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―  ― 17 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第66集・第1号(2017年) 第二次大戦後の日本の各地で,勤労青年や婦人達の結成した地域青年団や地域婦人会,職場のサー クルや各種文化団体による学習運動が盛り上りを見せていた。こうした団体は都会からの疎開人の 指導に依存するところが大きく,地域住民の生活に根ざしたものではなかった。職場のサークルや 文化活動は労働運動の側面が強く,指導者と会員の意識に乖離があり,労働運動の後退と共に衰退 していった。地域青年団や地域婦人会は網羅的で多数の会員を擁したが,年齢層と活動内容が広く, 組織の運営が難しく活動は停滞していた。 占領軍は地域の町内会を戦争協力組織として解散させ,地域青年団や地域婦人会も軍国主義の温 床として警戒していたが,東西冷戦が始まると,民主主義の方法や技術を教えて性質を改める方針 に転換した。占領軍が導入したグループワークという学習方法と技術は,生活記録運動と共に各団 体に広まり,生活と労働に根ざした独自の学習運動に成長していった。 キーワード:地域青年団,地域婦人会,町内会,学習運動,生活記録運動 1 はじめに 敗戦から間もない昭和20年(1945年)10月,GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサー 元帥は,幣原首相に対し日本の民主化を求める五大指令を発した。それは,参政権の付与による婦 人解放,労働組合の組織奨励,学校の自由主義化,秘密警察等圧政の廃止,経済の民主化並びに独占 的産業支配の是正からなり,日本の民主化政策の基本となった。昭和21年(1946年)3月にはアメリ カ教育使節団が来日し,この時に設置された日本側教育家委員会を元に昭和21年(1946年)8月に内 閣総理大臣の諮問機関として教育刷新委員会が設けられ,戦後の新しい教育の理念や制度,施策の 審議が開始された。昭和21年(1946年)11月には,国民主権,基本的人権の尊重,平和主義を理念と する日本国憲法が公布され,教育を受けることは国民の権利であることが明確に示された。昭和22 年(1947年)3月にはこの精神に則った教育基本法,学校教育法が制定され,新しい教育が始まった。 第二次大戦後の混乱の中で,こうした民主化の進展は人々に大きな希望を与えた。とりわけ,差 別的な複線型教育制度の下で,教育の機会を制限されてきた勤労青年男女と,家制度と良妻賢母思 戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題 ―地域青年団・婦人会の成り立ちと学習運動に着目して― 佐 野   浩 教育学研究科 博士課程後期

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    � 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第66集・第1号(2017年)

     第二次大戦後の日本の各地で,勤労青年や婦人達の結成した地域青年団や地域婦人会,職場のサー

    クルや各種文化団体による学習運動が盛り上りを見せていた。こうした団体は都会からの疎開人の

    指導に依存するところが大きく,地域住民の生活に根ざしたものではなかった。職場のサークルや

    文化活動は労働運動の側面が強く,指導者と会員の意識に乖離があり,労働運動の後退と共に衰退

    していった。地域青年団や地域婦人会は網羅的で多数の会員を擁したが,年齢層と活動内容が広く,

    組織の運営が難しく活動は停滞していた。

     占領軍は地域の町内会を戦争協力組織として解散させ,地域青年団や地域婦人会も軍国主義の温

    床として警戒していたが,東西冷戦が始まると,民主主義の方法や技術を教えて性質を改める方針

    に転換した。占領軍が導入したグループワークという学習方法と技術は,生活記録運動と共に各団

    体に広まり,生活と労働に根ざした独自の学習運動に成長していった。

    キーワード:地域青年団,地域婦人会,町内会,学習運動,生活記録運動

    1 はじめに 敗戦から間もない昭和20年(1945年)10月,GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサー

    元帥は,幣原首相に対し日本の民主化を求める五大指令を発した。それは,参政権の付与による婦

    人解放,労働組合の組織奨励,学校の自由主義化,秘密警察等圧政の廃止,経済の民主化並びに独占

    的産業支配の是正からなり,日本の民主化政策の基本となった。昭和21年(1946年)3月にはアメリ

    カ教育使節団が来日し,この時に設置された日本側教育家委員会を元に昭和21年(1946年)8月に内

    閣総理大臣の諮問機関として教育刷新委員会が設けられ,戦後の新しい教育の理念や制度,施策の

    審議が開始された。昭和21年(1946年)11月には,国民主権,基本的人権の尊重,平和主義を理念と

    する日本国憲法が公布され,教育を受けることは国民の権利であることが明確に示された。昭和22

    年(1947年)3月にはこの精神に則った教育基本法,学校教育法が制定され,新しい教育が始まった。

     第二次大戦後の混乱の中で,こうした民主化の進展は人々に大きな希望を与えた。とりわけ,差

    別的な複線型教育制度の下で,教育の機会を制限されてきた勤労青年男女と,家制度と良妻賢母思

    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題―地域青年団・婦人会の成り立ちと学習運動に着目して―

    佐 野   浩*

    *教育学研究科 博士課程後期

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    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題

