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淡路島調査報告

平成二十一(二〇〇九)年三月八日(日)、忍頂寺文庫・小野文庫研究

会のメンバー九名で淡路島に調査旅行に赴いた。ここにその調査における

成果を報告する。

忍頂寺家の菩提寺である引摂寺(いんじょうじ)は、志筑港からほど近

い兵庫県淡路市志筑三三四二にある。門をくぐると広い前庭があり、奥に

本堂が見える。前庭の手前中央に大きな十三塔があり、左手には大きな五

輪塔や丸い塔のようなもの、他十数基が並んでいるのが見える。この寺の

ご住職、田居義和氏のお話を伺った。その内容は以下の通りである。

忍頂寺家の本家筋の所在地は、寺を出て右の方へずっと行き、交差点手

前の角の所。もう一つ古い忍頂寺家は山のずっと上の方にあった。池(現

在の志筑三宅谷池)の近く、別宅のようなもので、「臨池庵」と言い、墓

もあった。今でも竹薮を掘ったら五輪塔などが出てくる。

忍頂寺静村(梅谷)はもともと淡路の人間ではない。生まれたのは淡路

だとしても、すぐに出たのではないかと思われる。彼自身は傍系の人間だ

が、本家があったので、小さいころは淡路にいたらしい。その後、大阪難

波にいた。

淡路の島の人たちは静村の絵が好きである。淡路の出身の画家というこ

とで、地元の人たちも大事にしたと思われる。多分、昔、旧家では静村に

依頼して描いてもらっていたのではないだろうか。興味のある人が個人的

写真1

引摂寺正面

写真2

十三塔

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な趣味で持っているのではないか。一般によく知られるというよりも、興

味に偏りがあるように思われる。静村の作品には軸物もある。以前は志筑

神社の神主さんが多くの作品を所蔵していたが、今は散逸してしまった。

また本家前の八田正文堂さんの先代も多く所蔵していた。

伊藤聴松、梁川星巌などの漢詩人が忍頂寺家によく参集していたかどう

か、ということについてはよくわからないが、自分の三代ほど前までは地

元の人々がよくこの寺に集まり、雑俳や俳句を詠んだものだ。短冊も現存

している。もともと志筑は連句が盛んで、文化的に茶人、風流人の多い土

地柄であった。明治から昭和初期にかけては茶道で活躍する人が多かった。

寺にも本堂に接する場所に「慶雲庵」という茶室がしつらえてあり、茶人

たちが集まる。

忍頂寺家の系図は以前は寺にあったが、本家にお返しした。昭和三十年

代くらいだったか、本家筋の方がここを離れる時に、資料はすべて焼却処

分したと言っていたから、もう現存しないかもしれない。

寺に入ってすぐ左手にある丸い塔のようなもの

は無縫塔と言い、宝篋印塔と同じく、本家筋の先

祖を祀っている。その隣の大きな五輪塔は忍頂寺

初代広久のものである。広久が自身で建立した。

古文書によれば、今の十三塔があるあたりに、真

ん中に五輪塔があったらしい。昭和二十六年頃、

檀家の人が十三塔を購入して持ってきた時に、五

輪塔と入れ替えをした。この十三塔はもともと寺

ではなく、忍頂寺家の庭にあった石塔である。か

つて毎日新聞社の社長がこれを購入し、持って帰

写真3

田居さんのお話を伺う

るつもりであったが、細い畦道を運搬しなければならず、どうしても臨池

庵から運び出すことができなかった。それでそのまま放置されていたのだ

が、このままでは散逸してしまう、と心配した地元の人が購入し、寺に運

び込んできたものである。

務さんは最晩年は奈良に住んだが(西村貫一「思い出すまゝ」(『金曜』

3‐

)に「生駒の菜畑」に住す、とあり)、そのゆかりは分からない。

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墓はこちらにあるが、葬儀は淡路ではなく奈良で執り行われた。

