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橋論叢 第124巻 第4号 平成12年(2000年)10月号 (18) 「ドイツ」と 申世から近代 0 問題提起 「ドイツ国」という観念は中世のフランク王国 ローマ帝国の時代を通じて徐々に「ドイツ人」の間で醸 成され、後には一八〇六年の神聖ローマ帝国崩壌という 事態を経ながらも、政治的には一八七一年のプロイセン を主体とした「ドイツ帝国」の成立によってともかくも その旦ハ体的な成就をみる。中世における一b彗房9、と いう語のやや複雑な意味の変遷はここではおくとするが、 中世以降、フランス・イタリアなどのヨーロッバ内での 「外部」との「差異」によって意味を付与されかつ補強 されてきたこの語に対し、正にその反対の「外部」を表 す典型的な語彙として。≦Φ一ω9、があった。。ミ9ω9、と は十六・十七世紀には主にイタリアを、十 主にフランスを指し示す形容詞であったとされ しこの言葉は無差別に「外部」を表す訳ではない には相手に一定の文化的あるいは政治的条件が前提と れていたと考えられるのである。それでは。峯9ωo巨、と 呼ばれる条件とは具体的に何か、またそれは中世から近 代に至るドイツ史上いかなる変遷を辿ってきたのかを考 察するのが本稿の目的である。 1 久しく以前から盛んな「ポスト・コロニアリズム」、 あるいはその思想的母体の一つと言うべき「ポスト.モ ダニズム」において「他者(巴↓雪)」の問題は常に中心 2 8 4

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橋論叢 第124巻 第4号 平成12年(2000年)10月号 (18)

「ドイツ」とその「外部」

     申世から近代へかけての。峯⑦尻Oす、の意味変遷との関連においてー

0 問題提起

 「ドイツ国」という観念は中世のフランク王国と神聖

ローマ帝国の時代を通じて徐々に「ドイツ人」の間で醸

成され、後には一八〇六年の神聖ローマ帝国崩壌という

事態を経ながらも、政治的には一八七一年のプロイセン

を主体とした「ドイツ帝国」の成立によってともかくも

その旦ハ体的な成就をみる。中世における一b彗房9、と

いう語のやや複雑な意味の変遷はここではおくとするが、

中世以降、フランス・イタリアなどのヨーロッバ内での

「外部」との「差異」によって意味を付与されかつ補強

されてきたこの語に対し、正にその反対の「外部」を表

す典型的な語彙として。≦Φ一ω9、があった。。ミ9ω9、と

清   水

は十六・十七世紀には主にイタリアを、十八世紀以降は

主にフランスを指し示す形容詞であったとされる。ただ

しこの言葉は無差別に「外部」を表す訳ではない。それ

には相手に一定の文化的あるいは政治的条件が前提とさ

れていたと考えられるのである。それでは。峯9ωo巨、と

呼ばれる条件とは具体的に何か、またそれは中世から近

代に至るドイツ史上いかなる変遷を辿ってきたのかを考

察するのが本稿の目的である。

1

 久しく以前から盛んな「ポスト・コロニアリズム」、

あるいはその思想的母体の一つと言うべき「ポスト.モ

ダニズム」において「他者(巴↓雪)」の問題は常に中心

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(19)「ドイツ」とその「外部」

的課題であったと言えるだろう。「ポスト・コロニアリ

ズム」を代表する論客の一人E・W・サイードの『オ’

エンタリズム』では、ヨーロッパ人の「外部」認識の最

初の現れがギリシアの悲劇詩人アイスキュロスの『ペル

シア人』に見られ、そこでは祖国ペルシアがギリシアに

破れた後のペルシア人の悲しみが、ただただ受動的に、

            (1)