    想によって家庭の内に押し込められてきた婦人達は,大いに勇気づけられた。しかし,学制改革で

    高等学校の義務化は見送られ,職場や村々,家庭の封建的な因習は根深く,新しい民主主義の理念

    とは裏腹に,勤労青年や婦人達は大きな矛盾に直面することになった。こうした中で,彼らに厳し

    い現実に立ち向かう推進力を与えたのが,職場や地域で結成された文化団体やサークル,青年団,

    婦人会など各種の団体で展開された学習運動であった。

     本稿では,1950年代から1960年代の勤労青年・婦人団体の成り立ちと学習運動との関わりに着目

    し,戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題を考察する。

    2 勤労青年と婦人の状況 勤労青年や婦人達は民主主義の担い手として期待されていた。彼らはどのような経緯でどのよう

    な組織を作り,学習運動を始めることになったのだろうか。

    2.1 戦後勤労青年教育の状況

     昭和25年(1950年) 3月に中学校を卒業した158万8千人余りは1,新制中学校の三ヶ年の教育課

    程を修めた最初の学年であった。このうち,新制高校全日制課程に進学した者は約63万4千人,定

    時制課程に進んだ者は約6万4千人であった。別科を含んだ数字で言えば,新制高校に進んだ者は,

    男子49.5% に対し,女子は41.1% に止まっていた2。

     この年の15歳から17歳の青少年およそ518万1千人のうち,教育機関に在籍している者は242万

    人(46.7%),教育を受けていない者は276万1千人(53.3%)と推計されていた3。この「教育機関在籍者」

    のうち,高校の全日制課程に在籍している150万7千人を除いた91万3千人4は,高校の定時制課程・

    通信制課程・別科,各種学校,社会通信教育,公共職業訓練,事業内職業訓練所,経営伝習農場,青

    年学級等で働きながら学ぶ勤労青年である。新制高校が作られ,制度の上では教育の門戸が開放さ

    れたものの義務化は見送られ,学業生活に専念出来る青年はまだ同世代の30% に満たず,その格差

    は地方に住む女子においては一層顕著であった5。

     昭和20年代後半から昭和30年代前半までの1950年代の我が国の短大・大学への進学率は10%前

    後であった6。昭和25年(1950年)の国勢調査によると,19歳から21歳までの青年485万人のうち教

    育機関在籍者は41万6千人(8.6%)であり7,高等教育はまだ限られた者だけに許された特別なもの

    であった。

     勤労青年達の拠り所は,戦後再建された青年団と農山村の勤労青年達のグループから自然発生的

    に生まれた自主学習運動である青年学級であった。青年団は,昭和21年(1946年)7月末日の調査で,

    既に地域青年団体17,907,地域女子青年団12,611を数え,職域青年団は恐らく地域青年団の数を凌

    ぐものと推察されていた8。戦前期の国家統制体であった頃の大日本青年団でさえ,最盛期の昭和

    14年(1939年)の団体数が22,144であり9,戦後の青年達の意欲の程が窺える。青年学級は,昭和23

    年(1948年)に山形県が市町村の責任において設置する青年学級に開発助成費を計上して奨励した

    ことをきっかけに,全国に広がり10,昭和25年(1950年)には,全国で9,678学級,学級生約120万人

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    に達していた11。

     青年団は,文化部,産業部,体育部,総務部等を持ち,様々な事業を行っていたが,青年団に限ら

    ずこうした民間団体は「団長と数名の幹部が指揮して,団員は無条件に之に服従奉仕する義務を負

    わされるもの」となっているところが多かった12。青年学級も,昭和24年(1949年)の社会教育法施

    行後,公民館の定期講座として取り上げられるようになると,青年の自発的な共同学習グループと

    いうよりは,市町村が開設する勤労青年のための一種の簡易な教育機関といった様相を呈していた。

    昭和28年(1953年)には青年学級振興法が制定され,補助金を得て青年学級の数は増え続けているが,

    自主的な気風が失われ,ゆきづまりが深刻化していた13。

     青年団は,「団員の自発的意思による相互教育,相互研究,協力作業が活発に展開実施される」た

    めに,「よき指導者,指導力ある幹部の養成」が望まれていた14。しかし,「社会教育の立場からの

    青年団は,その自己教育活動において真実の意味をもつ。したがつてあくまで自主的な活動が期待

    されるのであつて,中央や地方政府によつて指導監督されるようになつたならば,自由な青年団の

    本質的機能は失われる(新井1952:226)」。それは勤労青年の自主的な学習運動として始まり,ゆき

    づまった青年学級にも共通する矛盾的な要求であった。戦後,勤労青年達の向学心から自主的に立

    ち上がった学習活動は,その在り方や方法の見直しを迫られていた。

    2.2 戦後婦人教育の状況

     布施(1970)は,戦前期の婦人,とりわけ嫁は,国家権力によって創設された家制度の下で全く無

    権利な奴隷的存在として位置付けられ,政治的権利も認められていなかったとし,しかし,こうし

    た婦人の社会的位置付けは,常に発展しつつある諸個人の本性に適うものではあり得ず,それ故,

    国家は常に公教育を通してこうした秩序の補強を行った(布施1970:4-5)と指摘している。布施

    (1970)は,その一例として戦時中に文部省教育局から出され,母の教養訓練,日本婦道の修練など

    を説いた『戦時家庭教育指導要綱』を挙げている(同5-6)。戦後,GHQ の教育担当部局である CIE(民

    間教育情報局)の非公式顧問を務めた加藤シヅエ(1981)は,「日本の婦人は,戦前どういうことで一

    番苦しんでいたのですか。それで何を一番求めていたのですか」という質問に対して,「人間として

    認められることを求めていました」と答えたという(加藤1981:122-123)。

     昭和21年(1946年)10月に東京で開かれた新教育方針中央講習会で挨拶に立った前田文部大臣は

    「女子教育の水準を思ひ切つて向上せしめる」15との訓辞を行った。これに続いて大村文部次官は,

    それまでの女子教育が男子に比べて極めて低調で,家庭生活に直接関係のある躾,礼法,手芸等に

    力が注がれ,政治,経済,産業,社会等に関する教育が甚だ未熟であったことを認め,「この低度の

    母性に育まれる家庭子女に社会性,公民性,民主主義性の乏しいことは寧ろ当然のこと」であるとし

    て,女子教育の刷新向上を期し,文部省として「本日から社会教育局を新設して大いに力を之に致

    す考である」との決意を表明していた16。

     しかし,マッカーサーの5大指令の第一項に婦人解放が掲げられたにも関わらず,婦人教育は「戦

    後しばらくの間,CIE によって婦人のみを対象とする施設は不適切であるとされていたが,地方の

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    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題

    現場ではそれにもかかわらず軍政部の指導の下に活動が進められるという」17,中央と地方とがね

    じれた状況にあった。CIE は婦人教育を別項に扱うのは「男女平等の原則に反する」として成人教

    育に一本化するべきとの考えで,婦人団体の結成には慎重であった(原1988:14)が,全国8地方に

    設置された地方軍政部は,地方政府に対して CIE とは別に婦人だけを対象とする事業計画を盛んに

    奨励し,団体の結成を促した18。地方軍政部は,日本の非軍事化と民主主義の実現という占領政策

    の実行を担っており,「日本側行政機関との一体化」(阿部1983:14)も布達されていたことからの

    措置であった。CIE の懸念にも関わらず,昭和25年(1950年)6月には,全国の婦人団体数は11,583,

    会員は619万8千人に達していた19。

     阿部(1982)は,こうした地方軍政部の性格と位置付けについて,「間接統治の採用に踏み切るこ

    とによる占領の効率低下を最小限に止めるための対応措置に由来していた(阿部1982:151)」とし

    ている。しかし田辺(1973)は,日本の女性の地位があまりにも低かったために,「投票所にいこうが,

    公民館にいこうが,あるいは PTA にいこうが,とにかく家から一歩外に出るということじたいが,

    日本婦人に大きな解放の意味をもっていた(田辺1973:121-122)」こと,そしてその「解放のよろこ

    びが大きすぎたために,公民館や集会ではいねむりをし,いきかえりの楽しさだけで何も摂取せず

    に,戦後のしばらくを通り過ごしてしまったといってもよい。しかも集会にいって開放感を味わっ

    ても,家のなかは微動だにせず,外に出ることの意味が家のなかへは全然生かされずに終わった面

    もつよい(田辺,同)」として,せっかくの婦人教育の機会が正しく生かされたかどうかは疑問だと

    している。

    2.3 各種文化活動・サークル活動の状況

     勝田(1956)は,大衆運動の中で生まれてきた自主的な学習集団とその学習活動をサークル活動と

    呼んでいる(勝田1956:82)。戦前期の我が国でも青年や労働者,農民が集まっての読書会や研究会

    は自然発生的に生まれていたが,サークルという言葉が使われたのは,昭和6年(1931年)に『ナップ』

    誌上で蔵原惟人がプロレタリア芸術文化運動の普及拡大のために,工場農村に文化サークル結成の

    必要を提唱したのが最初であるという20。『ナップ』は全日本無産者芸術連盟の機関誌であり,サー

    クル活動は,「大衆をそだてて文化のにない手を養成するという,はっきりとした目的をもって」21

    着手された文化運動であった。

     北河(2000)は『戦後の出発』の中で,戦後の地域・職域に叢生した文化運動を次の4種類に整理し

    ている。第1は青年団・婦人会を中心とする青年および女性の団体,第2は地方文化人が主導する地

    域の文化団体,第3は社会教育行政機関・社会教育団体,第4が労働組合文化部や職場サークルであ

    る(北河2000:16-17)。北河(2000)は,これらのうち,第1から第3のいずれもが疎開文化人の関与

    が少なくないこと,第4の労働組合文化部・職場サークル組織数は極めて多く地域青年団に匹敵す

    るとも述べている(北河2000:17)。これは,見方を変えれば,文化活動やサークル活動が,様々な

    経緯で結成された各種の団体で営まれた国民的な学習運動であることを示唆している。

     しかし,地域の団体・活動のいずれもが都会から来た外部の指導者に依存するところが大きいこ

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    とや,職場の文化部やサークルに対する労働組合の影響の大きさなどを考えると,「多分にエネル

    ギー放出的なうごきが一般化していた(宮原1990:96)」時期だけに,それが本当に勤労青年や婦人

    達の生活に根ざした活動となっていたのかは,さらに検討が必要である。

     多くの青年団・婦人会が行き詰まりの状況にあったことは2.1,2.2で述べた通りである。地域の

    文化活動も,復興が進んで疎開人が都会に戻ると活動が停止したり,団体そのものが解散したりし

    てしまうことも多かった。青年団に匹敵するほどの勢力を持っていた職場の文化部やサークルも,

    昭和25年(1950年)の朝鮮戦争を契機とする反共政策の中で「労働運動の後退と軌を一にして影響

    力を失った(竹村2001:18)」。本来,サークル活動は働く者の日常を離れた政治行動の中にあるも

    のではないはずだが,竹村(2001)は,この時期の職場の文化部やサークル活動はまだ「サークル指

    導者が主張したほど自立的ではなかった(竹村,同)」と言うのである。

     戦後の一時期盛り上がった勤労青年・婦人達の各種団体とその活動は,組織の指導者と一般の団

    員・会員と間に意識の乖離があり,停滞を余儀なくされたと言える。しかし水溜(2013)が言うように,

    こうしたインフォーマルで小規模なサークルは,労働組合よりも民主主義的で少数者の声が反映さ

    れやすく,労組の欠点とされる官僚主義・幹部中心主義を是正する可能性を含む(水溜2013:39)活

    動であった。戦後の民主化の中で,勤労青年と婦人達の学習は何故停滞しどのように克服されていっ

    たのだろうか。まず,彼らの依拠した集団の成り立ちと性質から検討していこう。

    3 地域青年団・地域婦人会の成り立ちと性質に関わる問題 勤労青年や婦人達の学ぶ社会教育関係団体は,戦前から続くもの,第二次大戦と敗戦をはさんで

    解散・併合,再発足したものや,戦後新たに発足したものなど多数存在するが,大きくは目的団体と

    地域団体に分けられる。前者は,ボーイスカウト日本連盟,ガールスカウト日本連盟,青少年赤十字,

    日本基督教青年会同盟,日本基督教女子青年会などがあり,野外活動や信仰・赤十字精神に基づく

    奉仕活動を通して青少年の人間形成を行うものである。これに対して,後者は地域青年団や地域婦

    人会,PTA 等であり,地縁的に結成され,幅広い活動を行うものである22。

     しかし,大学婦人協会や新日本婦人同盟,主婦連合会のような女性の高等教育実現や政治参加,

    消費者の権利擁護といった純粋に同志的な目的を持った団体は都市部に僅かに在るだけで,地方で

    は各種文化団体の活動や職場のサークル活動を除けば,4H クラブや生活改善グループのような明

    確な目的意識に基づく団体は,既存の地域青年団・地域婦人会や,社会教育関係団体ではないが地

    域の町内会・部落会を基盤に形成されたと言える。したがって,戦後の勤労青年・婦人の教育を検

    討するには,地域の青年や婦人達が所属していた団体,すなわち地域青年団,地域婦人会,それらの

    基盤となる町内会・部落会の成り立ちと性質を明らかにする必要がある。

    3.1 戦前期の地域青年団・地域婦人会,町内会・部落会の状況

     地域青年団や地域婦人会,町内会・部落会のような地縁的に結成された団体は,いずれも我が国

    に古くからあった基礎的な生活共同体の制度が戦前期に組織化されたものであり,第二次大戦の敗

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    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題

