取ら

れているのか実的であるしかし、災際には大間下町はし

め山ド作地でさまさまな--次災川が完全し、片聞にわたっ

(すなわち地殻の隆起)、温良一回出、頻繁な白感地道など、

さまざまな前兆現象が起きていた。島氏は異常現象に不安

を募らせ自主避難を始めたが、鹿児島測候所は「桜島に噴

火の恐れなし」と一一日い続けた。しかし、�

1月四日午前山時

過ぎ、点凶両山腹から前後して噴火が始まった

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も発生、散しい噴火的動は約!日平続き、日日午後

8時過

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このように山火印刷は� 年あまりで終息したが、日動終

中していたし、メディアの制限迫む急述に少なくなった

川からは忘れ去られていくが、地..んではそこから� く続く

ぎには治むを流山し始

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辺からも篤い支虚の予が差し伸べられる� 災主ユートピア

が一時的に成立するのだ。しかし、生活再建

・復興の段階

になると、被宵の軽重、内力再建可能か否かの貧富の差、

あるいは前途のある若者か先の短い老人かという析し代間の

思惑の迎いなど、さまざまな要附で、阪興の将来像や点式

をめぐって札牒が生じがちであるこうした社会的問題は

本円から外れるので、移陀のところで粍く触れるにとどめ、

合約� 500mにあった

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った。東山腹から流出

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ここでは火山川動に爪怯随伴する災山内について述べること

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土石流.洪水の発生河川 (下川ほか,� 1991)

多足の流木で東串良村の豊栄隔が流失したことである。す

でにこの頃から被害が下流部まで及んだのだ。とくに中良

川の被害が大きかったらしく、上流から河口まで、河川改

とが並んで建っている。まだ土木学会も誕生する前、素人

・堤防修築関係の記念碑が日基も存花する。

いくつかを

工法で修築しては綾される繰り返しだったようだ。当然�

紹介しよう。�

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大量の降灰に起因する土砂災害

・水害

・農地災害

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写真� 2 河川改修記念碑 (段以� rli尚良空中央� )

堤糖ヲ決泊シテ土砂ヲ流シ以テ沿岸ノ耕地ヲシテ

一望荒涼

族全滅シタリ殊ニ爆発信ノ大洪水ハ未曽白ノ大氾酷ヲナシ

写真

3は鹿屋市観背淵の堤賠工事紀念仰である� (191

5年建立)。「降流版砂殆ド凹尺ニ及ヒ河水濁流シ為メニ魚

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叫削・'� L 将ア� l--....) .... 図� 1 大正� 3年度桜島火山降灰磁分布図 {金JI:, 1920の お;)(僧位� :R.)

機もなかったから、専ら人海戦術に頼らざるを得なかった。

第一

平田記念碑には

「運知寄附高限小学校児童」なる文言も

刻まれている。最後は学屯まで動口れされたようだ。

地の降水記録はないが、鹿児山測候所の記録で、口雨量凶

醐から叩醐程度のわずかな降雨で上砂災害が発生している。

頻繁な土石流の発生は、大円以の士砂を下流に供給し、河床

16年に住てた河川改修紀念碑と四年の第二回河川紀念碑

このけ、高限山を源流とする山中良川の下流で水害が発生、

が上昇したため水害も頻発しが一(関

2)。

なかでも

3月

6日の災許では死脊

6人を出し、うち

3人

は桜山から避難してきた小学生であった。注� すべきは、

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流を助長し、士石流が頻発した。上行流とは一一一汁っても、現