女性的に嘆かれるのだとされる。つまりここには優越し

たヨーロッパ文明を前に、ひたすら受動的に嘆かざるを

えなかった「他者(ここではアジア人)」が描かれてい

るのである。

 アイスキュロスの作品に限らず、「オリエンタリズム」

の提起した間題に関し、様々な個別的問題がその後提起

されてきたが、本稿では問題を「ドイツーフランス」、

「ドイツーイタリア」の関係にしぼって考えてみたい。

ヨーロッバ内では「北西ヨーロッバ(英・独・北仏・北

欧)」対「それ以外のヨーロッパ(南欧・東欧)」という

図式に基づく考察が多いが、その中で独・仏・伊という

三国間での関係をここではもう少し徴分化して考えてみ

たいのである。

 近代以降におけるヨーロッパの発展が経済的に見れば

「北西ヨーロッパ」と「北米」にかなりの程度偏ってい

たことは否定できない。そのため現在では例えばイタリ

アをオリエンタリズムの対象とする論も存在している。

本稿ではこうした近代から現代にわたる評価を見据えつ

つ、中世から近代にかけての時代を中心として論を進め

たい。そうすることで、近代ドイツという非常に特殊な

時代にあった「ドイツ人」の言語感やそれに基づく自意

識の形成についてより正確な認識を持てると思うからで

ある。

 十九世紀以降の「ドイツ」はその政治的実態を一八七

一年に成立した「ドイツ帝国」に見出し、同世紀後半に

はイギリスをも抜く工業力を背景としながら、ヨーロッ

パ列強に連なることに一応は成功した。オーストリアと

の協調による「大ドイツ(90bO彗房〇三彗匝)」構想こ

そ頓座したものの、プロイセンの先導によって-ほぼ

同時期に国家統一(ユωoお一昌竃ざ)を果たしたイタリ

アと共に-遅くやってきた近代国家を実現したのは世

界史で普通教えられるところである。英・仏という早く

から近代化された国家に対し、それまで「神聖ローマ帝

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一橋論叢 第124巻第4号 平成12年(2000年)10月号 (20〕

国Lという汎ヨーロッバ的共同体や、「ザクセン」、「バ

イエルン」などの領邦国家的共同体をもっていたドイツ

人は、自ら遅れてきた国民国家の一員という意識をもつ

ようになる。一八〇六年の神聖ローマ帝国解体以来、彼

らは自らのアイデンティティーを探し求めながら、一八

〇七-一八O八年の哲学者フィヒテによる「ドイツ国民

に告ぐ(宛&昌竃庄①急巨ωOまZ凹↓一昌)」を典型とす

るナポレオン支配からの解放戦争、つまりドイツ国の政

治的実現を望んでいた。しかしこの「国民国家(z黒-o■

;季墨↓)」は徹底してその政治的実体を欠いており、

理念ばかりが先行した観念的なものであったことは否定

できない。このため、「遅れてきた近代国家」としての

ドイツは、その国家形成に多くの困難を経験することに

なるのである。

 しかし、こうした西欧近現代史の常識、つまりは先進

国である英・仏と遅れをとづてしまった独・伊の対立あ

るいは齪鯖、という図式を一度離れてみると、そこには

現代人には意外な風景が現われるかもしれない。本稿の

考察ではとても及ぱないが、中世に胚胎し、近代に至っ

-て形成されるその風景はまた我々の常識を覆す可能性を

も持うている、と筆者は考えている。

 前述のようにギリシア人アイスキュロスはアジアの国

ペルシアに「外部」(「他者」)を見、それを対象化する

ことにより汎ギリシア的世界観の一環として「内部」へ

と取り込んだ。ではその後ヨーロッパの中世においては

「外部」はどのように表象されるのだろうか。それをま

ず中世ドイツ文学のいくつかの作品をもとに概観してみ

たい。

 キリスト教徒の聖地の最たるものであるエルサレム奪

回のための十字軍が最も活発だった盛期中世では、人間

                  (2)

たるもの、。斥ユ段①自し⊆α①自⊆目o皇①すo己①目..(キリスト

教徒、ユダヤ教徒と異教徒[主にイスラム教徒])のど

れかに所属すべきものであった。十字軍は「異教徒」た

るイスラム教徒に向けられたものであり、その際に「ユ

ダヤ教徒(Hユダヤ人)」はいわば内なる他者、あるい

は近親憎悪の対象であったといえる。

 イスラム教徒を中心とする人々を表現する。幕巳彗、

という語は、中高ドイツ語文学で「英雄叙事詩」に分類

幽4

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(21)「ドイツ」とその「外部」

される『二ーベルンゲンの歌』では、クリエムヒルトが

ジークフリートとの結婚の後に嫁いだフン人であるエッ

ツェル王とその宮廷の人々を意味する言葉として多用さ

れているが、やはり中高ドイツ語の「宮廷騎士文学」の

「古典作家(ヨ竃ω寿2)」とされるハルトマン・フォン・

アウェとゴットフリート・フォン・シュトラスブルクの

諸作品には異国趣味の象徴として時折出てくるのみであ

る。しかし、もう一人のら轟ω寿gヴォルフラム・フォ

ン・エッシェンバッハの作品(。霊冨一竃一、、、。事;①霊巨、)