    戦前後に解散したが,自然発生的に瞬く間に全国で復活したという共通点を持っている。すなわち,

    青年団は若連中・若衆組や娘組,婦人会は講や寄りあい23を起源とする。また,近世の農村は村請

    け制による自治村であり,町内会の前身ははっきりとはしないが,江戸時代の町内では既に原型と

    も言える活動が行われていた24ことが知られている。

     若連中や若者組・娘組は,集落の子弟を一人前の村人に育てるための教育・訓練の場であり,明治

    以降の近代化の中で教育を受けた青年達が,自発的に修養団体としての夜学会や同志会,青年会へ

    と改めていったものである。日清・日露戦争を契機に銃後の活動が注目されるようになると,これ

    に関心を示した文部省や内務省が指導・育成に乗り出し,地域青年団の官製化が進んだものであ

    る25。大正13年(1924年)には大日本連合青年団,昭和2年(1927年)には大日本女子青年団が結成

    され,昭和3年(1928年)からは文部省の所管とされ,社会教育行政の中に加えられた。昭和16年(1941

    年)には少年団等も合わせて大日本青少年団に一本化され,文部大臣の統括の下,様々な戦時訓練と

    奉仕活動を実践した26。

     地域婦人会は,明治以降,義務教育の普及に伴って各小学校区に作られた母の会や母姉の会を元

    に,内務省や文部省の意を受けた小学校教員を指導者として組織化されていった27。『全地婦連50

    年のあゆみ』によると,戦前期の全国的な婦人会としては,傷病兵の慰問や軍人遺族の援護などを目

    的に創設された愛国婦人会や,出征兵士の世話をきっかけに庶民の中から自然発生的に生まれた国

    防婦人会,学校教育への理解や家庭教育の振興を掲げた大日本婦人連合会などがあったが,いずれ

    も主務官庁の監督下にあって国家財政の補助を受けて運営された半官製の組織であった。これらの

    婦人団体は,昭和17年(1942年)に完全な官製組織として大日本婦人会に一元化され,満20歳以下

    の未婚婦人を除く全ての婦人を会員とし,大政翼賛会の下部組織として,陸軍,海軍,内務,文部,

    厚生,拓務6省の共同所管下に置かれた28。

     地域青年団・婦人会の基盤である町内会や部落会は,どのような経過で生まれたのであろうか。

    長田(1990)は,明治政府の徹底した中央集権志向による西欧的な地方自治制度形成の試みは,官僚

    的支配を円滑ならしめるための装置として地方自治体を構想し,1871年の大区小区制の失敗を経て,

    旧来の村落共同体末端組織としての集落組織が「区」としての位置付けを与えられ,行政の補助機関

    としての機能を期待されることになった(長田1990:61-62)と述べている。「旧来の町村区域をその

    まま『行政区』として設け,そこに『区長』を置き町村長の事務処理を手伝わせる(瀧本・青木2015:

    59)」のである。長田(1990)は,旧来の集落秩序をそのまま温存しつつ,町村の側から区長を任命し

    て行政の末端機構として位置づけられるこの自治制度が,町内会・部落会の原型となったとしてい

    る(長田1990:62)。

     昭和に入り,国際情勢が緊迫すると国内体制の強化が求められるようになり,昭和15年(1940年)

    には「部落会町内会等整備要領」(内務省訓令一七号)が出された。部落会・町内会は全戸を以て組

    織することとされ,その下に十戸内外からなる隣保班を置き,物心両面に亘り住民生活各般の事項

    を協議し住民相互の教化向上を図り29,「万民翼賛の本旨に則り地方自治の任務を遂行し国策の国

    民透徹,国民経済生活の円滑を期すため国民組織機構の下部組織」30として法的に位置付けられた。

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     かくて,我が国古来の地域の青年・婦人団体や町内会・部落会は,明治以降,次第に官製化の色彩

    を強め,翼賛体制に組み込まれていった。戦火が苛烈になる中,大日本青少年団は,昭和20年(1945

    年)5月に学徒隊に編入されて解散し31,大日本婦人会も同年6月に解散して国民義勇隊女子隊に編

    入された32。勤労青年や婦人達は,銃後の守りではなく戦闘要員に位置付けられ,敗戦を迎えたの

    である。

    3.2 戦後の地域青年団・地域婦人会の状況

    3.2.1 占領軍の地域青年団・地域婦人会に対する対応とその違い

     進駐した GHQ は,戦争遂行に協力した青年団や婦人会,町内会・部落会に対して厳しい態度で臨

    んだ。田中(1999)は,アメリカ軍は太平洋戦争末期に占領時の対日教育政策を検討しており,その

    大きな方針の一つが「青年の統制と教化の排除」であった(田中1999:341)と述べている。五十嵐

    (1995)は,「GHQ の担当部局である民間情報局(CIE 青少年部)では当初,大日本青少年団を軍国主

    義的全体主義の団体とみなし,その復活を極度に警戒した(五十嵐1995:44)」と指摘している。占

    領軍はヒトラー・ユーゲントや特攻隊のアナロジーで青年団を恐れており,GHQ は青年団の全国

    組織の結成に消極的であるばかりか,地方の担当官によっては地域網羅的な青年集団は全体主義の

    温床であるとして県団レベルの活動を禁止ないし抑制するケースもあった(田中1999:341-342)と

    言う。

     文部省は,戦後の青年団は「幾多の問題点をもっているにもかかわらず,その本質において戦時

    中とは著しく異なったものとなっている」33としていた。しかし,連合国の日本占領統治は,事実上

    アメリカの単独統治であった。アメリカの主要な青少年団体は,ボーイスカウト,ガールスカウト,

    キリスト教青年会,キリスト教女子青年会,青少年赤十字などであり,これらの団体は,日本では戦

    時中に解散あるいは機能停止に陥っていた。矢口(2008)は,こうしたことを背景として自らも

    OB・OG である CIE や GHQ の関係者がこれらの団体の育成と支援に積極的に関わり,民主主義的

    な団体として人々に紹介し,「地域青年団体への支援について検討するのはしばらく後のことになっ

    た」(矢口2008:328-329)と述べている。

     しかし,占領軍が民主主義団体の代表としていたアメリカの主要な青少年団体は,「性別団体が

    男女共同の団体よりも,数においても成員においても多数を占めていた(矢口2008:378-379)」。こ

    れに対して,日本の主要な青少年団体である大日本青少年団は,戦時中から男子の不在化を背景に

    男女合同の青年団が増えており(渡邊洋子2002:37),青少年団本部も「熾烈化した戦いの日におい

    ては,当然の処置である」34としていた。戦後新発足した地域青年団も,「大多数の団は男女が同一

    組織として参加している」35のに対し,CIE には青年教育の性別教育観に関して,「彼等の将来にとっ

    て有益な訓練は性により異なるという考え方が存在していた(矢口2008:379)」のである。

     地方軍政部の対応が占領の効率追求の結果だとしても,それなら何故,地域婦人会に対する対応

    が地域青年団に対するそれと異なるものになったのだろうか。これについて,矢口(2008)は「マッ

    カーサーを頂点とした GHQ を全体としてみれば,占領政策としての女性解放の限界は存在する(矢

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    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題

    口2008:368)」という興味深い見解を示している。

     占領統治下で制定された日本国憲法は,現在の合衆国憲法でさえ規定していない男女平等・両性

    の本質的平等(日本国憲法第14条・第24条)の規定を持っている。マッカーサーは,「占領軍が日本

    でおこなった改革の中で,この婦人の地位の向上ほど私にとって心あたたまる出来事はなかった」36と述べている。しかし,矢口(2008)は,こうしたことを含めた女性解放の推進が,「合衆国の男性

