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特 集 ISSN 1349-6085 December 2018 12 1人1人が健康を 「自分ごと」に 人生の階段を元気に上る社会 

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特 集

未 来 を ひ ら く 科 学 技 術

ISSN 1349-6085

December2018121人1人が健康を

「自分ごと」に人生の階段を元気に上る社会 

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特集センター・オブ・イノベーション(COI)プログラム自分で守る健康社会拠点

超高齢社会を迎えた日本。老いも若きも健康で幸せな未来社会を作るにはどうすべきか。センター・オブ・イノベーション(COI)プログラムの東京大学「自分で守る健康社会拠点」が見据える未来社会像と、その実現に向けて開発が進められている健康状態の可視化技術や、健康への意識を高め、行動変容を促す取り組みを紹介する。

科 学 技 術 December2018

表紙解説

数字に見る科学と未来

NEWS & TOPICS

さきがける科学人

12

16

12

編 集 長:上野茂幸       科学技術振興機構(JST)広報課制   作:株式会社伝創社印刷・製本:株式会社丸井工文社

Sunitinib 治療

1人1人が健康を「自分ごと」に人生の階段を元気に上る社会

池浦 富久プロジェクトリーダー東京大学 COI 研究推進機構 機構長1976年 九州大学大学院工学研究科修士課程修了。同年 三菱化成工業(当時)入社。三菱ケミカルホールディングス執行役員、同顧問、三菱化学常務執行役員などを歴任。2013年より現職。

い け う ら と み ひ さ

鄭 雄一研究リーダー東京大学 大学院工学系研究科/医学系研究科 教授東京大学 COI 研究推進機構 副機構長

1989年 東京大学大学院医学系研究科修了。医学博士。米国マサチューセッツ総合病院内分泌科研究員、ハーバード大学医学部助教授、東京大学大学院工学系研究科教授などを経て、2016年より東京大学大学院医学系研究科教授(兼務)。13年より東京大学COI研究推進機構副機構長。

て い ゆ う い ち

1枚のチップに試験管10万本1分子解析で生命の謎に迫る

過去を育てて、未来をつくる滋賀県立大学 地域共生センター 助教上田 洋平

5種類の金属からナノ粒子を合成 ほか

特集

1人1人が健康を「自分ごと」に人生の階段を元気に上る社会

03入院を外来に、外来を家庭に、家庭で健康に04

痛みなく高精度な検診装置で乳がんを早期発見10

声でストレスを数値化スマホが「心の血圧計」に07

日本は総人口に占める65歳以上人口が27パーセントを超える超高齢社会を迎えた。少子化対策が劇的に進展しない限り、高齢者の割合は今後も増加を続け、2040年には35パーセントを超えるとの推計もある。老いも若きも健康で幸せな未来社会を作るにはどうすべきか。センター・オブ・イノベーション(COI)プログラムの東京大学「自分で守る健康社会拠点」では、健康に関する意識を高め、行動や習慣の見直しを促すことで、この問題の解決につなげようとしている。

12月号特集では、東京大学COI拠点が見据える未来社会像と、その実現に向けて開発が進められている健康状態の可視化技術や、健康への意識を高め、行動変容を促す取り組みを紹介する。

未 来 を ひ ら く

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54 JSTnews December 2018

センター・オブ・イノベーション(COI)プログラム自分で守る健康社会拠点

してもらうための技術開発に取り組んでいます」。健康診断を受けて、その数値に一喜一憂したことがある人は多いだろう。しかし、健診結果に異常値を示すものがあったとしても、1年に1度の健診だけでは常に自身の健康を意識して、生活習慣を改善することは容易ではない。そこで注目したのは、健康に見えて

も体に潜んでいる「病気になるリスク」だった。研究リーダーを務める、東京大学大学院工学系研究科/医学系研究科の鄭雄一教授は、病気のリスクを自分ごと化して捉えてもらうために東洋医学の思想などを踏まえて神奈川県が新たに定義した「未病」という考え方を取り入れている(図2)。

「従来の考え方では、心身の状態は健康と病気に二分され、健康であれば何かしようとは思いません。しかし、実際には健康と病気は明確に分けられるものではありません。そこで心身の状態を健康と病気とが連続的に変化する『未病』として捉えるのです。健康のように見えても実は病気側に傾いていることもあるわけですから、そのような病気のリスクを示すことが生活習慣の改善につながると考えています」。未病の考え方に立つと、健診結果に異常がない健康な人でも、病気のリスクが高まっている可能性がある。このようなリスクを捉え、わかりやすく提示することで、どこか他人ごとだった健診結果を病気のリスクとして自分ごと化できる。その結果、従来の生活習慣のままだと、病気になって入院してしまうところを、症状をより軽度に抑えて通院にとどめる、あるいは病院に行かずに済むくらいの症状にとどめて、家庭でできるヘルスケアで健康長寿を実現しようというのが東京大学COI拠点の狙いだ。年をとっても元気に活躍し、「人生の階段を元気に上る社会」が目標だと鄭さんは説明する。1人1人が病気のリスクを意識して生活し、病気に傾くことがあれば積極的に改善を目指す。未病の考え方に立ち、運動や認知機能の低下、病気の発症、重症化のそれぞれの段階で次への移行を未然に防げれば、健康増進のみではなく医療費や介護費などの軽減も期待できる。

リスク予測で求められる健診記録と診療記録の照合

一方で、健診結果から将来の病気のリスクを予測するモデルの開発には大き

な問題があると、池浦さんは指摘する。「定期的な健診記録と、将来どのような病気になったのかを示す病院の診療記録を照らし合わせて解析できれば、健康なうちに病気のリスクを把握するための基盤となる『リスク予測モデル』を開発できるはずです。しかし、健診記録は各地の健康保険組合が保存し、診療記録は病院が保存しています。しかも、個人が特定できる名寄せができていません」。この問題を国も承知していて、今年5月にはカルテなどの医療情報を匿名加工した上で大学や企業での医学研究に活用できるようにする「医療分野

の研究開発に資するための匿名加工医療情報に関する法律(次世代医療基盤法)」が施行された。将来的には両者を融合させてリスク予測モデルの開発に生かせる基盤ができる見込みだ。しかしデータの融合には時間がかかると考えられるため、まずは今ある健診データの解析から始めた。その大きな理由は、2008年から始まった特定保健指導の成果が出ていないと、企業の健康保険組合から耳にしたことだ。15万人分の健診データをもとにメタボリック症候群になるリスクを予測した結果、健診で正常範囲内だった人の中にも高い確率でメタボ疾患を発症する人が含まれることが示された(図3)。国によるデータの融合が進めば、さらに高精度な予測、他の疾患への応用も期待できるだろう。しかしリスク予測だけが大事なのではない。予測結果を知り、どういう行動変容につなげるかがより重要なため、行動変容の促進をテーマに掲げることとした。

健康を他人ごとでなく「自分ごと」に

超高齢社会にあっても一方的に若年層に頼るのではなく、高齢者も元気に活躍する社会を目指す、東京大学COI「自分で守る健康社会拠点」。その名が示す通り、自分の健康は自分で守る社会を構築するというビジョンの下、さまざまな研究開発に取り組んでいる(図1)。その意図について、池浦富久プロジェクトリーダーはこう説明する。「健康であることを願いつつも、普段は健康を意識することなく過ごし、病気になって初めて病院を受診する。こうした従来の考え方や行動では、年老いてもなお健康を維持し、現役でい

ることは難しいでしょう。そこで『入院を外来に、外来を家庭に、家庭で健康に』というテーマを掲げ、日々の生活の中で健康を意識し、生活習慣を改善

東京大学COI拠点が目指すべき社会として掲げるのは、自分の健康は自分で守り、高齢者も元気に活躍する社会だ。この実現に向け、通院や入院を減らすための革新的な疾患の予防、診断、治療システムや、家庭で健康増進に取り組むための健康・医療指導サービスの研究開発に取り組んでいる。東京大学COI拠点の池浦富久プロジェクトリーダーと鄭雄一研究リーダーに、健康を「自分ごと」にするための健康リスクの見える化と、予測の重要性について、話を聞いた。さらに、東京大学の岸暁子特任助教が中心となり開発中の、リスク予測を生活習慣改善につなげるための情報提示技術も紹介する。