以上のようなお話であった。かつての忍頂寺家のこと、淡路の方々の忍

頂寺家に対する思いなどをいろいろとお教えいただき、大変有意義な一時

間であった。ご多忙の中、わざわざお時間を割いて下さり、我々の雑多な

質問にも一つ一つ懇切にお答え下さったことに心より感謝申し上げたい。

お話の後、忍頂寺家ゆかりの立派な塔を改めて拝見し、かつて務もこの境

内を幾度となく訪問したであろうことに思いを馳せた。

ちなみに、務の住所について忍頂寺晃嗣さんに後日伺ったお話によれば、

終戦前後、務は志筑―神戸―淡路東浦―菜畑と住まいを移したとのことで

ある。

引摂寺を辞し、忍頂寺家の墓地に向かう道中、もと本家があった場所に

足を伸ばしてみた。八田正文堂という骨董商の斜め前にあるその跡地は今

は駐車場となっていた。その敷地の片隅にわずかに囲いをした小さな祠が

あり、これが忍頂寺さんのお住まいであったことを偲ばせる唯一のよすが

であった。

忍頂寺家の墓地は、引摂寺から徒歩十五分程のところにある小高い丘の

共同墓地、金谷墓地にある。斜面に沿って何筋かある墓石群を手分けして

歩き回り、やっと忍頂寺家のお墓を探し当て、皆でお参りした。

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写真4

忍頂寺家の墓(正面)

写真5

忍頂寺家の墓(横)

写真6

墓参

写真7

金谷墓地遠景

午後は洲本市立淡路文化史料館を訪問。学芸員の浦上雅史さんにお話を

伺い、資料を拝見した。

まず、忍頂寺梅谷の描いた巻物「群禽百態図」を見せていただいた。こ

の作品は直原玉青コレクションの一つであり、矢野橋村の箱書きがある、

じきはら

それは見事なものである。様々な表情の鳥が群舞するダイナミックな構図

で、本阿弥光悦・俵屋宗達の「鶴図下絵和歌巻」が思い起こされるような、

素人目にも素晴らしいものであった。大変貴重な作品であるが、淡路文化

史料館のご厚意により、その作品全体の写真を掲載させていただけること

となった。ここに厚く御礼申し上げたい。直原玉青(一九〇四〜二〇〇五)

は日本南画家の第一人者で、淡路島で幼少期を過ごし、晩年は西淡町(現

南あわじ市)の黄檗宗国清禅寺住職を務めた人物である。浦上さんのお話

によれば、梅谷は大阪画壇では十本の指に入る画家として遇され、画家と

して生計を立てていた。玉青には鳴門の渦潮に千鳥を描いた襖絵があり、

描かれた千鳥は梅谷とよく似

た画風で、梅谷の作品を絵手

写真8

矢野橋村の箱書き

本にしていたのではないか、

ということである。この巻物

の巻軸に書かれた梅谷の弟子、

森琴石による忍頂寺略歴を次

に引用する。

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写真9

「群禽百態図」巻末

先生姓忍頂寺、名温、字壽

夫、初号梅谷、後改静村。

別有見山子、臨池子之号。

通称壽平。淡路国静村人、

故用有其号。身生門閥、性

富風雅。舎家住浪華。初学

画小田海僊及上田公長。公

長云、子用筆非凡、頗有逸

韻之気、請不如学文画。文

画今有田能村竹田者。此人

精通六法矣。就而学究。則

子之攀堂奥林矣。於茲介之。

先生深有所憾、更師竹田翁

専心究極。遂為一家。山水

・花卉・人物・禽獣、悉無

不臻精妙、後又交貫名菘翁。

其所得多矣。先生為人、温

藉沉黙、不省名利。故其画

脱風塵、入神妙。明治十有

一年十月病没、年七十三。

(印)(印)

写真10「群禽百態図」

写真11

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写真12

写真13

写真14

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以下、浦上さんのお話をもとに、知り得たことを簡潔にまとめておく。

史料館では昭和六十一(一九八六)年九月に、忍頂寺梅谷展を開催した。

当時はあまり梅谷のことは知られておらず、骨董商などの助力も得て、そ

の作品を紹介したものである。展示前には難波の鉄眼寺に赴き、梅谷の墓

参をした。その展示内容を当時のパンフレットに見れば、次の通りである。

○忍頂寺梅谷展示出品目録

掛軸

秋山行旅図

紙本淡彩

寺蔵

掛軸

青緑春山詩意

紙本着色

菊川兼男氏蔵

掛軸

月瀬梅林図

絹本着色嘉永4年(1851)

掛軸

歳寒図

紙本着色

掛軸

桃林山水図

紙本着色

小畠賢介氏蔵

掛軸

春樹人家の図

紙本淡彩

賀集憲一氏蔵

掛軸

松林山水の図

紙本着色

掛軸

雲山晩景の図

紙本水墨

掛軸

松泉静聴の図

絹本着色

八田原糺氏蔵

掛軸

柳に蓮の図

紙本淡彩

寺蔵

掛軸

十六羅漢図

絹本着色明治6年(1873)