    が第三者的な立場で容認したものであったために,その定着と実質化の問題は別次元の課題」とな

    り,「文部省とは異なる女性の地位向上という立場で,時に男性を中心とした GHQ 上層部との対立

    関係においてすすめられた女性たちの行動」,つまりは「日米女性有志による女性のための『婦人教

    育』がそこに出発した」と言うのである(矢口2008:374)。

     男女平等・女性の地位向上の実現は,GHQ・CIE に勤務するアメリカの女性にとっても課題であっ

    たと考えると,地方軍政部に協力して全国を回り女性団体の育成・助言に当たった CIE の婦人情報

    官ウィード女史37の言動や,日本国憲法草案の作成に参加し女性の権利についての規定を書いた

    GHQ 民政局のベアテの行動38の意味が見えてくる。第二次大戦に勝利し,占領統治下で民主主義

    を教える側のアメリカでさえ,女性の地位の低さ,権利の不足は,男性には自覚的ではなかったの

    である。占領軍に居合わせたウィード女史らの行動は,戦後の我が国だけではなく,当時の女性が

    置かれた状況を物語っていると言えるだろう。

    3.2.2 地域団体の網羅性という問題

     前節では,第二次大戦の敗戦後,各地で再結成された地域青年団・地域婦人会に対する占領軍の

    対応について述べた。GHQ,CIE 内部も一枚岩ではなく,中央と地方軍政部の対応にねじれが存在

    したが,共通するのは,占領軍がこうした網羅的な団体を軍国主義の温床と見て警戒していたこと

    である。本章の冒頭で述べた通り,GHQ が推奨するような目的団体が中央に僅かにあるだけの状

    況下では,勤労青年や婦人達が活動する公的な場は,地域青年団や地域婦人会のような地縁団体に

    限られた。だが,各地の地域団体の網羅的で統制の取れた行動は,外国人には脅威と受け止められ

    ていた。『全地婦連30年のあゆみ』(全国地域婦人連合会,1986)は,大分県連合婦人会での出来事を

    次のように記している。

       二十一年十一月に設立された県連合婦人会は翌二十二年十月,県下で初めて開催された GHQ

    主催の婦人講座に臨時列車まで仕立てて多数の会員が出席した。会場の日田市公会堂に集まった

    参加者を前に CIE のウィード中尉は「あなた方が今所属している婦人団体が果たして民主的であ

    るか。戦時中の大日本婦人会がいかに非民主的であったか,あなた方の今の団体は,それから少

    しも変わっていないではないか」と激しい口調で批判したという。(中略)ウィード中尉の批判に

    ついて『県婦連二十年のあゆみ』は「こんなに多数動員された実情を目のあたりにして,ファシズ

    ムの残存ではないかと占領軍は頭にきたのかもしれません」と述べている39。

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     『全地婦連30年のあゆみ』は,こうした事態を「熱心さのあまりとはいえ,日本の実情や伝統,習慣,

    国民感情を無視してあまりにも性急に,自分たちが理想とするアメリカンデモクラシー―アメリカ

    型婦人組織を移植しようとする者もあって,(中略)至るところで文化摩擦が起こった」40と評して

    いる。地方軍政部は,地元の婦人会に頼って人を集めなければ,民主主義の啓蒙はできなかった情

    況があり,「『民主化』ということをもっとも『非民主的』な方法でやらざるを得なかった」(西1985:

    95)のである。松井(1952)は,労働組合の婦人部や特別の思想・目的を持って結合された団体は別

    として,全国に結成された地域婦人団体は形式的な結合と名目的な活動をしているのが少なくなく,

    上からの指導を受けて役員だけの団体になってしまっているものもある(松井1952:229)と述べて

    いる。

     ウィード女史の考え方について,『占領下の婦人政策』(西清子編著,ドメス出版,1985)に,CIE

    で彼女のアシスタントを務めていた高橋展子の証言がある。

       やはり,日本の民主化ということに情熱を持っていたんじゃないですか。(中略)ウィードさん

    は,動員型の婦人団体ではなく,志を同じくする人たちが,自主的に集まってつくるという,アメ

    リカ型の婦人団体が望ましい,とくに,従来の動員型の団体というのが,結局,愛国婦人会という

    形になったでしょう。村長さんの奥さんが会長になるとか…,そういうふうなやり方が,とても

    よくないという考え方でしたね(西1985:72-75)。

     田辺(1973)はこうした状況の背景として,住民の地域生活に横たわる網羅性の問題を指摘してい

    る。長くなるが,重要な部分であるので引用する。

       これまでの地域生活が,いわゆる村落共同体と呼ばれるモウラ制によって行われていて,婦人

    はもとより,地域住民は,地域というワク組みから踏みはずすことは不可能に近かった。まして,

    婦人はそのうえ,「家」という大きな重みにひしがれていたから,いっそうモウラ制は強く働いて

    いたのである。このため,共同体の一員,すなわち婦人団体の一員であるというような,目にみ

    えない拘束があり,婦人にとってはそこから逃れる自由はほとんどなかったのである。行政は,

    このようなモウラ制をその末端として政策を貫徹することができた。したがって,ほとんどの婦

    人団体は,地域共同体の機能を,その役割として担わせられ,成員個々人のねがいを結集して問

    題解決をはかるよりも,地域支配層の意図にそった行動や,奉仕ないしは行政の肩代わり,下請

    けの事業を遂行することが任務であった。それが自他ともに許す存在理由でもあった。(中略)

    戦後の婦人団体は,いちように,このような暗い戦前のしがらみを脱して,表向きは新しい民主

    主義に立脚した婦人団体の方向を目指していたが,やはり根強い地域モウラ制によって,行政丸

    がかえの教化・啓蒙政策のなかに吸収されていったものが多いといえよう(田辺1973:106)。

     国家が主導したか GHQ が主導したかは別として,この時期は「大日本婦人会が,地域婦人会に再

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    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題

    編成されながら,実質的に温存されていく過程であったし,一般の婦人達が自力で新しい婦人団体

    を組織していく段階にはなかった」41。「民生部の青い目の係官をいらだたせもした」42のは,故無き

    ことではなかったのである。

    3.3 町内会・部落会に対する占領軍の対応

     町内会・部落会に対する占領軍の対応は,地域青年団や地域婦人会の特質を考える上で重要な関

    連がある。倉田(1986)は,部落会・町内会・自治会を,ほとんどの地域に普遍的に見られる地域住

    民自治組織の中で最も中枢的な位置を占めるものとし,青年団,婦人会などを傘下に収め助成して

    いく働きを持っている(倉田1986:43-44)と指摘している。したがって,地域青年団や地域婦人会

    を軍国主義の温床として警戒する GHQ は,部落会や町内会を「まさに戦時体制の一環として設置

    された,歴然たる戦争協力組織(細谷2014:21)」と見ており,「『直接に中央政府,内務省につながっ

    て』おり,人民に対する『戦争協力』強制のために『驚異的』な有効性を発揮した(細谷,同)」として

    廃止を命令したのである。

     渡邊榮文(2002)によると,部落会町内会等の地縁組織の解体は,昭和22年(1947年)1月4日の

    GHQ の意向を受けた勅令第4号「町内会部落会又はその連合会の長の選挙に関する勅令」によって,

    町内会等の公選制・その職に在った者の一定期間の被選挙権の制限等を定め,同年1月22日の内務

    省訓令第4号によって昭和15年(1940年)の内務省訓令第17号「部落会町内会等整備要領」の廃止と,

    昭和22年(1947年)4月1日からの部落会等の廃止を通達,さらに昭和22年(1947年)5月3日の政令

    第15号「町内会部落会又はその連合等に関する解散,就職禁止その他の行為に関する政令」を公布

    施行するという徹底したもので,特に政令第15号は,町内会等がその廃止にも関わらず存続してい

    たので,その絶滅のために制定されたものであった(渡邊榮文2002:220-221)。

     しかし,GHQ のこれほど徹底した措置にも関わらず,町内会や部落会などの自治会は「絶滅」し

    なかった。「ボス支配のスパイ組織(中川1980:28)」というのが民政局の結論であったが,配給業務

    などを実施するためにはこうした組織は不可欠であって,町内会廃止後3 ヶ月以内に類似の職務を

    設けたところは77.9% に達した43と言われている。中川(1980)は,隣組長の公選は言わば無理難題

    であって,GHQ は隣保組織の廃止が目標であって隣組に民主的活力を賦与するということにはさ

    して熱意を持っていなかった(中川1980:24-25)と指摘している。彼らは,「日本人に固有の生活様

    式を理解することがなかったために,町内会などの伝統的な住民組織は制度外に放置すれば自然消

    滅すると考え,かえって前近代性を温存する余地を残すことにもなった(中川1980:31-32)」と言う

    のである。だが,もしそうだとすると,復興が進んで食糧事情や民生が好転し,講和条約が発効し

    て占領が解かれた昭和27年(1952年)以降,全国の市町村に町内会や部落会が不死鳥のように復活

    したのは何故であろうか。そのことは,何を意味しているのだろうか。

     こうした町内会に関する研究は,1950年代末から60年代に入ると活発に議論されるようになり,

    今日に至っている。それは端的に言えば,「近代化論」と「文化型論」の概念論争である。吉原(2000)