では。ブ旺」竃、の出現頻度はずっと高く、㌔實吐§-、の

中の(主人公の異母兄である)忌オ①亭は礼儀正しい

           (3)

。ぎ己昌、として描かれており、後にはキリスト教に改宗

する。むろん素材の性格・から。霊冨~巴、や。ミ昌}巴ヨ.、

では。亭己彗、の登場頻度が高くなっているという事情

はあるものの、。ぎ己彗、が「宮廷風(穴冒ざ旨)」であ

                  (4)  ’

り、アルトゥス王とその周囲からも厚遇され、。ぎ巳①.

                     (5〕

邑昌、が「フランス語(守彗塞邑」を巧みに話したり、

異教徒であるにも関わらず、これほど誠実で女らしい心

   1                    (6)

を持った人はこれまでなかったとされるなど、。ぎ巳雪

(ま)..に対するヴォルフラムの描写がポジティヴである

ことには注目すべきであろう。

 中高ドイツ語の文学作品の中では、特別な興味のもと

で異教徒に触れたものとして十字軍を主題とした一連の

作品群があるが、ここではイスラム教徒がキリスト教の

「洗礼を受け(σq9昌饒)」ていない、典型的な「他者」

として描かれるのが通常である一方、前出の。考旨①・

罫一昌、におけるヴォルフラムのように、洗礼を受けて

いない者を家畜同然に屠ることに疑義を呈するものもい

た。また、その他にも十字軍行におけるドイツ語やその

歌に対するフランス人やイタリア人の兵士による無視・

蔑視を嘆き、その反動としてドイツ語を称揚するナイト

 ^7)

ハルトや、フランス人・イタリア人たちは軍隊内であま

りにも嫌われているため、約束の地を異教徒にやってし

                 (8)

まう方がよっぽどいいと言うフライダンクがいたのであ

る。「フランス人やイタリア人(昌Φミ與;8)」に対す

る「ドイツ人」のスタンスには後にまた言及することと

して、ここでは申世盛期における。幕巳雪、への態度に

おいてー公式的には「敵↓外部」に対するものであっ

たにせよ1個々人により徴妙なニュアンスの違いが存

在したことを確認すべきだろう。

584

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一橋論叢 第124巻 第4号 平成12年(2000年)1O月号 (22)

 前節で中世ドイツ文学における「他者」としての異教

徒(おもにイスラム教徒)を中世(ドイツ)人にとって

の「内部-外部」という対立の大枠への契機として概観

した。しかしこの対立の構図は単純なものではなく、ナ

イトハルトやフライダンクにおいては1+字軍文学と

いうかなり指向性のはっきりした分野においてなお■かつ

-。峯巴ω}、(フランス人・イタリア人)というキリス

ト教徒内部における「他者」に言及されていた。

 それではこの「内部」における「他者」としての。ミ①一-

ωOゴ、、とは詳しく言うとどのようなものだろう-か。

 グリム、カンペ、パウル、クルーゲなど歴史的ドイツ

語辞典及びドゥーデン、クラッペンバッハ、トリュープ

ナーというた現代ドイツ語の代表的辞典によると、

二峯9㎜}、(中高ドイツ語形一ミ巴竃戸ミ9窒戸ミ竺巨ωoF

峯巴巨窒三古高ドイツ語形一幸巴(印)巨窒)とは語源上

は古代ケルト人を表すラテン語一一くo-S①、(1-ゲルマン

祖語一。奉巴ぎω)と関係しており、当初は周辺民族がケ

ルト人をこう呼んでいたのが、古代ローマ人がケルト人

の居住地ガリアを征服して以来その意味が変遷したのだ

とされる。中世以来のドイツ語で「ロマンス語の、フラ

ンスの、イタリアの」という意味で用いられるようにな

うたほか、オランダ語(。ξ印竺ωo巨、)で「ワロン語の

(↓つまり現在ベルギー南部のフランス語使用地域の)」、

古英語(。三9竃、)で「(ケルトの一派としての)ウェー

ルズの」といった意味を持ち、いずれも、比較的近辺に

ある外部というコノテiションを共有している点は注目

    (9)