掛軸

漁樵問答

紙本淡彩明治8年(1875)

新見紘一氏蔵

掛軸

寒泉賛蓮の図

紙本水墨

掛軸

竹の図

紙本水墨

掛軸

歳寒三友

紙本水墨

掛軸

韓信股くぐり

紙本着色

野口早苗氏蔵

掛軸

花瓶に雪の下図

紙本淡彩安政4年(1857)

田中

弘氏蔵

掛軸

梅花道人筆意山水図

紙本淡彩

川道享史氏蔵

掛軸

秋景山水図

紙本水墨嘉永4年(1851)

掛軸

夏景山水図

紙本水墨

掛軸

唐子遊戯図

絹本着色明治6年(1873)喜田愛子氏蔵

掛軸

菊に猫図

絹本着色天保

年(1840)竈本皓一氏蔵

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掛軸

松山煮茶図

絹本着色明治3年(1870)

掛軸

老圃新菘の図

絹本水墨

掛軸

牛かい図

絹本水墨安政4年(1857)大内忠夫氏蔵

掛軸

夏景山水図

紙本水墨

高田昇一氏蔵

画帖

攪睡

紙本着色天保5年(1834)

画帖

臨池山水帖墨妙

紙本着色

新見紘一氏蔵

画帖

臨池子盆景帖

紙本水墨

画帖

静村翁山水帖

紙本着色天保

年(1843)原田春海氏蔵

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画帖

臨池翁画山水帖

紙本着色明治2年(1869)

画帖

静村民画山水帖

絹本水墨慶応元年(1865)

福田寺蔵

画帖

静村居士山水遺跡

紙本水墨

山本

昇氏蔵

巻物

群禽百態図

紙本水墨

巻物

山水図

紙本水墨

真栄氏蔵

二曲屏風

山水図

紙本着色天保7年(1836)上井速水氏蔵

二曲屏風

花鳥図

紙本着色

山本

昇氏蔵

二曲屏風

張り交ぜ

紙本水墨

新見紘一氏蔵

扁額

山水図

紙本水墨

忍頂寺家古伝

寺蔵

忍頂寺氏系図

忍頂寺氏系図(巻物)

志筑浜村小高取忍頂寺仁三郎素性並勤向帳

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忍頂寺仁三郎拝知高並家宅指出帳

浪花擷芳譜

安政4年(1857)

俊明氏蔵

その他関係資料

(以上)