    の整理によれば,前者は町内会を近代化に逆行するものとし,国家の意思の上からの浸透に適合的

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    であったことが強調され,後者はその対向に立ち現れたアプリオリに町内会形式の「構造的継続性」

    を強調するものである。また,この「町内会論争」を通じて明らかになったことは,「支配か共同か」

    といった二分法的な問題設定の限界であり,それを歴史的分析を介してどのように克服するかとい

    う課題である(吉原2000:573-575)と言う。

     長田(1990)は,「従来このような庶民の日常生活の原理は,上からの支配のもとで自由に操作さ

    れる側面のみが強調されるか単に無視されるにとどまり,その原理そのものの解明に充分な努力が

    払われてきたとは言えない(長田1990:68)」と述べている。吉原(2000)は,「『タテ』の系列(=支配),

    それとシンクロしながら立ちあらわれてくる『ヨコ』の関係(=共同)は,いうまでもなく歴史のお

    りおりにおいて異なった顔をみせている。だからこそ,歴史的分析が重要になってくる(吉原

    2000:575)」と述べている。町内会や部落会といった地縁団体がどういうものであるのか,その成り

    立ちや深層に働いている支配と共同という原理を考えることなしに,これらの団体の状況を論じて

    も,表層的な理解に止まるということである。

     これらの指摘は,こうした町内会や部落会という地縁団体に依拠して結成され,存在している地

    域青年団や地域婦人会で営まれている勤労青年や婦人達の教育・学習を本当に正しく理解する上で,

    重要な示唆を与えるものである。次章では,地域青年団や地域婦人団体と行政とが如何なる関係性

    を持っていたのかという点に注意して,戦後の勤労青年・婦人達の教育や学びの課題を検討してい

    こう。

    4 戦後地域青年団・地域婦人会の教育と学習運動4.1 占領政策の転換とネルソン通達

     文部省社会教育局は,戦後社会教育の出発当時の地域の婦人達の状況を『婦人教育15年のあゆみ』

    に次のように記している。

       婦人参政権の公布を前後として,これらの問題を勉強したり,荒廃した郷土の建設や,戦争の

    傷手からこどもを守り,健全に育てようという願いをこめて各地に地域婦人会が生まれはじめて

    いた。(中略)婦人たちの要望によつて,団体の結成に市長や学務課長が熱心に手伝つたというこ

    とで,旧日婦の復活とみなされ,解散命令の出る寸前で取りやめにしたという例もいくつもあつ

    て,CIE(民間情報教育局)の警戒はなかなか厳しかった。(中略)地域団体は,その性格,特徴か

    らどうしても網羅的になりやすい。軒並みに加入して,しかもその組織が部落,校区市区町村,都,

    県というように,行政の骨組みにそって構成される点が,外国人にはどうにも納得できにくいこ

    とであつたらしい。戦前の官製組織とどこがちがうのだ,ということで,文部省としてはその説

    明に難渋したことはいつわらない事実である44。

     しかし,こうした CIE の姿勢も GHQ の占領政策の変更によって変化が現れた。矢口(2008)は,

    青年団を軍国主義と超国家主義を支えた温床として警戒していた CIE も,東西冷戦による緊張に

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    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題

    よって,占領政策が「反共」という目的に向けて変化するにつれ転換し,48年中頃から「防波堤」と

    しての観点からその全国組織化を検討するようになった (矢口2008:329) と述べている。『社会教

    育10年のあゆみ』にも,「現存する地域組織がわが国の大多数の婦人大衆が加入している,もっとも

    身近な団体であることから,そこを根城に,実践を通しての民主化を進め,体得を図ることがのぞ

    ましい,というところにすすんできたのは,23年の第2回社会教育研究大会(各府県2 ヶ所宛,3日間)

    の立案に際してであった」45と記されている。

     しかし,東側陣営の脅威もさることながら,占領軍の大目標は日本の非軍事化と民主化であり,

    GHQ は戦前の官製組織の復活を認めた訳ではなかった。前掲『婦人教育15年のあゆみ』には,文部

    省が CIE と一緒になって,資料「団体の民主化とは」(Democratic Organization)を作成して,全国

    に広め,これを教本として婦人団体の徹底的な民主化を図ろうとしたこと,この資料が各地の婦人

    団体の講習会でなくてはならぬ教材であったことが書かれている46。この「団体の民主化とは」は,

    文部省が作成した「婦人団体のつくりかた,育て方」(昭和21年5月)が女性のみを対象とすること

    が問題視されて廃案となり,CIE のウィード女史によって書き換えられたものであった(矢口

    2008;372,西1985:72-73)。矢口(2008)は,この「団体の民主化とは」が,社会教育関係団体のノー

    コントロール・ノーサポートの原則(ネルソン通達)につながったこと,旧来の団体運営方法と官府

    領導的な組織の改革という面で,CIE の成人教育担当官ネルソンと婦人教育担当官であるウィード

    女史が共通の立場に立っており,女性の地位向上と諸権利の実質化という点で一致するものである

    と指摘している(矢口2008:372,378)。

     国際情勢の変化による占領政策転換に伴い逆コースが問題になる中,ネルソンやウィード女史ら

    が一致して民主的な団体育成に当たったことは重要である。CIE の青少年団体担当のタイパーは,

    「早急に地域の網羅的青少年団体を解散し,あくまで趣味・関心に基づいたインタレスト・グループ

    に置き換えようとしていた」47が,それは当時の我が国の実情からかけ離れたものであった。それ

    だけでなく,昭和23年(1948年)7月14日にネルソン通達が出された当時の日本側の行政と社会教

    育団体の関係に対する考え方は,戦前のそれを引き継ぐものであった。

     昭和23年(1948年)4月12日に出された教育刷新委員会第15回建議「社会教育振興方策」の社会教

    育団体の事項には,「国及び地方公共団体は,社会教育団体の活動を助成奨励すること」,「国及び

    地方公共団体は,その事業を社会教育団体に委託実施させることができる」,「社会教育団体に対し

    ては,民法による監督以上の監督をすることができる」といった規定が書かれていた48。それは国

    や行政による社会教育団体の支配・統制のみならず,社会教育団体自体の行政依存体質,自主性の

    欠如を意味していた。

     ネルソン通達,正式には「社会教育長通達『地方における社会教育団体の組織について』(都道府

    県知事あて)」は,都道府県は社会教育協会その他の社会教育諸団体より要請ある場合に助言者の立

    場を取ることができること,それらの団体は全く都道府県と独立の自主的なものたらしめること,

    官庁の干渉を受けずに法令の定める所に随って自主的に活動するべきものであること,原則として

    補助金や各団体への便宜供与を禁止するノーコントロール・ノーサポートの原則を明示していた49。

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     この考え方は,昭和24年(1949年)6月に出された「社会教育法」に反映された。すなわち,「社会

    教育団体は,法人であると否とを問わず,公の支配に属しない(第10条)」こと,「国及び地方公共団

    体は,社会教育関係団体に対し,いかなる方法によっても,不当に統制的支配を及ぼし,又はその事

    業に干渉を加えてはならない(第12条)」ことが定められ,国や県,市町村などの行政と社会教育関

    係団体との関係は旧来とは全く異なる自律的なものとされた。極めて大きな方針転換であった。

    4.2 地域青年団・地域婦人会に対する指導原理とその受容

     それでは,そうした自主的で民主的な団体はどのように育成されたのであろうか。

     勤労青年や婦人達の主たる学習の場である地域青年団や地域婦人会は,既に述べた通り「網羅性」

    という問題点を持っていた。しかし,実際,これらは地域共同体公認の組織で,勤労青年や婦人達

    が家人の目を気にせず大手を振って活動できる貴重な場であり,「地縁,血縁という人間としての

    根源的な絆を基盤としているだけに,連帯感はきわめて強く,組織の網羅性という特色も手伝って,

    生活者としての婦人の意向を最も忠実に反映することができる」50という利点も備えていた。

     勤労青年や婦人の偽らざる生活感覚から言えば,地域的な範囲がやや広いことよりも,年長青年・

    婦人から年少者まで幅広い年齢層を合わせた組織であるため「目に見えない拘束(田辺1973:106)」

    があって,せっかく参加しても一部の幹部任せの活動になってしまい「団員の目的意識の集中が行

    われにくい」51のが実情であった。こうした状況を解決し,既存の団体の性質を変えるため最も力

    点が置かれたのは,共通の趣味や問題意識に基づく自主的なグループ青年団への移行(岩本2006:

    163)と,IFEL(Institute for Education Leadership,教育長等指導者講習会)や YLTC(Youth

    Leaders Training Conference,青少年指導者講習会)などで推進された指導者の養成であった。こ

    の時,集団学習の方法として導入されたのがグループ・ワークの技術であり,当時アメリカの成人

    教育の集団指導の分野に大きな影響を与えていた,集団の内部構造や力動的特質,他集団との力動

    的関係を質的に研究するグループ・ダイナミックス理論に基づくものであった(千野1976:115)。

     グループ・ワークの運営は,レクリエーション,ディスカッション,インターラクション(相互作

    用)を重視し,最後はエバリュエーション(評価)で終わることから,ションション講習会・青年団な

    どと揶揄するむきもあった(矢口1998:75)。しかし,「この期の日本人にとって,一定のテーマの基,

    資料を収集し小集団で課題の解決を図るというワークショップという形態や,相互に意見を述べ合

    い討論するという課題解決の方法が目新しかった(松本2008:111)」上,毎年継続実施され伝達講習

    も全国的に開かれたため,青少年指導ばかりか社会教育全体に多大の影響を及ぼした52。人前で意

    見をのべたことのない主婦達もレクリエーション,オリエンテーション,ディスカッション,オル

    ガニゼイション,というような外来語をさかんに耳にし,かなりなじんだ時期であって53,青年団

    の共同学習運動や婦人講座・婦人学級,青年学級へと広がり,自主的な小グループ活動を生み出し

    ていった。

     筆者の関心は,前述した通り,行政と地域青年団や地域婦人会が如何なる関係性にあったのか,

    という点にある。すなわち,網羅的な地縁団体に居合わせた勤労青年や婦人達の学習が,目に見え

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    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題

    ない国家・地方自治体の思惑に支配されただけなのか,それとも彼らの内に潜在している共同性が

    自発的に芽吹いて地域が本当に変わりだすような主体的な学習に成り得ていたのか,ということで

    ある。千野(1976)は,グループ・ワークの依拠するグループ・ダイナミックス理論自体が企業にお

    ける生産性向上を対象にしていることを理由に,この理論が「体制的条件の枠組みのなかで個人の

    心理解放の道をさぐり,現秩序への個人的適応の手段としてとらえる傾向をもっているかぎり,当

    初からそこに,一定の限界が秘められていたといわねばならない」(千野1976:116)としている。も

    しそうだとすれば,IFEL や YLTC などの指導者講習会で「上から」与えられた方法論や学習原理

    ではなく,勤労青年や婦人達自らが,日々の苦しい生活や労働の中からつかみとった自前のやり方

    が求められなければならない。

    4.3 生活記録運動と勤労青年・婦人の学習

     そこで注目されるのが,生活記録運動である。教育の機会均等とは言いながら,その恩恵を受け

    られない勤労青年達や,占領軍による上からの「民主化」に飽き足りない思いの婦人達が,職場や地

    域で思い思いに自主的な学習グループを結成し,様々な文化活動となって,全国に広がって行った

    ことは既に述べた通りである。

     島田(2002)は,「生活の事実をありのままに書くことをとおして,事物を客観的かつ主体的に把

    握する力を養い,自己の生き方をつかみ取っていくことを目指す大人の学習活動」を生活記録と定

    義し,それは,「戦前東北地方を中心に広がりをみせた学校教育における生活綴り方教育運動の伝

    統を受け継いだものであって,戦後「山びこ学校」に代表される児童の生活綴り方教育の発展に刺激

    されて,工場や農村の青年,家庭の主婦たちの間に広がりをみせ,生活記録運動と呼ばれるように

    なった」(島田2002:295)としている。端的に言えば,戦後,各方面で流行した「大人が生活綴方作

    品を書く運動」(国分1955:70)である。

     勝田(1956)は,生活記録は,「古く低い生産様式の支配するおくれた社会の土台のうえに,さま

    ざまの先進的な概念や思想が,大衆を観念のとりことしていて,すなおな事物の認識をはばんでい

    る日本のような社会では,事実をありのままに書きあらわそうとする努力から,人びとの思考をた

    てなおすような役割をはたす」(勝田1956:118)とし,それは「サークル活動の中で人びとの気持ち

    を自覚的に結びつけるきずなとなっていて,国民の自発的な学習運動の中で基礎学習として用いら

    れる」としている(同,118)。ここで言うサークル活動とは「大衆運動の中で生まれてきた自主的な

    学習集団とその学習活動」,「生活問題の根本的な解決をもたらそうとするための生活的な学習の場」

    であり,生活記録のサークルはそうした多種多様な学習領域全体の基礎となる「国民的な読み書き

    運動」であるとしている(同82)。

     鶴見(1963)は,「先生が,子どもたちと一緒になって,もっとも手近で,切実なもんだいを,自分

    たちの手足をうごかしてしらべあげ,頭をよせあつめて考えあう。そうすることによって,先生も

    子どもも,自分たちの感じや考えや行いの,まちがっていたところを,なおしあってゆく。そのよ

    うな,自己改造の仕方」(鶴見1963:21)として生活綴方運動を評価し,「このことは,子どもの教育

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    だけのもんだいではない。わたしたち大人がうまれかわるために,とくにインテリも学者も,「生

    活綴方的自己教育」が必要なのだと思う」(同21)と述べている。

     生活記録は「書かれたもの」を指すだけではなく,書き手がそれを書くに至った環境や過程,書か

    れた後の読まれ方,広がり,その後の書き手や集団の変容までを含めた「書くことの意味」を重視し

    た「大人の自主的な集団学習運動」であった。

     しかし,こうした生活記録運動やサークル活動などの戦後の文化運動は,1960年代には終息した

    と言われている。大串(1981)は,「1950年代には勤労青年や婦人の間に急速にひろがった生活記録

    運動は,1960年代半ばごろには,ほぼ停滞したと評されている(大串1981:141)」とし,横山(1987)

    も生活記録は「一九六○(昭和三五)年を迎える前には,ゆきづまりとか壁にぶちあたったといわれ

    るようになり,『いつまでもこんなことをやっていたってしようがないではないか』という疑問や批

    判が内外から高まり,生活記録は急激に衰退し(横山1987:28)」,「そうして人びとの話題から消え

    ていった(同,29)」と述べている。

    5 考察とまとめ 生活記録運動は,大人達の直面する課題を解決するための有効な理論を打ち出せないまま衰退し

    たのだろうか。それとも,地域青年団の勤労青年や地域婦人会の婦人達のグループは,社会教育行

    政との関係の中で,何事にも関心を持たない物分かりの良いおとなしい住民として巧妙に支配され

    ているのだろうか。

     戦後の社会教育行政は,戦前の団体主義から施設主義に転換したとされている。手打(2004)は,

    それは理念レベルであって,現実には団体利用の教育行政という実態がみられる(手打2004:27)と

    指摘している。遠藤(1993)は,戦後の我が国の大きな特徴である公民館の今日的意義について検討

    し,公民館が社会教育法のなかに中心的施設として位置付けられ,しかも自治体を基盤とする日本

    独特のものであること,公民館は占領軍によって地方自治振興の理念に適合することが評価され,

    しかも他施設を利用し,「機能」だけで成り立ち得たこともあり,数年にして館数2万をこえる急激

    な普及を示した (遠藤1993:21)点に着目している。

     当時の逼迫した財政状況では施設の整備は最初から望めない。適切な指導者を得られないまま,

    旧来の団体指導に陥る危険性が大きいのである。その上,復興が進んで公民館という施設の公的整

    備が進めば,住民の地域・生活課題から切り離された学習にその活動を限定し,「施設」に国家政策

    浸透の役割を与えることにもなる,それらは表面上捉えにくいが,その側面を無視することはでき

    ない(遠藤1993:22)。しかし,それなら公民館や公的施設でなくても,勤労青年や婦人達は地域に

    住まう,ただそれだけで目に見えない拘束から逃れられないことになる。人間は一人一人が全く異

    なる個性や意思を持つ多様な存在である。地域住民が個人として,団体として,行政と接する結節

    点が地縁に基づく地域というものであるならば,そこに現れる行政と地域住民・地域団体との関係

    性もまた自ずと多様な姿となるのではないだろうか。

     勤労青年や婦人達,彼等の結成した地域青年団や地域婦人会とそれらが依拠する町内会・部落会

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    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題

    の関係性に立ち戻れば,支配と共同という地域社会の二重構造は,権力支配の二重構造とは別の,

    近代合理的社会秩序と庶民の生活秩序という社会秩序次元での二重構造を含んでいるのであり,前

    者はむしろ後者の基盤の上に成立している(長田1990:68)。細谷(2014)は,戦後,GHQ によって

    町内会が解散させられた時にいとも簡単に再生されたのは,昭和15年(1940年)に設置された「部落

    会」は,上からの指令に基づくものであり,歴然たる支配機構,戦争遂行のための機構であったが,

    それは以前からあった部落に上から持ち込まれた,いわば一種の外皮だったのである(細谷2014:

    22)と述べている。神戸市では占領軍の指示による廃止がよく守られ,全般的に解体に向かったが,

    その後いくつかの必要から単一機能の組織として復活し,やがてこれらが統合されて自治会になっ

    た(倉田2000:68)。

     前者は町内会論争で言う「文化型論」を支持するし,後者は「近代化論」の例であろう。「近代化」

    論では,独立回復後に復活したのは「町内会」という名前の行政から公認された単一機能集団の新た

    な統合組織であるが,「文化型論」では,町内会は実質的に継続していたのであって名称の復活に過

    ぎない。しかし,日本の軍国主義の末端に組みこまれていたのは,すでに「封建的な」住民組織とし

    ての部落会・町内会ではなかった(竹中1996:157)とすると話は変わってくる。戦時下において女

    性の社会進出が進み,青年団の男女合同化が進んだのと同様に,竹中(1996)は,「部落会町内会整

    備要領」の根底にある認識は,むしろ GHQ と同様に部落や町内は近代化に逆行する封建的な住民組

    織であるとの見方であり,内務省はこれらを整備・統制し,近代的官僚制の末端に組み込んだ,これ

    は欧米的な「近代」とはたしかに異なるが,官僚制支配の地域末端への滲透という意味において「も

    うひとつの近代」に他ならない(竹中1996:157)と言うのである。

     つまりはどちらの論が正しいかはともかく,実態としては封建的な古来の町内会や部落会ではな

    く,講和後の日本で「復活」あるいは「継続した」のは,戦時下の1940年体制の下で合理化された全

    く新しい町内会・部落会であり,「実質的な町内会の復活」とは様相を異にするということである。

     大串(1981)は,「しかし,1960年代後半からこんにちかけて,生活記録と断定するかどうか議論

    を必要とするが,青年期教育に生活記録的学習が導入されてきている」(大串,1981:141)とし,「1950

    年代とこんにちでは,あきらかに時代は異なっている。にもかかわらず,ふたたび生活記録的学習

    があらわれたのは,なぜであろうか。そして,またこんにちの生活記録的学習は,1950年代のそれ

    から何を学ばねばならないのだろうか」(同141)と「生活記録的学習」の出現を指摘し,その意味を

    問うている。

     辻(2010)は,「実態としての生活記録の実践は1960年代以後「衰退」したわけではなく,多様な形

    態を含み込みながら一般化してゆき,とりたててそれを生活記録運動と呼ぶことなく,時には新た

    な名称が付されながら,むしろ各所で展開されていくようになったと言うべきではないだろうか」

    (辻2010:5) と述べ,さらに,「このことは,ある事象を生活記録連動と命名し言説化する行為をこ

    そ対象化し,その検討および生活記録運動と日本の1950年代という社会的文化的状況との関連性の

    着目の必要性を示唆している」(辻5)と言うのである。

     北河(2014)は,「成人女性の生活記録についての研究は限られるが,岩手,秋田,山形,新潟,長

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    � 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第66集・第1号(2017年)

    野の動向をみると,一九五○年代後半から六○年代にかけてむしろ活発化している」こと,「全国的

    な運動が退潮した後も,地域によっては文化運動は持続している」ことを指摘している(北河2014:

    10-11)。ことに興味深いのは,「岩手県全域を対象とする保健雑誌『岩手の保健』は,長期にわたっ

    て生活記録誌としての役割をになっている」との指摘である(同10-11)。『岩手の保健』は,昭和22

    年(1947年)に創刊され,現在も年2回発行を続けている岩手県国民健康保険連合会の機関誌であっ

    て,職場や地域の小規模なサークル活動・文化活動の生活記録誌ではない。それが長らく岩手県全

    域を対象とした生活記録誌の役割を担って来たという事実は,生活記録運動自体に当初から様々な

    様態や広がりが存在したことを示唆するものである。

     地域の青年団や婦人会で営まれていた勤労青年や婦人達の学習活動は,地縁の桎梏に呑み込まれ

    て消えたのではなく,地下水脈のように静かに力強く滲透し,地域の限界を乗り越え,真に自由で

    多様な活動に脱皮するとの課題を成し遂げていたのではないだろうか。

    【引用文献】阿部彰,1982,「対日占領における地方軍政―地方軍政部教育担当課の活動を中心として―」,日本教育学会,教育学

    研究,vol49,pp.151-163.

    阿部彰,1983,『戦後地方教育制度成立過程の研究』,風間書房.

    新井恒易,1952.「靑少年社会教育の状況」,教育文化振興会編『日本教育年鑑 一九五二版』,明治書院,pp.223-226.

    五十嵐暁郎,1995,「戦後青年団運動の思想―共同主体性をもとめて」,『立教法学』,vol.42,pp.39-54.

    岩本聖光,2006,「占領期の民間情報教育活動―1947,8年の長崎県を中心として」,立命館大学人文科学研究所紀要,

    vol.86,pp.157-184.

    遠藤知恵子,1993,「日本的社会教育史説としての公民館とその今日的意義」,弘前学院大学・弘前学院短期大学紀要,

    vol.29,pp.19-30.

    大串隆吉,1981,「『生活記録運動―戦前と戦後』覚え書」,『人文学報』第150号,東京都立大学人文学部編,pp.141-

    158.

    長田攻一,1990,「地域社会の二重構造と都市町内会」,早稲田大学大学院文学研究科,早稲田大学大学院文学研究科

    紀要,哲学・史学編,vol.36,pp.57-71.

    勝田守一編,1956,『岩波小辞典 教育』,岩波書店.

    加藤シヅエ,1981,『ある女性政治家の半生』,PHP 研究所.

    北河賢三,2000,『戦後の出発』,青木書店.

    北河賢三,2014,『戦後史のなかの生活記録運動―東北農村の青年・女性たち』,岩波書店.

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    vol.52,pp.43-66.

    国分一太郎,1955,『生活綴方ノートⅡ』,新評論社.

    島田修一,2002,「生活記録」,安彦忠彦ほか編『新版現代学校教育大事典』,ぎょうせい.

    瀧本佳史・青木康容,2015,「軍用地料の『分収集金制度』⑺」,佛教大学社会学部論文集,vol.61,pp.75-76.

    竹中英紀,1996,書評論文「鳥越皓之著『地域自治会の研究』(ミネルヴァ書房,1994),日本都市社会学会年報,vol.14,

    pp.155-165.

    年報02佐野浩氏1C_三[19-40].indd 33 2017/12/12 18:50:35

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    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題

    竹村民郎,2001,「戦後日本における文化運動と歴史意識―職場の歴史・個人の歴史をつくる運動に関連して―」,京

    都女子大学現代社会学部,京都女子大学現代社会研究,vol.15,No.2,pp.15-29.

    田中治彦,1999,『少年団運動の成立と展開』,九州大学出版会.

    田辺信一,1973,『現代社会教育論・下』,ドメス出版.

    千野陽一,1976,『現代社会教育論』,新評論.

    辻 智子,2010,「1950年代日本の社会的文化的状況と生活記録運動―生活記録運動の系譜に関する考察⑵―」,神奈

    川大学心理・教育研究論集,29:5-19.

    鶴見和子,1963,『生活記録運動のなかで』,未来社.

    手打敏明,2004,「NPO 法制定と自治体社会教育行政の課題―社会教育団体のパートナーシップをめぐって―」,筑波

    大学教育学系論集,vol.28,pp.27-36.

    中川剛,1980,『町内会』,中央公論新社.

    西清子,1985,『占領下の日本婦人政策』,ドメス出版.

    原輝恵,1988,「占領下の民主化教育と婦人団体」,原輝恵,野々村恵子編,『学びつつ生きる女性』,国土社,pp.10-20.

    布施鉄治,1970,「婦人の解放と婦人の学習」,羽仁説子,小川利夫,『婦人の学習・教育』,pp.3-39.

    細谷昂,2014,「日本の近隣組織のこと―町内会と部落会―」,『社会学年報』東北社会学会,vol.43,pp.21-30.

    松井正道,1952,「婦人及び性の生活教育」,教育文化振興会編,『日本教育年鑑 一九五二版』,明治書院.

    松本和寿,2008,「占領期における戦後教育改革理論の地方への伝達―教育長等講習(IFEL)の実施と長崎県―」,九州

    大学大学院教育学コース院生論文集,vol.8,pp.99-115.

    水溜真由美,2013,『「サークル村」と森崎和江―交流と連帯のヴィジョン―』,ナカニシヤ出版.

    宮原誠一,1990,『社会教育論』,国土社.

    矢口徹也,1998,「学習方法としてのグループ」,赤尾勝巳・山本慶裕編,『学びのデザイン』,玉川大学出版部,pp.74-

    89.