工夫を凝らしたアプリで生活習慣を楽しく改善

リスク予測モデルの開発と同時に進めているのが、健康データを生活改善に活用する仕組み作りだ。東京大学大学院工学系研究科の岸暁子特任助教のグループでは、健診データを入力して病気のリスクを示すスマートフォンのアプリ「カラダ予想図」を開発し、これを活用した生活習慣の改善、行動変容促進の実証研究を開始している(図4)。岸さん自身、産業医として健康診断

に伴う面談指導を担当していたが、1年に1度の指導だけで、どれほどの効果が得られるか疑問を感じていたという。情報技術を活用すれば、1年を通じて健康のことを意識してもらえるシステムができるのではないか、との思いから研究に参加した。しかし、いくら個々人の健診記録に基づき、科学的な根拠のあるリスクが示されても、従来の健診結果と同じような数値を見せられるだけでは、生活習慣の改善という行動につなげ、継続することは難しい。岸さんらはカラダ予想図の開発に当たり、効果を高めるための工夫を凝らした(図5)。

病気のリスクを表示する場合に体の中でリスクが高い部位を目立たせるといった見やすさ、わかりやすさに加え、より自分ごと化するための機能も追加した。「利用者自身の顔画像を取り込み、今の生活習慣のままでは、将来、こんな顔に変わってしまいますよ……という予測を可視化しています。これだけでも、ただ数値を示すよりも、自分ごととして感じられると思いますが、さらにやる気を高めるためにアプリ上でメダルを授与するといった仕組みも取り入れています」。生活習慣の改善には継続が重要と

なる。今後は企業とも連携しながら、改善していく過程をゲーム化してモチベーションを高める仕組みや、SNSなどを通じて仲間との交流を促し、励まし合って継続する仕組みを盛り込む計画だ。さらに健診データだけでなく、日々の体の状態を把握できる腕時計型のウエアラブルセンサーの導入も検討している。健診データは1年に1度しか得られないが、睡眠時間、運動強度などの刻々と変化する体の状態の測定結果も取り込めれば、より高精度な個人

のリスク予測が可能になるはずだ。カラダ予想図の実証研究については、昨年度に小規模な試験を行った上で、今年度からより大規模な検証試験を進めている。参加者をランダムに2群に分け、一方には従来通りの指導を行い、もう一方にはカラダ予想図を継続利用してもらうことで、その効果を明らかにしようとしている。東京大学COI拠点が連携している神奈川県下の市町村での実証研究も予定されており、これらの結果も加味しながら実用化を進める計画だ。カラダ予想図の効果は、科学的な検証に基づいているため、広く普及すれば自分で守る健康社会を実現する重要なツールとなると期待される。東京大学COI拠点では、カラダ予想図の他にも、声から心の健康状態を計測する技術(p7)や痛くない乳がん用画像診断装置(p10)といった可視化技術の開発を進めるとともに、これらの基盤となる医療健康データの整備、疾患治療法の開発にも力を入れている。情報技術などを活用して健康を自分ごと化し、元気に暮らす明るい未来に向けて一歩が踏み出された。

入院を外来に、外来を家庭に、家庭で健康に

■図1 「入院を外来に、外来を家庭に、家庭で健康に」が東京大学COI拠点のキーワード。1人1人が健康を意識することで病気の発症や重症化を未然に防ぎ、多くの人が健康で元気に働ける社会を目指す。

将来ビジョン:自分で守る健康社会

“入院を外来に”

入通院半減・新健康医療産業創出 健康寿命延伸・国内総生産向上

“外来を家庭に” “家庭で健康に”

■図2 心身の状態は健康と病気に分けられるのではなく、連続したグラデーションで表現されると考えるのが「未病」の考え方だ。英語でも「ME-BYO」と表記され、世界的にも認知が拡大している。

健康従来の考え方

「未病」の考え方

病気

健康 病気未病(ME-BYO)

2015年時点での実際の罹患率全体のうち50%が低リスクに分類

低リスク

中リスク

高リスク

うち 5%が発症

全体のうち49%が中リスクに分類うち34%が発症

1%

49%

50%

全体のうち1%が高リスクに分類うち81%が発症

健康群を3層に分類

健診から3年後のメタボ罹患リスクをモデルで予測

■図3 2012年の健診でメタボリック症候群と診断されなかった15万219人を対象としてモデルを構築し、3年後のメタボ罹患リスクを予測した。健康診断でメタボリック症候群と診断されなくても、病気のリスクを抱える人が存在する。こうした人々にリスク予測を伝えることで、健康意識を高める効果が期待できる。

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自分ごと化による行動変容を促進

リスクの可視化↓

自らの気付きによる自発的な動機付け

従来型の栄養・運動に新しい要素(ストレス・睡眠)を追加

健康データ

AIなどIT技術

リスク算出

自覚 行動変容

健康社会

高リスク高リスク

リスクの可視化

■図5健康データや情報技術を活用し、リスクを可視化することによって、アプリユーザーに行動変容を起こしてもらうことが鍵になる。ゲーム性を取り入れるなど、モチベーションを高め、継続してもらう仕組みを検討している。

76 JSTnews December 2018

してもらうための技術開発に取り組んでいます」。健康診断を受けて、その数値に一喜一憂したことがある人は多いだろう。しかし、健診結果に異常値を示すものがあったとしても、1年に1度の健診だけでは常に自身の健康を意識して、生活習慣を改善することは容易ではない。そこで注目したのは、健康に見えて

も体に潜んでいる「病気になるリスク」だった。研究リーダーを務める、東京大学大学院工学系研究科/医学系研究科の鄭雄一教授は、病気のリスクを自分ごと化して捉えてもらうために東洋医学の思想などを踏まえて神奈川県が新たに定義した「未病」という考え方を取り入れている(図2)。

「従来の考え方では、心身の状態は健康と病気に二分され、健康であれば何かしようとは思いません。しかし、実際には健康と病気は明確に分けられるものではありません。そこで心身の状態を健康と病気とが連続的に変化する『未病』として捉えるのです。健康のように見えても実は病気側に傾いていることもあるわけですから、そのような病気のリスクを示すことが生活習慣の改善につながると考えています」。未病の考え方に立つと、健診結果に異常がない健康な人でも、病気のリスクが高まっている可能性がある。このようなリスクを捉え、わかりやすく提示することで、どこか他人ごとだった健診結果を病気のリスクとして自分ごと化できる。その結果、従来の生活習慣のままだと、病気になって入院してしまうところを、症状をより軽度に抑えて通院にとどめる、あるいは病院に行かずに済むくらいの症状にとどめて、家庭でできるヘルスケアで健康長寿を実現しようというのが東京大学COI拠点の狙いだ。年をとっても元気に活躍し、「人生の階段を元気に上る社会」が目標だと鄭さんは説明する。1人1人が病気のリスクを意識して生活し、病気に傾くことがあれば積極的に改善を目指す。未病の考え方に立ち、運動や認知機能の低下、病気の発症、重症化のそれぞれの段階で次への移行を未然に防げれば、健康増進のみではなく医療費や介護費などの軽減も期待できる。

リスク予測で求められる健診記録と診療記録の照合

一方で、健診結果から将来の病気のリスクを予測するモデルの開発には大き

な問題があると、池浦さんは指摘する。「定期的な健診記録と、将来どのような病気になったのかを示す病院の診療記録を照らし合わせて解析できれば、健康なうちに病気のリスクを把握するための基盤となる『リスク予測モデル』を開発できるはずです。しかし、健診記録は各地の健康保険組合が保存し、診療記録は病院が保存しています。しかも、個人が特定できる名寄せができていません」。この問題を国も承知していて、今年5月にはカルテなどの医療情報を匿名加工した上で大学や企業での医学研究に活用できるようにする「医療分野

の研究開発に資するための匿名加工医療情報に関する法律(次世代医療基盤法)」が施行された。将来的には両者を融合させてリスク予測モデルの開発に生かせる基盤ができる見込みだ。しかしデータの融合には時間がかかると考えられるため、まずは今ある健診データの解析から始めた。その大きな理由は、2008年から始まった特定保健指導の成果が出ていないと、企業の健康保険組合から耳にしたことだ。15万人分の健診データをもとにメタボリック症候群になるリスクを予測した結果、健診で正常範囲内だった人の中にも高い確率でメタボ疾患を発症する人が含まれることが示された(図3)。国によるデータの融合が進めば、さらに高精度な予測、他の疾患への応用も期待できるだろう。しかしリスク予測だけが大事なのではない。予測結果を知り、どういう行動変容につなげるかがより重要なため、行動変容の促進をテーマに掲げることとした。