在、地形に桟っていないから、深刷附崩峻ではなく、本質的

には積もった軽行がすべる� 砂流や泥流状のものだったと

推測される。地元では降下軒 L

L

石のことを方言でボラと呼ん

量の降灰は拙生を破壊し、山地は荒廃した。とくに細粒の

火山灰は撮るとモルタル状になり、水を通しにくい。表面

でいるので、いわゆるボラすべりである。

もちろん、渓床にあった

μ

こには大間半島で� -

で写点2は庇屋市一品限中央の河川改修記念碑である。�

噴火は冬の

1月、折からの西風に乗って軽石

・火山灰は

石を巻き込んだ例もある。現

-3-

写真� 3 堤嬉工事紀念碑 (鹿区市観� 11i声J) 9

たる�

大隅半島方面に分厚く取慣した(図

1)。垂水市午恨付近

弱、志布志市の凶境界付近で約却価も積もった。そ�

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寄標高の高い古川限山系がん仔在する。大

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んだ粍綿かぶされているが、山山川すべきは川後に「スペテ

前述のように山火中

の夕刻には地世むあった同3は

シタノテココニ解散スル附制問ト九年

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ノ組介事前ヲ光

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タル砂浪ト化セシメタリ」とあるにが院日

・仁引委日な

ど男性の氏名か列挙されているが、山山設託先吋附省氏名の犯

人はすぺてん久性である

男性は労働率仕をし、久性は金銭

で寄付をしたのだろうか。当時の女性が経済的に自立して

たみも

ニ-一今

いたとも思えないので、頼母子講などで積み立てていたお

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法が深川された降阪の阿げさの的限度のトレンチを似り、

そこに火山以を埋めて肥沃な耕上を地衣に山すのである

丙阪島村では完工して紀念碑を建立するのに日年の成月を

要したが、途中、

令を寄付したのかむ知れない。

盟栄情にも山中・川氏川改修紀念仰がある

(1917年辿

以西州市良付が共同して

t木市け防組合を結成して仁引に臨

いる。

大窪付長が病に倒れた。野が付舵鋭(現

於市)では山直太古翁が全私財を投げ打って完成させて

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地震動災害

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じ川-二卜

」と彫り加えられていることであるしつに

平川紀にわたる雌恨業だった

「排地ヲシテ↓望荒涼タル砂泌ト化セシメ」たから、内山

業被市荒川も甚大だった。降一以の呼さや粒位によっても、さら

には恨菜類か葉菜類か、冬野菜か夏野菜かによっても、むH

ろん影響は異なるが、当時の主力作物である時草や麦

・桑

(長蚕)などは壊滅的打撃を受けたようだ。当然、耕地整

理と瀧斑用水路の復旧は急務だった。これもまた人海戦術

に待らざるを件なかった

各地て問地情理組合が結成され、血のにじむような作業

か行われた昨版かりいところでは

「.大地返し」という

陸部にあるが、

河川沿いの軟弱地盤だったため液状化した

のだろう。ライアラインの被害も山た。落石で鉄道が不通

になったし、停電になった。郵便局の庁舎や新聞社の印刷

所が被災し、情報が途絶えたため、沖波やぷガス襲米のデ

附ともなった。

今川川判による同位分市である治川町・却の附刊しは地で段位が

い川いことがわかるこれに上り家財や行桝の倒岐があり、

託行を山した。山山山山は火山同ゆえ、加仁しやすい出航縦

以内れを姥山するから行文化問であるそれか災いしたらし

阿武山付

(現鹿児山市)の天神ヶ瀬戸ではシラス崩壊

も発午、避躍中の人が叩名犠牲になった

この叩名は前述

の地震による犠牲者数に含まれる。

液状化災芹もあったらしい “丙武田村誌によれば、

「旧

上尋常尚等小学校の佼庭にも処々他裂を生じ共の裂川より

u

湖水前々と一山き山で瞬間にして阪を没するに.ふれり河川口山

山して熱心に故調に従事小の俗広訓磁の如き全く拘附の叫

米と仰天せし仰なりしと」とある

川ト.小川子校はかなり内

-地盤沈下

桜島大正噴火で

一書忘れられているのが地盤沈下である。

M

桜島のマグマ供給源は昨良カルデラだからカルデラを中心

に陥没した(凶 4)鹿児島問良部沿岸付近では、

江ド時

代のト川地や駈川がぶ没したまさに治桑の変である

、�

作出防む服地したというから、

不等沈ドや液状化による側 H

流動などもあったのかも知れ

ない

8川には台風が叫米し

て高潮か発生し、泊い打ちを

a',~、す,こ

の駐回の復旧をめぐって

阻止運動が起き、

村長は引責

辞職、人望のあった尋常高等

-M

小学校袋芭校長が詰われて村

長に就任し、皆をまとめて製

出来の近代化に以

した

1

925年には叫血刈千トンを

越す

(門川崎問には 3下トン )

大却出場となり、

「出ドで.