    矢口徹也,2008『女子補導団』,成文堂.

    横山 宏,1987,『成人の学習としての自分史』,国土社.

    吉原直樹,2000,「地域住民組織における共同性と公共性―町内会を中心として―」,日本社会学会,社会学評論,

    vol.50,No.4,pp.572-585

    渡邊榮文,2002,「市町村と地縁団体―市町村合併の1論点―」,『アドミニストレーション』,熊本県立大学総合管理

    学会,vol.3・4,pp.234-215.

    渡邊洋子,2002,「1940年代前半期の女子青年団運動の指導理念と事業Ⅰ「国民化」とジェンダーの問題を考える手が

    かりとして」,京都大学生涯教育・図書館情報学研究,vol.1,pp.3-41.

    【注】1 文部省初等中等教育局中等教育課監修,1964,『高等学校定時制・通信制教育便覧』,日本加除出版,p.18。

    2 中央青少年問題協議会編,1964,『青少年白書(昭和三十二年版)』,青少年問題研究会,pp.338-339,第82表「昭和

    23年3月~昭和31年3月中学校卒業後の状況」。

    3 前掲『高等学校定時制・通信制教育便覧』,p.16,「義務教育後の青少年の教育機関在籍者数状況(推計)」。

    4 前掲同書,同頁。

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    � 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第66集・第1号(2017年)

    5 たとえば昭和25年(1950年)度の新潟県では,高校新入生のうち女子の比率は全日制課程32.2%,定時制課程

    25.6%,平均30% であった。(新潟県教育委員会編『新潟県教育要覧1951』,新潟県教育庁調査課,1956,p.7,表17「公

    立学校課程別生徒数」による)。

    6 中央教育審議会大学分科会将来構想部会,2001年8月17日,中央教育審議会大学分科会将来構想部会(第1回)配

    付資料5将来構想部会関係基礎資料,「大学・短期大学等の入学者数及び進学率の推移」。

    7 総理府統計局編,1952,『昭和二十五年国勢調査報告⑶その1』,大蔵省印刷局,p.97,第8表「年齢別男女別6 ~

    24才の在学者数―全国・市部・郡部(昭和25年)」。

    8 日本教育年鑑編纂委員会編,『日本教育年鑑 昭和24年度山海堂版』,山海堂,pp.97-98。

    9 熊谷辰治郎,1942,『大日本青年団史』,熊谷辰治郎,pp.61-67. 統計表より。

    10 下中弥三郎編,1956,『教育学事典』第4巻,pp.73-76。

    11 宮本一,2003,『日本の青少年教育施設発展史(補巻)』,日常出版,p.469,表2「全国青年学級数及び学級生数の推

    移」。

    12 前掲『日本教育年鑑 昭和24年度山海堂版』p.98。

    13 前掲『教育学事典』第4巻,p.73。

    14 前掲『日本教育年鑑 昭和24年度山海堂版』pp.98-99。

    15 「新教育方針中央講習会に於ける前田文部大臣訓辞」,文部大臣官房文書課編,1945,『終戦教育事務処理提要第一

    輯』,文部大臣官房文書課,p.79。

    16 「新教育方針中央講習会に於ける大村文部次官挨拶」,前掲『終戦教育事務処理提要第一輯』,p.83。

    17 文部省,1972,『学制百年史(記述編)』,p.976。

    18 文部省社会教育局,1959,『社会教育10年のあゆみ』,文部省,pp.94-95。

    19 教育文化振興会編,1952,『日本教育年鑑 一九五ニ年版』,明治書院,p.229。

    20 安彦忠彦・新井郁雄他編,『新版現代学校教育大事典第3巻』,ぎょうせい,p.240。

    21 下中弥三郎編,1955,『教育学事典』第3巻,p.29。

    22 前掲『社会教育10年のあゆみ』,pp.42-43,pp.103-106。

    23 宮本常一,1984,『忘れられた日本人』,岩波書店,pp.42-43,pp.49-50。

    24 田中重好,1990,『町内会の歴史と分析視角』,倉沢進・秋本律郎編著,『町内会と地域集団』ミネルヴァ書房,

    pp.28-30。

    25 前掲『教育学事典』第4巻,p.82。

    26 文部省,1992,『学制百二十年史』,文部省, p.92。

    27 千野陽一,1979,『近代日本婦人教育史』,ドメス出版,pp.152-156,p.156。

    28 全国地域婦人団体連絡協議会編,2003,『全地婦連50年のあゆみ』,pp.12-14。

    29 旭野正信,1949,『新体制確立の理念と機構』北陸昭徳会,pp.39-41。

    30 前掲『新体制確立の理念と機構』,p.38。

    31 北川賢三,2000,『戦後の出発』,青木書店,p.68。

    32 前掲『全地婦連50年のあゆみ』,p.14。

    33 前掲『社会教育10年のあゆみ』,p.44。

    34 大日本青少年団史編纂委員会編著,1970,『大日本靑少年団史』,日本青年館,p.781。

    35 前掲『社会教育10年のあゆみ』,p.44。

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    戦後日本の勤労青年教育と婦人教育の課題

    36 ダグラスマッカーサー著,津島一夫訳,1964,『マッカーサー回想記(下)』,p.168。

    37 ウィード(Ethel B.Weed)女史は,戦後初の総選挙を前にして婦人参政権への理解を深めるため全国各地を回っ

    て婦人指導者と懇談している。たとえば新潟軍政部主催で昭和21年(1946年)3月に開かれた婦人の座談会に招か

    れて懇談し,新潟市内の高等女学校の女生徒や教員とも交流している。その後も,昭和22年(1947年)6月には,新

    潟軍政部と県教育部の共催で各市町村から婦人代表を集めて開かれた「新日本婦人講座」で「民主的団体について」

    講演と指導を行っている。(新潟県教育委員会編『新潟県教育百年史』新潟県教育百年史編さん委員会,1976,pp.74-

    75)。

    38 ベアテ・シロタ・ゴードン著,平岡磨紀子訳,2016,『1945年のクリスマス』,朝日新聞出版を参照。

    39 全国地域婦人団体連絡協議会,1986,『全地婦連30年のあゆみ』,全国地域婦人団体連絡協議会,pp.17-18。

    40 前掲『全地婦連30年のあゆみ』,pp.16-17。

    41 国立教育研究所編,1974,『日本近代教育百年史 第8』,国立教育研究所,p.1079。

    42 文部省社会教育局,1961,『婦人教育15年のあゆみ―文部省行改事務の上からみて―』,p.4。

    43 佐久間橿,1975,「住民組織の問題」,『自治研究』第33巻7号,p.29。

    44 前掲『婦人教育15年のあゆみ―文部省行改事務の上からみて―』,p.4。

    45 前掲『社会教育10年のあゆみ』,p.105。

    46 前掲『婦人教育15年のあゆみ―文部省行改事務の上からみて―』,p.4。

    47 赤尾勝巳・山本慶裕編,1998,『学びのデザイン』,玉川大学出版部,p.75。

    48 文部省,1972,『学制百年史(資料編)』,ぎょうせい,pp.264-265。

    49 碓井正久,1971,『社会教育』,東京大学出版会,pp.82-84。

    50 全国地域婦人団体連絡協議会,1986,『全地婦連30年のあゆみ』,全国地域婦人団体連絡協議会,p.14。

    51 前掲『社会教育10年のあゆみ』,p.44。

    52 前掲『社会教育10年のあゆみ』,p.30。

    53 前掲『婦人教育15年のあゆみ―文部省行改事務の上からみて―』,p.3。

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    � 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第66集・第1号(2017年)

    After World War II, working youths and women formed territorial youth groups and

    regional women’s associations in various parts of Japan, learning movements were rising

    excitement in the workplace circle, various cultural groups and regions. These organizations

    were not rooted in the lives of local residents. Circle and cultural activities in the workplace were

    strong in aspects of labor movement and faded with the recession of the labor movement.

    Territorial youth groups and regional women’s associations were comprehensive and had

    numerous members, but the age group and activities were wide, the organization was difficult to

    manage and activities were stagnant. The Occupation Forces disbanded the local neighborhood

    association as a war cooperative organization, and the territorial youth groups and the regional

    women’s association were alarmed as a hotbed of militarism. However, when the East-West Cold

    War started, the policies were revised and it was decided to revise its characteristics by teaching

    democratic methods and techniques. The occupation forces taught the learning method and

    technology called group work, it spread to each group with the seikatsu-kiroku movement, and it

    grew into a unique learning movement rooted in life and labor.

    Keywords: Territorial Youth Groups, Regional Women’s Associations, Neighbourhood Association,

    Learning Movement, Seikatsu-Kiroku Movemen

    The Problem of Education for Working Youths and

    Women’s Education in the Post-War Period

    Hiroshi SANO(Graduate Student,Graduate School of Education,Tohoku University)

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