健康を他人ごとでなく「自分ごと」に

超高齢社会にあっても一方的に若年層に頼るのではなく、高齢者も元気に活躍する社会を目指す、東京大学COI「自分で守る健康社会拠点」。その名が示す通り、自分の健康は自分で守る社会を構築するというビジョンの下、さまざまな研究開発に取り組んでいる(図1)。その意図について、池浦富久プロジェクトリーダーはこう説明する。「健康であることを願いつつも、普段は健康を意識することなく過ごし、病気になって初めて病院を受診する。こうした従来の考え方や行動では、年老いてもなお健康を維持し、現役でい

ることは難しいでしょう。そこで『入院を外来に、外来を家庭に、家庭で健康に』というテーマを掲げ、日々の生活の中で健康を意識し、生活習慣を改善

工夫を凝らしたアプリで生活習慣を楽しく改善

リスク予測モデルの開発と同時に進めているのが、健康データを生活改善に活用する仕組み作りだ。東京大学大学院工学系研究科の岸暁子特任助教のグループでは、健診データを入力して病気のリスクを示すスマートフォンのアプリ「カラダ予想図」を開発し、これを活用した生活習慣の改善、行動変容促進の実証研究を開始している(図4)。岸さん自身、産業医として健康診断

に伴う面談指導を担当していたが、1年に1度の指導だけで、どれほどの効果が得られるか疑問を感じていたという。情報技術を活用すれば、1年を通じて健康のことを意識してもらえるシステムができるのではないか、との思いから研究に参加した。しかし、いくら個々人の健診記録に基づき、科学的な根拠のあるリスクが示されても、従来の健診結果と同じような数値を見せられるだけでは、生活習慣の改善という行動につなげ、継続することは難しい。岸さんらはカラダ予想図の開発に当たり、効果を高めるための工夫を凝らした(図5)。

病気のリスクを表示する場合に体の中でリスクが高い部位を目立たせるといった見やすさ、わかりやすさに加え、より自分ごと化するための機能も追加した。「利用者自身の顔画像を取り込み、今の生活習慣のままでは、将来、こんな顔に変わってしまいますよ……という予測を可視化しています。これだけでも、ただ数値を示すよりも、自分ごととして感じられると思いますが、さらにやる気を高めるためにアプリ上でメダルを授与するといった仕組みも取り入れています」。生活習慣の改善には継続が重要と

なる。今後は企業とも連携しながら、改善していく過程をゲーム化してモチベーションを高める仕組みや、SNSなどを通じて仲間との交流を促し、励まし合って継続する仕組みを盛り込む計画だ。さらに健診データだけでなく、日々の体の状態を把握できる腕時計型のウエアラブルセンサーの導入も検討している。健診データは1年に1度しか得られないが、睡眠時間、運動強度などの刻々と変化する体の状態の測定結果も取り込めれば、より高精度な個人

のリスク予測が可能になるはずだ。カラダ予想図の実証研究については、昨年度に小規模な試験を行った上で、今年度からより大規模な検証試験を進めている。参加者をランダムに2群に分け、一方には従来通りの指導を行い、もう一方にはカラダ予想図を継続利用してもらうことで、その効果を明らかにしようとしている。東京大学COI拠点が連携している神奈川県下の市町村での実証研究も予定されており、これらの結果も加味しながら実用化を進める計画だ。カラダ予想図の効果は、科学的な検証に基づいているため、広く普及すれば自分で守る健康社会を実現する重要なツールとなると期待される。東京大学COI拠点では、カラダ予想

図の他にも、声から心の健康状態を計測する技術(p7)や痛くない乳がん用画像診断装置(p10)といった可視化技術の開発を進めるとともに、これらの基盤となる医療健康データの整備、疾患治療法の開発にも力を入れている。情報技術などを活用して健康を自分ごと化し、元気に暮らす明るい未来に向けて一歩が踏み出された。

岸 暁子東京大学 大学院工学系研究科 特任助教

2005年 札幌医科大学卒業。博士(医学)。武蔵野赤十字病院を経て、東京大学医学部附属病院糖尿病・代謝内科に入局。15年 東京大学医学部附属病院特任助教。18年より現職。

き し あ き こ

■図4

アプリの活用により、健康リスクや将来の姿を理解し、病気につながる不健康状態を改善してもらうことが狙い。

日常の音声の変化から不調の予兆を捉える

現代社会では、ストレスから来るうつ病の発症などメンタルヘルス問題が深刻化し、休職や離職による経済的損失を生み出している。本人に自覚がないことも多いが、悩みを抱えていても隠して、周囲に気付かれないまま症状が悪化することもある。およそ10年前、当時、防衛医科大学校で自衛隊員のストレスを研究していた東京大学の徳野慎一特任准教授は、ストレスや抑うつ状態を計測する

7

ための客観的な指標を探していた。「ストレスチェックは自己記入式アンケートが一般的ですが、実態と異なる回答や過小評価といった『報告バイアス』がかかり、答える側が操作できます。間違いなくストレスを抱えているのに、救えないのです」。医師である徳野さんは血液検査も検討したが、試薬などのコストがかかり、日々の変化をモニタリングできないために、断念した。そのような時、ある懇親会でたまた

ま隣り合わせたのが、東京大学の光吉俊二特任准教授だった。当時、人間の喜怒哀楽に伴って変化する声の周波

数で、コンピューターに感情を認識させることに成功していた。このプログラム開発の過程で、ストレスが蓄積して抑うつ状態になると感情表現が少なくなることに気付き、声でストレス状態やうつ病も判別できないかと考えていた。「血圧計やレントゲンのように心の健康を測定できる装置があれば、うつ病になる前に適切な治療を受けられるはず。それを実現するには医学的な知識が不可欠でした」。偶然の出会いから始まった2人の共同研究は、音声からストレス状態などを可視化する音声病態分析として、東京

大学COI拠点で発展を遂げた。そして誕生したのが、声だけで心の健康状態を知ることができるソフトウエア「MIMOSYS」だ(図1)。

手軽な計測アプリiPhone版も公開予定

家族や友人と話している時に、声の調子から「元気がない」と感じることがある。「『あれ?』と思う何かを数値化したかった」と徳野さん。そこで注目したのが、「声帯」だ。脳が受けたストレスは、副交感神経

を通って声帯に伝えられる(図2)。声色は随意に変えられるが、強い不安を感じて声が震えたり声が上ずったりするのは、自分の意志ではコントロールできない「不随意反応」だ。つまり、声帯は「嘘」がつけない。MIMOSYSは、声帯の不随意反応による声の周波数の変動パターンから、声に含まれる「喜び」「悲しみ」「怒り」「平穏」の4つの感情と「興奮」の度合いを数値化するので、本人の自覚や建前に関係なく、心の状態を計測できる。アンドロイド版アプリとして公開され、精度検証の研究にデータを提供することを条件に、誰でも無料で使える。データは東京大学のサーバーで完全に匿名化されるので、個人は特定されない。公開から2年間で、約4500人が

ダウンロードした。うち約1000人は継続的な利用者だという。2019年にはiPhone版も公開予定で、より多くの人が使える環境を整えていく。

元気圧の高低を記録ストレスを自己管理

使い方は簡単だ。アプリをダウンロードしたスマートフォンで通話したり、自分の声を録音したりするだけで、心の状態が「元気圧」と「心の活量値」で表示される。分析には6発話以上(約20秒程度)が必要で、自然発話や定型文の読み上げなど、その内容は問わない。「元気圧」は、計測時点の心の元気さを推定したもので、光吉さんが血圧を真似て名付けた。一方、「活量値」は長期的な心の元気さを数値化したものだ。「活量値」は「元気圧」の2週間の平均とばらつきから計算される。元気な時は元気圧が高かったり低かったりするが、抑うつ状態が進むに従って元気圧は低くなっていく。そのため時系列で見て下降傾向であれば、心の元気が失われつつある状態とわかる。深刻化すると感情表現が乏しくなり、元気圧が上下することも