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鹿児島市街地震度分布図� 3

図� 4 tOmori.1916の一部 単位� mm

員火によるi也鎗の上下変動�

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58 59 j山Jlll .:;.9-5

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的行流出を川県した山川市中� 川は陪日不吋避とみて、附引火後�

側州に「水道記念」と刻まれている� (写山� )

水道山辿

かとれほど待たれていたかかわかるなお、川白休は山地

宛に修作山の打ぬけをしているし、北尚

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には、熊ち仰い�

.11m・� 2011 地Jll¥� ;").tJ-5 .1/(/¥' 2011

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道なと作地に史� を派泊、修作山脱出地の凋任をさせている

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限災告に貸与、開型か光�

の立を点した付は無かったと・千点而して比点の動機はや

して.山の年故か粍過したら、

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人れぬのはひどいと思った加-

の排斥�

災�

たる川時多発出域限�

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なと多侃多郎な災計があったん� 川

るのを々とすべきである」しかし、� 1923年也立の移

!

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作記念仰には、一地β日民の深川げなる川仙と括似とに日�

さて、

日副述べたように、桜応大正噴火

.同年を迎えた

化のため休校中で、実質的には・版校である一垂水市の旧

場が変化し、大地震やト〈噴火が発

以カルデラ川辺の約

2004堆所会対告に、ア

した包

書税金の安い付」と・パわれるまでになったという

lタ� lシッフとト年の議日が必盟だった

強i

1)

間的問

・小以掛け仰は

・ん氷川パ白

・食件費などかぷ給された

-移住

地震災害と違って火山災古は家屋だけでなく土地まで失

うことかある肉治岩で埋まったところや、分りい軽石

・火

制いするのは附雌を傾めた上、飲� 什水の人子にゆい内労した。作

山灰で盟われたところは、静作するしか� 法かない。桜山

M

月後には種子島への移住が始まっている。

このように敏速な倍前がとられたが、国白休の原野を開

成に水を汲みに行くのは火性とチとらの目深であり、引労

働だった耐火山町桜似の「桜山爆発移住υ叫ん必仰」には、

KM

の山内だけでなく汀引付(山胞um市)など大間半向からも

修作白が山たおおよそ

3下.ド、約� 2.力人という。

川も6川には勅令て、.上院火山(内防

・大崎

・文部)の作間取

を県知事に委任、現状に即した機敏な抗出か執れるように

移住先には指定移住地と縁故をたどる任意移住地とかあ

ったわ指定移住地には凶む林が当てられた円内之友=

市、

南大間町、錦江町、臨原市、議水市、白崎県小林市、朝鮮

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全羅道なとである同はこれを

μに慨附で払いド

7、叫が�

終的線路する仕組みだった移町民には移佐代

・山問日

に各自の刊益に関するので、之を欲しなかった為であるら

しいが、表面上は桜島の者は虚言を吐くとか、手癖か忠い

とか一千点を以て苦情の開山とした。それにも或程度迄の恨

偲はあったから知れぬが、とにかく同胞の悶燥を考の中に

m山としては、阪

品の針は制食に耐へてよく働くから、断る隣人を祈に向て

川迫せられるのをりまぬともぷうたさうだが、此などは近

年収山隊人にバする米川人の態度と、全然川.の伊内的であ

・�

むの砂からず」とあるい村川、隣人に治け込み「深川なる

問的」を削げるには長年川かかった

なお、祈設された

3つの小学校は現在いずれら過疎

・少�

にある

ばならなかった

それも川米ない僻地には

3カ所、�

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1

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乍校が新設された

こうした開型に伴う汗労だけではない出労もあったよう

だら新政.ド稲辺は噴火の翌年、指定移住地である小林市だ

王集部の現地調査を行ってい訟� 「

当局の話を聞くと、如

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何なる付・万でも、未だかつて移民排斥をしなかったものは

無いさうである。けハの� 筒所ても、不字なる確災丹に歓待

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はり料消卜.のものらしい引ち唯米ドード民弔臼

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ト仔した林地合、一的たに他所の行に内

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の阪やかな戸は聞こえない�

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おわりに

火1111'

jは地一山災市と巡って.過性ではない

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H災計なのが特徴である桜山大正山

大野小中学校に

は、祖先の開拓

魂を伝えようと、

火でも、

抗措の山火災川だけでなく、地時災計

・地位沈ド

災計

・卜.砂災市

・水山日!