すべきである。ドイツ語に限って言えぱ、。ミ竺ω9竃、

(「。ミ巴ω9、を話す」)という動詞形が、「未知の(外国

の)言葉を話す」から「知らない表現をする、理解困難

な話し方をする」という意味を経て「不明解な(理解不

        (10)

可能な)話し方をする」という、一般的に「意味不明な

もの(仁目く胃ω壷目昌一9)」、「身近でないもの(守①∋註『■

ごOq)」、「知られていないもの(冒σ呉彗葦)」を表象す

るに至っている。

 他方、「。婁9ω9、を話す人々の国」という意味での

。考警ωo巨彗o、は中世以来、。忌巨ωo巨彗o、の反義語と

して通常はイタリアを意味したが、西部ドイツの資料で

はフランスの意で用いられ、十九世紀のナポレオンに対

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(23)「ドイッ」とその「外部」

する解放戦争以降は頻繁に後者の意味で使用されるよう

  (11)

になった。また、。ま旦ω9、に対する「非ドイツ」とし

てのロマンス語圏であるイタリア・フランスを表す形容

詞。峯9ω争.、の使用例も中世以来継続的に見られる。

-形容詞としての。ミ9ωg、.、その動詞形としての茗幸①一-

ω昌竃ミあるいは土地名としてのニミ竺ω〇三彗α、.が

「イタリア・フランス」を指し示し、またそこから派生

した「意味不明なもの↓知られていないもの」という一

般的な意味で用いられる一方、前述の。<o寿篶:に相当

すると考えられる。ミ竺9ω、は中世ドイツにおいても

「ウェールズ(人)の、ケルトの」という本来的な意味

で使われていた。その例がヴォルフラムの㌔胃N~巴、で

あり、ここでは主役の寸胃吐畠一自身が一h睾考巴9ω、

(ウェールズ人ーケルト人)と何回も作品中で呼ぱれて

(12)

いる。中世ヨーロッパ文学において基軸と杢言える「ア

ルトゥス(アーサー)王物語」と「トリスタン物語」は

ともにケルト起源であり、いわゆる「ブルターニュもの

[昌①註冨ま零9晶篶]」に属するが、この伝統の中で

「ケルト」は。オ胆テOω↓峯竺ユω、として生き延びていた

のである。

 さらに、ヴォルフラムが㌔彗N-毒一、の原典として拠っ

たという宍苔一は、「プロヴァンス人(⑦ぎ宇O竃冨竺)」

であり、「異教徒の言葉(箒巳彗ω9)」で書かれた原典

を「フランス語(旨彗NO苫)」に訳し、それをヴァルフ

ラムは「ドイツ語(巨易9雪)」にさらに翻訳したとさ

れるが、この出白が今一つ不明の丙苔吋の周りにも、

「外部」の雰囲気が濃厚に漂っている。

 「外部」ということに関するヨーロッパ中世思想の位

相は、上述のようにまず第一に「キリスト教徒」-「ユ

ダヤ教徒」-「イスラム教徒」という、ユダヤHキリス

ト教的な文化的コンテクストから見ればユダヤ教徒を内

なる外部としてキリスト教徒とイスラム教徒の問に配置

する三元的構造をもっていた。当時の「ドイツ人」には、

ヴァルター・フォンニァア・フォーゲルヴァイデの指弾

                      (13〕

するカトリック教の総本山^ローマとの拮抗関係があり、

それは。奉Φ一ω}、という言葉に典型的に表されていた。

しかし当時から。奏9ω争、.は地域的・文脈的な差異を考

慮すれぱ、(今日の)「フランス」という意味をも持ちえ

た。また、他方で。考①一ω争.、の語源である。、幸巴gω、は

姻7

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一橋論叢 第124巻 第4号 平成12年(2000年)10月号 (24)

。考堅9伽、となって、中世ヨーロッバ文学の主要な源で

あるケルト、ウェールズの人間をも相変わらず意味して

いたのである。このように考えると、前述のヴォルフラ

ムの「キオートはプロヴェンツの人(①ぎ?Oく昌N巴)

で、アラビア語(巨Φ巨①箏ωoす)で書かれたパルチヴァー

ル物語を見つけ、これをもとにフランス語(守竃No苫)