少なくなる(図3)。通常の数値と比較することで、体調変化の兆候を逃さずに捉える仕組みだ。元気圧は一日の時間帯、話す相手や内容によっても変わる。「元気圧の高い低いに一喜一憂せず、自身の傾向を把握することが大切」と徳野さんは説明する。「普段から体重計に乗っていると体重の増減を意識するように、日頃から心の健康状態を把握していれば、不調に早めに気付いて悪化を防げます」と光吉さんは言う。「家庭で記録したMIMOSYSの解析データを医師の診断や治療に役立て、入通院の減少に貢献できないか」と期待も寄せている。MIMOSYSの開発段階で、東日本大震災の被災地に派遣された自衛官の声で検証を行った。アンケートでは「ストレスをあまり感じていない」と回答した被験者の中から、実際は強い抑うつ状態である者を音声解析によって検出でき、「報告バイアス」を克服する可能性が示唆された。この結果は医師の診断とも一致した。また、MIMOSYS完成後の精度検証のため、自衛隊のレンジャー訓練でストレスを測定したところ、訓練前より訓練中にストレスが上がって、訓練後は下がり、従来の測定手法である自記式アンケートおよび血液バイオマーカーと同じ結果が得られた(図4)。

メンタルヘルス対策に日本発の「破壊的技術」

2015年の改正労働安全衛生法の施行に伴い、従業員数50人以上の企業は年1回、従業員にストレスチェックを実施することが義務付けられた。メンタルヘルス対策として企業への導入を想定して、日立システムズはMIMOSYSの技術を使ったクラウドサービス「音声こころ分析サービス」の提供を開始している。「海外でも高い評価を受けています」と光吉さんは自負する。脳の信号に基づく声の周波数を分析するため、声の高低や性別、年齢といった個人差の影響は受けず、言語にも依存しないで病態を把握できるからだ。2018年5月の世界保健機関(WHO)総会では、世界

の代表団を前にデモンストレーションを実施し、好感触を得た。また、2018年、米国電気電子学会(IEEE)は、公式ブログでMIMOSYSを「(常識を覆す)破壊的技術」と評した。海外での展開をにらみ、英語、ドイツ語、ルーマニア語、ハンガリー語、スペイン語、ロシア語での検証を進めている。

医療分野への応用に期待健康社会実現の切り札に

「MIMOSYSは疾患の兆候も検出しているようです」と徳野さん。さまざまな疾患の判別に応用することを目指している。きっかけは、アプリ利用者からのフィードバックだった。「急に元気圧が下がったと思ったら、翌日に40度の熱が出た」、「心の活量値が下がってしば

らくして、脳梗塞で入院した」̶ ̶。「交感神経と副交感神経のバランスが崩れる疾患に応用できる可能性があります。感情を介さずとも、声から疾患を直接判断できる仕組みを開発中です」。最も期待が高いのが、大うつ病性障害と双極性障害の判別である。大うつ病性障害はうつ状態だけが続き、双極性障害はそう状態とうつ状態を繰り返す。うつ状態がある点は共通しているが、治療薬が全く異なる。初期症状が似ている高齢者うつ病、パーキンソン病、認知症の判別にも取り組んでいる。パーキンソン病は吃音や声の震えに特徴があることから、特徴を抽出してプログラム化すれば診断に応用できるかもしれない。光吉さんは「声帯は脳や心臓と神経で直結しているため、心疾患や認知症の兆候も顕著に現れるのではないか」と見込んでおり、「医師の診断支援ツールを開発して実用化したい」と意気込む。音声によるストレス状態や病態の判別は、「あらゆるモノがインターネットを通じてつながるIoT時代にふさわしいセルフヘルスケアの手段」と徳野さんは期待する。AIスピーカーやスマート家電など音声入力システムが当たり前の社会になれば、より自然な状態で音声データを取得できるからだ。MIMOSYSの音声認識技術が、誰もが手軽に自分の健康を管理できる「健康社会」の実現に向けた切り札の1つとなりそうだ。

声でストレスを数値化スマホが「心の血圧計」に

徳野 慎一東京大学 大学院医学系研究科特任准教授

1988年 防衛医科大学校卒業。医学博士。自衛隊中央病院、陸上自衛隊師団医務官、防衛医科大学校准教授、陸上自衛隊衛生学校主任教官などを経て、14年より現職。

と く の し ん い ち

光吉 俊二東京大学 大学院工学系研究科特任准教授

2006年 徳島大学大学院工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)。慶應義塾大学主席研究員、東京大学大学院医学系研究科特任講師などを経て、17年より現職。

みつよし し ゅ ん じ

スマートフォンで話すだけで、心の健康状態を計測できるアプリ「MIMOSYS(ミモシス)」が東京大学 COI 拠点から生まれた。声の調子と体調の変化との関係に着目し、東京大学の徳野慎一特任准教授と光吉俊二特任准教授らが開発した技術だ。自覚しにくいストレスやうつ病など心の不調に気づくきっかけになると、国内外から大きな期待がかかる。

センター・オブ・イノベーション(COI)プログラム自分で守る健康社会拠点

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日常の音声の変化から不調の予兆を捉える

現代社会では、ストレスから来るうつ病の発症などメンタルヘルス問題が深刻化し、休職や離職による経済的損失を生み出している。本人に自覚がないことも多いが、悩みを抱えていても隠して、周囲に気付かれないまま症状が悪化することもある。

およそ10年前、当時、防衛医科大学校で自衛隊員のストレスを研究していた東京大学の徳野慎一特任准教授は、ストレスや抑うつ状態を計測する

ための客観的な指標を探していた。「ストレスチェックは自己記入式アン

ケートが一般的ですが、実態と異なる回答や過小評価といった『報告バイアス』がかかり、答える側が操作できます。間違いなくストレスを抱えているのに、救えないのです」。医師である徳野さんは血液検査も検討したが、試薬などのコストがかかり、日々の変化をモニタリングできないために、断念した。

そのような時、ある懇親会でたまたま隣り合わせたのが、東京大学の光吉俊二特任准教授だった。当時、人間の喜怒哀楽に伴って変化する声の周波

数で、コンピューターに感情を認識させることに成功していた。このプログラム開発の過程で、ストレスが蓄積して抑うつ状態になると感情表現が少なくなることに気付き、声でストレス状態やうつ病も判別できないかと考えていた。「血圧計やレントゲンのように心の健康を測定できる装置があれば、うつ病になる前に適切な治療を受けられるはず。それを実現するには医学的な知識が不可欠でした」。

偶然の出会いから始まった2人の共同研究は、音声からストレス状態などを可視化する音声病態分析として、東京

■図3 MIMOSYSの精度を検証したところ、活量値は、うつ病で通院している患者で低く、病院にかからず日常生活を送っている健常者で高くなった。

■図2 人間の喜怒哀楽の感情は、大脳から副交感神経系を経て、心臓や声帯につながって生じる。自分ではコントロールできない不随意反応として声帯が変化する。脳がストレスや緊張を感じると、声帯は固くなり、周波数が高くなる。リラックスした状態では声帯は緩み、周波数は低くなる。

■図4 自衛隊のレンジャー訓練で、「訓練前」「訓練中」「訓練後」において、「自記式アンケート」「血液バイオマーカー」「音声解析(MIMOSYS)」でストレスを測定し、比較した。それぞれ訓練前より訓練中にストレスが上がり、訓練後は下がった。全ての手法で同じ傾向が見られた。

9JSTnews December 20188

大学COI拠点で発展を遂げた。そして誕生したのが、声だけで心の健康状態を 知 ることが で きるソフトウエ ア

「MIMOSYS」だ(図1)。

手軽な計測アプリiPhone版も公開予定

家族や友人と話している時に、声の調子から「元気がない」と感じることがある。「『あれ?』と思う何かを数値化したかった」と徳野さん。そこで注目したのが、「声帯」だ。

脳が受けたストレスは、副交感神経を通って声帯に伝えられる(図2)。声色は随意に変えられるが、強い不安を感じて声が震えたり声が上ずったりするのは、自分の意志ではコントロールできない「不随意反応」だ。つまり、声帯は「嘘」がつけない。MIMOSYSは、声帯の不随意反応による声の周波数の変動パターンから、声に含まれる

「喜び」「悲しみ」「怒り」「平穏」の4つの感情と「興奮」の度合いを数値化するので、本人の自覚や建前に関係なく、心の状態を計測できる。

アンドロイド版アプリとして公開され、精度検証の研究にデータを提供することを条件に、誰でも無料で使える。データは東京大学のサーバーで完全に匿名化されるので、個人は特定されない。公開から2年間で、約4500人が