触れなかったか、迎雌小の不衛生な珂境や的れた水などが

山川で亦州

・似チフスなと伝染病む位延し、火山市助や地

誌に作う出版の椛牧内よりむ多い� H々が亡くなっている

これは巾なる節日ではない� 2011年の京北地点太平洋

M

沖地民で日本列島の応-

生しやすい地乍的な環境が醸成されている。南海トラフの

述助型地震や白上山噴火などか取り沙汰されている所以で

九州も例外ではない

凍」という�

ぃ加山山卜八円子地域防災教打研究センターでは市川本新聞と

.h仰

共川で、始�

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ンケート訓伐を行ったそれによると、明世縦統社州� {

じ� )を

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が辿っている

しかし、「とも

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し、%践しているところはこくわずかであった

l 写真� 4 桜島爆発移住記念碑�

It/)、~田fI迂 1(,(

どもたちは険しい山辺を泣くまで岨下しな

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貸与されたのは山地だけでなく、定地

・務災休也

・芋交政

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・墓地

・寺院敷地などさまざまな極日がある。噴火

2カ

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せられるのは、山はほ

μ.則にわ

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60 .11m' 2011 j也J111 ,;9-5

京日本大震災では「惣定外」なる� 焦が一一一円い訳に使われた。

J

-川ロ Hで般向ト八.止山火から川川年を迎えた

J,� .95j也J111

し 23

(il .Iln γ 2011

た大正噴火クラスの大噴火があるかも知れないとは認設して

いるが、我が事として受け止めていないのである。「思定

外」なことを想定しようとの意欲あるいは勇気に欠けてい

るようだ。

長期の休業は顧客の離反をうみ、それは倒産と

雇用の喪失へ直結する。

ひいては地域の衰退へとつながる。

しかし、般向では円年前に経験しているのだから、このよu

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民は・� 4い況には使えないト〈市町火の教訓を学び山す必要

かあろう

また、� 大正明火時とは比般にならないくらい文明かい品位

化し、� ノけも鹿児山市に� 川県小している山山山県民の

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3人に� 人か鹿児島市民なのであるよ.1

肌噴火は冬に起き

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たから、同風に乗って大間半山が多大の被引けを受けたも

しも来たるべき大噴火が反に発生したら、東風で県都鹿児

島市は地減的な被害を受けるであろう

寺田寅彦は「文明が進めば進むほど天然の暴威による災

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常一口がその劇烈の度を噌す」と喝破した。すべてがコンヒュ

|夕で制御されている現代、もしむそのふん工冷装置が版を吸

い込んでダウンしたら、恐るべき引態が発作� するであろう

2010年アイスランドの火山町火でヨ|ロツハ全域の航

空迎行が大出乱に陥った桜山が大正級の的火をした叫介、

イ4州|

少なくとも阿日本の物流は完全に麻咋するであろう

こうしたいろいろなケ� スを想定して対策を講じておいて

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もらいたいものだ。

東日本大震災から3年、復興にはまだほど速いのが現状

である。火山災害はもっと長期にわたる。被災地域以外の

人たちには、刑判地で山内闘が続いていることを認ぷし、

たかな縦続的立般に取り組んでいただきたい

-1}ド川悦郎

・地一肌川問符

・小外崎川犬

食に及ぼした影嗣� 1991}『大正� 3

彼自川ト八噴火が

?とへ,

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N側代防究成川市製作� 3

(6)川上 H

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鹿児れ川町同等�

火山川辺地域の� HM

川町制� {1920}「九州地戊俗」震災� 41防羽紅会総行犯け

常� 同等小学校� {1915}『内武� 付総』・�

帖佐付窃上誌」一�

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(7}釘川計五郎� (1933}『

{8)新渡一戸稲造� (1915)「桜島羅災民の詰川部渚」何回凶兇福『郷上会

記録』所収�

(9ー山叩)