で語ったのであるが、それを私がさらに力の及ぶ限りド

                     (M)

イツ語(ま易争竃)でお話しようというのである」と

いう記述は、当時の幾重にも重なうた「外部」を意識し

つつ、それに則った上で、言葉を使っての遊びを白ら引

き受けようとする宣言ととれるし、またさらにそこに主

人公としての霊邑く竺に関して、「この宮強で賢い異教

徒の婦人(忌己雪3Hエクバー)は学識があって、フ

ランス語(串竃N9ω)を巧みに話した。ヴァーレイスの

                       (15)

勇士(宥『ミ堅9ω1ーパルチファール)は彼女に答えた」

と書かれるとなると、ヴ才ルフラムはこれらの人物の出

自と性格をネタとして戯れているとしか思えない。

 ヴォルフラムが典拠としたペルスヴァール物語をもつ

フランスでも、。幸堅9ω、に該当する語は。oq昌一〇赤、、で

あり、現在「ガリアの(フランスの)」という意味合い

で解されることの多いこの言葉も、実際は「先住民ケル

トの↓中世以降の移民たるフランク族にとって外部の」

          (16)              ’

という原義をもつのである。この。oq警巨ω.、という形容

詞はb彗一①、という前述したゲルマン語の。、考與≡01ω、

に該当する名詞に由来するが、中世の北フランスの代表

的詩人クレチァン・ド・トロワもこの語を。σq巴窪oぎ、

                      (H)

などの形で「ウェールズの」という意味で用いている。

 このように。毫9ωg..という語は本来的に「ケルトの、

ウェールズの」という意味をもちながらも、中世ヨーロ

ッパ文学においては様々な自らの周辺の「他者」を表す

ために、それがヴァルターのように「イタリア人」を示

すこともあれば、ヴォルフラムにおけるように、「フラ

ンス人」ともまた別に、円卓物語の原点である「ケル

                       (㎎)

ト」を指示する、といった重層性を見せているのである。

4

 中世後期から近代初期にかけ、印刷術の発明や紙の東

方からの輸入一製造による技術的発展とまたその恩恵を

受けたルターのプロテスタンティズムの(特に)ドイツ

884

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(25)「ドイツ」とその「外部」

北部への浸透、また三十年戦争による国土の荒廃により、

ドイツの精神的・経済的地盤は根本的に変動してゆく。

 宗教的にはこの時期に神聖ローマ帝国の「選帝侯

(内…艘冨↓彗)」のうちブランデンブルク侯、ザクセン

侯、プファルツ宮中伯がプロテスタントに改宗し、従来

のカトリック教会の中における「ローマードイツ」と

いう対立の構図は弱まり、ドイツ全域としてはむしろ宗

教的にはより自立したポジシ目ンをえることになる。し

かしその反面、文化的な面での伊・仏へのコンプレック

スは相変わらず続き、それは十七世紀にイタリアのフィ

レンツェで設立された「糠の会(>8ぎ①昌鼠宗旨9易-

○與)」を模範とし、フランスでそのやや後に設立される

「アカ一ア、ミー・フランセーズ(>o與αΦ8討マ與自o邑ω①)」の

さらに後塵を拝して創設された「実りを結ぶ会(耳g葦-

σユ畠9まO①竃=ω争黒↓)」やそれに代表される様々な

「言冒語協会(8冨O冨9①二ωO臣津彗)」に典型的に示さ

れることになる。「実りを結ぶ会」の創設者ルートヴィ

ヒ.アンハルト.フォン・ケーテンがヴァイマールで同

会を設立したのは白身がイタリアで「糠の会」の会員に

選ぱれた後であった事実はこのことをはっきりと裏付け

ている。

 ただし、これら言語協会のメンバーは、古典古代及び

                    (旧〕

フランス等の言語や詩作の洗練を範としながらも、ドイ

                       (㎜〕

ツ語への外来語の流入には批判的あるいは警戒的であり、

あくまでもドイツ語及びその詩作の琢磨を主眼としてい

たことに注意すべきである。そのため、この時期はドイ

ツ人の「文化上の愛国主義(宍9↓昌寝巨O茅昌冨)」の

           (別)