ダウンロードした。うち約1000人は継続的な利用者だという。2019年にはiPhone版も公開予定で、より多くの人が使える環境を整えていく。

元気圧の高低を記録ストレスを自己管理

使い方は簡単だ。アプリをダウンロードしたスマートフォンで通話したり、自分の声を録音したりするだけで、心の状態が「元気圧」と「心の活量値」で表示される。分析には6発話以上(約20秒程度)が必要で、自然発話や定型文の読み上げなど、その内容は問わない。「元気圧」は、計測時点の

心の元気さを推定したもので、光吉さんが血圧を真似て名付けた。一方、「活量値」は長期的な心の元気さを数値化したものだ。「活量値」は

「元気圧」の2週間の平均とばらつきから計算される。元気な時は元気圧が高かったり低かったりするが、抑うつ状態が進むに従って元気圧は低くなっていく。そのため時系列で見て下降傾向であれば、心の元気が失われつつある状態とわかる。深刻化すると感情表現が乏しくなり、元気圧が上下することも

少なくなる(図3)。通常の数値と比較することで、体調変化の兆候を逃さずに捉える仕組みだ。

元気圧は一日の時間帯、話す相手や内容によっても変わる。「元気圧の高い低いに一喜一憂せず、自身の傾向を把握することが大切」と徳野さんは説明する。「普段から体重計に乗っていると体重の増減を意識するように、日頃から心の健康状態を把握していれば、不調に早めに気付いて悪化を防げます」と光吉さんは言う。「家庭で記録したMIMOSYSの解析データを医師の診断や治療に役立て、入通院の減少に貢献できないか」と期待も寄せている。

MIMOSYSの開発段階で、東日本大震災の被災地に派遣された自衛官の声で検証を行った。アンケートでは「ストレスをあまり感じていない」と回答した被験者の中から、実際は強い抑うつ状態である者を音声解析によって検出でき、「報告バイアス」を克服する可能性が示唆された。この結果は医師の診断とも一致した。また、MIMOSYS完成後の精度検証のため、自衛隊のレンジャー訓練でストレスを測定したところ、訓練前より訓練中にストレスが上がって、訓練後は下がり、従来の測定手法である自記式アンケートおよび血液バイオマーカーと同じ結果が得られた(図4)。

メンタルヘルス対策に日本発の「破壊的技術」

2015年の改正労働安全衛生法の施行に伴い、従業員数50人以上の企業は年1回、従業員にストレスチェックを実施することが義務付けられた。メンタルヘルス対策として企業への導入 を 想 定して 、日 立 システムズ はMIMOSYSの技術を使ったクラウドサービス「音声こころ分析サービス」の提供を開始している。「海外でも高い評価を受けています」

と光吉さんは自負する。脳の信号に基づく声の周波数を分析するため、声の高低や性別、年齢といった個人差の影響は受けず、言語にも依存しないで病態を把握できるからだ。2018年5月の世界保健機関(WHO)総会では、世界

の代表団を前にデモンストレーションを実施し、好感触を得た。また、2018年、米国電気電子学会(IEEE)は、公式ブログでMIMOSYSを「(常識を覆す)破壊的技術」と評した。海外での展開をにらみ、英語、ドイツ語、ルーマニア語、ハンガリー語、スペイン語、ロシア語での検証を進めている。

医療分野への応用に期待健康社会実現の切り札に

「MIMOSYSは疾患の兆候も検出しているようです」と徳野さん。さまざまな疾患の判別に応用することを目指している。きっかけは、アプリ利用者からのフィードバックだった。「急に元気圧が下がったと思ったら、翌日に40度の熱が出た」、「心の活量値が下がってしば

らくして、脳梗塞で入院した」̶ ̶。「交感神経と副交感神経のバランスが崩れる疾患に応用できる可能性があります。感情を介さずとも、声から疾患を直接判断できる仕組みを開発中です」。

最も期待が高いのが、大うつ病性障害と双極性障害の判別である。大うつ病性障害はうつ状態だけが続き、双極性障害はそう状態とうつ状態を繰り返す。うつ状態がある点は共通しているが、治療薬が全く異なる。初期症状が似ている高齢者うつ病、パーキンソン病、認知症の判別にも取り組んでいる。パーキンソン病は吃音や声の震えに特徴があることから、特徴を抽出してプログラム化すれば診断に応用できるかもしれない。光吉さんは「声帯は脳や心臓と神経で直結しているため、心疾患や認知症の兆候も顕著に現れるのではないか」と見込んでおり、

「医師の診断支援ツールを開発して実用化したい」と意気込む。

音声によるストレス状態や病態の判別は、「あらゆるモノがインターネットを通じてつながるIoT時代にふさわしいセルフヘルスケアの手段」と徳野さんは期待する。AIスピーカーやスマート家電など音声入力システムが当たり前の社会になれば、より自然な状態で音 声 デ ー タを 取 得 できるからだ 。MIMOSYSの音声認識技術が、誰もが手軽に自分の健康を管理できる「健康社会」の実現に向けた切り札の1つとなりそうだ。

センター・オブ・イノベーション(COI)プログラム自分で守る健康社会拠点

元気圧計測時点での心の元気さ

2週間の心の元気さの傾向

(参考値)計算に用いた感情

活量値

感情

■図1 元気圧は「LOW(低い)」「NORMAL(普通)」「HIGH(高い)」の3段階で表示され、自分の心の状態が一目でわかる。重要なのは心の元気さの推移を見ることである。活量値が上下せず、一定の値を保った状態が望ましい。

S T R E S S

声帯

心臓

迷走神経(反走神経)

大脳辺縁系

視床下部随意反応言葉を話す

不随意反応声が裏返る

心臓がドキドキする

活量値

0

0.25

0.5

0.75

1

被験者ID0 8 15 23 30

うつ患者健常

元気圧

0

0.25

0.5

0.75

1

被験者ID0 8 15 23 30

うつ患者健常

自記式アンケート(GHQ30)

訓練前 訓練中 訓練後 訓練前 訓練中 訓練後訓練前 訓練中 訓練後

30

25

20

15

5

10

0音声解析(元気圧:MIMOSYS)

0.9

0.7

0.8

0.6

0.4

0.5

0.1

0.2

0.3

0血液バイオマーカー(BDNF)

20000

16000

18000

14000

8000

10000

12000

2000

4000

6000

0

点数が高いほどストレス傾向 点数が低いほどストレス傾向 点数が低いほどストレス傾向

ESMSJ(Econophysics, Sociophysics & other Multidisciplinary Sciences Journal) 7 (1), 7-12; 2017に基づき作成

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乳がんの半数は自己発見検診をもっと身近に

日本人女性の11人に1人が罹患する乳がん。罹患者数と死亡者数は年々増加し、2018年には罹患者数が約8万7千人、死亡者数は約1万5千人に達すると予測される。「乳がんは早期に発見して治療を始めれば、約90パーセントの生 存率で助かる病 気です」と、L i l y MedTech(東京都文京区)の東志保代表取締役は語る。「それにもかかわらず、国内の検診率は約40パーセントと、諸外国に比べて低水準にとどまっていま

11

す」と、乳がんの半数以上が自己検診により発見される現状を憂いている。

最も標準的な乳がん検診は、乳房用X線診断装置(マンモグラフィー)だ。触っただけでは気付かない小さな石灰化の段階でがんを発見できる。しかし放射線による被ばくリスクのため40歳未満には推奨されず、また乳房圧迫による痛みを伴うので敬遠されがちだ。

マンモグラフィーで乳がんの判別が難しいのが、脂肪に対して乳腺の量が多い高濃度乳房である。乳腺とがんのX線吸収の度合いが同程度であるため、両方とも白く写ってしまい、診断精度が下

がる。「真っ白な雪原の中にいる白ウサギを見つけるようなもの」と東さんは例える。

このマンモグラフィーの弱点を補うのが、従来の超音波診断装置(エコー検査)である。乳房から跳ね返ってきた超音波を画像化して診断する。超音波なら乳腺は白く、がんは黒く写るので、高濃度乳房でもがんを見つけやすい。ただし、エコー検査にも課題が残る。マンモグラフィーに比べて技師数が圧倒的に少ない上、検査しながら判別するため高度なスキルが求められる。定期検診で同じ部分を同じ角度で経時観察するためには、高い再現性も必要だ。

リング型で超音波を送受信機械学習による自動診断支援も

これまでの乳がん検診の課題を克服するのが、Lily MedTechが開発している乳がん用画像診断装置「リングエコー」だ(図1)。穴の開いたベッドに受診者が横たわり、体温程度のお湯を満たした検査容器に乳房を片方ずつ入れて検査する。前開きの服でうつぶせになるので、乳房は誰の目にも触れない。ベッドの下で、リング型の超音波振動子(超音波を送受信する部分)が乳房を取り囲み、上下に移動しながら撮像する仕組みだ(図2)。