梅谷は志筑浜村の庄屋の分家の出身で、大阪で活躍した。淡路生まれで

あると推測されるが、資料がなく確定はできない。梅谷展のパンフレット

によれば、このとき系図が出品されており、展覧会場の様子を撮影した記

録写真にも確かに写っている。しかし、残念ながらその写真では系図の冒

頭部分、忍頂寺家が二条家の分かれであるという箇所はよく見えるのだが、

肝心の梅谷周辺の部分は写っていなかった。この系図は忍頂寺家所蔵であ

ったが、現在の所在は不明。当時、梅谷展に合わせてお世話してくれた古

物商は洲本の方であったが、既に亡くなられたため、詳細は分からないと

のことであった。

梅谷の没年については、明治十年説と明治十一年説があり、揺れがある。

『大阪訪碑録』によれば、小原竹香は墓碑銘に明治十年十一月十六日、七

十四歳と記す。鉄眼寺の墓石の写真があり、それを写していると思われる。

それに対し、弟子の森琴石は明治十一年十月病没、七十三歳とする。琴石

は弟子であり梅谷とは近いはずであるのに明治十一年と書くのは不可解。

琴石の間違いかと思われる。江戸時代の末頃に書かれた『味地草』には、

忍頂寺家譜があるが、梅谷のことは記載がない。

次に、務の俳諧にまつわる資料を拝見した。務の洲本中学の同級生に高

田蝶衣がいる。当時の校長であった大谷繞石に導かれて務や蝶衣らは俳句

に親しむようになった。拝見した資料は、蝶衣らが繞石に見せるために作

った俳句雑誌、洲本中学白雪会のものである。繞石はラフカディオ・ハー

ンの弟子でホトトギス派の俳人である。この句集は単に自分たちの俳句を

並べた同人誌の域を越え、広告料も取り販売もしているもので、中学生の

レベルをはるかに超えるものであった。これほどの雑誌を作るにはそれな

りの労力も時間も必要だったと想像される。繞石の転任後、校長として着

任した永田青嵐が俳句禁止にしたというが、それもむべなるかな、と思わ

せられる誌面である。務にとって蝶衣はずば抜けた、印象に残る同級生だ

ったのであろう。務はそこまで俳句にのめり込むことはなかったと地元で

は思われている。(ちなみに、今回の淡路島探訪後、忍頂寺家より句集が

発見され、務は晩年に至るまで折々に俳句を楽しんでいたことが判明し

た。)な

お、現在の淡路において、蝶衣は俳句をたしなむ人たちの間では有名

であるが、務については、地元では清元研究家としては知るが、あまり馴

染みはない、とのことであった。務自身は「淡路の島守」と号したり、「淡

路志筑荘静村文庫」という文庫印を作ったりしており、遠く離れて暮らし

ていても、心は淡路にあったと思われるのであるが。

史料館所蔵の図書に『淡路勤王誌』(中村力松、昭和十九年七月)があ

り、これも拝見させていただいた。幕末、淡路に来遊した梁川星巌周辺の

人物模様を記す中に、忍頂寺聴松(廣業)の名も見える。入手しにくい本

であるので、当該部分を以下に引用しておく。

(梁川星巌の)淡路来遊は晩年でもあつた故もあるが、巨燃たる存在

であつた。彼の来淡は安政四年であるが門下忍頂寺仁三郎の邸に滞在

した、忍頂寺家は志筑の大庄屋で非常な財力を持つてゐた初代喜右衛

門廣久、寛永元年引摂寺を建立すと家伝に見えるが、其引摂寺には同

家歴代の巨碑があるが全く大名ものである、三代目より仁三郎を通称

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としたが此時の仁三郎は第十一代廣業(文政七年生明治三年歿)で字

は士崇、幼名彌太郎、始め篠崎小竹の門に入ったが(即ち益習館に学

ぶ)嘉永年中星巌の門に入り聴松の号を授けられた。世に淡路の二聴

とはこの仁三郎と伊藤聴秋とを指す。

勤王の志篤く、其豊かな財力によつて来淡の志士のために邸宅を提

供し恰かも、安息所の如くせしめた。星巌亦こゝに翼を休めて、除ろ

に画策する所があつた、星巌の来淡と共に其門を叩いたのは、三田昂

馬、藤木蕉陰、高津例太郎、田村平一郎等を始め当時淡島の王事に志

あるものは何れも其風貌に接するを光栄として訪客踵を接したと伝へ

られる。門下生である伊藤聴秋の傍らに侍したのは言ふまでもないが、

頼三樹亦師の跡を追ふて来遊した、当時湊町に一個の旅絵師にかくれ

て船越邸に滞在してゐた鉄石も顔を出した、忍頂寺邸へ集まるものは

常に星巌を囲んで、盛んに王事を談じ攘夷を議したが、その出入があ

まりに烈しいので、人目につき易くなつたため、詩会に名を籍つて、

田村平一郎の旦那寺である、塩田村普門寺に集つたが、こゝも亦人目

を避けるに不便なので、諸方物色の結果東山寺を会合の場所として相

変らず詩会が行はれた、東山寺は生穂町長澤の古刹で、開基弘法大師

が伊弉諾大社の鎮護として創建した由緒ある法城で、人里離れた山中

の清境は大事を議するには好個の場所であつた、その上、忍頂寺初代

が創建した引摂寺の元本山でもあつた関係から選ばれたのである。

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幕末の風雲急を告げる時代にあって、忍頂寺家には常に人が寄り談論風発、

淡路における勤皇の志士のパトロンのような存在であったのであろう。聴

松は蔭になり日向になってその運動を支えた、懐の深い人物であったこと

が伺われる。

大坂画壇で活躍する画家梅谷と、勤皇の志士を支援する淡路の大庄屋、

漢詩人聴松。そして俳句を嗜み歌謡研究家として名を馳せる務。文に武に

幅広く活躍する、実に魅力的な一族の姿を目の当たりにした一日であった。

史料館を退出した後、館の周囲にある蝶衣の句碑などを写真撮影。

最後に、洲本市の寺町にある専称寺の中村幸彦先生のお墓にお参りして、

解散となった。

[

付記]

引摂寺の田居義和様、洲本市立淡路文化史料館の学芸員、

浦上雅史様はじめ史料館員の皆様には、訪問当日ばかりでな

く、原稿作成に当たり多大なるご協力を賜りました。また、

忍頂寺晃嗣様には数々のご教示をいただき、墓地の写真掲載

等もご許可いただきました。記して心より深謝申し上げます。