時期と呼ばれもするのである。

 政治的.文化的にみるとしかしながらこれ以後、ドイ

ツ人の対フランス観と対イタリア観には徐々に開きがで

てくる。十七∫十八世紀を通じてフランスはルイ十四世

の絶対王政を頂点としてブルボン朝の政治・文化がヨー

ロッパを席巻する一方、イタリアの文化的影響力は次第

に衰え始める(ただし金融用語や音楽用語にはその影響

が残るが)。プロイセンのフリードリヒニ世(一七=一

-一七八六)のフランス文化・フランス語への傾倒ぶり

は余りにも有名だが、この時代ドイツの上流階級では手

紙におけるフランス語使用がかなり広範にみダれるよう

 (〃)

になる。このことは、伊・仏両語のドイツ語への借用語

の(全借用語に対する)比率が、イタリア語では十七世

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橋論叢 第124巻 第4号 平成12年(2000年)10月号 (26)

紀初頭の約二十%から十七世紀半ばの約六壬九%に低下

する一方、フランス語では十七世紀前半の約三十七%∫

四十%から十八世紀末の約六十%に上昇する統計的事実

       (鴉〕

にも反映されている。

 そして、冒頭で述べたように。冬9ωg、という呼称が

十八世紀以降主にフランス(人)に対して用いられるよ

うになったことは、この事実に対応しているように思わ

れるのである。つまり、。ミ9ωg、という語はその起源

である。くO寿器..(ケルト人)以来、「外部」ではあるが

自らと近接し、さらに何らかの文化的優越性をもった相

手に対して主に使われてきた言葉であった。その意味で

この語は「尊敬-畏怖-憎悪」という要素を全て合んだ、

内なる他者を表象していたといえる。十七壬十八世紀の

フランスとはドイツ人一般にとって正にそのような存在

として写っていたはずである。それに対しイタリアは古

典古代の栄光を残しながらも、同時代的な対象.模範と

しては次第にその価値を滅じていく。当時盛んに行われ

たドイツ人やイギリス人など北方人のイタリア遊学とは、

主にギリシア・ローマ時代の文化と、イタリアの自然鑑

賞・観察に主眼がおかれたものであり、同時代のイタリ

ア文化及ぴイタリア人に関する積極的評価はあまり聞き

    (胴〕

取れないのだ。

 この時期からドイツ人にとってのイタリア人とは、前

述のサイードの言う「オリエンタリズム」の対象となっ

てくると考えられる。サイードはその書で「良い」オリ

エントと「悪い」オリエントを比較し、次のように述べる。

「「良い」オリエントといえぱ、それは必ず遠い昔の

インドのどこかにあった古典期のことであり、一方

「悪い」オリエントというのは、今目のアジア、北

アフリカ諸地方、そしてイスラム世界の至るところ

                (蝸)

にしぶとく生き残っているものであった。L

 この節と、近代以降のドイツ人(あるいは北西ヨーロ

ッパ人一般)のイタリア人に対する評価はかなりの程度

呼庵し含っているのではないだろうか。つまり、正面か

ら向き合うイタリアの現実は耐えがたいものだが、その

歴史における古典古代文化的価値は賞賛に値するもので

ある、と。「良い」オリエントをイタリアの古代遺跡に

求めていたのがゲーテを初めとする北西ヨーロッパの知

490

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(27)「ドイッ」とその「外部」

識人であり、それ以外の目常的現実は、なきもの、ある

いは無視されえるものとして、カッコ内に容易に入れら

れてしまったのである。

 十八世紀末のフランス革命の後、ナポレオンはドイツ

の大部分を占領あるいは属国化するが、このナポレオン

支配のもとでドイツ人はナポレオンからの解放戦争を通

じて国民国家としての「ドイツ国」に対する希求を強め

ていく。その問、すでに十八世紀後半のアーデルングに

よって、「イタリアの」という意味が時代遅れと判断さ

れていた。峯①尻g、という語は、フランス人に対しては

前世紀よりもさらに頻繁に使われるようになる。

 ただしこの時期にも、南ドイツの民衆語においては

二峯①房9、は「フランス(語・人)の」と同様に「イタ

リア(語・人)の」という意味で使われ続けており、目

の前にある具体的な「憧れ-脅威」というアンビヴァレ

ントな感情を表すのに役立っていた。このように時代的

に「イタリア」から「フランス」の意にその重点を移し

ていった語も、地域的にみると、一定の地域における外

からの文化的な影響力及びそれに対する不安を反映する

語彙として様々な意味をもちえたのである。現在のスイ

スのドイツ語で。ミ①一ω}..が「スイス国内のフランス語

                  (蝸)