リング型であることが鍵で、乳房を下垂させた状態で360度の方向から超音波を照射し、音波の反射も360度の方向から取得できるので、乳房全体の3次元画像を高精度に撮れる(図3)。超音波を使うため被ばくせず、振動子は身体に触れないので痛みもない。習熟した技師の能力に頼らずとも再現性の高い画像が

得られ、がんの見落としを防ぐなど診断精度の向上が期待される。がんが小さいうちに発見して治療すれば、入通院や抗がん剤使用量を減らすことができる。

リングエコーには、機械学習による自動診断支援機能も搭載される予定だ。

「従来のエコー検査は、その場でがんが疑われる箇所を見つけ、複数の画像を撮影する必要があるので時間がかかります。リングエコーはいったん全体を撮像し、その膨大な画像をAIが選別して、臨床医や技師にがんの疑いを知らせます。検診率が上がると読影する画像数も増えますが、その負担を大幅に軽減することができます」。その他にも診断を補助する機能を追加し、高性能化を図っている。

母親世代を救いたい熱い思いが起業の原動力

起業のきっかけは、東京大学COI拠点で医療用超音波技術を研究する東京大学の東隆教授から、実用化を相談されたことだった。かつてメーカーの研究所で医用超音波の研究に携わった経験があり、東教授とはそこで出会った。骨や空気で反射する超音波で検査するなら、乳房のような柔らかい部位が適しているのではないか。調べるうちに、従来の

乳がん検診が抱える数々の課題が浮き彫りになった。COIの技術を使えば解決できると確信し、2016年に起業した。臨床経験や企業経営の経験はなかったが、並々ならぬ情熱を持っていた。「私が高校生の時、母親が悪性度の高

い脳腫瘍になり、1年半の闘病の後に46歳で亡くなりました。若い母親世代が重い病気にかかることが、どれほど深刻な影響を家族に与えるかを痛感しました。私のような思いをする人を減らしたいと、起業を決意しました」。

多くのがんは加齢とともに罹患率が高くなるのに対して、日本や東アジアでは乳がん罹患年齢のピークが40代と比較的若い。乳がんは40代女性のがん死亡原因の1位になっている。「女性にとって、30~50代は仕事に恋愛、結婚や出産、育児と非常に選択肢の多い年代です。その選択肢を減らさずに、病気になる前と同じ生活をできるように貢献したいと、日々開発を進めています」。

臨床試験を積み重ね2020年の販売を目指す

これまでに東京大学医学部附属病院とつくば国際ブレストクリニックの協力を得て、マンモグラフィーやエコー検査で良性・悪性の診断を受けた約30人に

対し、試作機の臨床試験を実施してきた。従来の診断手法と比較して、がんをきちんと捉えられているか、がん以外のものはどうか、受診者の体型によって画像の写りに違いはあるかを細かく検証した。医療現場で確実に役に立つように、試験結果を基に試作機を改良し、2019年に再び臨床試験を行う。

2018年3月には、JSTの出資型新事業創出支援プログラム(SUCCESS)やベンチャーキャピタルなどから総額約3億5000万円の出資を受けた。リングエコーは、頻繁に検査を受けなければならない人や乳房を再建した人など、マンモグラフィーやエコー検査で救えないケースも対象となる。社会貢献の意義が非常に高く、乳がん検診を変える革新的な装置として注目を集めている。

目標は、国内のみならず、世界のマンモグラフィーをリングエコーに置き替えていくこと。そして、乳がん検診率を高めて、あらゆる世代の女性を乳がんから救うことだ。まずは医療機器としての承認を得て、2020年の販売開始を目指す。

「乳がんと闘う」、この言葉のない世界を実現するため、東さんは挑み続ける。

センター・オブ・イノベーション(COI)プログラム自分で守る健康社会拠点

出資型新事業創出支援プログラム SUCCESSLily MedTech

JSTnews December 201810

■図2リング型超音波振動子。従来のエコー検査では、送信素子から放射された超音波が伝搬に伴って水面の波紋のように広がり、さらに干渉(複数の波の重ね合わせによって新しい波形ができること)が起きるため、画像の解像度と疾患部の視認性の低下が課題だった。8つの超音波振動子を組み合わせてリングを構成し、被写体を完全に取り囲むことで全ての超音波の取得が可能となり、高解像度撮像と疾患部の高い視認性の実現に成功した。

■図3がん患者の乳房3次元画像。高濃度乳房内の15ミリメートルのがん(赤点線内)の撮像に成功した。

移動

超音波振動子

痛みなく高精度な検診装置で乳がんを早期発見乳がん検診の受診率を高め、早期の発見と治療に貢献したい。熱い情熱と使命感を抱き、東志保代表取締役が立ち上げたベンチャー企業がLily MedTech(リリーメドテック)だ。東京大学COI拠点で培われた医療用超音波技術を用いて、乳がん用画像診断装置「リングエコー」を開発している。痛みや被ばくを伴わないだけでなく、高精度な撮像も実現した。1人でも多くの女性を乳がんから救いたいと、事業化に向けて改良を重ねている。

東 志保Lily MedTech 代表取締役

2012年 総合研究大学院大学博士課程中退。06年 日立製作所中央研究所ライフサイエンスセンターで医療用超音波の研究に従事。16年5月 Lily MedTechを設立し、代表取締役に就任。

あ ず ま し ほ

■図1 リングエコーの製品イメージ(左)。受診者がうつぶせになり、穴に乳房を入れるとリング型の超音波振動子が上下に動き、自動的に3次元で撮像する。乳房の形状を変えず自然な状態なので、再現性の高い画像を撮れる。

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Vol.4

0 134 6789

6数字に見る科学と未来

12 13JSTnews December 2018

戦略的創造研究推進事業さきがけネットワーク1分子機能カウンティングから紐解く高次生命科学

100,0005

マイクロチップを製造するクリーンルーム。試験管内のプラズマ処理までをここで行う。

1枚のチップに試験管10万本1分子解析で生命の謎に迫る

たんぱく質の機能解明には微細な試験管の集積が必要

生命活動の謎を解明し、病気の治療や創薬に役立てるためには、生体内でのたんぱく質の役割を理解することが重要だ。例えば、今年のノーベル生理学・医学賞の受賞が決まった免疫機構に関わるたんぱく質の発見と機能解明は、新しいがん治療法の開発につながっている。酵素などたんぱく質の機能を調べ

る際には「活性」を評価する。たんぱく質溶液とそれに反応する物質(基質)を試験管に入れ、反応生成物を検出する方法がよく用いられるが、基質の濃度を変えながら測定することで、反応速度も調べられる。試験管(ウェル)の数が多いほど同じ条件で得られるデータは多くなり、より精密なデータを少ない労力で得ることができる。一般的に96個のウェルが設けられたマイクロプレートを使用することが多いが、渡邉力也さんは小さなチップ上にさらに多数の試験管を作り込むことを考えた。その目的をこう説明する。「従来の実験では、たんぱく質は全て均一で活性も等しいという仮定に基づき分子の集団を対象としていましたが、それでは集団の平均値しか得られません。機能の正しい理解には1分子ごとの活性を計測する必要があります。1分子の計測では、1本の試験管にたんぱく質分子1つを閉じ込める必要

があるため、微細な試験管が大量に必要になるのです」。開発された24×32ミリメートル角のマイクロチップには、直径4マイクロメートル、深さ500ナノメートルの微小な試験管が10万本並ぶ(図1)。チップにたんぱく質溶液を流し込んだ時、たんぱく質が1分子だけ入る試験管は1000本に1本程度と非常に少ない。どの試験管にたんぱく質が入り、どのような活性があるのかは統計的に処理するため、必要な計測結果を集

めるには多数の微小試験管が不可欠なのだ。試験管の微細化は、活性測定の高感度化にも一役買っていると渡邉さんは言う。「1分子のたんぱく質が基質と反応して得られる生成物はごく微量です。試験管の容積が小さければ、反応生成物の濃度変化は大きくなるので、濃度変化に応答する蛍光試薬を使い蛍光強度の変化を捉えることで、生体反応を高感度、定量的に計測可能です」。