寺悶災彦� (1934)「-大災と同防」『キ�

つあきり

鹿児島大

名誉教綬

静岡

寅彦随一治集

大 m

鮫島島内、

姶良市

・寄島市、的日於市

・大崎

l第� 部

桜山大正大噴火

児島市内南部、

日置市内、

町、雌尾市

・蝉北町、

岸、胞子山、白崎県のコ

2部

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鹿屋市

・串良町、

大隅半島鹿児向湾

・橋村健一著�

lスごとに説明されている。

般向宏、ぷ火山火

l絵!にノ¥�

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地形同で位附かぶされている

マクマの

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諮問此は大正時代の

9訓がた川似しているし、

附� 火けの

噴火活動も側めて活発である

出日本大従災に先しはつポド成�

しま知的散策マッフ」� (

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「ど一ヨ白� 53205円ruH一� ヨ一)

ラ� lyIr円パや仙川文、

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2・5

分� 地形凶かすべて閲覧できる

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これらの記念碑の前に立ち、碑文を読むと、

中� 時の桜山

応民の避難時の混乱、

適切な噴火予測を出さなかった脱児

白測候所への怨念、

移住先での開拓の困難と克服などが記

されており、

今後の火山噴火への普鑓となっている。

なお、必� NH

Kの柳川喜郎の

ニハい舶セズ� :::』(十附五新社� )か復刻された

桜山噴火記

住民ハ即論�

で、桜山の大正山火の粍緯と避難行動、

(2011)-川前向の折燃吊も

300

点日本大従災以降、十附九州が地乍的に騒然とした感

年ぶりに附火

がある

何時桜島の卜〈噴火があってもおかしくない� Dll 1司l

戸市岩を流出した程度の噴火でも大変であるが、

大正噴火ク�

1934)は「文明が

進めば進むほど、天然の暴威による災需がその激烈の皮を

ラスなら一大事である。寺田寅彦� (

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明す」

と喝破したが、

経済に決定的な訓告をうえるに違いない

京針らは、� 桜山大夜間火の制念碑∞∞カ所と宏、ぷ噴火� (1

77911782)の記念仰はカ所をけん必に必ね歩き、記

念昨の位附を特定して、山川

4

点制服を行い、仰・入を解説して

紺介するとともに、

適切な解説を行っている

現在川隊な噴火があれば、技が凶の

鹿児山側似所以

念仰を訪ね、

・山山内議助の行動を必み比べながら、

仰文を読まれることをお納めする

(一般財川法人砂防フロンティア悦陥推進機附

・井上公夫)

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[怠考文献]

}中央防災会泌�

} 1911刊内向帥酬引火�

24ぬ犯の以� 1927-

阪・川ト八化酬引火鉱」・�

叫ル削減� {1920}.火・止� 作段に於ける桜山川火山川の附引火状況般に

物政作物代的に関する問先以験則附�

岬�

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第五巻』山口波

学客員

鹿児品市内北部、鹿

数� j費�

It 防災� 1也質研

心什日叫念仰には

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』で、中1時の社会的勢と

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この本など

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れ火

備え

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桜島大正噴火後の二次災害 岩松陣� (本文52ページ� )

• 1914 (大正 3)年� 1月� 12日午前� 1011年過ぎ,綴必

では東西岡山!肢から前後して噴火が始まった。説?去

を伴いながら猛烈な黒煙を噴き上げて全島を礎い,

その高さは数千mにも迷したという。析からのil!i風

に乗って大量の軽石 ・火山灰は大隅半山方而に分厚

くJ佐積した。その結巣,土石流や泥流災宮が頻発し

たほか,l民業被害も拡大であった。

桜烏のマグマ供給源は姶l~カルデラであり,噴火に伴ってカルデラを中心に陥没した。地盤沈下に

百引村(現鹿屋市� )の麦畑に積もった火山灰�

(鹿児山県『段ぬ大正噴火誌� n1927年,口絵� )

よって鹿児ぬ湾奥部の沿岸付近では近世の千拓地や

庖聞が水没したほか,海岸の堤防も敵機された。�

1地盤沈下によって水没した姶良郡帖佐

村� (現姶良市� )の入浜湿田� (鹿児向� w売支川『鹿児向車In't支局要覧n1915 ~F,

口絵� )

ー桜島大正噴火による地盤の上下変動�

COmo ri. 1916の一部� .単位:� 1lID)