圏(に関して)の」という意味で残っているのもその一

つの現れと考えることができよう。

 いずれにせよ、ドイツ語使用圏一般に関して言えぱ、

「内なる他者」としてのニミ巴ω9、が中世および近代初

期から十八.十九世紀にかけて「イタリア↓フランス」

という意味上での転回をしていた「一とは確認されるので

ある。

 その一方十四世紀以降バルカン進出を続けてきたオス

マンHトルコ帝国が十八世紀以後衰えていくにつれ、中

世以来のイスラムの脅威はヨーロッパ人にとって徐々に,

深刻なものではなくなり、むしろイスラム世界とは、観

照され、記述されるべき対象となる。サイードはこの点

にこそオリエンタリズムの要点を見る。

「オリエンタリズムとは、オリエントが西洋より弱

かったためにオリエントの上におしつけられた、本

194

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橋論叢 第124巻 第4号 平成12年(2000年)1O月号 (28)

質的に政治的な教義なのであり、それはオリエント

のもつ異質性をその弱さにつけこんで無視しようと

      (η)

するものであった。L

 十八世紀以降ヨーロッパ人にとうて無害化し、「オリ

エンタリズム」の対象となっていくイスラム世界。 一方

ヨーロッパ内では特にナポレオン支配以降ドイツ人のさ

らなる脅威となるフランスと、ドイツ人にとってはむし

ろ文化上の模範・競争相手というより、その歴史的.自

然的側面が観照の対象となってきたイタリア。イタリア

は十九世紀以降の近代化からも取り残されたと(北欧.

     、   、   、   、

北米から)見なされ、さらに一層「オ少エンタリズム」

            (湘〕

の対象に近いものになっていく。現代のドイツ人はじめ

諸外国人にとってのイタリア人のイメージは「産業革命

が近代化の影響下に、二百年前から世界中に広まってき

          (”)

た紋切り型の知識に基づ」き、またその知識によって

「絶対他者として描かれてきた異文化を、いわぱ「飼い

              (30)

慣。らされた」他者にならしめる作業Lを通じて各国の自

文化への同化が行われている。こうして。考9ω争.、とし

てのイタリアは「オリエント」としてのイタリアヘと変

貌していったのである。

   6 結語

 ドイツ語の。ミ9ω争、という言葉の語義の変遷を辿り

ながら、おもにイタリア人・フランス人に対するドイツ

人の歴史上の態度を素描してみた。ラテン語の。く〇一8Φ、

(ケルト人)という語と関連する。.峯巴;ω、は、中世以

来目ーロッパ諸民族の間で自らの周辺にいる(大低は優

越した)「他者」を表現するために用いられており、そ

こには「尊敬-畏締-憎悪」という屈折した感情が込め

られていた。中世から十六・十七世紀にかけては「イタ

リア(人・語)の」という意味で主に用いられていた

毫9ω}.。という語も、ドイツ諸国の多くがプロテスタ

ントに改宗することでカトリック世界の中心たるローマ

の精神的支配圏から脱する一方、十七・十八世紀のフラ

ンスの政治的・文化的優越、さらには十九世紀のナポレ

オン支配のもとで「フランス(人・語)」という意味合

いを強めるようになる。反面イタリアは、北西ヨーロッ

パ主導の近代化に遅れたこと(あるいはそのようなもの。

   、  、  、  、  、

として把えられたこと)にも大きく左右され、十八世紀

294

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(29)「ドイツ」とその「外部」

頃より。≦9ω}、というよりもむしろヨーロッパがイス

ラムに対してとうた「オリエンタリズム」的なスタンス

で向き合われることになる。

  十九世紀後半以降のイギリスの増大する政治・経済的

影響力、また二十世紀アメリカの躍進により、以上の構

図は新たな編成を求められることになるが、その点につ

いてはとても本稿で扱いきれるものではない。とりあえ

ず中世から十九世紀前半までの「ドイツ人」の対外観の

一端を素描し、ここに筆を置くことにしたい。

*本稿で参照した中世文学のテキストは以下の版である一

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 N)一…oコoすoヨ帖-㊤ooω.