渡邉 力也理化学研究所 開拓研究本部 主任研究員

2009年 大阪大学大学院工学研究科博士課程修了。博士(工学)。同年 大阪大学産業科学研究所博士研究員、11年 東京大学大学院工学系研究科助教、16年 同講師を経て、18年より現職。13~17年 さきがけ研究者。17~19年 さきがけネットワーク研究代表者。指先でつまんでいるのがマイクロチップ。

わたなべ りきや

半導体の加工技術を活用し生体を模した膜形成も可能に

微小試験管の作り込みには、半導体の微細加工技術を活用した。しかし、基板に疎水性のフッ素樹脂を用いたこと、容積が数フェムト(1000兆分の1)リットルと小さいことから表面張力が働き、たんぱく質水溶液が入りにくいという問題が生じた。この解決にも微細加工技術が一役買った。「底面、側面をプラズマで表面処理することで、微小試験管の内部を親水性に変えることができ、表面張力が弱まることで水溶液が試験管内に入りやすくなりました。一方で、微小試験管の入り口部分は疎水性のままです。このため、脂質を含む有機溶媒(クロロホルム)を滴下し、さらに再度水を流すという2工程で細胞膜と同じ脂質二重膜を効率的に形成できます。従来の方法とは違い、膜たんぱく質を埋め込みやすくなり、より生体に近い条件を作れます」。試験管の上に脂質二重膜のふたを形成することにより、物質の輸送など重要な役割を果たす膜たんぱく質を埋め込んだ実験も可能となった(図2)。これにより1分子の膜たんぱく質がどのように振る舞うのかが解明できれば、創薬などへの貢献も期待される。

実験効率の向上を濃度勾配の利用で達成

マイクロチップの開発によって、生体に近い条件での1分子機能計測の道が開かれた。しかし、実際に使用するためには、実験効率のさらなる向上が必要だ。たんぱく質の活性は基質の濃度に依存するため、複数の濃度条件で測定するが、従来のマイクロチップでは1枚で1条件の測定しかできず、濃度ごとにマイクロチップを用意しなければならなかった。渡邉さんは、この問題に取り組んだ。

生物の体内には、さまざまな役割を担う多彩な生体分子が存在する。生命現象の解明は、これらの分子1個の機能や物性の計測が重要となる。1分子計測に不可欠なマイクロチップの開発に挑むのが、理化学研究所の渡邉力也主任研究員だ。

「流体の考え方を利用し、濃度勾配を作ることを考えたのです。たんぱく質と基質を含む水溶液で流路を満たした後に流路入り口から希釈液を一定の流速で流し込むと、流れの方向に沿って濃度勾配が作られます。川の流れにインクを流すと徐々に色が薄くなっていくイメージですが、ここでは希釈液を流し込むので流路入り口から遠ざかるほど基質の濃度が濃くなります」。流体シミュレーションでどのような勾配ができるかも検証しており、希釈液の容量、流速を制御することで濃度を定量的に変化させることも可能だ(図3)。1種類の希釈液を数秒間導入するだけと操作も簡便で、計測準備にかかる時間も短縮できる。新薬の原料候補として数百種類ものたんぱく質を調べる創薬分野などでは、実験効率の向上が強く求められていた。渡邉さんが開発したチップと濃度勾配形成手法は、この部分に大きく貢献し得る技術だ。現在は一方向の濃度勾配しか作れないが、今後は電気や磁力などを利用し、さらにさまざまな条件を1枚のチップで実現できないかを検討している。

新技術の実用化を目指す普及に向けより使いやすく

開発した技術の実用化に向けた研究も、進行中だ。「実際に活用してもらうには、測定できるたんぱく質の種類を増やす必要があります。また、マイクロチップの製造コストの低減や、データ解析技術の向上も重要です。実際にチップを利用する研究者の声も聞きながら改良を加え、より使いやすい技術として普及させることで、たんぱく質間の生体内での連携など、生体分子の機能解明に役立てられればと考えています」。今後、マイクロチップが実用化され

たんぱく質1分子の効率よい解析が可能になれば、生命現象の解明に加え、新薬の開発、病気の早期発見などでの活用も期待される。技術の確立を目指して、今後も精力的な研究は続いていく。

マイクロチップ上での標的物質の濃度勾配の形成。流路入り口から距離が離れるほど酵素と反応する物質(基質)の濃度が濃くなり、活性(蛍光の強さ)が強くなる。1枚のチップで試験管内の酵素の有無、基質濃度、蛍光強度の増加速度を解析し、1分子の活性を簡便に計測できる。

■図3物質の輸送に関わる膜たんぱく質を脂質二重膜に埋め込むことで、細胞内外への物質の輸送を1分子単位で検出できる。毎秒2個程度の分子の輸送も定量的に検出できるほど感度が高い。

■図2 

蛍光性pH指示薬

厚さ500ナノメートルのフッ素樹脂膜に、直径4マイクロメートルの微小試験管10万本を成形したマイクロチップ。チップ上に設置した幅2ミリメートル、高さ0.3ミリメートルの流路にたんぱく質水溶液を滴下する。流路入り口から8.1ミリメートルまで試験管が並ぶ。

■図1  

フッ素樹脂

微小試験管

流路入口 8.1ミリメートル

2ミリメートル

500ナノメートル

直径4マイクロメートル

10マイクロメートル10マイクロメートル

基質濃度低い 基質濃度高い

たんぱく質なし たんぱく質あり

低 高基質濃度

たんぱく質なし たんぱく質あり

1.8 2.7 3.6 4.5 5.4 6.3 7.2 8.1流路入口からの距離(ミリメートル)

膜たんぱく質 脂質二重膜

蛍光性標的分子

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14 15JSTnews December 2018

5種類の金属からナノ粒子を合成

さまざまな金属元素を自在に混ぜ合わせることができれば、高機能材料の開発や新物質の発見につながります。しかし、金属の種類が多いと、物質中で異なる金属同士が分離してしまうため、これまでは最大で3種類までしか均一に混ぜ合わせることができませんでした。

東京工業大学科学技術創成研究院の塚本孝政特任助教と山元公寿教授らは、極微小な物質(ナノ粒子)中に多種の金属元素をさまざまな比率や組み合わせで配合できる「アトムハイブリッド法」を開発し、5種類あるいは6種類の金属を配合した多元合金ナノ粒子の合成に成功しました。

アトムハイブリッド法とはデンドリマーと呼ばれる樹状の高分子を鋳型として

利用する合成法です。デンドリマー構造中に多種多様な金属イオンを取り込み、その金属イオンを化学的に還元することで多元合金ナノ粒子を合成します。この手法により、粒子のサイズや合金の混合比率を精密に制御して合金ナノ粒子を合成することができます。

植物の開花を誘導する「フロリゲン」と呼ばれる分子は微量でも効果を発揮するので、「花咲かホルモン」という異名があります。この分子をつくる遺伝子は、実験室内での研究を通じて夕方に最も働くと考えられてきました。

横浜市立大学木原生物学研究所の清水健太郎客員教授らと米ワシントン大学、スイスのチューリヒ大学をはじめとする国際共同研究グループは、野外で4時間ごとに24時間にわたってモデル植物のシロイヌナズナの組織を採集し、フロリゲン遺伝子の発現を調べました。その結果、これまで考えられていた夕方に加えて朝にも働くことを見つけました。

研究グループは、従来の実験室の長日条件の温度と光質 (赤色光と遠赤色光の

比率) を野外に近 づ け ることで、野外におけるフロリゲン遺伝子の発現様式と植 物の 花成時期を再現することに成功しました。また、この過程で、遠赤 色 光シグナルと低温シグナルが、朝のフロリゲン遺伝子の発現に相反的に働くことを見いだしました。

従来の実験では、自然界の植物の挙動を再現できていなかったことを確認した

ことにより、穀物や果実、野菜などの栽培に野外環境を反映し、収量の拡大や品種改良を図る新しい取り組みのきっかけになりそうです。

戦略的創造研究推進事業ERATO山元アトムハイブリッドプロジェクト

戦略的創造研究推進事業CREST研究領域「環境変動に対する植物の頑健性の解明と応用に向けた基盤技術の創出」研究課題「倍数体マルチオミクス技術開発による環境頑健性付与モデルの構築」

11月10日、サイエンスアゴラ2018(東京・お台場)で開催されたセッションで、5人の登壇者から研究開発などの事例紹介とともに、人工知能(AI)やビッグデータなどICTの活用によって学び方はどのように変化するのか活発な意見交換がありました。

柏野牧夫氏は、スポーツでは人間の無意識な動きや感情を可視化することで個人のパフォーマンス向上に生かせると指摘。五十嵐悠紀氏は、コンピューターグラフィック(CG)を使って専門知識がないと難しい作業を簡単にできるシステムを開発し、ものづくりの可能性が広がることを紹介しました。また、緒方広明氏は、ビッグデータを活用した学びは学ぶ側だけでなく教える側にもメリットが大

きいことを語りました。福原美三氏は、世界中の人たちとともに双方向で学べるオンライン学習の最新の事例を紹介しました。

討論では、将来、教える側はICTを活用しながら個人の想像力や個性を上手に引き出だすような役割が中心になること

や、個人が主体的に学ぶ意欲を持ち続けるためにはICTをいかに活用するかが大事になるといった指摘もありました。

モデレーターの安浦寛人氏は、学びは1人1人の人生にも国にも基盤となる重要なものであり、今後も議論を続けていきたいと総括しました。

ペロブスカイトは、高効率太陽電池の材料だけでなく、新しい発光材料としても期待されています。中でも10ナノメートル程度の大きさのナノ結晶材料であるペロブスカイトの量子ドットは、発光効率が高く色純度が良いため次世代発光デバイス材料として注目を集めています。しかし、赤色の発光材料としては結晶構造が不安定で、LEDへの応用や高性能化が困難とされていました。

山形大学学術研究院の千葉貴之助教と城戸淳二教授らは、ペロブスカイト量子ドットの新たな製法を開発し、この材料系を用いた赤色LEDとしては非常に高い、21.3パーセントの発光効率(外部量子効率)を実現しました。

新製法では、結晶構造が比較的安定な

緑色ペロブスカイト量子ドットを合成した後、それに含まれる臭素の一部を塩素やヨウ素などのハロゲン元素に置き換えることで、発光波長を簡単に制御することができ(ハロゲンアニオン交換)、発光色を緑色から深赤色へ変えることに成功しました。

この製法により、赤色の発光効率は従来の2倍を実現し、色純度では4Kや8Kといった超高精細なテレビの国際規格を上回りました。さらなる高性能化に向けたデバイスの開発指針を確立することで、ディスプレーや照明などへの展開が期待されます。

次世代発光材料の新製法を開発赤色ペロブスカイト量子ドットLEDで世界最高発光効率を実現

研究成果

センター・オブ・イノベーション(COI)プログラム山形大学「フロンティア有機システムイノベーション拠点」研究成果

研究成果

開催報告 戦略的創造研究推進事業

これにより通常では混ざらない多種類の金属元素を混ぜることが可能になり、未知の物質群の発見や新分野の開拓に結び付きます。将来は未知の物質群から新たな機能材料を作り出せると期待されます。

開花を誘導する遺伝子は朝に働くことを解明作物の品種改良や収穫時期の制御が可能に

ヨウ素含有アンモニウム塩を利用したハロゲンアニオン交換

従来用いられる実験室条件では、フロリゲン遺伝子は夕方にのみ発現するが、野外では主に光の波長や温度条件の違いから朝に発現することがわかった。(ワシントン大学(現・奈良先端科学技術大学院大学)久保田茜博士作成)

(左)NTTコミュニケーション科学基礎研究所の柏野牧夫NTTフェロー・スポーツ脳科学プロジェクト総括(右)モデレーター九州大学の安浦寛人理事・副学長

(左)JMOOCの福原美三常務理事・事務局長(中央)京都大学の緒方広明教授(右)明治大学の五十嵐悠紀准教授

デンドリマーを鋳型とした多元合金ナノ粒子の合成法(アトムハイブリッド法)。1ナノメートル程度のナノ粒子の中に、5種類の金属元素が混ざり合っている。

金属イオンB 1 当量

金属イオンA 1 当量

金属イオンC 3 当量

金属イオンD 2 当量

金属イオンE 6 当量

化学的還元デンドリマー

走査型電子顕微鏡/エネルギー分散型X線分光法による元素分析(STEM/EDS)

ガリウム(Ga)・インジウム(In)・金(Au)・ビスマス(Bi)・スズ(Sn)合金ナノ粒子(Ga1In1Au3Bi2Sn6)

多元合金ナノ粒子Ga In Au Bi Sn5ナノメートル5ナノメートル

フロリゲン遺伝子

遠赤色光

低温

野外 長日条件赤色光と遠赤色光の比=1

温度変動

実験室 長日条件赤色光と遠赤色光の比>2

恒温朝 夕 朝 夕

ヨウ素含有アンモニア塩

緑色発光のペロブスカイト量子ドット

ハロゲンアニオン交換

OAM-l An-Hl

R1H3N

NH3 l

l

ヨウ素含有アンモニア塩

ハロゲンアニオン交換

OAM-l An-Hl

R1H3N

NH3 l

l

緑色発光のペロブスカイト量子ドット 赤色発光のペロブスカイト量子ドット

ICTの活用で学び方はどう変わるのか?サイエンスアゴラ2018でセッションを開催

Page 9: 特 集 December - JST...特 集 未 来をひ ら く 科学技術 ISSN 1349-6085 December 1人1人が健康を 12 2018 「自分ごと」に 人生の階段を元気に上る社会

vol.80

地域文化学に求められているのは、人およびその社会と自然との相互作用によって形成された地域固有の生き方を総合的に理解することです。近代化によって人と人、人と自然との関わりは大きく変貌し、さまざまな課題に直面しています。この状況の中、地域に根差した伝統的な暮らしや生き方を学ぶことで近代を相対的に再評価し、新しくより良い地域社会をつくることに取り組んでいます。私はこれを「過去を育てて、未来をつくる」と呼んでいます。

伝統的な暮らしを学び、より良い地域社会を目指す。AQ 地域文化学とは?

子供のころは、野山を駆け回って育ったおばあちゃん子でした。そのためか、今でも趣味はお年寄りの話を聞くこと。仕事と趣味が密接しているのは幸せなことです。庭いじりも好きで、植物が生い茂る古民家に妻と娘と暮らしています。子供のころの体験が現在に結び付いています。いじめや引きこもりなど、人と人との関係性の問題を抱える現在は、日本社会そのものが健康と病気の間にある「未病」のような状態にあると思います。いわば「つながりが病んでいる」。ならば「つながりで治す」ということで、多世代共創の取り組みを進めることによって、健やかな社会を取り戻していきたいです。

「未病」から、健やかな社会へ。AQ 地域に目を向けることで、見えてくる日本は?

December 2018

発行日/平成30年12月3日編集発行/国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)総務部広報課〒102-8666東京都千代田区四番町5-3サイエンスプラザ電話/03-5214-8404 FAX/03-5214-8432E-mail/[email protected] ホームページ/https://www.jst.go.jpJSTnews/https://www.jst.go.jp/pr/jst-news/

過去を育てて、未来をつくる

民俗学や歴史学に関心があり、当時、全国に先駆けて「地域文化学」を提唱した滋賀県立大学に入学しました。大学時代に取り組んだフィールドワークでお年寄りの話を聞き、地域に根差した昔ながらの暮らしや生きる術に触れることができました。同時にその知見が失われていくことに危機感を覚え、後生に伝えていく必要があると思ったのです。その手段として考案したのが「ふるさと絵屏風」です。人々が五感で体験したことをアンケートなど

で聞き取り絵図にまとめたもので、つくる過程を通して自身の地域の知恵と文化に気付くことができます。出来上がった絵図を見るとお年寄りは元気に語り始め、子供たちも寄ってきて耳を傾けます。絵図を媒介としてコミュニティーが形成されることで、多世代の居場所ができます。この取り組みがまちづくりの手法として滋賀県や同県内のいくつかの市町で採用された事例もあり、実際に制作した人々からアドバイスを受けて別の地域でも制作が始まるなど、各地に広がっています。

フィールドに出て人々の生きざまに触れたこと。AQ 現在の研究に取り組んだきっかけは?

上田 洋平

滋賀県立大学 地域共生センター 助教

Yohei Ueda

社会技術研究開発センター(RISTEX)研究課題「未病に取り組む多世代共創コミュニティの形成と有効性検証」

Profile京都府出身。2006年 滋賀県立大学大学院人間文化学研究科博士課程修了。滋賀県立大学地域づくり教育研究センター研究員を経て、13年より現職。風土に根差した地域固有の文化や生活史を踏まえた地域づくり、地域活性化、地域コミュニティー再生を目指す。