(1) 向αミ胃α 考.ω巴9 0ユ①昌冨=ωヨ一Zo奉 くo『河 ;司oo

 (E・W・サイード、今沢紀子訳『才リエンタリズム』

 上・下巻 平凡社 一九九三年、下巻 一〇一頁参照)

(2)ξ凹;雪く昌o雪<品①一ミ9量U麸蟹辰ωま昌o只o.

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(7)くoq一129彗彗戸ωo昌昌o『=&=』」-↓(-『9①「一〇-

 αO『一6^甘O=胆『一μω.-ω)

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(10) くoq-.U峯Ω一ω庄.-ω一ω一-ω蜆壮

(11) く①q-1同一Uo-ω一冨蜆①

(〃)  <Oq-.勺N一蜆旧〇一一---牟ωMO〇一NE㎝ξ一

(13) ヴァルターの立場を何よりも当時の「教皇党(峯〇一-

493

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橋論叢 第124巻 第4号 平成12年(2000年)1O月号 (30)

 箒『)Lと「皇帝党(ω甘彗『彗)」の対立における「皇帝党」

  の擁護と見る立場への反論として、拙論『ヅァルタ・フォ

  ン・デア・フォーゲルヴァイデのドイツとイタリア』(『一

 橋論叢』 第二二一巻、一九九九年、三八五三四〇〇頁)

 を参照されたい。

(14) 、Nーら9蟹1ωo(ヴォルフラム.プォン.エッシェン

 バソハ『パルチヴァール』加倉井粛之-伊東泰治-馬場勝

 弥-小栗友一 共訳、郁文堂 一九七四年 二二二頁)

(蝸)  巾ドωN0.----杜

(…皿) O↓-ZO=くo芭一」巨ざごO==巴『o心片}昌O-OOq{O冨o①↓ブ尉↓Oユー

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(π) くoqF-Ho〇一』目α向目-o①蜆ω①o

(㎎) ここまで挙げた例以外にハルトマン・フォン・アウエ

  の『イーウェイン』六四五七行とゴットフリートの『トリ

  スタンとイゾルデ』一五八行に。ξ堅三ωoす、、。ミ巴ω}..が

 「フランス語」と解されるくだりがある。ただしヴォルフ

  ラムの『パルチヴァール』では。毛邑ωoす、が「ウェールズ

 語」(、ドω雪.↓)、;峯巴三ωOすωO冨Oす①、が「フランス語」

 (霊』㎝・冨)と解される箇所があり、ここでも一義的な結

 論は出てこない。

(19) く阻’-≦.O宮詩一U凹血}oo=o雪oo巨房o1①目巾ogo『①ざ

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(20) く笹一向σPω一ω↓一或一

(刎)  くo目-. 巾①け⑦『 くoコ 巾o-o自ド ー〕o仁一閉oすo ωo『oo=oq①ωo=--

 ○プ簑o くo自一 ωo甘一目-篶↓⑦-o写o『σ-ωN目『(}ooqoユ峯凹『戸 }o.自一

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 αo『戸}①『=目\ブ}oミくo『斥-o岨〇一ω1-oω串1

(22) くoq--勺o-o目ド甲印.○.ω.①ω↓-

(鴉) くO目-一向一〕庄一ω一べ↓H一

(泌) これを知るにはゲーテの『イタリア紀行』(。岸昌甲

 コぎ幕刃9塞、)を参照するに若くはない(ゲーテ『イタ

 リア紀行 上・中・下』、相良守峯訳、岩波書店 一九四

 一一年)。

(25) サイード、前掲書 上巻 二三八頁

(蝸)  <①qF =. 、凹目ガ ー〕①E一蜆Oす①ω 奉0-『一〇『σEO=’ 一「饒σ-目OqO=

 喧-OON一 ω. -Oω閉… カー 穴-OOO①目σ與O巨\4く. ω↓①-コ巨N’ ~くα『片①『-

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 ω- 卜ωO㎝… -〕仁-〕向フH ]〕凹m Oq『OOO ミ0-『一〇Hσ仁Oコ α①『 α①=-

 一ωoす⑦目ωo『凹o=①一団αloo-舳-oo蜆’ω.ωooooo.

(27) サイード、前掲書下巻 十七頁

(28) ファビオ・ランベッリ『イタリア的考え方』 筑摩書

 房 一九九七年、四十一、四十六頁参照。

(29)同上書四十一頁

(30) 同上書 三十四頁

                             (一橋大学教授)

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